第六話 王から諸侯の時代へ
外征を行う場合、当時の常識として
主君が出陣すれば、世継ぎ(嫡子、世子、太子)は留守を任されます。
その目的はリスクの分散です。
主君が戦死したら世継ぎが次の主君に就けばいいし、逆なら他の子を新たに世子にすればいい。
両方が一度に死んだら、主君も後継者もいなくなって大変ですから。
* * *
衛の大夫・石厚は、鄭と一戦した後、撤兵を決めた。
「なぜ勝っているのに撤退するのか」
と、他の将は疑問に感じた。
衛君の州吁も訝しみ、石厚に理由を尋ねた。
「鄭兵は強く、鄭伯は周の卿士です。長く戦えば我らに不利。
小規模ながら一戦して勝ちを収めたなら、もはや十分。
衛の国情は定まっていません。早めに帰国するべきです」
州吁は承知し、包囲を解いて帰国した。
東門の役は僅か5日間の戦であった。
だが、州吁は衛の大夫や民の支持を得られず
国内は今なお不安定なままであった。
そこで石厚は、父・石碏に国政復帰を願い出た。
石碏は衛武公の代から仕える名臣で、国内の人気が高い。
しかし石碏は州吁や石厚を好かず、老齢を理由にして首肯しない。
石厚は君命を奉じ、強く訴えた。
「衛の民は動揺しております。父上のお知恵を拝借しとう存じます」
「諸侯の即位は、周王より正式に認められる必要がある。
王に拝謁し、認可されれば衛の民も今の衛君を認め、安定しよう。
陳候に仲介して頂くのだ」
州吁は同意し、多くの贈物を携えて石厚と共に陳に向かった。
州吁が衛を出る前、石碏は旧知の陳の大夫・子鍼に密書を届けた。
衛君・州吁と上大夫・石厚の両名は、陳に向かう途上で
陳君・桓公に捕えられ、濮邑(現在の安徽省亳県)で処刑された。
衛の右宰・丑は、邢国に亡命している州吁の兄、公子・晋を衛に迎え
新たな衛君に据えた。衛宣公である。
かくして、衛国を撹した州吁の乱は終わった。
衛国のため、我が子共々、暴君を誅した石碏を
衛の国人は「大義滅親(正義のためには肉親をも顧みない事)」の忠臣と称えた。
* * *
東門の役を切り抜けた鄭では
鄭荘公の策で長葛に向かった宋の公子・馮が
新鄭に逃げ帰って来た。
「長葛は宋軍に打ち破られ、城を占拠されました」
鄭荘公は公子・馮に食禄を与え、新鄭に住まわせた。
衛君・州吁が濮邑にて処刑され
新たな衛君が立った件は鄭にも届いた。
「州吁の事は、衛の新君には関係ない。鄭討伐の首謀者は宋である」
祭足が進言した。「鄭を攻めたのは五諸侯の連合でした。
宋を攻めれば、他の四国が救援に来るでしょう。そうなると鄭に勝算はありません。
ですが、衛は国内の立て直しに忙しく、外征は出来ないはず。
まず陳と講和し、次に魯と結ぶ事で、宋を孤立させましょう」
鄭荘公はこの意見に従い、陳に使者を送り友好を申し出た。
だが、陳桓公は承諾しない。
陳の公子・佗が主君を諌めた。
「隣国の友好を拒むべきではありません。まして鄭伯は周の卿士です」
「鄭伯は信用できぬ。それに、鄭と結べば宋と敵対する事になる」
鄭と陳との講和は失敗した。
荘公は憤慨して
「宋は魯、斉との連合で討つ。宋の次は陳である」と宣言した。
祭足は提案した。「陳君は鄭に疑念を抱いております。
陳の国境に侵攻して略奪を行い、その後誠意を持って返還するのです。
恐らく陳君の疑いは晴れ、鄭と講和を結ぶでしょう」
荘公は納得して、兵五千を陳の国境付近に送り、略奪を行った。
陳の国境の役人がこの件を陳桓公に報告した。
陳桓公は群臣を集め、対策を協議していた時に
