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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第六十六話 呉国の抬頭




            *    *    *




 周の定王20年(紀元前587年)春


前年の冬に晋に入朝した斉頃公を、晋の正卿・郤克げきこくは辱めた。

苗賁皇びょうふんこうはこれを非難し、郤氏の滅亡を予言した直後、郤克は死んだ。


後任の正卿には欒書らんしょが就任して中軍の将となり

荀首じゅんしゅが中軍の佐、即ち次卿となる。



 2月、鄭の襄公が崩御し、子のふつが即位した。鄭悼公である。


 

 夏、魯の国政を長年担ってきた臧孫許ぞうそんきょが亡くなった。


魯成公が季孫行父きそんこうほと共に晋に入り、晋景公に朝見する。

この時、晋景公は魯成公への態度が不敬で、季孫行父は晋君を非難した。

「晋侯は禍から逃れることが出来ないであろう。

晋が諸侯の覇者たりうるのは諸侯との盟約に拠る。国君が不敬であってはいけない」


魯成公は帰国し、晋から離反して、楚に従うべきではないかと諮った。

しかし季孫行父は反対した。

「晋は無道ですが、楚に属くべきではありません。晋は大国で、賢臣が多く

魯に近く、諸侯の多くを従えているので、二心を抱くべきではありません。

何より、晋は魯と同じ姫姓の諸侯、楚は異姓です。いずれが魯を尊重するでしょう」


成公は季孫行父に同意したが、後事に備えて晋に近い魯の西方・うんに城を築いた。



この頃、杞桓公が魯に入り、桓公の婦人・叔姫しゅくき(魯成公の娘)を魯に帰国させた。




             *       *       *




 11月、鄭の公孫申こうそんしんが鄭軍を率いて許国を攻撃、奪った地に国境を定めた。

許霊公はこれに反撃して鄭を攻め、展陂てんひで鄭軍を破った。

鄭悼公が怒って許国を攻め、鉏任さいにん泠敦れいとんの地を奪った。


許霊公は晋に鄭の横暴を訴えて援けを求め

一方で鄭は楚に援助を求めた。


晋景公は許君の求めに応じて

中軍の将・欒書、中軍の佐・荀首、上軍の佐・士燮ししょうが鄭を攻め

晋軍はさいの地を鄭より奪った。



楚の公子側(子反)が鄭を援け、鄭悼公と許霊公は子反に訴えた。

鄭の皇戌こうじゅつが鄭悼公に代わって証言した。


子反は「わしには両国の正否について、判断がつかぬ。

鄭・許両君が楚君を尋ねて頂きたい。

楚君と臣下らが両君の訴えを聞いて正否を判断するだろう」と語った。


鄭と許の訴えは翌年に持ち越され、両君は帰国した。




   *       *       *




 周の定王21年(紀元前586年)春正月

杞桓公の婦人・叔姫は正式に魯に帰った。

杞君が魯の公女を離縁した理由は不明である。



 この頃、晋の大夫・趙嬰斉ちょうえいせい趙荘姫ちょうそうきと姦通した。

趙荘姫は司寇(司法長官)・屠岸賈とがんかに殺された趙朔ちょうさくの妻であった。


趙嬰斉の兄である趙同(原同)と趙括(屏括びょうかつ)は趙嬰斉を斉に放逐した。


趙嬰斉はこの仕打ちに怒り

「欒氏が乱を起こさないのは、わしがいるからである。

わしが晋からいなくなれば兄たちに憂いが生まれるであろう。

なるほど、わしは男女の礼を守れなかった、だが趙氏を守る事は出来る」と言ったが

趙同も趙括も、弟を赦さなかった。


この少し前に、趙嬰斉は夢を見た。

天の使いに「私を祀れば、汝に幸いが訪れるであろう」と言われた夢である。


趙嬰斉は士渥濁しあくだくに、この夢について尋ねた。

士渥濁は「分かりません」と答えた。


後に士渥濁は知人にこう言ったという。

「天は仁人に福を与え、姦淫の人に禍を与える。

淫でありながら罰が下らないのは、すでに幸いである。

天の使いを祀ったところで、それ以上の福を得ることはない」


趙嬰斉は天使を祀り、その翌日に斉へと亡命した。




   *       *       *




 魯の仲孫蔑ちゅうそんべつ(孟孫氏)が宋を訪問した。

前年に宋の華元かげんが魯に朝見した答礼である。


 夏、晋の次卿・荀首が斉に行き、斉の公女を妻に迎えた。

荀首は帰途、魯の叔孫僑如しゅくそんきょうじょと穀(斉地)で会見した。



 この頃、晋都・こうの附近にある梁山りょうざんが崩れたので

晋景公が理由を尋ねるため、大夫の伯宗を招聘するように命じた。


伯宗は伝車に乗り、景公に謁見するため、急いで宮城に向かうが

途中で多くの貨物を運ぶ者(重人)に遭遇し、道を塞がれて通れない。

