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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第六十五話 晋楚の冷戦




    *     *     *




 周の定王18年(紀元前589年)

8月27日、宋文公が崩御し、子のが位を継いだ。宋の共公である。



 9月5日には衛穆公も薨去した。子のそうが継いで衛の定公となる。

斉に大勝した晋の中軍の将・郤克げきこくは帰国の途上であったが

衛は斉と奮戦したので、衛穆公を弔問する事にした。


欒書らんしょが郤克に語った。

「弔問は君命を受けた官が訪れ、大門より入って、大堂内で哭弔こくきゅうを行うのです。

しかし、我らは君命を受けておりません」


士燮ししょうが提案する。

「では、正式な礼を行わず、大門の外で哭弔すれば良いのでは」


これに同意して、三人は大門の外で哭弔したので

衛の国人は大門の外で三人を饗応した。

また、穆公の婦妾らもこれに倣い、大門の内側で哭礼を行った。

これ以降、他国の官員が弔問する場合、これが正式な礼となった。




           *     *     *




 斉が晋、魯、衛から攻められた時、楚共王は斉を救援するために

巫臣ふしんに斉を聘問せよと命じ、巫臣は全ての家財を持って斉に向かった。


その途上、一行は申叔時しんしゅくじと子の申叔跪しんしゅくきに遭遇した。

申叔跪は斉に向かう巫臣の一行を見て、訝しんだ。

「巫臣は帥(軍)に関わる君命を受けて斉に向かうというのに

あれほどの荷馬車を連れて行くとは、もはや楚には戻らぬつもりでは」



 巫臣は斉に入り、王命を斉に伝える任を終えた後

副使に幣(斉から楚に贈られた贈物)を持たせて楚に帰らせた。

そして自身は鄭に入って夏姫を妻に迎え、再び斉に戻った。


斉が晋に敗れた後、巫臣は「不勝の国に住む気はない」と言って晋に奔った。

郤氏の一族・郤至げきしの尽力で巫臣は晋でけいの地に封じられ、大夫になった。



 楚の子反(荘王の弟・公子側)は、かつて夏姫を妻に迎えようとしたが

「夏姫は近くの者を尽く滅ぼす不祥の者である」と言って諫めたのが巫臣であった。

今になって夏姫を娶った巫臣を、姦淫の心を抱く者として非難し

巨額の賄賂を晋に贈り、巫臣が晋に仕える事を邪魔しようとした。


 しかし、楚共王は反対した。

「巫臣が夏姫を手に入れるために策を弄したのは罪である。

だが、先君・荘王のために策を巡らしたのは忠である。

忠は社稷の基で、罪を覆う事が出来る。

巫臣を用いる事が利となるのなら、賄賂を贈っても晋は用いるだろう。

逆に無益なら、賄賂を贈らなくても晋は巫臣を棄てる」




          *     *     *




 斉帥を破った晋師が晋都・こうに凱旋した。上軍の佐・士燮が最後に入った。

士燮の父、士会が迎えて言った。

「凱旋の軍は元帥(中軍の将)が最後に入るものだ。なぜ汝が最後に入ったのか」


「此度の出師では元帥(郤克)に最大の功がありました。

国人に最も注目され、称賛を受けるのは元帥であるべきです。

しかし、私が先に都へ入ったら、私が注目を集めたでしょう。

これでは私が元帥よりも名誉を受けることになります。だから先に入らなかったのです」


士会は「汝は謙虚である。士氏の家は如何なる禍も避けられるであろう」と言った。



 郤克が景公に謁見し、戦勝の報告をした。

景公は「勝利は卿の功である」と言った。

郤克は「我が君の徳と将士のおかげです。臣の力ではありません」と返した。


士燮が謁見すると、景公は郤克と同じように慰労した。

荀庚じゅんこう荀林父じゅんりんぽの子、上軍の将)の命と

元帥のおかげです。臣の力ではありません」と士燮は答えた。


欒書が謁見した時も、景公は同様に慰労した。

