第六十七話 趙氏の復興
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周の簡王3年(紀元前583年)春、晋景公は韓穿を魯に派遣して
汶陽(現在の山東省寧陽)の地を斉に返還するように要求した。
魯の季孫行父が韓穿に語る。
「晋が諸侯の盟主たりうるのは礼と義があるからです。
晋候の徳を慕い、かつ討伐を恐れてこそ諸侯は二心を抱かないでしょう。
汶陽は元より魯の地。晋は斉に対し師を用いて魯に返還させました。
なぜ今になって斉に返還せよと申されるのか。
晋が遠謀なく、行動が一致せずんば、諸侯を失うでしょう」
しかし、汶陽は魯から斉に譲られた。
魯が2年前に鄟国を滅ぼした事に関係しているかもしれない。
楚は覇者・荘王から幼君・共王に代わり、晋の後塵を拝する事が増えた。
殊に、楚にとっての脅威は長江下流域にある呉国の急激な伸張である。
楚も以前より西方の秦と長年の友好を維持しているが
晋に抗するほどの力はなく、西戎との諍いも絶えず、黄河以西を維持するに留まっている。
一方で北の晋と東の呉は連携して積極的に楚を侵し続けている。
2年前、鄭を攻めた楚軍は、晋の反攻を畏れて繞角(蔡地)より退いた後
晋は楚の属国・沈を攻撃して沈君・揖初を捕えた。
この年には晋の欒書が蔡国を攻め、蔡の救援に来た楚を攻撃して
楚の大夫・申驪を捕えた。
鄭成公は蔡を攻める晋軍に合流すべく許国を通過した時
許に戦の備えがなかったため、東門を攻めて多くの捕虜を得た。
この時、許は楚に従属していた。
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周の法では、諸侯同士で婚姻を結ぶ場合、周王に報告して、その許可を得る必要がある。
しかし、周王の権威は凋落しきっており、これを遵守する諸侯は皆無といっていい。
権威を保証するものは力であり、それを有しているのは周王ではなく晋候である。
魯の公孫嬰斉が莒国に行き、妻を迎え入れた。
宋共公が魯成公の妹・伯姫を婦に迎えるため、華元が魯を聘問した。
婚姻が成立した後、宋共公は公孫寿を魯に送って幣物を納めた。
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3年前、晋の趙嬰斉が寡婦となった趙荘姫を姦通した咎により
斉に出奔させられた事件があった。
趙嬰斉を斉に逐ったのは趙同と趙括で、趙荘姫はこの2人を憎んでいる。
趙荘姫はこの2人を晋景公に讒言した。
「原(趙同)と屏(趙括)が乱を企図しています。詳細は欒氏と郤氏にお尋ねください」
6月、晋景公は趙同と趙括を討滅した。
趙括は趙氏一族の宗主であったため、晋の名族・趙氏は滅んだ。
趙氏が有していた地は大夫・祁奚に与えられた。
趙氏の一族を討滅した直後、晋景公は原因不明の病に斃れた。
医師がいくら診ても病の原因は掴めなかったので
太史に占わせたところ「これは三趙(趙衰、趙盾、趙朔)の呪でございます」と告げた。
「先君の功臣が、趙氏を滅ぼしたわしを恨んでおるのか」
韓厥は病床の景公に謁見して語った。
「かつて司寇・屠岸賈は趙朔を誅殺しました。(下宮の難)
その折に、趙朔の友・程嬰と公孫杵臼が機転を利かせ
趙朔の遺児・趙武を山中に逃がし、今は市井に隠れ住んでおります。
趙武を宮中に招き、趙氏を継がせれば、我が君の病は癒えましょう」
韓厥と程嬰は趙武を招聘して景公に謁見した。この時、趙武は15歳である。
公孫杵臼は趙武を匿った時に屠岸賈に殺されていた。
ほどなく景公の病は癒えた。
快癒した景公は晋の群臣を招集し、趙武に会わせて趙氏の再興を宣言した。
群臣らが晋景公に告げた。
「下宮の難は、屠岸賈が策動し、君命を偽って命じたのです」