伯宗は「伝車が通る。道を開けよ」と命じた。


重人は「伝車は何よりも速く行かねばなりません。

私が道を開くのを待っていたら遅くなります。小道を通った方が速いでしょう」と語った。


伯宗は「汝は賢人である。どこに住む者か」と尋ねた。

重人は「晋都の絳に住む者です」と答えた。

伯宗は重人から絳の状況を聞いた。


重人は「梁山が崩れたので、晋君は伯宗を召して相談するそうです」と返す。


伯宗が問う。

「梁山が崩れたとなれば、どうするべきであろうか」


これに重人が答える。

「山の土壌が朽ちて崩れたのです。どうする事も出来ません。

国は山川を主とします。山が崩れ川が涸れたら、国君は慎むべきです。

粗衣を着て粗食を食べ、装飾を避け、音楽を中止し、宮殿から離れて暮らし

天に礼物を捧げ、山川の祈祷を行うのみでしょう」


伯宗は重人に名を聞いたが、重人は答えなかった。

重人を連れて景公に会おうとしたが、重人は拒否し、そのまま去った。


伯宗は景公に謁見すると、重人の言葉をそのまま伝え

景公は重人の言葉に従ったという。




       *      *      *




 6月、前年に続き、許霊公が鄭を訴えるため楚に赴いた。

鄭悼公も楚に入り、許を訴えたが、この訴訟は鄭が敗れて

鄭の皇戌と公子・発(子国)が楚に捕えられた。


鄭悼公は帰国した後、公子・えんを晋に送って講和を請うた。


8月、鄭悼公と晋の趙同が垂棘すいきょく(晋地)で盟約を結んだ。



 8年前、楚の荘王が9ヶ月に渡って宋都を包囲し、宋が降伏した時に

宋の華元は人質として楚に入ったが、ほどなく帰国した。


華元の代わりに人質として楚に入ったのは公子・囲亀いき(子霊)である。

この頃、ようやく囲亀が楚から帰国して、華元は囲亀を慰労した。


しかし囲亀は華元を怨んでいたので、華元の屋敷の門を出入りする時に

太鼓を叩き、喚声を上げて「華元を攻める練習をしている」と叫んだ。

宋共公は国を乱す者であるとして、囲亀を処刑した。これを「子霊の難」と呼ぶ。



 11月12日、周の定王が崩御し、子のが周王に即位した。周簡王である。



 12月23日、晋景公、魯成公、斉頃公、宋共公、衛定公、鄭悼公、曹宣公

邾君、杞桓公が蟲牢ちゅうろう(鄭地)で盟約を結んだ。


諸侯が次の会盟について相談したが、宋共公は向為人こういじんを派遣して

「子霊の難」を理由に、次の会盟参加を辞退した。




        *       *       *




 ここで、楚国の東部、長江下流域の国・呉の歴史について書く。


 まず、周王朝を建てた周武王の曾祖父を、古公亶父ここうたんぽと言う。

亶父に太伯たいはく仲雍ちゅうよう季歴きれきという三人の子が生まれた。

この三人で一番の賢人が末子の季歴で、その嫡子・昌もまた優秀であったため

亶父は季歴を後嗣にしようと考えた。


父の意向を知った太伯と仲雍は周を去って

中原の遥か東南、荊蛮の地に移住し、弟の季歴に位を譲った。

亶父を継いで周の主となった季歴は後に王季おうきと呼ばれ

王季を継いだ昌は周文王となり、文王から周武王が生まれる。



 太伯は荊蛮の地で「句呉こうご」と称し、荊蛮の民は太伯に帰順した。

太伯には子が産まれず、弟の仲雍が後を継いだ。呉仲雍と呼ばれる。


仲雍を季簡きかんが継ぎ、続いて叔達しゅくたつが位し、次に周章が立った。

周章の時代に周武王が牧野の役で殷の紂王を滅ぼし、周王朝が建国された。


周武王は荊蛮の地に入って太伯と仲雍の子孫を探し、周章を見つけた。

周章は既に呉を治めていたため、武王は周章を呉に封じた。

さらに周章の弟・虞仲ぐちゅうを周北の夏墟かきょに封じた。これが虞国である。


こうして太伯と仲雍の子孫は、中原の虞と荊蛮の呉の二国に封じられた。



 周章の死後は熊遂ゆうすい柯相かしょう彊鳩夷きょうきゅうい余橋疑吾よきょうぎご柯盧かろ周繇しゅうよう

屈羽くつう夷吾いご禽処きんしょ、転、頗高はこう句卑こうひが立ち、呉国を治めた。


句卑の時代に晋献公が虞国を滅ぼした。


句卑の後は去斉きょせいが立ち、去斉の没後、後を継いだのが寿夢じゅぼうである。


寿夢の即位は周の定王21年(紀元前586年)で

この頃から呉は大きく伸張し、王を称するようになった。




   *       *       *




 周の簡王元年(紀元前585年)春正月

魯の成公が蟲牢の会から帰国した。



 鄭悼公が晋に行き、晋景公に講和の成立を謝した。


この時、鄭の公子・偃が鄭伯の儀礼を補佐し、東楹とうえいの東で晋景公に玉を渡した。

(この時代、堂の東西に大柱があり、東楹とは東の大柱を指す。大柱の間を中堂と言う)


