第六十九話 郤氏の専横
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かつて、秦桓公は晋厲公と令狐で盟を結んだ。
この盟約は晋秦双方に疑義の思いが深く、信に欠けたものであった。
盟約を締結した直後、秦は北の狄・南の楚と組み、盟に背いて晋に侵攻した。
晋はこれを迎撃し、秦、狄、楚を各個に撃退した。
そして周の簡王8年(紀元前578年)4月5日
晋厲公は魏相(魏錡の子)を秦に送り、晋と秦の断交を告げ
秦への侵攻を宣言した。
諸侯も秦の背反を非難し、晋と和し、これを支持した。
5月4日、晋軍は魯成公、斉霊公、宋共公、衛定公、鄭成公、曹宣公
そして邾、滕の軍と合流し、秦地の麻隧で秦軍と戦った。
この時の晋軍を率いる元帥は正卿の欒書で
欒書の兵車で御を務めるのは郤毅、欒書の子・欒鍼が車右となった。
中軍の将は欒書、佐は荀庚
上軍の将は士燮、佐は郤錡
下軍の将は韓厥、佐は荀罃
新軍の将は趙旃、佐は郤至
晋の先君・景公が編成した六軍は、厲公の代には四軍に減らされた。
趙氏の族が撃滅された影響で卿位の臣が減ったからである。
この戦役中、曹宣公が陣没した。戦死ではなく病死だったらしい。
麻隧の戦いで秦軍は諸侯軍に大敗し、秦の成差と女父が諸侯軍に捕われた。
諸侯軍は敗走する秦軍を追撃して涇水を渡り
涇水の南岸・侯麗に至り、秦は降伏した。
諸侯軍は秦地の新楚で秦桓公を迎え入れ、講和を結んで帰還した。
諸侯軍が帰還する途上、秦地の瑕を通った時に
劉公が予見した通り、周の卿士・成公は不慮の死を遂げた。
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鄭成公が鄭兵を率いて秦へと出征した時期を狙って
3年前に許へ出奔した鄭の公子・班(字は子如)は、鄭君の地位を狙って
許から楚に入り、6月15日の夜、楚地の訾から楚兵を率いて鄭都に入った。
公子・班は鄭君即位の宣言を行うため、鄭の祖廟に入ることを要求したが
留守を預かる鄭の群臣はこれを拒否したため、公子・班は公子・舒(字は子印)と
公子・揮(字は子羽)を殺し、鄭都の市に駐軍した。
この事態に対し、公子・騑(字は子駟)は6月17日に鄭の国人を率いて
祖廟に入り、盟約を結んだ後、祖廟が安置された大宮を焼き払って
公子・班、班の子・孫叔、班の弟・子駹、子駹の子・孫知らを殺した。
子印、子羽、子駟みな鄭穆公の子である。
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曹国では曹宣公が晋に従って秦に出征している間
曹の公子・負芻が留守を守っていた。
秦での戦役中に曹宣公が陣没したという報せが曹に届いて
曹の公子・欣時(字は子臧)が秦に入り、宣公の遺体を引き取って帰国した。
その後、負芻は宣公の太子を殺し、自らが曹君に即位した。曹成公である。
諸侯は負芻の無道を非難して晋に曹討伐を請うたが
晋は曹が秦との戦いに協力した事と、曹君が戦いの最中に死去した事を慮って
曹討伐についての明言を避け、問題を先延ばしにした。
晋の曖昧な姿勢に失望した公子・欣時は
宣公を埋葬し、葬儀が終わった後、曹を出奔した。
曹の国人は誰も成公に服しないため、ほとんどの国人が欣時に従って曹を出た。
曹成公は国が空になる事を恐れて自分の罪を認め
公子・欣時に曹に戻るように請うた。
欣時は帰国したが、自分の采邑を曹の公室に返還した。
曹成公の命には従わないという意思表示である。
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周の簡王9年(紀元前577年)春正月
莒の国君・朱(渠丘公)が薨去した。
渠丘公の子・密州(犂比公)が後を継いだ。
夏、衛定公が晋に入朝し、晋厲公と会見した。
厲公は7年前に衛から晋に出奔した孫林父を衛に帰国させるため
衛定公と孫林父との会見を求めたが、衛定公はこれを拒否した。
衛定公が帰国した後、晋厲公は郤犨に命じて孫林父を衛に送らせた。
衛定公は孫林父の受け入れを拒否したが、衛候夫人・定姜が衛候を諭した。
「孫林父は先君と同族で、大国の晋が衛への復帰を求めています。
これを拒否したら小国の衛は晋に滅ぼされるでしょう。