晋景公は韓厥、程嬰、趙武に命じて屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼした。
屠岸賈を誅殺した後、程嬰は「趙武は無事に趙氏を継ぎ、仇の屠岸賈は討った。
わしの最後の役目は、趙朔と公孫杵臼に報告する事である」と呟き、自害して果てた。
趙武は恩人の死に号泣し、趙家の廟に程嬰を祀った。
趙武は加冠の儀を終え、正式に趙氏の当主になり
趙氏の田地や家財は趙武の元に返還された。
欒書は趙武を見て「立派である。わしは汝の父に仕えていた。
父に負けず、努力するがよい」と語った。
荀庚は「わしは既に老いた。
汝が功を立てるのを見られないのは残念である」と言った。
士燮に会うと「よく自分を戒めよ。
賢者は君の寵を受けるほど自らを戒めるものだ」と諭した。
次に郤錡は「若者は老者に及ばぬ事が多い。
年長者によく従い、よく学ぶべきである」と伝えた。
韓厥に挨拶に行くと「良く善人と交われ。善人は善人を薦める。
さすれば不善の者は近付かぬ。人は同類の者が集まるのだ」と教えた。
荀罃と対面した時「努力せよ。父祖の徳と忠を忘れてはならぬ。
さすれば、君に仕えて功を残すことが出来よう」と励した。
郤犨は趙武にこう言った。
「年若くして官に就く者が多い。汝をどうすべきか」
郤至は「自分が誰かに劣ると思えば下を望めばよい」と語った。
最後に趙武は張孟に会って各卿大夫の言葉を伝えた。
「欒書に従えば進歩する。士燮に従えば大きくなる。韓厥に従えば事を成就出来る。
二荀に従えば成長する。しかし三郤は亡人の内容で評するに値しない」
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晋景公は申公・巫臣を呉に派遣し、途次、莒国に道を借りた。
巫臣は莒君に面会し、濠に立って語った。
「城が破損しています。早く修復するべきです」
「莒は小国。しかも東夷の辺境にある。誰もこの地を望まない」
「狡猾で貪欲な者は常に地を求め、利を殖やす事を考えています。
そういう者はどこにでもいます。だから大国は成長するのです。
小国はそれを考えて備えをしなければいけません。
いかな豪傑でも夜は門を閉じて家を守るのです。国なら尚更でしょう」
莒は翌年、楚から攻められた。
10月23日、杞国から魯国に帰された叔姫が亡くなった。
杞桓公が叔姫を離縁した理由は病弱であったせいかもしれない。
晋の士燮が魯を聘問した。
前年、呉に帰順した郯国を討つ協力を求めるためである。
魯成公は士燮に賄賂を贈って出兵を遅らせるように請うたが、士燮は断った。
「我が君は臣に、魯は出兵するか否か、聞いて参れと命じた。
財貨を用いても君命は変わらない。魯君が出兵を渋ると申されるなら
臣は君に報告するだけである」
季孫行父は恐れて、叔孫僑如を派遣した。
叔孫僑如は魯軍を率いて晋、斉、邾と合流し、郯を攻撃した。
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周の簡王4年(紀元前582年)春正月
杞桓公が魯に入朝し、昨年亡くなった叔姫の亡骸を受け取って帰国した。
魯が杞桓公に遺体の引き取りを要求したのであろう。
昨年、晋は魯に汶陽の地を斉に引き渡すように要求した事に対して
諸侯は晋に不信感を抱いたため、晋は諸侯の離反を恐れて会盟を開いた。
晋景公、魯成公、斉頃公、宋共公、衛定公、鄭成公、曹宣公、杞桓公、莒君が
衛国の邑・蒲で盟約を結び、2年前に締結した馬陵の盟を確認した。
この会盟で晋は初めて呉を招いたが、呉王は出席しなかった。
魯の季孫行父が晋の士燮に聞いた。
「晋の徳は衰えた。諸侯と盟を結んでも意味がない」
士燮がこれに答える。
「徳を損なったからこそ盟約を結ぶのである。
勤勉、寬厚、堅強、明神によって諸侯と和し、服する者を懐柔し
二心を抱く者を討つ。これが次善の徳である」