通常、主と客の地位が対等であれば、共に両楹の間に立つ。

主の地位が客よりも上の場合、客は東楹の東に立ち、主は西に立つ決まりである。


晋頃公と鄭悼公は共に国君で、本来は対等の立場だが

この時、鄭悼公は敢えて晋にへりくだり、東楹の東に立った。


これを見た士渥濁が呟いた。

「鄭伯は自らを捨てた。長くはないであろう」


半年後、鄭悼公は在位から僅か2年で没する。




     *       *       *




 魯がせんを攻撃して、これを占領した。

以後、鄟国は魯の属国となる。



 呉王寿夢はこの年、周王室に朝見した。


周からの帰途、鐘離しょうり(現在の安徽省滁州市鳳陽県)で寿夢は魯成公と会見し

周公の礼楽に関して学んだ。

魯成公は周の礼楽を語り、楽師に三代(夏・商・西周)の風詩を詠わせた。


寿夢は「呉は刑蛮の地であり、わしは蛮夷の俗しか知らなかった。

今、初めて礼を知った」と嘆息した。



 3月、晋の伯宗と夏陽説かようせつ、衛の孫良夫そんりょうふ甯相ねいしょう

鄭の大夫(名は不明)、伊雒いらくの戎、陸渾りくこんの戎、蛮氏が宋を攻めた。

前年、諸侯の会盟を相談した時、宋が参加を拒否した事に対する報復である。


諸侯と戎蛮の連合軍はしん(衛都・帝丘に近い衛邑)に駐軍した。


衛の孫良夫と甯相は衛の全軍を率いていたため、衛都・帝丘は空に近い。

これを見た夏陽説は衛都を襲撃しようと考えた。

「宋への侵攻が失敗しても、多くの捕虜を捕えて還る事が出来る。

我が君に失敗の罪を問われても、処刑されることはない」


しかし伯宗が反対した。

「衛は晋を信用しているから全軍を率いてきたのである。

これを襲えば信を棄てた事になる。例え多くの捕虜を得ても

晋は諸侯の支持を失うであろう」


連合軍は宋を侵した後、兵を還した。


晋が衛を通って帰還する時、衛は城壁に兵を登らせて警戒した。




         *       *       *




 魯の公孫嬰斉こうそんえいせいが晋に入り、晋は魯に宋を攻めよと命じた。

魯の仲孫蔑ちゅうそんべつ叔孫僑如しゅくそんきょうじょが晋の命に従って宋を攻撃した。



 梁山が崩れて以来、晋景公は晋都・絳からの遷都を考え

新たな都を何処に定めるべきかを臣下と協議した。


しゅん解池かいちの西北)か瑕氏かし(解池の南)が宜しいでしょう。

共に肥沃な地で塩湖(解池)に近く、大いに晋を利すると思われます」

(解池は現在の山西省運城市塩湖区にあり、人が浮くほど塩分が濃く「中国の死海」と呼ばれる)


晋景公は韓厥かんけつに尋ねた。

「新たな都は郇と瑕氏のどちらが良いと思うか」


「郇と瑕氏は土が薄く、水が浅いので、汚物が溜まりやすい地ですので

民は愁(憂鬱)になり、民が愁になれば病弱になり、病が蔓延するでしょう。

