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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第六十九話 郤氏の専横




          *     *     *




 かつて、秦桓公は晋厲公と令狐れいこで盟を結んだ。

この盟約は晋秦双方に疑義の思いが深く、信に欠けたものであった。


 盟約を締結した直後、秦は北の狄・南の楚と組み、盟に背いて晋に侵攻した。

晋はこれを迎撃し、秦、狄、楚を各個に撃退した。



 そして周の簡王8年(紀元前578年)4月5日

晋厲公は魏相ぎしょう魏錡ぎきの子)を秦に送り、晋と秦の断交を告げ

秦への侵攻を宣言した。


諸侯も秦の背反を非難し、晋と和し、これを支持した。



 5月4日、晋軍は魯成公、斉霊公、宋共公、衛定公、鄭成公、曹宣公

そしてちゅうとうの軍と合流し、秦地の麻隧ますいで秦軍と戦った。


この時の晋軍を率いる元帥は正卿の欒書らんしょ

欒書の兵車で御を務めるのは郤毅げきき、欒書の子・欒鍼らんきゅうが車右となった。

中軍の将は欒書、佐は荀庚じゅんこう

上軍の将は士燮ししょう、佐は郤錡げきき

下軍の将は韓厥かんけつ、佐は荀罃じゅんおう

新軍の将は趙旃ちょうせん、佐は郤至げきし


晋の先君・景公が編成した六軍は、厲公の代には四軍に減らされた。

趙氏の族が撃滅された影響で卿位の臣が減ったからである。



この戦役中、曹宣公が陣没した。戦死ではなく病死だったらしい。


麻隧の戦いで秦軍は諸侯軍に大敗し、秦の成差と女父が諸侯軍に捕われた。


諸侯軍は敗走する秦軍を追撃して涇水けいすいを渡り

涇水の南岸・侯麗こうれいに至り、秦は降伏した。


諸侯軍は秦地の新楚で秦桓公を迎え入れ、講和を結んで帰還した。


諸侯軍が帰還する途上、秦地のを通った時に

劉公が予見した通り、周の卿士・成公は不慮の死を遂げた。




           *     *     *




 鄭成公が鄭兵を率いて秦へと出征した時期を狙って

3年前に許へ出奔した鄭の公子・班(字は子如)は、鄭君の地位を狙って

許から楚に入り、6月15日の夜、楚地のから楚兵を率いて鄭都に入った。


公子・班は鄭君即位の宣言を行うため、鄭の祖廟に入ることを要求したが

留守を預かる鄭の群臣はこれを拒否したため、公子・班は公子・じょ(字は子印)と

公子・(字は子羽しう)を殺し、鄭都の市に駐軍した。


 この事態に対し、公子・(字は子駟しし)は6月17日に鄭の国人を率いて

祖廟に入り、盟約を結んだ後、祖廟が安置された大宮たいぐうを焼き払って

公子・班、班の子・孫叔、班の弟・子駹しぼう、子駹の子・孫知らを殺した。


子印、子羽、子駟みな鄭穆公の子である。




       *     *     *




 曹国では曹宣公が晋に従って秦に出征している間

曹の公子・負芻ふすうが留守を守っていた。


秦での戦役中に曹宣公が陣没したという報せが曹に届いて

曹の公子・欣時きんじ(字は子臧しぞう)が秦に入り、宣公の遺体を引き取って帰国した。


その後、負芻は宣公の太子を殺し、自らが曹君に即位した。曹成公である。


諸侯は負芻の無道を非難して晋に曹討伐を請うたが

晋は曹が秦との戦いに協力した事と、曹君が戦いの最中に死去した事を慮って