鄭の大夫・頴考叔が鄭君の手紙を携え、略奪物を返還したいと申し出て来た。
桓公「鄭の使者が来た。どうすればよいか」
公子・佗「これは鄭の好意の表れです。会うべきです」
桓公は頴考叔と接見した。
陳侯は手紙を読み、鄭伯に友好の意思ありと見て
頴考叔をもてなし、公子・佗を鄭へ派遣した。
鄭と陳は講和した。
荘公が祭足に尋ねた。
「陳国の問題は解決した。次は宋だが、どうする」
「宋は殷の遺臣が建てた国。代々の周王も一目置き
爵位が高く、国土も広く、容易くは討伐できません。
そこで、周都に行って王に朝見し、王命と偽って斉、魯を召集して宋に当たれば
大義名分が立ち、兵力も十分で、まず負けはないでしょう」
「もっと早く朝見にいくつもりであったが
斉との会見や衛との戦で遅れていた」
荘公と祭足は世子・忽に鄭の留守を任せ、周王に朝見した。
* * *
周公・黒肩は周桓王に、鄭に礼を示すよう説得したが
温邑での略奪の件もあって、王は鄭荘公を嫌っている。
荘公の謁見を受けた桓王は、皮肉を告げる。
「鄭伯よ、卿の国は、今年の作柄はどうであるか」
「王の恩恵を賜い、水害も旱魃もなく、豊作にございます」
「豊年なら、今年は温や成周の収穫は取らずに済むのう。
少ないが、不作の足しにせよ」
と、馬車十乗分の黍を下賜した。
荘公は桓王の言に不快を感じ、退出した。
荘公は祭足に語り
「周王の態度は気に入らぬ。黍は送り返せ」
「王より賜ったものは、大小にかかわらず天子の寵愛を表します。
これを断れば、諸侯は周と鄭の不仲を公表することになります」
後日、周公・黒肩が荘公に綾絹を贈ってきた。
「祭足、これは何を意味するか」
「周王には二人の男子がいます。長男は沱、次男は克です。
王は次男を可愛がって周公に補佐させ、王位を継がせようと考えておいでです。
周公は鄭と交流を深め、援助を得ようと考えています。これを利用しましょう」
「何に使うのだ」
「鄭の朝見は諸侯みな知る所。周公より頂いた絹を
王より賜った黍を積んだ馬車十乗に被せます。
これに『天子より賜る』と大書して洛邑から新鄭まで公開します。
宋公は長く朝見 しておりません。これを理由にして
王命を受けて鄭が宋を討伐する名分を掲げ、諸侯を招集します。
いかに宋が大国でも、王命を奉じた諸侯の軍には敵わぬでしょう」
「卿はまことに策士である」
荘公は周都を出ると、王命である、と訴えつつ
宋公の不忠の罪を喧伝し、聞く者はみなそれを信じた。
この話を聞いた宋殤公は驚き心配して、衛宣公に密使を送った。
衛宣公は、斉僖公と共に宋、鄭両国を和解させようと
瓦屋(現在の河南省温県)で盟約を交わす等の尽力を行った。
しかし、鄭荘公は瓦屋に来なかったので
宋、衛、斉の3国での盟約となった。
* * *
周桓王は、鄭荘公を卿士から罷免して
代わりに虢公・忌父を用いようとした。
しかし、周公・黒肩は反対して王を諫めたので
虢公・忌父を右卿士にして国政を任せ、鄭伯は名目だけの左卿士にした。
これを聞いた鄭荘公は
「王は、わしの爵位は取り上げられぬか」と笑った。
鄭荘公は、宋が衛、斉と盟約を結んだ事について祭足に相談した。
「斉の本心は中立です。本気で宋を支援する気はありません。
此度の王命を斉、魯に宣伝すれば、むしろ鄭の味方になりましょう。
衛、蔡、許、郕らの諸侯も、王命には逆らえません」
荘公は魯と許に使者を送り、共に宋を攻める約束を交わした。