新都には新田を選ぶべきです。新田は土が厚く水が深いので、疾病が流行りにくく

汾水ふんすい澮水かいすいが汚物を流してくれます」


景公は新田への遷都を決めた。



 4月13日、晋都は新田に遷った。新田は絳に改名され、旧都の絳は故絳と改称された。

(新田は現在の山西省侯馬市、故絳は山西省翼城県になる)



 この年の冬、魯の季孫行父が晋に行き

宋を攻めた事の報告と、晋の遷都を祝賀した。




          *       *       *




 6月9日、鄭悼公が没し、弟のこんが後を継いだ。鄭成公である。



 鄭伯が崩御したと聞いた楚の冷尹れいいん子重しちょう(公子・嬰斉えいせい)は

楚帥を率いて鄭に侵攻した。鄭が晋に服した事への報復である。



この時の晋は六軍あり

中軍の将・欒書、中軍の佐・荀首

上軍の将・荀庚じゅんこう、上軍の佐・士燮

下軍の将・郤錡げきき(郤克の子)、下軍の佐・趙同

新中軍の将・韓厥、新中軍の佐・趙括

新上軍の将・鞏朔きょうさく、新上軍の佐・韓穿かんせん

新下軍の将・荀騅じゅんすい、新下軍の佐・趙旃ちょうせんである。


晋景公は以前の倍に拡充した晋軍に自信を持ち

楚と戦うべく、鄭の救援に向かう決断をした。


今回、鄭の救援に向かったのは

中軍の将・欒書、中軍の佐・荀首、上軍の佐・士燮

下軍の佐・趙同、新中軍の将・韓厥、新中軍の佐・趙括である。



 晋軍の接近を知った楚の子重は鄭から退き、蔡国を経由して楚へ帰還するが

欒書は楚軍を追撃し、繞角ぎょうかく(蔡地)で楚軍を視界に捉えた。


晋軍を見た子重は汝水を渡って楚に退却したので

欒書は楚に属する蔡国を攻撃した。


楚の公子・申と公子・成は、申と息の軍を率いて蔡の救援に向かい

桑隧そうすいで晋軍と対陣した。


晋の趙同と趙括は楚との戦いを望み、元帥の欒書に進言した。

「楚帥の兵は寡ない。容易く勝てましょう」


欒書は同意しようとしたが、荀首、士燮、韓厥が反対した。

「我々の目的は鄭を救う事でしたが、楚師が去ったにも関わらず

これを追って、遠く蔡国まで来ました。すでに兵は疲弊しております。

楚の属県(申と息)を相手に勝ったとしても、栄誉とは言えません。

仮に敗れたら晋の恥辱となるでしょう」


欒書は諫言を容れ、晋軍は兵を退いて晋に還った。



 通常、帥を率いる者は誰もが戦いを望む。晋人が欒書に聞いた。

「正卿を補佐する者は11人、うち戦いを欲さなかった者は3人だけでした。

多数の意見に従うべきだったのでは」


「良い意見なら、多数に従う。3人が同じ主張をした。3人いれば多数と言えよう」




          *       *       *




 周の簡王2年(紀元前584年)