7月、斉頃公が崩御して、子の環が即位した。斉霊公である。
頃公は晋に敗れた後、徳を積んで斉を安寧に導いたが
後を継いだ霊公は、覇者・斉桓公の往時を現出すべく
積極的に外征を行う方針を打ち出した。
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楚の共王は鄭と盟を結ぶため、賄賂を贈った。
鄭成公は内密に楚の公子・成と楚の鄧で会見した。
しかし、鄭成公の背信は晋景公の知る所となり
鄭成公が晋に朝見した時、これを捕え「鄭は二心を抱き、密かに楚と和した」と宣言した。
晋景公は欒書に命じて鄭を攻めた。
鄭は晋に謝罪し、講和を求めて伯蠲を晋軍に遣わしたが、欒書は伯蠲を殺した。
楚の子重が鄭を救うため、陳を攻めた。
陳は楚に服していたはずなので、楚軍の動きは謎である。
あるいは、鄭が密かに楚と和したと同様、陳も晋と盟を結んでいたのかもしれない。
この隙に、秦と白狄が連合して、晋に侵攻した。
秦候は、諸侯が晋から離反していると判断したのである。
晋はこれに応じるため、欒書の率いる晋軍は鄭から退いた。
一方、楚の子重は陳から北上して莒に侵攻し、渠丘を包囲した。
渠丘は城が破損しており、籠城が出来ないと知った民衆は莒城に奔った。
楚軍は戦わずして渠丘に入ったが、逃げ遅れた莒人がいて
彼は楚軍の公子・平を捕え、莒城まで連行した。
楚軍の子重は「我らが奪った莒の捕虜と公子・平を交換してくれれば兵を退く」と伝えたが
莒人は子重の要求を拒否して公子・平を殺した。
子重は怒り、莒城を包囲した。
莒城も破損しており、城壁の崩れた箇所から楚軍に侵攻され
ほどなく莒城は陥落した。莒君は鄆城へ逃げた。
楚軍は莒城に続き、鄆城も陥とした。
莒君は楚に降伏し、楚の冷尹・子重と盟約を結んだ後、楚軍は還った。
昨年、晋の巫臣が忠告した通り、莒が備えを怠ったために招いた敗北であった。
晋都に囚われている鄭成公を取り戻すため、鄭の公孫申が提言した。
「仮の国君を立て、許を包囲し、晋に使者を送らないようにすれば
我が君を帰国させてくれるかもしれぬ」
鄭は兵を出して許を包囲した。
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晋、楚共に連年の出兵により、全ての諸侯国に疲弊が蓄積しており
この頃から、中原に晋楚の和平を求める機運が徐々に高まって来た。
ある日、晋景公が武器庫を視察した時に、楚の捕虜・鍾儀を見つけた。
景公が「倉庫に南冠(楚の冠)を被った者がいた。あれは誰であるか」と尋ねると
役人は「2年前、馬陵の盟で鄭より献上された楚の虜囚です」と答えた。
景公は鍾儀に興味を持ち、釈放した。鍾儀は景公に再拝稽首した。
景公が鍾儀の楚での地位について尋ねた。
「先人(父)は楽官でした」
「汝も楽器の演奏ができるか」
「できます」
景公は鍾儀に琴を与えると、鍾儀は南音(楚の音楽)を奏でた。
景公は「楚王についてどう思う」と尋ねた。
「臣が知る事ではありません」
「汝が見た事でよい。述べよ」
「楚君がまだ太子だった頃、師傅が太子を奉じました。
太子は、朝は令尹から政事について、、夕は司馬から兵事について教えを請いました」
景公は士燮を呼び、この事を話すと、士燮は語った。
「楚囚は君子です。先に先人の職を語ったのは、祖先を敬う証です。
楚の楽を奏でたのは、郷を忘れないからです。
楚君が太子だった頃を称賛したのは、私心がないからです。
二卿を述べたのは、君を尊んだからです。
その者を楚に帰らせれば、晋楚の和平が実現するでしょう」
景公はこれに従い、鍾儀に多くの贈物を与え、和平のために楚へ帰国させた。
12月、楚共王は鍾儀の返還に対する返礼として公子・辰(子商)を晋に派遣した。
楚は晋との関係を修復し、和を結ぶことを求めた。