表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
69/147

第六十八話 第一次弭兵の会




       *    *    *




 晋は捕虜の鍾儀しょうぎを楚に帰国させ

楚は返礼として、公子・辰(子商)を晋に派遣した。

晋楚両国は互いの関係を修復して、和を結ぶことを求めている。



 年が明けて周の簡王5年(紀元前581年)春

晋は大夫・糴茷じゃくはつを楚に送った。

公子・しん(子商)が晋を訪問したことへの返礼である。



 しかし一方で晋は衛に命じて鄭を攻めさせた。

衛定公の弟・子叔ししゅくが衛軍を率いて鄭を攻撃した。



 鄭の国君・鄭成公は、今なお晋に捕われたままである。

鄭の公子・班(子如しじょ)は、前年に公孫申が提案した策謀を実行に移して

3月、成公の兄・公子・じゅを鄭君に即位させた。


しかし鄭の新君・繻は即位後まもなく暗殺され、擁立した公子・班は許に亡命した。

4月、新たに成公の太子・うんを鄭君に立てた。



 晋の正卿・欒書らんしょは鄭の動きを見て

「鄭が新たに国君を立てた。我が国が捕えている鄭伯は国君から庶人となった。

先君を返還して鄭と和するべきだろう」と語る。



 この頃、晋景公が病に倒れ、重篤となる。

群臣らで諮って晋景公を退位させ、太子・州満しゅうまんが新たな晋君に即位した。晋厲公である。


5月、晋厲公、魯成公、斉霊公、宋共公、衛定公、曹宣公が

兵を率いて鄭に向かうが、諸侯に戦いの意思はなく

鄭との講和が目的である事を伝えるため、武装を解いて進行する。


鄭でも晋の意図を汲んで、鄭の公子・喜(子罕しかん)が使者となって

襄鐘(鄭襄公の廟に祀られた鐘)を晋に送り、講和を求めた。


鄭の公子・子然しぜん脩沢しゅうたく(鄭地)で晋と盟約を結び

公子・子駟しし)が人質として晋に送られた。

5月11日、晋に捕われていた鄭成公は鄭に帰国した。


6月、鄭成公は自分が不在の間に新君を擁立した公孫申とその弟・叔禽しゅくきんを殺した。

鄭君・惲は再び太子に戻った。



 なお余談だが、鄭の公子・喜、公子・子然、公子・騑は、みな鄭穆公の子である。




               *    *    *




 病寝の晋景公が、大厲(悪鬼・趙氏の先祖)の夢を見た。

「汝は我が子孫を殺した不義の者である。天帝に伺いを立て、汝に報復する許しを得た」

と言い、宮殿の大門と寝門(公の寝室)を破壊して侵入した。

景公は恐れて寝室の奥に逃げたが、戸が壊され、侵入されたところで目が覚めた。


 景公は目が覚めてから桑田そうでんを招聘した。

巫は景公が見た夢と同じ内容を語ったので、景公は夢の意味を聞くと

「新麦(夏から秋にかけて収穫される麦)を食べる事は出来ないでしょう」と言った。


景公の病が重いと聞いた秦桓公は、名医と名高いえんを晋に送った。


緩が晋に来る前に景公は再び夢を見た。病の化身が二人の童子の姿をしていた。

一人が「良医が来る。どこかへ逃げなければ」と言うと

今一人は「我々はこうの上、こうの下にいる。どんな名医でも治せない」と言った。


緩が到着し、景公を診て言った。

「私には治す事は出来ません。病は既に肓の上、膏の下に居り、鍼灸も薬も使えません」

景公は「汝は良医である」と言い、多額の礼物を渡して秦に帰らせた。



    現代日本で、病気が重くなって、治る見込みがない事や

    転じて、一つの物事に極端に熱中して、手がつけられないほどになる事を

    「病、膏肓に入る」という故事成語で喩えるのは、晋景公の病に端を発する。

    「膏」は心臓の下、「肓」は心臓と隔膜の間で、最も治療しにくい箇所とされる。



 6月6日、景公に仕える宦官は昨晩、景公を背負って天に登る夢を見たという。


この日の朝、景公は新麦が食べたいと言い

甸人でんじん(穀物を管理する者)が新麦を献上して、饋人きじん(料理人)が新麦を調理した。


景公は桑田の巫を招き、調理された新麦を見せて

「汝の予言は外れた」と謗り、巫を処刑した。


景公が新麦を食べようとすると、猛烈な腹痛に襲われ、慌てて厠に向かい

厠で足を踏み外し、後架に落ちて、景公は死んだ。新麦は食べていない。


この日の正午、前述の宦官が景公の遺体を背負って厠から出てきたため

宦官は殺され、景公と殉葬された。




        *    *    *



 