春、呉がたん国(現在の山東省郯城県)を攻撃した。郯は周に入朝する巳姓の国である。

郯は呉と講和して、これに服した。



呉が郯を攻めた事に対し、魯の季孫行父が語った。

「蛮夷が中原の諸侯を侵し、威を示せなかった。

これは覇者たる者がいないからである。我々が滅ぶ日は近いであろう」


当時の君子は季孫行父を評し

「恐れを抱いて警戒出来る限り、滅ぶ事はない」と言ったという。



 夏、鄭の執政・子良が鄭成公の補佐役として晋景公に朝見した。

昨年、晋が兵を出して鄭を援けたことへの拝謝である。



 秋、楚の冷尹・子重が鄭を攻撃し、はんに進出したため

鄭成公は晋に使者を急派した。


晋はこれに応じて、晋景公、魯成公、斉頃公、宋共公

衛定公、曹宣公、莒君、邾君、杞桓公が鄭救援のため出兵した。


鄭の共仲きょうちゅう侯羽こううが楚軍と戦い

鄖公いんこう鍾儀しょうぎを捕え、晋に献上した。


戦後、諸侯が馬陵ばりょうで盟約を結び、莒が晋に服した事と、蟲牢の盟約を再確認した。


晋は楚の捕虜・鍾儀を連れて帰還した。




          *       *       *




 これより10年前、楚が宋を包囲して帰服させた戦いの後

凱旋した楚の子重は、荘王に申と呂の邑を恩賞として求めた事があった。


この時、楚荘王は同意しようとしたが、巫臣ふしんが反対した。

「申と呂が王地であるから、北からの攻撃を防げるのです。

この二邑を臣下に与えれば、北の守りがなくなり、晋・鄭は漢水に至るでしょう」


荘王は巫臣の主張に賛成し、子重にニ邑を与えなかった。

これ以来、子重は巫臣を怨むようになった。


 かつて子反が陳から得た美女・夏姫を妻に娶ろうとしたが

巫臣はこれに反対し、後に巫臣が夏姫を娶って楚を出奔したために

子反もまた巫臣を怨んでいた。


 その後、楚荘王が薨去して共王が即位すると

子重と子反は巫臣の一族にあたる子閻しりょ子蕩しとう弗忌ふつきを殺した。

夏姫を娶ってからひつの役で戦死した襄老じょうろうの子・黒要こくようも殺された。


子重は子閻の家財を奪い、沈尹ちんいんと王子・に子蕩の家財を与え

子反は黒要と弗忌の家財を奪った。



 子重と子反の暴虐を聞いた巫臣は、両名に手紙を送った。

「汝等は姦悪と貪婪によって楚君に仕え、多くの冤罪を成した。

臣は誓って汝等を死に至らしめるであろう」


巫臣は晋候の使者として呉に行くことを望み、晋景公は同意した。



 呉王寿夢は巫臣の訪問を歓迎して、晋と呉の国交が開かれた。


巫臣は三十乗の兵車を率いて呉に入り、十五乗を呉に残した。

また、車左、車右、車御を呉に送って兵車による戦い方を呉国に伝え

呉に楚と対抗させる力をつけさせた。


さらに巫臣の子・狐庸こようを呉に残し、行人(外交官)にした。


晋と盟約を結び、中原の戦闘技術を手に入れた呉は楚と対立し

楚に属する巣や徐への侵攻を繰り返し、楚はこの対応に追われる事になった。



 晋と諸侯が馬陵の地で会盟を開いていた頃

呉は楚の属国・州来を攻めた。

鄭を攻撃していた楚の子重は鄭から帰国して、州来の救援に向かった。


巫臣の怨讐を買った子重と子反は、呉軍を防ぐために1年で7回奔走したという。



楚に属す小国群は次々に呉に占領され、呉は強大化していき

中原諸国との往来も頻繁になった。



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