欒書は「士燮の指示に従ったおかげです。臣の力ではありません」と言った。




           *     *     *




 魯国は以前、魯宣公が楚と友好を結ぼうとしたが

楚荘王と魯宣公が相次いで卒したために交渉が途絶えていた。


魯成公が即位すると、魯は楚を離れて晋と盟を結び、晋と共に斉と戦った。


衛もまた楚を聘問せず、晋と盟を結んで斉と戦った。



 楚荘王の没後、後を継いだ共王は、即位時まだ10歳の幼君であった。

中原の諸侯は楚から距離を置くようになり、晋の影響が強くなった。


 折しも、荘王の覇業を支えた名宰相・孫叔敖そんしゅくごうが病に倒れた。

孫叔敖は子の蔿子馮いしふうを枕頭に呼び、遺命を伝えた。

「わしの死後、王は多くの領地を汝に与えるであろう。

しかし、受領するのは寝丘しんきゅう(楚で最も痩せた土地)のみにせよ」


ほどなく孫叔敖は卒去した。楚の冷尹れいいんには子重しちょう(公子・嬰斉えいせい)が就任した。


楚共王は生前の孫叔敖の功に報いるべく、蔿子馮に多くの恩賞を授けたが

蔿子馮は父の遺言を守り、寝丘のみ受け取った。



 新たな令尹となった子重が楚共王に進言した。

「我が君はまだ幼少、我ら群臣の才も先代に劣ります。

周の文王が多くの士によって治めたように、我々も兵を多く持つべきです。

先君・荘王は『徳が遠方に及んでなければ民を憐れみ

恩恵を与え、民を良く用いよ』と申されました」


 子重の進言に従い、楚は戸籍を調査し、納税の遅れは免除し

独居老人を援け、貧者を救済し、罪人を釈免した。

そして楚の全土から士卒を徴発し、中原へと出征を開始した。


共王の兵車は彭名ほうめいが御者、蔡景公が車左、許霊公が車右となる。

蔡と許の君主は共に若年だったが、車左と車右を務める者は

元服後の成人が勤める決まりであるため、両君は年齢を繰り上げて元服の儀式を行った。




           *     *     *




 冬、楚の大軍は衛を攻撃し、魯に侵攻して蜀(魯地)に駐軍した。


魯成公は臧孫許ぞうそんきょを楚陣に送って楚と講和しようとしたが

臧孫許は拒否した。

「楚の師は本国を遠く離れて久しく、今は野営に厳しい季節。

こちらから講和せずとも、いずれ退却するでしょう」


 しかし、臧孫許の思惑は外れた。

楚軍は陽橋(魯地)まで進出してきたので、仲孫蔑ちゅうそんべつが楚陣を訪問して

執斲しつたく(木工)・執鍼しつしん(縫女工)・織紝しょくじん(織布工)各百人を楚に贈り

公子・公衡こうしょうを人質にして盟約を請い、楚は講和に応じた。


11月12日、楚の冷尹・子重、魯成公、蔡景公、許昭公

秦の右大夫・説、宋の華元、陳の公孫寧、衛の孫良夫、鄭の子良、斉の晏弱

および曹人、邾人、せつ人、しょう人が蜀で盟約を結んだ。


いずれの諸侯、卿大夫も晋を恐れつつ、秘かに楚と盟を結んだので

この会盟は「匱盟ぎめい(意味のない盟約)」とされた。



 その後、楚師が魯から宋に至った時、人質の公衡が魯に逃げ戻った。

臧孫許は「公衡は我が身を愛して君命を棄て、魯の社稷を危うくした。

魯国は将来どうなるのか。後代の者は必ず禍を受けるであろう」と非難した。



 楚の出師に対して、晋は動かなかった。

楚帥が予想以上の大軍であった事が理由らしい。




          *     *     *




 晋景公は鞏朔きょうさくを周に送り、斉との戦で得た捕虜や戦利品を周王に献上した。


 しかし定王は鞏朔に会わず、単公ぜんこうを送って伝えた。

「東夷、西戎、南蛮、北狄が王命に従わずんば、王は討伐を命じ

戦利品が献上された時、王は自ら受け取って慰労する。

諸侯、近親が王の制度を破れば、王は討伐を命じるが

戦勝の報告を聞くだけで戦利品の献上はさせない。

晋は斉の地で功を立て、天子の慰問に大夫を派遣したのは礼に反している。

鞏朔を厭うわけではないが、斉は我が甥の国であり(周定王の后は斉の公女)