 晋は魯が楚と通じていると疑っているため

魯はこの疑いを晴らすべく、魯成公が晋を訪問した。


晋が糴茷を楚に派遣してすでに6ヶ月が経つが

糴茷はまだ帰国しておらず、晋は楚の状況が把握できていないため

晋は魯成公の帰国を許可せず、景公の葬儀に参加させた。


諸侯で葬儀に参加したのは魯成公のみであったため、魯ではこれを恥辱としたらしく

魯国の歴史書「春秋」には魯成公が晋景公を葬送したという記録が書かれていない。



 年が明けて、周の簡王6年(紀元前580年)の3月

魯成公が晋と盟約を結ぶ事が正式に決められた。

晋厲公は郤犨げきしゅうと共に魯成公を帰国させ、魯成公と郤犨が盟約を結んだ。




          *    *    *




 さて、魯の大夫に、公孫嬰斉という者がいる。


彼の父は魯成公の叔父・叔肸しゅくきつである。

叔肸は妻と正式な婚礼を行わずに夫婦になったので

魯成公の母・穆姜ぼくきょうは叔肸の妻を正式に認めなかった。

婚礼を行わなかった理由は貧窮であったせいかもしれない。


そのために、叔肸の妻は公孫嬰斉を産むと、離縁して斉に入り

斉の大夫・管于奚かんうけいと再婚し、一男一女を産んだ。

管于奚は早世して彼女は寡婦となり、生活に困窮して、二子を公孫嬰斉に預けた。


この二人が成長すると、公孫嬰斉は弟を魯の大夫にして

妹を魯の公族大夫・施孝叔せこうしゅくに嫁がせた。



 さて、魯に入った晋の郤犨であるが、公孫嬰斉に妻を求めた。

公孫嬰斉は施孝叔に嫁いだ妹を呼び戻し、郤犨に嫁がせることにした。


それを知った妹が施孝叔に言った。

「鳥獣でも妻を守るといいます。あなたはどうなされますか」


施孝叔はこう答えたと言う。

「わしは死ぬ事は出来ない。かと言って、命に逆らって妻を守る事も出来ない」


妹は施孝叔の家を出て郤犨に嫁いだ。



      これより数年後、郤氏は滅ぼされ、晋は郤犨の夫人を施孝叔に還した。

      施孝叔は黄河まで妻を迎えに行き、郤氏との間に産まれた二子を黄河に沈めて殺した。

      夫人が怒って施孝叔に言った。「わたしはあなたのせいで操を失い

      今また、人の孤児を愛せずに殺した。これでどうして終わりを全う出来るでしょう」

      夫人は施孝叔の家に帰らず、何処かへと去った。




              *    *    *




 夏、魯の季孫行父きそんこうほが晋に入り

郤犨の魯国聘問に謝して盟約を結んだ。



 この頃、周の朝廷にあって、周公・楚は伯輿はくきょうとの政争に敗れ

周を出奔して、晋へと向かった。


周公・楚は晋地の陽樊ようはんに至ったところで

周簡王が劉公を派遣して周公・楚を呼び戻した。

しかし、三日後には再び周を出て晋に奔った。



 秋、魯の叔孫僑如しゅくそんきょうじょが斉に入り

あんの戦い以前の友好関係を回復させた。



 晋の卿・郤至げきしが周王室とこう(温邑の一部)の領有権で争った。

周簡王は劉公と単公を晋に送って郤至の不当を訴えた。


郤至は「温は郤氏の邑です。ですから鄇を失うわけにはいきません」


劉公と単公は晋厲公と郤至に対し

「昔、周武王が殷紂王を牧野にて破り、蘇忿生そふんせいに温の地を与えた。

後に蘇氏は狄に出奔して、周襄王は晋文公に温を下賜し

晋の狐湊こしん陽処父ようしょほが温を治めた。

その更に後になって郤氏が温に入ったのである。

つまり元を辿れば、温は周王に属する邑であった。郤氏のみの所有ではない」と語った。


晋厲公は郤至に争いを止めるよう命じた。




          *    *    *




 晋厲公は諸侯と積極的に友好を結ぶ方針を示し

西方の大国・秦に使者を送り、令狐れいこの地で会見する事が決まった。


晋厲公が先に令狐へ到着したが

秦桓公は晋を疑っていたので、黄河を渡らず王城に駐留したまま

大夫・史顆しかを黄河東岸の令狐に送り、晋厲公と盟約を結んだ。


一方の晋も、郤犨が黄河を渡って河西の王城で秦桓公と盟約を結んだ。


晋の士燮ししょうは、この盟約を酷評した。

「このような盟約にどんな益があると言うのか。

盟とは信にかかっている。会盟の場所が信の基である。

始めが正しくないのに、信が成り立つはずがあるまい」



秦桓公は帰国後、晋との講和を破棄し、狄族のてきと共に晋を攻撃した。



 

              *    *    *


 


