第六十八話 第一次弭兵の会
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晋は捕虜の鍾儀を楚に帰国させ
楚は返礼として、公子・辰(子商)を晋に派遣した。
晋楚両国は互いの関係を修復して、和を結ぶことを求めている。
年が明けて周の簡王5年(紀元前581年)春
晋は大夫・糴茷を楚に送った。
公子・辰(子商)が晋を訪問したことへの返礼である。
しかし一方で晋は衛に命じて鄭を攻めさせた。
衛定公の弟・子叔が衛軍を率いて鄭を攻撃した。
鄭の国君・鄭成公は、今なお晋に捕われたままである。
鄭の公子・班(子如)は、前年に公孫申が提案した策謀を実行に移して
3月、成公の兄・公子・繻を鄭君に即位させた。
しかし鄭の新君・繻は即位後まもなく暗殺され、擁立した公子・班は許に亡命した。
4月、新たに成公の太子・惲を鄭君に立てた。
晋の正卿・欒書は鄭の動きを見て
「鄭が新たに国君を立てた。我が国が捕えている鄭伯は国君から庶人となった。
先君を返還して鄭と和するべきだろう」と語る。
この頃、晋景公が病に倒れ、重篤となる。
群臣らで諮って晋景公を退位させ、太子・州満が新たな晋君に即位した。晋厲公である。
5月、晋厲公、魯成公、斉霊公、宋共公、衛定公、曹宣公が
兵を率いて鄭に向かうが、諸侯に戦いの意思はなく
鄭との講和が目的である事を伝えるため、武装を解いて進行する。
鄭でも晋の意図を汲んで、鄭の公子・喜(子罕)が使者となって
襄鐘(鄭襄公の廟に祀られた鐘)を晋に送り、講和を求めた。
鄭の公子・子然が脩沢(鄭地)で晋と盟約を結び
公子・騑(子駟)が人質として晋に送られた。
5月11日、晋に捕われていた鄭成公は鄭に帰国した。
6月、鄭成公は自分が不在の間に新君を擁立した公孫申とその弟・叔禽を殺した。
鄭君・惲は再び太子に戻った。
なお余談だが、鄭の公子・喜、公子・子然、公子・騑は、みな鄭穆公の子である。
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病寝の晋景公が、大厲(悪鬼・趙氏の先祖)の夢を見た。
「汝は我が子孫を殺した不義の者である。天帝に伺いを立て、汝に報復する許しを得た」
と言い、宮殿の大門と寝門(公の寝室)を破壊して侵入した。
景公は恐れて寝室の奥に逃げたが、戸が壊され、侵入されたところで目が覚めた。
景公は目が覚めてから桑田の巫を招聘した。
巫は景公が見た夢と同じ内容を語ったので、景公は夢の意味を聞くと
「新麦(夏から秋にかけて収穫される麦)を食べる事は出来ないでしょう」と言った。
景公の病が重いと聞いた秦桓公は、名医と名高い緩を晋に送った。
緩が晋に来る前に景公は再び夢を見た。病の化身が二人の童子の姿をしていた。
一人が「良医が来る。どこかへ逃げなければ」と言うと
今一人は「我々は肓の上、膏の下にいる。どんな名医でも治せない」と言った。
緩が到着し、景公を診て言った。
「私には治す事は出来ません。病は既に肓の上、膏の下に居り、鍼灸も薬も使えません」
景公は「汝は良医である」と言い、多額の礼物を渡して秦に帰らせた。
現代日本で、病気が重くなって、治る見込みがない事や
転じて、一つの物事に極端に熱中して、手がつけられないほどになる事を
「病、膏肓に入る」という故事成語で喩えるのは、晋景公の病に端を発する。
「膏」は心臓の下、「肓」は心臓と隔膜の間で、最も治療しにくい箇所とされる。
6月6日、景公に仕える宦官は昨晩、景公を背負って天に登る夢を見たという。
この日の朝、景公は新麦が食べたいと言い
甸人(穀物を管理する者)が新麦を献上して、饋人(料理人)が新麦を調理した。
景公は桑田の巫を招き、調理された新麦を見せて
「汝の予言は外れた」と謗り、巫を処刑した。
景公が新麦を食べようとすると、猛烈な腹痛に襲われ、慌てて厠に向かい
厠で足を踏み外し、後架に落ちて、景公は死んだ。新麦は食べていない。
この日の正午、前述の宦官が景公の遺体を背負って厠から出てきたため
宦官は殺され、景公と殉葬された。
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晋は魯が楚と通じていると疑っているため
魯はこの疑いを晴らすべく、魯成公が晋を訪問した。