我が君がいかに孫林父を嫌っても、衛の民を安定させるため、我慢なさるべきです」
定公は孫林父に会い、卿の地位に戻し、采邑の戚を返還した。
衛定公は宴を開き、郤犨をもてなした。寧殖が宴の儀礼を補佐した。
この時、郤犨の態度は傲慢であったため、寧殖が言った。
「郤氏は亡ぶでしょう。宴とは威儀を観察し、参加する者の禍・福を探るものです。
彼は傲慢なので、禍を得る道を歩む事になります」
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7月、魯の叔孫僑如が斉に入り
魯成公の婦人となる公女(姜氏)を迎えた。
8月、許は鄭が定めた国境を侵したので
鄭の公子・喜(字は子罕)が許を攻めたが、敗れた。
次は鄭成公が自ら兵を率い、再び許を攻めた。
攻撃開始から2日後に鄭軍は許都の外城に侵入したので、許君は降伏した。
許は10年前に公孫申と決めた国境を受け入れ、鄭と講和した。
9月に魯の叔孫僑如は姜氏と共に斉から魯に帰国した。
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10月に入り、衛定公が病に倒れた。
衛候夫人の定姜には子がいなかったので、衛には太子がいなかった。
定公は孔烝鉏(孔達の子)と甯殖に命じて
衛定公の妃妾・敬姒の長子・衎を太子に立てた。
10月16日、衛定公が病没した。敬姒は哭葬が終わって休んだ時に
太子・衎には悲しむ様子がなかったので、これを嘆いた。
「衛の新君は国を亡に導き、その禍は妾から始まるでしょう。
公子・鱄(衎の弟)を太子に定めなかったせいで、天は衛に災いを下した」
衛の諸大夫はこれを聞いて、皆が衛の将来を危惧した。
孫林父はこの後、衛の国宝を衛に置かず、全て自邑の戚に集め
晋の大夫と連絡を取り合うようになった。
衛では太子・衎が衛候に即位した。衛献公である。
衛定公と同じ頃に、秦の桓公も崩御した。
桓公の子・后が即位し、秦景公となった。
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周の簡王10年(紀元前576年)
この頃、斉の大夫・晏弱に子が産まれた。晏嬰という。
後年「社稷の臣」と呼ばれ、斉において管仲と並び称される名宰相となる。
3月11日、晋厲公、魯成公、衛献公、鄭成公、曹成公
宋の太子・成、斉の上卿・国佐、邾人が戚の地で盟約を結んだ。
宋が太子を出席させたのは、宋共公が病に倒れたからである。
この会盟で、晋は曹成公を捕え、周都に護送した。
曹の先君・宣公の太子を殺して即位した罪を裁くためである。
諸侯は曹成公の弟である公子・欣時を周王に謁見させて
曹君に立てようとしたが、欣時はこれを辞退した。
「聖人は節に達し、次の者は節を守り、下の者は節を失う、と言います。
国君になるのは私の節ではありません。私は聖人ではありませんが、節を失う事も出来ません」
公子・欣時は宋に亡命した。
6月、宋共公が病没した。太子・成が宋君に即位した。宋平公である。
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一方、楚は北への出兵を目論む主張が出始めている。
子囊(公子・貞、楚共王の弟)は北進に反対した。
「晋と盟を結んだばかりではないか。盟約に背いて諸候が従うはずがない」
楚の司馬・子反は反論する。
「我々に利があれば進むのみである。盟約など意味はない」
高齢で告老(引退)していた申叔時が自領の申邑で子反の主張を聞いて
「子反には禍が訪れる。盟約を無視すれば信も礼も失う。どうして禍から逃れよう」と嘆いた。
楚共王は子反の意見を採用し、楚軍を率いて北上した。
楚軍はまず鄭を攻撃して暴隧に至り、衛を侵して首止に達した。
鄭の公子・喜が鄭軍を率いて楚に侵攻し、楚地の新石を奪った。
鄭軍が新石を占領したと聞いた楚軍は衛から退いた。
鄭もまた楚から退いて、互いに戦線を拡大しなかった。
晋の正卿・欒書は楚の背信に怒り、晋軍を率いて報復を主張したが
韓厥が反対した。
「晋師を動かす必要はありません。楚の罪を更に重くさせれば
必ず天下の民は楚から離れます。民がいなくなれば戦う事は出来ません」