戦利品を受け取るのは礼に反し、晋・斉両国への侮辱となるであろう」


周定王は三公に命じて鞏朔を接待し、王は鞏朔と宴を開き

個人的に礼物を与えたが「これは礼から外れているため、記録に残してはならぬ」と伝えた。




              *     *     *




    周定王19年(紀元前588年)正月


晋景公、魯成公、宋共公、衛定公、曹宣公が鄭を攻め、伯牛はくぎゅうに駐軍した。

9年前、晋が楚に大敗したひつの役に於いて

鄭が楚に属いた事への報復であるという。


 鄭襄公は晋との講和を考えたが、公子・偃(襄公の弟)が反対した。

「昨年、楚が衛、魯を攻撃した際、晋は傍観しておりました。

晋は未だ、邲で楚から受けた苦杯を払拭出来ていません。

ここは楚の強勢を恃み、晋と戦うべきでしょう」


公子・偃は鄭の東境・ばんに鄭軍を隠し

鄭国東部の丘輿きゅうこうで諸侯軍を急襲し、これを大いに破った。


晋景公は楚帥の北上を警戒して、晋に帰国した。


鄭の大夫・皇戌こうじゅつは楚に入り、戦利品を楚共王に献上した。


この頃、許国は楚に従属して鄭に従わなくなったので

鄭の執政・子良は許を討伐した。



 2月23日、宋では前年8月に崩御した宋文公のために厚葬が行われた。

墓穴には湿気を防ぐために蛤と木炭が積まれ、副葬品の車馬を増やし

商王朝以来の殉葬が行われた。(宋は商王朝の後裔の国)

その他、多数の器物が埋められ、棺も豪華な装飾が施されたという。


当時の君子は、文公を厚葬した宋の華元と楽挙がくきょを非難している。

「両者は臣の道を失った。臣は国を治め、乱を鎮め、君の困惑を除く事が道である。

だがニ名は国君が生きている間、その放縦を許し、死後は奢侈を極めさせた。

これは主君を悪に捨てる行いである」



 夏、魯成公は晋景公に面会に行き、斉から汶陽ふんようの地を取り返したことを拝謝した。


 