魯の国政を担当する公子・翬は斉に使者を送り、宋攻めへの参加を促した。
魯と斉は中丘(現在の山東省臨沂)に集合し
魯の公子・翬が200乗、斉候の弟・夷仲年が300乗の兵車を引き連れ
鄭の援軍に参加した。
鄭荘公は公子呂、高渠弥、頴考叔、公孫閼ら将士を率い
自らは中軍を指揮した。
公子・翬は最初に宋地・老桃に到着し、宋の将が迎撃してきたが
一戦して宋軍は敗退し、300人が魯の捕虜となった。
公子・翬は老桃に来た鄭伯に捕虜を献上し、幸先良しと喜んだ。
その後も鄭、魯、斉の連合軍は連戦連勝を続けた
この事態に宋殤公は蒼白となり、司馬の孔父嘉に相談した。
「周都に使いをやって調べたところ、鄭伯は周王と仲違いしているとか。
宋討伐の王命など偽りでございます」
「そうかもしれぬが、鄭兵は強い。
王命が偽りと判明したところで、魯、斉が退くとも思えぬ」
「鄭を撤退させる方法が一つございます」
「鄭は有利に戦を進めておるのに、どうやって撤退させるのだ」
「鄭は全軍を宋攻めに集中しており、本国は空です。
衛に使者を送り、空白の鄭を攻めさせます。
必ず鄭伯は撤退し、それを見れば魯と斉も退くでしょう」
「うむ、その手があったか」
孔父嘉は兵車200乗を率い、多額の贈物を携えて衛に向かった。
衛宣公は贈物を受け、右宰・丑に鄭攻めを命じた。
右宰丑と孔父嘉は連携して鄭に侵攻し
鄭国内で略奪を行った。
留守を任されていた世子・忽は兵が足りないので
城に籠って出陣せず、鄭荘公に急使を送った。
すでに鄭軍は郜城を落とし、防城を破って戦勝報告を行っていた。
そこへ世子・忽からの急報が届いた。
鄭荘公は宋攻撃に協力した魯、斉にはこの件を伝えず
この戦いで宋から奪った郜と防の地を魯、斉に与え
大急ぎで鄭に戻った。
鄭荘公は帰国の途上、衛と宋の軍はすでに鄭から撤退したが
道中にある小国の戴に道を阻まれて苦戦している報せを聞いた。
荘公は両軍に夜襲を仕掛け、油断していた衛、宋軍は壊滅した。
衛の右宰・丑は戦死、宋の孔父嘉は身一つで宋へ逃げ帰った。
両軍の兵ことごとく鄭の捕虜となり、彼らが鄭から略奪した物は全て取り戻した。
荘公は勢いに乗って戴城を攻め、これを陥落した。
戴の君主は僅かな供を連れて、遥か西、秦の方角へと落ち延びていった。
戴国は鄭に併呑され、その社稷は滅んだ。
* * *
荘公は大いに満足して
「わしは祖先の御霊、諸卿の力を得て連戦連勝し
今や威勢はどの諸侯をも凌いでいる。昔日の方伯(諸侯の覇者)にも劣るまい」
群臣みな荘公に賛同するが、ひとり頴考叔のみ黙していた。
荘公はそれを見て面白くない表情をした。
彼は口を開いた。「我が君は間違っておられます。
方伯とは王命を受けて諸侯の長となり、討伐の専権が与えられ
その命には必ず応じなければならないことになっております。
今回、我が君は王命として宋の罪を問うと述べられましたが
周の天子はこれを存じておりません。
召集の檄を飛ばしても、衛は逆に宋に付いて鄭を攻め
郕、許は出陣しませんでした。これを方伯とは申せません」
「卿の申す通りである。衛には懲罰を与えたが
王命に応じなかった郕、許は今後の課題である」
「郕は斉の隣国、許は鄭の隣国です。
違反を追及なさるのでし たら、討伐理由を明確にして
先ず人を斉に送り、郕を討たせ、次いで斉の来援を得て共に許を討ちます。
郕は斉が、許は鄭が取る。これで鄭と斉の友誼を保てます。
その後、周王に戦利品を献上すれば、王も追認なさるでしょう」
