第六十五話 晋楚の冷戦
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周の定王18年(紀元前589年)
8月27日、宋文公が崩御し、子の瑕が位を継いだ。宋の共公である。
9月5日には衛穆公も薨去した。子の臧が継いで衛の定公となる。
斉に大勝した晋の中軍の将・郤克は帰国の途上であったが
衛は斉と奮戦したので、衛穆公を弔問する事にした。
欒書が郤克に語った。
「弔問は君命を受けた官が訪れ、大門より入って、大堂内で哭弔を行うのです。
しかし、我らは君命を受けておりません」
士燮が提案する。
「では、正式な礼を行わず、大門の外で哭弔すれば良いのでは」
これに同意して、三人は大門の外で哭弔したので
衛の国人は大門の外で三人を饗応した。
また、穆公の婦妾らもこれに倣い、大門の内側で哭礼を行った。
これ以降、他国の官員が弔問する場合、これが正式な礼となった。
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斉が晋、魯、衛から攻められた時、楚共王は斉を救援するために
巫臣に斉を聘問せよと命じ、巫臣は全ての家財を持って斉に向かった。
その途上、一行は申叔時と子の申叔跪に遭遇した。
申叔跪は斉に向かう巫臣の一行を見て、訝しんだ。
「巫臣は帥(軍)に関わる君命を受けて斉に向かうというのに
あれほどの荷馬車を連れて行くとは、もはや楚には戻らぬつもりでは」
巫臣は斉に入り、王命を斉に伝える任を終えた後
副使に幣(斉から楚に贈られた贈物)を持たせて楚に帰らせた。
そして自身は鄭に入って夏姫を妻に迎え、再び斉に戻った。
斉が晋に敗れた後、巫臣は「不勝の国に住む気はない」と言って晋に奔った。
郤氏の一族・郤至の尽力で巫臣は晋で邢の地に封じられ、大夫になった。
楚の子反(荘王の弟・公子側)は、かつて夏姫を妻に迎えようとしたが
「夏姫は近くの者を尽く滅ぼす不祥の者である」と言って諫めたのが巫臣であった。
今になって夏姫を娶った巫臣を、姦淫の心を抱く者として非難し
巨額の賄賂を晋に贈り、巫臣が晋に仕える事を邪魔しようとした。
しかし、楚共王は反対した。
「巫臣が夏姫を手に入れるために策を弄したのは罪である。
だが、先君・荘王のために策を巡らしたのは忠である。
忠は社稷の基で、罪を覆う事が出来る。
巫臣を用いる事が利となるのなら、賄賂を贈っても晋は用いるだろう。
逆に無益なら、賄賂を贈らなくても晋は巫臣を棄てる」
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斉帥を破った晋師が晋都・絳に凱旋した。上軍の佐・士燮が最後に入った。
士燮の父、士会が迎えて言った。
「凱旋の軍は元帥(中軍の将)が最後に入るものだ。なぜ汝が最後に入ったのか」
「此度の出師では元帥(郤克)に最大の功がありました。
国人に最も注目され、称賛を受けるのは元帥であるべきです。
しかし、私が先に都へ入ったら、私が注目を集めたでしょう。
これでは私が元帥よりも名誉を受けることになります。だから先に入らなかったのです」
士会は「汝は謙虚である。士氏の家は如何なる禍も避けられるであろう」と言った。
郤克が景公に謁見し、戦勝の報告をした。
景公は「勝利は卿の功である」と言った。
郤克は「我が君の徳と将士のおかげです。臣の力ではありません」と返した。
士燮が謁見すると、景公は郤克と同じように慰労した。
「荀庚(荀林父の子、上軍の将)の命と
元帥のおかげです。臣の力ではありません」と士燮は答えた。
欒書が謁見した時も、景公は同様に慰労した。