              *     *     *




 晋の中軍の佐(次卿)・荀首じゅんしゅは、邲の役で楚に捕えられた子の荀罃じゅんおうの返還を求めた。

晋からは、楚の公子・穀臣こくしんの身柄と、連尹れんいん襄老じょうろうの遺体を返還する。


晋景公と楚共王は互いの捕虜返還に同意した。



 楚共王は荀罃を晋に送り返す時「卿はわしを怨んでいるか」と尋ねた。


荀罃が答えた。

「晋楚両国が戈を交え、臣の不才により任を全う出来ず、虜となりました。

楚君は臣を祭祀の犠牲に使わず、生国に帰して頂けるのは

楚君の恩恵です。全て臣の不才が原因なので、誰を怨む事でもありません」


共王は「ならば、わしを徳とするか」と聞いた。


「晋楚それぞれ社稷を祀り、民の安寧を願っております。

そして今、両国が怒りを抑えて互いを許し、双方が捕虜を釈放したのです。

二国の友好は、臣と関係ないので、強いて誰かの徳とすることはありません」


「汝が無事に晋に帰れば、如何にしてわしに報いるのか」


「臣は誰も怨まず、貴君も徳を授けず。怨も徳もないので報いる事はないでしょう」


「では、汝がわしにどう対するかを話してほしい」


「楚君の恩により、臣が晋に帰国すれば、虜囚となった罪を問われ

晋君は臣を罰してころすか、あるいは我が父が誅すでしょう。

どちらにせよ、晋で死ねるのであれば本望です。

仮に誅されず、晋の政に携わる機会が訪れ、一軍を率いて楚帥と見えた時は

晋の社稷のため、一命を賭して楚を討伐する事が、楚君に対する報いです」


「楚と晋とは戦うべきではない」


楚共王は荀罃を厚遇し、礼を以て晋に帰国させた。



 これより、少し以前の事である。 

荀罃が捕虜として楚にいた時、鄭の商人がちょ(衣服を入れる袋)に

荀罃を入れて、秘かに楚国から脱出させようとした事があった。

しかし、これを実行する前に楚は荀罃を釈放し、晋への帰国を許された。

後年、この商人が晋に来た時、荀罃は彼を厚遇したが、商人は恐縮して

「私には功がなく、小人が君子を騙すような事をして厚遇を得るわけにはいかない」

と言って、この商人は斉に去ったという。

周襄王26年(紀元前627年)、鄭の商人・弦高が鄭穆公の褒賞を辞退した逸話に似ている。




              *     *     *




 斉から魯へ汶陽の地が返還されたが、きょく民が魯に服従しなかったので

魯の叔孫僑如しゅくそんきょうじょが兵を率いて棘を包囲した。



 11月、晋の郤克と衛の孫良夫が赤狄の牆咎如しょうきょうじょを攻撃した。

牆咎如は貪婪で民心を失っていたため、壊滅した。



 晋の荀庚じゅんこうと衛の孫良夫が同日に魯を聘問し、過去の盟約を確認した。

魯成公は晋と衛の使者、どちらを先に謁見するべきか迷い、臧孫許に尋ねた。

「荀庚は晋の下卿、孫良夫は衛の上卿である。どちらを先にするべきか」


臧孫許が答えた。

「中国の上卿・中卿・下卿は大国の中卿・下卿・上大夫に相当します。

小国の上卿・中卿・下卿は大国の下卿・上大夫・下大夫に相当します。

衛は小国、晋は大国なので両者は同格ですが

晋は諸侯の盟主なので、ここは晋を先にするべきでしょう」


11月28日、魯成公は荀庚と盟を結び、翌29日に孫良夫と盟を結んだ。



同日、鄭が再び許を攻撃したので、許昭公が鄭の無道を楚に訴えた。

これに対して鄭も楚に訴えたが、楚共王は許を擁護した。

鄭襄公は怒り、鄭は楚から離反して晋の盟下に入った。



 12月、晋景公は上中下の三軍に加え、新上、新中、新下軍を編成した。

新中軍の将は韓厥かんけつ、佐は趙括ちょうかつ

新上軍の将は鞏朔、佐は韓穿かんせん

新下軍の将は荀騅じゅんすい、佐は趙旃ちょうせんが任命された。


晋を六軍としたのは、楚に対抗するためと

鞍の役で功績を立てた諸将への褒賞とされる。




       *     *     *




 斉頃公が晋に朝見し、玉を晋景公に授けようとした。

その時、正卿・郤克が両君に近づいて告げた。

「此度、斉君は婦人(斉頃公の母・䔥同叔子しょうどうしゅくし)の哄笑で辱めを受ける事になりました。

我が君は斉君の礼を受け入れる必要はありません」


これを聞いた晋の大夫・苗賁皇びょうふんこうが言った。

「郤克は勇敢だが礼を知らない。功に頼って斉君を辱めた。郤氏は長くないであろう」



この後、晋景公は斉頃公を招いて宴を開いた。

宴の席で斉頃公は鞍の戦いで自分を追撃した韓厥を見つけ、彼を凝視した。

韓厥は「斉候は臣を覚えておられますか」と尋ねると

斉頃公は「覚えている」とのみ告げた。


韓厥は堂に登り、杯を持って言った。

「臣が命を惜しまず候を追撃したのは、斉晋の両君がこの堂で宴を開くためでした」



 斉に帰国した頃公は、公室の私有地を開放し、税を軽くし

孤児や身寄りがない者を救済し、疾病や障害がある者を援け

自身は音楽を聴かず、酒や肉を食らわず、葬儀があれば弔問し

蓄えた食糧を民に施し、外は諸侯を敬い、礼を尽くし、盟約を結んだ。


頃公の在世中、民は斉候を愛し、諸侯は斉の境を侵さなかったという。



夏姫については、昔から様々な考察がなされていますが

一番の謎は彼女の年齢です。

最新話より12年前の時点で、すでに一人前の子がいるから

巫臣の妻になった時点で40後半~60歳ぐらい。

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