 宋の大夫・華元は楚の令尹・子重と、晋の正卿・欒書の双方と昵懇である。


楚は晋が派遣した糴茷による講和の申し出に同意し、糴茷を帰国させた。


冬、楚と晋の講和の動きを知った華元は、まず楚を訪れて子重に会い

その後に晋に入って欒書と対話を行い、楚と晋の仲介役を買って出た。



 そして、周の簡王7年(紀元前579年)5月

晋の士燮が楚の公子・、大夫・許偃きょえんと会見した。


5月4日、晋・楚両国が宋の西門の外で盟約を結び、宣言した。

「晋・楚共に兵を加えず、好悪を共にし、協力して災危に臨み、凶患を救済する。

楚を害す者は晋が討伐し、晋に敵する者は楚の敵でもある。

両国の使者が往来し、道路を塞がず、協力せぬ者を謀り、背く者は討伐する。

この盟に逆らう者は、天に誅され、その師を失い、国を治める事能わず」


これを歴史上『第一次弭兵びへいの会』と言う。

「弭」は「停止」を意味し、弭兵とは戦いを止める事を指す。



晋・楚の和約成立により、両国の間に位置する鄭成公も晋に赴いて盟に参加した。

続いて魯成公、衛定公も晋に行き、諸侯は晋地の沙沢さたくで会盟を行った。



 

              *    *    *




 宋の主催による第一次弭兵の会が行われている間に

晋の北方から白狄が晋に侵攻したが、晋は交剛こうごうで狄を破った。


この頃すでに狄は弱体化していたらしく

諸侯や白狄と反目を続けていた赤狄は滅んでいた。



 晋の郤至が楚を聘問し、盟約を結んだ。

楚共王は宴を開き、子反が宴の補佐役となり、堂の地下に鐘鼓しょうこを準備した。


郤至が宴に参加するため堂に登ろうとした時、突然、地下で楽器が鳴った。

驚いた郤至は退出しようとしたが、子反が言う。

「楚君がお待ちです。お入りください」


郤至が返す。

「楚君は先君との誼を忘れず、恩恵を臣に施し、宴席に楽まで添えてお加え頂きました。

将来、晋楚の両君が会した時、如何様な礼を以て遇すればよいのか。

このような厚遇を臣が応じる訳には参りません」


子反が語る。

「将来、両君が会見する時が至れば、互いに一矢を贈り合うだけです。

楽など必要ありません。楚君がお待ちです。どうぞお入りください」


郤至が更に言う。

「晋楚が一矢を以て款待すれば、それは禍となるでしょう。

世が平穏なれば、諸侯は天子に仕え、合間に互いに朝して享宴の礼を行う。

享は恭敬と倹約を教え、宴は慈恵を示し、礼が行われ、政が敷かれるのです。

政が乱れれば諸侯は貪婪になり、些少な地を巡って民を戮す事になります。

今語った言は法に基づかなない乱の道ですが、臣が従わぬ訳にも参りません」


郤至は宴に参加し、晋に帰国してから士燮に話した。

「楚は無礼である。盟約を守らないだろう。晋と楚の戦いは近い」



12月、楚の公子・罷が晋を聘問して晋厲公と赤棘せききょくで盟を結んだ。




              *    *    *




 周の簡王8年(紀元前578年)春

晋厲公は秦が狄と連合して晋を攻めた事に対し、報復の出師を決めた。


晋厲公は郤錡げききを魯に派遣し、出兵を求めたが

この時、郤錡の魯に対する態度は不敬であったとされる。


魯の仲孫蔑ちゅうそんべつ曰く

「郤氏は亡ぶだろう。礼は人の根幹であり、敬は基である。

郤錡には基がない。君命に従って師(軍)を求めるのは、社稷を守るためである。

それに怠惰であるのは、君命を棄てるに等しい。亡ばないはずがない」



 3月、魯成公が晋のために兵を出し、途中で周王のおわす洛邑らくゆうに入った。

この時、魯の叔孫僑如しゅくそんきょうじょは周王の賞賜を欲して

王の先使(先行する使者)を買って出たが

周簡王は行人(外交官)の礼で遇し、叔孫僑如に賞賜を与えなかった。


一方、仲孫蔑ちゅうそんべつは介(主と客の間で言葉を伝える役)として

魯成公に従って入京し、周簡王は仲孫蔑に厚い賞賜を与えた。



 魯成公は諸侯と共に周簡王を朝見し、卿士の劉公、成公に従って晋厲公と合流し

晋と諸侯の連合軍は秦へ兵を進めた。



 出征前の祭祀が行われ、成公が社で祭肉を受け取った。

この時の態度が不敬であったので、劉公が言った。

「生命は天地の気によって生まれ、動、礼、義、威によって安定する。

賢者はこれらを守って福を得るが、愚者はこれらに背いて禍を得る。

君子は礼に勤め、恭敬に至り、天を奉じ、篤く業を守る。

今、成公が怠惰であったのは、命を棄てたに等しい。生きて還ることはあるまい」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