曹討伐についての明言を避け、問題を先延ばしにした。



晋の曖昧な姿勢に失望した公子・欣時は

宣公を埋葬し、葬儀が終わった後、曹を出奔した。

曹の国人は誰も成公に服しないため、ほとんどの国人が欣時に従って曹を出た。


曹成公は国が空になる事を恐れて自分の罪を認め

公子・欣時に曹に戻るように請うた。


欣時は帰国したが、自分の采邑を曹の公室に返還した。

曹成公の命には従わないという意思表示である。




         *     *     *




 周の簡王9年(紀元前577年)春正月

きょの国君・朱(渠丘公きょきゅうこう)が薨去した。

渠丘公の子・密州(犂比公れいひこう)が後を継いだ。



 夏、衛定公が晋に入朝し、晋厲公と会見した。

厲公は7年前に衛から晋に出奔した孫林父そんりんぽを衛に帰国させるため

衛定公と孫林父との会見を求めたが、衛定公はこれを拒否した。


 衛定公が帰国した後、晋厲公は郤犨げきしゅうに命じて孫林父を衛に送らせた。


衛定公は孫林父の受け入れを拒否したが、衛候夫人・定姜ていきょうが衛候を諭した。

「孫林父は先君と同族で、大国の晋が衛への復帰を求めています。

これを拒否したら小国の衛は晋に滅ぼされるでしょう。

我が君がいかに孫林父を嫌っても、衛の民を安定させるため、我慢なさるべきです」


定公は孫林父に会い、卿の地位に戻し、采邑の戚を返還した。



 衛定公は宴を開き、郤犨をもてなした。寧殖ねいしょくが宴の儀礼を補佐した。

この時、郤犨の態度は傲慢であったため、寧殖が言った。

「郤氏は亡ぶでしょう。宴とは威儀を観察し、参加する者の禍・福を探るものです。

彼は傲慢なので、禍を得る道を歩む事になります」




        *     *     *




 7月、魯の叔孫僑如しゅくそんきょうじょが斉に入り

魯成公の婦人となる公女(姜氏)を迎えた。



 8月、許は鄭が定めた国境を侵したので

鄭の公子・喜(字は子罕しかん)が許を攻めたが、敗れた。


次は鄭成公が自ら兵を率い、再び許を攻めた。

攻撃開始から2日後に鄭軍は許都の外城に侵入したので、許君は降伏した。


許は10年前に公孫申と決めた国境を受け入れ、鄭と講和した。



 9月に魯の叔孫僑如は姜氏と共に斉から魯に帰国した。




         *     *     *




 10月に入り、衛定公が病に倒れた。

衛候夫人の定姜には子がいなかったので、衛には太子がいなかった。

定公は孔烝鉏こうじょうさい(孔達の子)と甯殖に命じて

衛定公の妃妾・敬姒けいじの長子・かんを太子に立てた。


 10月16日、衛定公が病没した。敬姒は哭葬こくそうが終わって休んだ時に

太子・衎には悲しむ様子がなかったので、これを嘆いた。

「衛の新君は国を亡に導き、その禍はわたしから始まるでしょう。

公子・せん(衎の弟)を太子に定めなかったせいで、天は衛に災いを下した」


衛の諸大夫はこれを聞いて、皆が衛の将来を危惧した。


孫林父はこの後、衛の国宝を衛に置かず、全て自邑の戚に集め

晋の大夫と連絡を取り合うようになった。


衛では太子・衎が衛候に即位した。衛献公である。



 衛定公と同じ頃に、秦の桓公も崩御した。

桓公の子・后が即位し、秦景公となった。




     *     *     *




 周の簡王10年(紀元前576年)


