第六十四話 華不注山の戦い
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翌、周の定王16年(紀元前591年)春
晋の景公と衛の世子・臧が斉に向けて帥を発し
陽穀(現在の山東省聊城市陽穀県)に至る。
元より、晋候は本気で斉に侵攻する心算はない。
断道の会盟に参加しなかった斉と、改めて盟約を結ぶのが目的である。
斉頃公は晋景公と繒で盟約を結び、斉の公子・彊が人質として晋に送られた。
晋は兵を還した。
 
斉晋両国が盟を結んだ後、晋景公は前年捕えた蔡朝と南郭偃の監視を緩めた。
ほどなく晏弱に続き、二人も斉に帰国した。
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この年、魯が杞を攻めた、とある。
杞国。史書の記録も少ない、謎多き国である。
商王朝の時代より存在し、姓は姒。夏の禹王の末裔と称した。
商末周初に滅亡するが、周朝によって再興されるも
小国ゆえ、諸侯との軋轢の度に遷都を行い
この時は縁陵(現在の山東省濰坊市昌楽県)にあったと思われる。
今日の日本で、取り越し苦労を意味する諺「杞憂」がある。
杞に住む男が「いつか天が落ち、地が崩落して
住む場所が無くなってしまうのではないか」と憂う余り
夜も眠れず、食事も喉を通らなかった、という故事に由来する。
この時の杞国の君主は桓公で、春秋時代の国君の中で最も在任期間が長いと思われる。
即位したのが周襄王16年(紀元前637年)で、70年に渡って君位に就いた。
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夏、魯宣公は斉を討伐するため、楚に使者を送って出兵を請うた。
しかし、楚の出兵は叶わなくなった。
7月7日、覇者・楚の荘王が在位23年で卒したからである。
荘王の太子・審が次の楚王に即位した。楚共王と言う。
楚の覇権は荘王という名君に拠る部分が多く、荘王が薨じた事で
中原を制する勢威は再び晋の側に傾き始めた。
晋景公は慎重な性格だが、自身の代で、文公から続いてきた
晋の覇業を喪った事に対し、祖先の霊に対して忸怩たる思いを漲らせていた。
即位から9年が経ち、楚荘王がいなくなった事で
これまで被って来た隠忍自重の衣を脱ぎ去る時が来たと感じた。
折しも、魯宣公は楚荘王の死去を知るに及び、晋に斉への出兵を請うた。
魯宣公の即位には大夫・襄仲の支援が大きかった。
ために襄仲の子・公孫帰父を重用していた。
公孫帰父は魯で絶大な権限を奮う三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)を除き
魯公室の権力を拡大しようと考え、宣公と相談した結果
晋に聘問して晋の力を借りて三桓を除くことに決まった。
しかし、公孫帰父が晋を聘問している間、魯宣公が謎の急死を遂げた。
季孫行父(季孫氏)が朝廷で発言した。
「かつて襄仲は太子・悪を殺し、庶子(魯候)を擁立した。
今こそ襄仲の子・公孫帰父を除くべきである」
魯の諸大夫はこれに和し、東門氏(襄仲の一族)は魯から一掃された。
 
公孫帰父は魯宣公の崩御を聞き
急ぎ晋から魯に帰国すると、笙の地で壇を作り、帷で覆って
家臣を宣公に擬して復命の報告をした。
それから宣公の葬儀を模して哀哭と三踊を行い、帳を出た後、斉に出奔した。
魯宣公の子・黒肱が即位した。魯の成公である。
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周の定王17年(紀元前590年)
20年前に周の甘歜が王帥を率いて戎族を邥垂で破った事があった。
以来、周と戎族は対立を続けていたが、晋景公が瑕嘉を周に送って周と戎を調停した。
周は卿士・単公を晋に送って調停の成功を謝した。
この直後、周の劉公が油断した戎を討伐しようとしたが、叔服がこれに反対した。
「盟約に背き、晋と戎を騙せば必ず失敗する。勝つ事は出来ないであろう」
しかし劉公はこれに逆らって兵を出し、茅戎を攻撃したので
周が盟約を破った事に怒った晋が戎を支援して出兵し
劉公は徐吾氏(茅戎の集落)にて敗れた。
 