欒書は「士燮の指示に従ったおかげです。臣の力ではありません」と言った。
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魯国は以前、魯宣公が楚と友好を結ぼうとしたが
楚荘王と魯宣公が相次いで卒したために交渉が途絶えていた。
魯成公が即位すると、魯は楚を離れて晋と盟を結び、晋と共に斉と戦った。
衛もまた楚を聘問せず、晋と盟を結んで斉と戦った。
楚荘王の没後、後を継いだ共王は、即位時まだ10歳の幼君であった。
中原の諸侯は楚から距離を置くようになり、晋の影響が強くなった。
折しも、荘王の覇業を支えた名宰相・孫叔敖が病に倒れた。
孫叔敖は子の蔿子馮を枕頭に呼び、遺命を伝えた。
「わしの死後、王は多くの領地を汝に与えるであろう。
しかし、受領するのは寝丘(楚で最も痩せた土地)のみにせよ」
ほどなく孫叔敖は卒去した。楚の冷尹には子重(公子・嬰斉)が就任した。
楚共王は生前の孫叔敖の功に報いるべく、蔿子馮に多くの恩賞を授けたが
蔿子馮は父の遺言を守り、寝丘のみ受け取った。
新たな令尹となった子重が楚共王に進言した。
「我が君はまだ幼少、我ら群臣の才も先代に劣ります。
周の文王が多くの士によって治めたように、我々も兵を多く持つべきです。
先君・荘王は『徳が遠方に及んでなければ民を憐れみ
恩恵を与え、民を良く用いよ』と申されました」
子重の進言に従い、楚は戸籍を調査し、納税の遅れは免除し
独居老人を援け、貧者を救済し、罪人を釈免した。
そして楚の全土から士卒を徴発し、中原へと出征を開始した。
共王の兵車は彭名が御者、蔡景公が車左、許霊公が車右となる。
蔡と許の君主は共に若年だったが、車左と車右を務める者は
元服後の成人が勤める決まりであるため、両君は年齢を繰り上げて元服の儀式を行った。
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冬、楚の大軍は衛を攻撃し、魯に侵攻して蜀(魯地)に駐軍した。
魯成公は臧孫許を楚陣に送って楚と講和しようとしたが
臧孫許は拒否した。
「楚の師は本国を遠く離れて久しく、今は野営に厳しい季節。
こちらから講和せずとも、いずれ退却するでしょう」
しかし、臧孫許の思惑は外れた。
楚軍は陽橋(魯地)まで進出してきたので、仲孫蔑が楚陣を訪問して
執斲(木工)・執鍼(縫女工)・織紝(織布工)各百人を楚に贈り
公子・公衡を人質にして盟約を請い、楚は講和に応じた。
11月12日、楚の冷尹・子重、魯成公、蔡景公、許昭公
秦の右大夫・説、宋の華元、陳の公孫寧、衛の孫良夫、鄭の子良、斉の晏弱
および曹人、邾人、薛人、鄫人が蜀で盟約を結んだ。
いずれの諸侯、卿大夫も晋を恐れつつ、秘かに楚と盟を結んだので
この会盟は「匱盟(意味のない盟約)」とされた。
その後、楚師が魯から宋に至った時、人質の公衡が魯に逃げ戻った。
臧孫許は「公衡は我が身を愛して君命を棄て、魯の社稷を危うくした。
魯国は将来どうなるのか。後代の者は必ず禍を受けるであろう」と非難した。
楚の出師に対して、晋は動かなかった。
楚帥が予想以上の大軍であった事が理由らしい。
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晋景公は鞏朔を周に送り、斉との戦で得た捕虜や戦利品を周王に献上した。
しかし定王は鞏朔に会わず、単公を送って伝えた。
「東夷、西戎、南蛮、北狄が王命に従わずんば、王は討伐を命じ
戦利品が献上された時、王は自ら受け取って慰労する。
諸侯、近親が王の制度を破れば、王は討伐を命じるが