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宋では先君・共公の葬儀が行われた後、新君の元で宋の新体制が発足する。
右師(宰相)・華元、左師・魚石、司馬・蕩沢、司徒・華喜、司城・公孫師
大司寇・向為人、少司寇・鱗朱、大宰・向帯、少宰・魚府が任命された。
司馬に任じられた蕩沢は、宋の公室の権力を削るために
共公の子、公子・肥を殺した。
右師の華元が言う。
「臣は右師として宋君を支える地位にあるが、公室の衰退を防ぐ事が出来ない。
臣の罪は大きい。職を全うせずして君の俸禄を取る訳にはいかない」
華元は晋に出奔した。
左師の魚石は華元を呼び戻そうとしたが、少宰の魚府が反対した。魚府は魚石の弟である。
「右師が宋に還ったら必ず蕩沢を討伐する。そうなったら禍は桓氏の族(宋桓公の後裔)に及ぶ。
我々魚氏も蕩沢と連なる桓氏の一族。共に滅ぼされるであろう」
これに魚石が反論した。
「右師が帰国して蕩沢を討伐しても、桓氏を族滅する事はないであろう。
華元は宋で多くの功績を立てた功臣で、宋の国人から人気がある。
右師を帰国させねば、国人の反感を買い、桓氏が滅ぼされるだろう。
もし、右師が桓氏を討伐したとしても、まだ向戌がいる。
我々魚氏が亡んでも桓氏の一部は残る」
魚石は華元の後を追って、黄河の沿岸で華元に追いつき、説得した。
「群臣が蕩沢の討伐に協力すると約束すれば宋に戻ろう」
魚石はこれに同意した。
華元は宋に帰国して、華喜と公孫師に命じて蕩氏を討ち、蕩沢は誅殺された。
桓氏一族に連なる魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府の5大夫は
内乱の責任を取って宋都・商丘を出奔し、睢水の畔に住んだ。
華元は使者を送って5人に帰国を命じたが、5人は拒否した。
次に華元が自ら5人の元に向かって説得したが、結果は同じであった。
ほどなく5大夫は楚に亡命した。
華元は向戌を左師に、老佐を司馬に、楽裔を司寇に任命した。
後年、宋の宰相になる向戌は、第二次弭兵の会を開催して
中原から戦を大幅に減らす大功を立てる事になる。
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晋の名族・郤氏で重職を担う三郤(郤錡・郤犨・郤至)が大夫・伯宗を讒言して殺した。
韓厥が言った。
「郤氏の終わりが近い。罪なき者を害した。もはや滅びを待つのみである」
伯宗は生前、毎朝出仕する度、妻に諫められていた。
「盗賊は主を憎み、民は上を嫌うといいます。
あなたは直言を言い過ぎるので、いずれ難が及ぶでしょう」
伯宗は妻の言葉を聞き、晋で賢臣と名高い畢陽に子の伯州犁を委ねた。
伯宗が郤氏に誅滅された後、畢陽は伯州犁を楚に出奔させ、伯州犁は楚で太宰になった。
晋厲公は郤氏の勢威を考慮して、これを罰しなかったので
晋の国人は厲公に従わなくなった。
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11月、呉と楚の国境に近い鍾離の地で会盟が行われた。
晋の卿・士燮、魯の上卿・叔孫僑如、斉の大夫・高無咎、宋の右師・華元、
衛の上卿・孫林父、鄭の公子・鰌、それに邾人が呉と会見した。
呉が初めて諸侯の会盟に参加した事で、以後、呉は中原で存在感を増していく。
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鄭からの侵略が続き、ついに国都まで侵攻された許国では
許霊公が鄭からの圧力を恐れ、楚に遷都を願い出た。
楚の公子・申は許都の民をことごとく葉の地に遷し
これ以降、許は楚の属国となった。
葉に遷る前の許都の地は鄭に併合され、以後、旧許と呼ばれる。
作中、晏嬰が生誕したと書きましたが
本当は晏嬰の生年は不明で、筆者の勝手な想像です。
ただ、後年の彼の事績を辿ると、紀元前576年に生まれたとすれば
色々と腑に落ちる部分がありまして。
春秋時代の中期を彩る賢者、名宰相と言えば
子産、叔向、晏嬰が今なお高名ですが、この中で晏嬰が特に気に入ってます。
「史記」の著者・司馬遷は「もし晏子が今の世にいれば
御者でいいから側に仕えたい」とまでリスペクトしたほど。
晏嬰を主役にした小説なら、何と言っても宮城谷昌光先生の名作「晏子」があります。