晋が糴茷を楚に派遣してすでに6ヶ月が経つが
糴茷はまだ帰国しておらず、晋は楚の状況が把握できていないため
晋は魯成公の帰国を許可せず、景公の葬儀に参加させた。
諸侯で葬儀に参加したのは魯成公のみであったため、魯ではこれを恥辱としたらしく
魯国の歴史書「春秋」には魯成公が晋景公を葬送したという記録が書かれていない。
年が明けて、周の簡王6年(紀元前580年)の3月
魯成公が晋と盟約を結ぶ事が正式に決められた。
晋厲公は郤犨と共に魯成公を帰国させ、魯成公と郤犨が盟約を結んだ。
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さて、魯の大夫に、公孫嬰斉という者がいる。
彼の父は魯成公の叔父・叔肸である。
叔肸は妻と正式な婚礼を行わずに夫婦になったので
魯成公の母・穆姜は叔肸の妻を正式に認めなかった。
婚礼を行わなかった理由は貧窮であったせいかもしれない。
そのために、叔肸の妻は公孫嬰斉を産むと、離縁して斉に入り
斉の大夫・管于奚と再婚し、一男一女を産んだ。
管于奚は早世して彼女は寡婦となり、生活に困窮して、二子を公孫嬰斉に預けた。
この二人が成長すると、公孫嬰斉は弟を魯の大夫にして
妹を魯の公族大夫・施孝叔に嫁がせた。
さて、魯に入った晋の郤犨であるが、公孫嬰斉に妻を求めた。
公孫嬰斉は施孝叔に嫁いだ妹を呼び戻し、郤犨に嫁がせることにした。
それを知った妹が施孝叔に言った。
「鳥獣でも妻を守るといいます。あなたはどうなされますか」
施孝叔はこう答えたと言う。
「わしは死ぬ事は出来ない。かと言って、命に逆らって妻を守る事も出来ない」
妹は施孝叔の家を出て郤犨に嫁いだ。
これより数年後、郤氏は滅ぼされ、晋は郤犨の夫人を施孝叔に還した。
施孝叔は黄河まで妻を迎えに行き、郤氏との間に産まれた二子を黄河に沈めて殺した。
夫人が怒って施孝叔に言った。「妾はあなたのせいで操を失い
今また、人の孤児を愛せずに殺した。これでどうして終わりを全う出来るでしょう」
夫人は施孝叔の家に帰らず、何処かへと去った。
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夏、魯の季孫行父が晋に入り
郤犨の魯国聘問に謝して盟約を結んだ。
この頃、周の朝廷にあって、周公・楚は伯輿との政争に敗れ
周を出奔して、晋へと向かった。
周公・楚は晋地の陽樊に至ったところで
周簡王が劉公を派遣して周公・楚を呼び戻した。
しかし、三日後には再び周を出て晋に奔った。
秋、魯の叔孫僑如が斉に入り
鞍の戦い以前の友好関係を回復させた。
晋の卿・郤至が周王室と鄇(温邑の一部)の領有権で争った。
周簡王は劉公と単公を晋に送って郤至の不当を訴えた。
郤至は「温は郤氏の邑です。ですから鄇を失うわけにはいきません」
劉公と単公は晋厲公と郤至に対し
「昔、周武王が殷紂王を牧野にて破り、蘇忿生に温の地を与えた。
後に蘇氏は狄に出奔して、周襄王は晋文公に温を下賜し
晋の狐湊と陽処父が温を治めた。
その更に後になって郤氏が温に入ったのである。
つまり元を辿れば、温は周王に属する邑であった。郤氏のみの所有ではない」と語った。
晋厲公は郤至に争いを止めるよう命じた。
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晋厲公は諸侯と積極的に友好を結ぶ方針を示し
西方の大国・秦に使者を送り、令狐の地で会見する事が決まった。
晋厲公が先に令狐へ到着したが
秦桓公は晋を疑っていたので、黄河を渡らず王城に駐留したまま
大夫・史顆を黄河東岸の令狐に送り、晋厲公と盟約を結んだ。
一方の晋も、郤犨が黄河を渡って河西の王城で秦桓公と盟約を結んだ。
晋の士燮は、この盟約を酷評した。
「このような盟約にどんな益があると言うのか。
盟とは信にかかっている。会盟の場所が信の基である。
始めが正しくないのに、信が成り立つはずがあるまい」
秦桓公は帰国後、晋との講和を破棄し、狄族の翟と共に晋を攻撃した。
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宋の大夫・華元は楚の令尹・子重と、晋の正卿・欒書の双方と昵懇である。