鄭荘公は頴考叔の提案に従い
斉に使者を派遣して斉侯に郕と許の罪状を伝えた。
斉侯は承諾し、夷仲年に郕を攻めさせ
鄭は公子・呂を郕に向けた。
郕は怖れて講和を求め、斉侯は受け入れた。
公子・呂は鄭への帰途、病に罹り、間もなく亡くなった。
荘公は忠臣の死をいたく悲しみ、呂の弟、公子・元を大夫に任じた。
次の執政に高渠弥を任用しようと考えたが、世子・忽が反対したので
祭足を上卿に任じ、公子・呂の後任とし、高渠弥を亜卿とした。
周桓王8年(紀元前712年) の事である。
* * *
同年夏、鄭荘公は斉、魯と共に許を攻める約束を取り付け
予定の日は7月1日とした。
荘公は戦の準備を始めた。
吉日を選んで太廟に報告し、指令旗を作り直して兵車に立てた。
「この旗を持って普段の様に歩ける剛力の者がいれば
その者を先鋒に任じ、この車を与えよう」
鄭で猛将の誉れ高い瑕叔盈が出て「臣がやりましょう」と言った。
兵車から旗を抜き、片手で旗を持ち、平然と歩いて元の車に立てた。
兵みな喝采した。
「それがしは旗を持って舞いましょう」と言ったのは頴考叔である。
彼は旗を取り、槍を扱うが如く風を切って舞った。
兵は驚いて声もなかった。
荘公は「先鋒と車は頴考叔のものである」と言った。
「それぐらいの舞いならば、それがしも出来る」
と言ったのは荘公の末子・公孫閼(字は子都)である。
だが頴考叔は旗を持ち、兵車に乗って逃げた。
公孫閼はそれを追うが、荘公に窘められて、やむなく諦めた。
荘公は瑕叔盈と公孫閼にも兵車を与えた。
* * *
7月1日、荘公は自ら大軍を率いて許へ向かった。
留守を任されたのは祭足と世子・忽である。
許攻めは斉軍が中央、魯軍が右、そして鄭軍は左に陣取った。
許は小国で、兵は寡なく、爵位は最も低い男爵である。
だが許の荘公は民に信頼され、頑強に抵抗したので
城は簡単には落ちなかった。
頴考叔は主君から頂戴した兵車に乗って奮戦し、城壁の前まで進み
旗を許城に立てんと城壁を登って行った。
それを公孫閼が見つけ、頴考叔に恨みのある彼は
乱戦の最中、城壁を登る頴考叔の背に矢を射かけ、彼は落下して死んだ。
その死因に気づいた者はいない。
瑕叔盈は彼と一緒に落ちた旗を拾い、城壁を登って
許城に鄭の大旗をはためかせた。
それを見た鄭軍の兵士の士気は上がり、一気に許城を攻略した。
敗れた許の荘公は衛に亡命した。
荘公は瑕叔盈を戦功第一と賞賛したが、頴考叔の死を悲しんだ。
鄭、斉、魯の3君で、誰が許を取るかで話し合っていた折
許の大夫で百里という者が現れた。
「亡命した許君には子がいませんが、弟がいます。
許の土地は諸侯にお譲りしますが、祖先の祭祀を絶やすわけにはいきません。
どうか、ご配慮をお願いします」
結局、許は二分されて、東半分を許君の弟・許叔が治め、それを百里が補佐し
西半分は鄭の大夫・公孫獲が統治する事に決まった。
これより10数年後の話であるが
許の荘公は亡命先の衛で亡くなった。
許叔は東側で鄭の支配下にあったが
鄭荘公の亡き後、荘公の子らによる後継者争いが起きて
鄭国は大いに乱れ、その間に公孫獲も病死 した。
許叔は鄭の混乱に乗じて百里と共に許の都へ入り
宗廟を整備して、一度は滅んだ許国を復活させたのである。
許を攻める時、鄭軍が左になったのは理由があります。
春秋時代の考え方では、軍は中軍が最も高ランク
次いで右軍、そして左軍の順になります。
要するに、鄭の荘公は斉と魯に遠慮したわけです。