この頃、斉の大夫・晏弱に子が産まれた。晏嬰という。

後年「社稷の臣」と呼ばれ、斉において管仲と並び称される名宰相となる。



 3月11日、晋厲公、魯成公、衛献公、鄭成公、曹成公

宋の太子・成、斉の上卿・国佐、邾人が戚の地で盟約を結んだ。

宋が太子を出席させたのは、宋共公が病に倒れたからである。


 この会盟で、晋は曹成公を捕え、周都に護送した。

曹の先君・宣公の太子を殺して即位した罪を裁くためである。


 諸侯は曹成公の弟である公子・欣時を周王に謁見させて

曹君に立てようとしたが、欣時はこれを辞退した。

「聖人は節に達し、次の者は節を守り、下の者は節を失う、と言います。

国君になるのは私の節ではありません。私は聖人ではありませんが、節を失う事も出来ません」

公子・欣時は宋に亡命した。



 6月、宋共公が病没した。太子・成が宋君に即位した。宋平公である。




          *     *     *




 一方、楚は北への出兵を目論む主張が出始めている。


子囊しじょう(公子・貞、楚共王の弟)は北進に反対した。

「晋と盟を結んだばかりではないか。盟約に背いて諸候が従うはずがない」


楚の司馬・子反は反論する。

「我々に利があれば進むのみである。盟約など意味はない」


高齢で告老(引退)していた申叔時しんしゅくじが自領の申邑で子反の主張を聞いて

「子反には禍が訪れる。盟約を無視すれば信も礼も失う。どうして禍から逃れよう」と嘆いた。



 楚共王は子反の意見を採用し、楚軍を率いて北上した。

楚軍はまず鄭を攻撃して暴隧ぼうすいに至り、衛を侵して首止しゅしに達した。


鄭の公子・喜が鄭軍を率いて楚に侵攻し、楚地の新石を奪った。


鄭軍が新石を占領したと聞いた楚軍は衛から退いた。

鄭もまた楚から退いて、互いに戦線を拡大しなかった。



晋の正卿・欒書は楚の背信に怒り、晋軍を率いて報復を主張したが

韓厥かんけつが反対した。

「晋師を動かす必要はありません。楚の罪を更に重くさせれば

必ず天下の民は楚から離れます。民がいなくなれば戦う事は出来ません」




             *     *     *




 宋では先君・共公の葬儀が行われた後、新君の元で宋の新体制が発足する。


右師(宰相)・華元、左師・魚石、司馬・蕩沢とうたく、司徒・華喜、司城・公孫師

大司寇・向為人こういじん、少司寇・鱗朱りんしゅ、大宰・向帯、少宰・魚府ぎょふが任命された。


司馬に任じられた蕩沢は、宋の公室の権力を削るために

共公の子、公子・肥を殺した。



右師の華元が言う。

「臣は右師として宋君を支える地位にあるが、公室の衰退を防ぐ事が出来ない。

臣の罪は大きい。職を全うせずして君の俸禄を取る訳にはいかない」

華元は晋に出奔した。


左師の魚石は華元を呼び戻そうとしたが、少宰の魚府が反対した。魚府は魚石の弟である。

「右師が宋に還ったら必ず蕩沢を討伐する。そうなったら禍は桓氏の族(宋桓公の後裔)に及ぶ。

我々魚氏も蕩沢と連なる桓氏の一族。共に滅ぼされるであろう」


これに魚石が反論した。

「右師が帰国して蕩沢を討伐しても、桓氏を族滅する事はないであろう。

華元は宋で多くの功績を立てた功臣で、宋の国人から人気がある。

右師を帰国させねば、国人の反感を買い、桓氏が滅ぼされるだろう。

もし、右師が桓氏を討伐したとしても、まだ向戌こうじゅつがいる。

我々魚氏が亡んでも桓氏の一部は残る」



魚石は華元の後を追って、黄河の沿岸で華元に追いつき、説得した。

「群臣が蕩沢の討伐に協力すると約束すれば宋に戻ろう」

魚石はこれに同意した。


華元は宋に帰国して、華喜と公孫師に命じて蕩氏を討ち、蕩沢は誅殺された。


桓氏一族に連なる魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府の5大夫は

内乱の責任を取って宋都・商丘を出奔し、睢水きすいの畔に住んだ。


華元は使者を送って5人に帰国を命じたが、5人は拒否した。

次に華元が自ら5人の元に向かって説得したが、結果は同じであった。

ほどなく5大夫は楚に亡命した。


華元は向戌を左師に、老佐ろうさを司馬に、楽裔がくえいを司寇に任命した。



    後年、宋の宰相になる向戌は、第二次弭兵の会を開催して

    中原から戦を大幅に減らす大功を立てる事になる。




             *     *     *




 晋の名族・郤氏で重職を担う三郤(郤錡・郤犨・郤至)が大夫・伯宗を讒言して殺した。


韓厥が言った。

「郤氏の終わりが近い。罪なき者を害した。もはや滅びを待つのみである」



 伯宗は生前、毎朝出仕する度、妻に諫められていた。

「盗賊は主を憎み、民は上を嫌うといいます。

あなたは直言を言い過ぎるので、いずれ難が及ぶでしょう」


伯宗は妻の言葉を聞き、晋で賢臣と名高い畢陽に子の伯州犁はくしゅうりを委ねた。


伯宗が郤氏に誅滅された後、畢陽は伯州犁を楚に出奔させ、伯州犁は楚で太宰になった。



晋厲公は郤氏の勢威を考慮して、これを罰しなかったので

晋の国人は厲公に従わなくなった。




        *     *     *




 11月、呉と楚の国境に近い鍾離の地で会盟が行われた。

晋の卿・士燮、魯の上卿・叔孫僑如しゅくそんきょうじょ、斉の大夫・高無咎こうむきゅう、宋の右師・華元、

衛の上卿・孫林父、鄭の公子・しゅう、それに邾人が呉と会見した。


呉が初めて諸侯の会盟に参加した事で、以後、呉は中原で存在感を増していく。




          *     *     *




 鄭からの侵略が続き、ついに国都まで侵攻された許国では

許霊公が鄭からの圧力を恐れ、楚に遷都を願い出た。


楚の公子・申は許都の民をことごとく葉の地に遷し

これ以降、許は楚の属国となった。


葉に遷る前の許都の地は鄭に併合され、以後、旧許と呼ばれる。



作中、晏嬰が生誕したと書きましたが

本当は晏嬰の生年は不明で、筆者の勝手な想像です。


ただ、後年の彼の事績を辿ると、紀元前576年に生まれたとすれば

色々と腑に落ちる部分がありまして。


春秋時代の中期を彩る賢者、名宰相と言えば

子産、叔向、晏嬰が今なお高名ですが、この中で晏嬰が特に気に入ってます。

「史記」の著者・司馬遷は「もし晏子が今の世にいれば

御者でいいから側に仕えたい」とまでリスペクトしたほど。


晏嬰を主役にした小説なら、何と言っても宮城谷昌光先生の名作「晏子」があります。

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