楚は晋が派遣した糴茷による講和の申し出に同意し、糴茷を帰国させた。
冬、楚と晋の講和の動きを知った華元は、まず楚を訪れて子重に会い
その後に晋に入って欒書と対話を行い、楚と晋の仲介役を買って出た。
そして、周の簡王7年(紀元前579年)5月
晋の士燮が楚の公子・罷、大夫・許偃と会見した。
5月4日、晋・楚両国が宋の西門の外で盟約を結び、宣言した。
「晋・楚共に兵を加えず、好悪を共にし、協力して災危に臨み、凶患を救済する。
楚を害す者は晋が討伐し、晋に敵する者は楚の敵でもある。
両国の使者が往来し、道路を塞がず、協力せぬ者を謀り、背く者は討伐する。
この盟に逆らう者は、天に誅され、その師を失い、国を治める事能わず」
これを歴史上『第一次弭兵の会』と言う。
「弭」は「停止」を意味し、弭兵とは戦いを止める事を指す。
晋・楚の和約成立により、両国の間に位置する鄭成公も晋に赴いて盟に参加した。
続いて魯成公、衛定公も晋に行き、諸侯は晋地の沙沢で会盟を行った。
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宋の主催による第一次弭兵の会が行われている間に
晋の北方から白狄が晋に侵攻したが、晋は交剛で狄を破った。
この頃すでに狄は弱体化していたらしく
諸侯や白狄と反目を続けていた赤狄は滅んでいた。
晋の郤至が楚を聘問し、盟約を結んだ。
楚共王は宴を開き、子反が宴の補佐役となり、堂の地下に鐘鼓を準備した。
郤至が宴に参加するため堂に登ろうとした時、突然、地下で楽器が鳴った。
驚いた郤至は退出しようとしたが、子反が言う。
「楚君がお待ちです。お入りください」
郤至が返す。
「楚君は先君との誼を忘れず、恩恵を臣に施し、宴席に楽まで添えてお加え頂きました。
将来、晋楚の両君が会した時、如何様な礼を以て遇すればよいのか。
このような厚遇を臣が応じる訳には参りません」
子反が語る。
「将来、両君が会見する時が至れば、互いに一矢を贈り合うだけです。
楽など必要ありません。楚君がお待ちです。どうぞお入りください」
郤至が更に言う。
「晋楚が一矢を以て款待すれば、それは禍となるでしょう。
世が平穏なれば、諸侯は天子に仕え、合間に互いに朝して享宴の礼を行う。
享は恭敬と倹約を教え、宴は慈恵を示し、礼が行われ、政が敷かれるのです。
政が乱れれば諸侯は貪婪になり、些少な地を巡って民を戮す事になります。
今語った言は法に基づかなない乱の道ですが、臣が従わぬ訳にも参りません」
郤至は宴に参加し、晋に帰国してから士燮に話した。
「楚は無礼である。盟約を守らないだろう。晋と楚の戦いは近い」
12月、楚の公子・罷が晋を聘問して晋厲公と赤棘で盟を結んだ。
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周の簡王8年(紀元前578年)春
晋厲公は秦が狄と連合して晋を攻めた事に対し、報復の出師を決めた。
晋厲公は郤錡を魯に派遣し、出兵を求めたが
この時、郤錡の魯に対する態度は不敬であったとされる。
魯の仲孫蔑曰く
「郤氏は亡ぶだろう。礼は人の根幹であり、敬は基である。
郤錡には基がない。君命に従って師(軍)を求めるのは、社稷を守るためである。
それに怠惰であるのは、君命を棄てるに等しい。亡ばないはずがない」
3月、魯成公が晋のために兵を出し、途中で周王のおわす洛邑に入った。
この時、魯の叔孫僑如は周王の賞賜を欲して
王の先使(先行する使者)を買って出たが
周簡王は行人(外交官)の礼で遇し、叔孫僑如に賞賜を与えなかった。
一方、仲孫蔑は介(主と客の間で言葉を伝える役)として
魯成公に従って入京し、周簡王は仲孫蔑に厚い賞賜を与えた。
魯成公は諸侯と共に周簡王を朝見し、卿士の劉公、成公に従って晋厲公と合流し
晋と諸侯の連合軍は秦へ兵を進めた。
出征前の祭祀が行われ、成公が社で祭肉を受け取った。
この時の態度が不敬であったので、劉公が言った。
「生命は天地の気によって生まれ、動、礼、義、威によって安定する。
賢者はこれらを守って福を得るが、愚者はこれらに背いて禍を得る。
君子は礼に勤め、恭敬に至り、天を奉じ、篤く業を守る。
今、成公が怠惰であったのは、命を棄てたに等しい。生きて還ることはあるまい」