戦勝の報告を聞くだけで戦利品の献上はさせない。
晋は斉の地で功を立て、天子の慰問に大夫を派遣したのは礼に反している。
鞏朔を厭うわけではないが、斉は我が甥の国であり(周定王の后は斉の公女)
戦利品を受け取るのは礼に反し、晋・斉両国への侮辱となるであろう」
周定王は三公に命じて鞏朔を接待し、王は鞏朔と宴を開き
個人的に礼物を与えたが「これは礼から外れているため、記録に残してはならぬ」と伝えた。
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周定王19年(紀元前588年)正月
晋景公、魯成公、宋共公、衛定公、曹宣公が鄭を攻め、伯牛に駐軍した。
9年前、晋が楚に大敗した邲の役に於いて
鄭が楚に属いた事への報復であるという。
鄭襄公は晋との講和を考えたが、公子・偃(襄公の弟)が反対した。
「昨年、楚が衛、魯を攻撃した際、晋は傍観しておりました。
晋は未だ、邲で楚から受けた苦杯を払拭出来ていません。
ここは楚の強勢を恃み、晋と戦うべきでしょう」
公子・偃は鄭の東境・鄤に鄭軍を隠し
鄭国東部の丘輿で諸侯軍を急襲し、これを大いに破った。
晋景公は楚帥の北上を警戒して、晋に帰国した。
鄭の大夫・皇戌は楚に入り、戦利品を楚共王に献上した。
この頃、許国は楚に従属して鄭に従わなくなったので
鄭の執政・子良は許を討伐した。
2月23日、宋では前年8月に崩御した宋文公のために厚葬が行われた。
墓穴には湿気を防ぐために蛤と木炭が積まれ、副葬品の車馬を増やし
商王朝以来の殉葬が行われた。(宋は商王朝の後裔の国)
その他、多数の器物が埋められ、棺も豪華な装飾が施されたという。
当時の君子は、文公を厚葬した宋の華元と楽挙を非難している。
「両者は臣の道を失った。臣は国を治め、乱を鎮め、君の困惑を除く事が道である。
だがニ名は国君が生きている間、その放縦を許し、死後は奢侈を極めさせた。
これは主君を悪に捨てる行いである」
夏、魯成公は晋景公に面会に行き、斉から汶陽の地を取り返したことを拝謝した。
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晋の中軍の佐(次卿)・荀首は、邲の役で楚に捕えられた子の荀罃の返還を求めた。
晋からは、楚の公子・穀臣の身柄と、連尹・襄老の遺体を返還する。
晋景公と楚共王は互いの捕虜返還に同意した。
楚共王は荀罃を晋に送り返す時「卿はわしを怨んでいるか」と尋ねた。
荀罃が答えた。
「晋楚両国が戈を交え、臣の不才により任を全う出来ず、虜となりました。
楚君は臣を祭祀の犠牲に使わず、生国に帰して頂けるのは
楚君の恩恵です。全て臣の不才が原因なので、誰を怨む事でもありません」
共王は「ならば、わしを徳とするか」と聞いた。
「晋楚それぞれ社稷を祀り、民の安寧を願っております。
そして今、両国が怒りを抑えて互いを許し、双方が捕虜を釈放したのです。
二国の友好は、臣と関係ないので、強いて誰かの徳とすることはありません」
「汝が無事に晋に帰れば、如何にしてわしに報いるのか」
「臣は誰も怨まず、貴君も徳を授けず。怨も徳もないので報いる事はないでしょう」
「では、汝がわしにどう対するかを話してほしい」
「楚君の恩により、臣が晋に帰国すれば、虜囚となった罪を問われ
晋君は臣を罰して誅すか、あるいは我が父が誅すでしょう。
どちらにせよ、晋で死ねるのであれば本望です。
仮に誅されず、晋の政に携わる機会が訪れ、一軍を率いて楚帥と見えた時は
晋の社稷のため、一命を賭して楚を討伐する事が、楚君に対する報いです」
「楚と晋とは戦うべきではない」
楚共王は荀罃を厚遇し、礼を以て晋に帰国させた。
これより、少し以前の事である。
荀罃が捕虜として楚にいた時、鄭の商人が褚(衣服を入れる袋)に
荀罃を入れて、秘かに楚国から脱出させようとした事があった。
しかし、これを実行する前に楚は荀罃を釈放し、晋への帰国を許された。
後年、この商人が晋に来た時、荀罃は彼を厚遇したが、商人は恐縮して
「私には功がなく、小人が君子を騙すような事をして厚遇を得るわけにはいかない」
と言って、この商人は斉に去ったという。
周襄王26年(紀元前627年)、鄭の商人・弦高が鄭穆公の褒賞を辞退した逸話に似ている。
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斉から魯へ汶陽の地が返還されたが、棘民が魯に服従しなかったので
魯の叔孫僑如が兵を率いて棘を包囲した。
11月、晋の郤克と衛の孫良夫が赤狄の牆咎如を攻撃した。
牆咎如は貪婪で民心を失っていたため、壊滅した。
晋の荀庚と衛の孫良夫が同日に魯を聘問し、過去の盟約を確認した。
魯成公は晋と衛の使者、どちらを先に謁見するべきか迷い、臧孫許に尋ねた。
「荀庚は晋の下卿、孫良夫は衛の上卿である。どちらを先にするべきか」
臧孫許が答えた。
「中国の上卿・中卿・下卿は大国の中卿・下卿・上大夫に相当します。
小国の上卿・中卿・下卿は大国の下卿・上大夫・下大夫に相当します。
衛は小国、晋は大国なので両者は同格ですが
晋は諸侯の盟主なので、ここは晋を先にするべきでしょう」
11月28日、魯成公は荀庚と盟を結び、翌29日に孫良夫と盟を結んだ。
同日、鄭が再び許を攻撃したので、許昭公が鄭の無道を楚に訴えた。
これに対して鄭も楚に訴えたが、楚共王は許を擁護した。
鄭襄公は怒り、鄭は楚から離反して晋の盟下に入った。
12月、晋景公は上中下の三軍に加え、新上、新中、新下軍を編成した。
新中軍の将は韓厥、佐は趙括
新上軍の将は鞏朔、佐は韓穿
新下軍の将は荀騅、佐は趙旃が任命された。
晋を六軍としたのは、楚に対抗するためと
鞍の役で功績を立てた諸将への褒賞とされる。
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斉頃公が晋に朝見し、玉を晋景公に授けようとした。
その時、正卿・郤克が両君に近づいて告げた。
「此度、斉君は婦人(斉頃公の母・䔥同叔子)の哄笑で辱めを受ける事になりました。
我が君は斉君の礼を受け入れる必要はありません」
これを聞いた晋の大夫・苗賁皇が言った。
「郤克は勇敢だが礼を知らない。功に頼って斉君を辱めた。郤氏は長くないであろう」
この後、晋景公は斉頃公を招いて宴を開いた。
宴の席で斉頃公は鞍の戦いで自分を追撃した韓厥を見つけ、彼を凝視した。
韓厥は「斉候は臣を覚えておられますか」と尋ねると
斉頃公は「覚えている」とのみ告げた。
韓厥は堂に登り、杯を持って言った。
「臣が命を惜しまず候を追撃したのは、斉晋の両君がこの堂で宴を開くためでした」
斉に帰国した頃公は、公室の私有地を開放し、税を軽くし
孤児や身寄りがない者を救済し、疾病や障害がある者を援け
自身は音楽を聴かず、酒や肉を食らわず、葬儀があれば弔問し
蓄えた食糧を民に施し、外は諸侯を敬い、礼を尽くし、盟約を結んだ。
頃公の在世中、民は斉候を愛し、諸侯は斉の境を侵さなかったという。
夏姫については、昔から様々な考察がなされていますが
一番の謎は彼女の年齢です。
最新話より12年前の時点で、すでに一人前の子がいるから
巫臣の妻になった時点で40後半~60歳ぐらい。