魯成公は、斉が楚と共に魯を攻撃するらしい、と言う噂を聞いて
臧孫許を晋に向かわせ、赤棘(晋地)で晋景公と会盟した。
 
冬に臧孫許は晋から帰国し、軍令を発し、城壁を修築して防備を固めた。
「斉と楚が友好を結び、我々は晋と盟を結んだ。
晋と楚は盟主の地位を争っており、斉は我が国に攻めて来るという。
もし晋が斉を攻めたら、楚は必ず斉を援けるであろう。
斉と楚はどちらも我が国の敵である。禍難を予期して備えを作れば
禍難から逃れる事が出来るであろう」
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翌、周の定王18年(紀元前589年)春
斉頃公が魯の北境に侵攻して隆城を包囲した。
この包囲戦で、斉頃公の寵臣・盧蒲就魁が敵兵に捕えられた。
頃公は「斉は隆と盟を結ぶ。その者を殺さないで頂きたい」と伝えたが
隆の城内に住む人は盧蒲就魁を殺し、その死体を城壁に晒した。
怒った斉頃公は自ら戦鼓を叩き、斉兵は城壁を登り、三日後に隆城は陥落した。
斉軍は南進して巣丘に至った。
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一方、衛穆公は魯を支援するため、斉を攻撃した。
孫良夫、石稷、甯相、向禽将が兵を率いて斉に向かう。
衛軍が進軍の途上で斉軍に遭遇した。
斉軍の方が兵数が多いと見た石稷は兵を退こうとしたが、孫良夫が反対した。
「敵を討つために帥を率いて来たのに、敵の師に遭遇して退けば、我が君にどう説明するのだ。
たとえ我々が不利であっても、敵に遭遇したなら戦うべきである」
 
4月29日、孫良夫は衛師を率いて斉師と新築(衛と斉の国境付近)で戦った。
結果は斉が勝利し、衛は敗れたので、衛帥は撤退を決めた。
石稷が言う。
「全軍が一気に撤退すれば、斉軍の追撃を受けて全滅するであろう。
孫良夫は衛の国卿。国卿を捕えられれば国辱となろう。
それがしは新築に留まって斉軍の追撃を防ぐ。国卿から先に撤退して頂きたい」
石稷は斉軍に細作を放ち、斉を攻撃する援軍が接近しているという噂を流した。
斉軍はその噂を信じて進軍を停止し、鞫居に駐軍したが
一方で別動隊を編成し、撤退する孫良夫を追撃した。
 
僅かな供で急行する孫良夫に斉軍が襲い掛かるが
新築の大夫・仲叔于奚が兵を出して孫良夫を援けた。
斉の別動隊は崩壊し、孫良夫は追撃から逃れた。
衛穆公は仲叔于奚に褒美として邑を与えようとしたが
仲叔于奚はこれを辞退し、代わりに曲県(三面に架けられた楽器類)の使用と
入朝する時に繁纓(馬の装飾の一種)を使うことを衛候に願った。
どちらも諸侯にのみ許される行為である。穆公はこれを許可した。
仲叔于奚は大夫の身分で諸侯の礼を用いることが許可されたため
後に孔子はこれを非難した。
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孫良夫は衛都に入らず、晋に向かい、援軍を求めた。
魯の臧孫許も晋に入って出兵を請い、両者は斉に怨みを抱く郤克を訪ねた。
郤克は我が意を得たりと勇躍して景公に出兵を請うと、景公は兵車七百乗を与えた。
郤克は「それは城濮の役の数です。城濮では文公の明察と賢臣によって
楚から勝ちを得ましたが、臣の能は先達に大きく劣ります。
臣に兵車八百乗をお与えください」と希った。
景公は許した。
晋軍は衛、魯の救援軍を編成し、斉に向かって出征を開始した。
晋軍の陣容は、中軍の将・郤克、上軍の佐・士燮
下軍の将・欒書、司馬・韓厥である。
臧孫許が晋軍を先導し、季孫行父も魯軍を率いて合流した。
晋・魯連合軍は衛地に入った。
魯軍は季孫行父、臧孫許、叔孫僑如、公孫嬰斉
衛軍は孫良夫、さらに曹の公子・首も加わった。
 
進軍中、晋の士が軍法に背いたため、韓厥が斬ろうとした。
この士は郤克と親しい者であったため、助命するために急いで駆けつけたが
既に処刑は終った後であった。
郤克は死体を軍中に晒すように指示した。
郤克の御者が言った。「彼を助けたかったのではないのですか」
「わしがこう命じれば、司馬に対する非難、誹謗はわしにも向く」
この頃には、斉軍は衛国境の新築から退いており
晋、魯、衛の連合軍は斉軍を追撃して莘に駐軍
6月16日には靡笄山の麓に至った。
斉頃公は晋に決戦を挑み、晋陣に手紙を送った。
「正卿(郤克)は国軍を率い、遠く敝国まで訪れた。明朝、相見しよう」
これに郤克が応えた。
「晋、魯、衛は同姓である。兄弟が『大国が敝邑の地を侵掠している』と訴えてきた。
寡君はこれを嘆き、群臣を派遣して大国に撤兵を請わせた。
また寡君は『大国の地に長く滞在してはならぬ』とも仰せになった。
斉候の要求を受け入れよう」
斉の高固が晋陣に接近し、石を晋軍に向かって投げた。
石は晋軍の兵に中って倒れ、その晋人は斉の捕虜になった。
帰還した高固は自分の車に桑の根をつけ、斉の陣営を疾駆して
「勇気が欲しい者はわしの余った勇気を買え」と宣言した。
桑の根をつけたのは、自分がいる場所が分かるようにするためである。
勇気が有り余っていることを意味する故事成語
「余勇可賈」はこれに由来する。
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翌日の6月17日、両軍が鞍に陣を構えた。
斉頃公の御者は邴夏で、逢丑父が車右を勤める。
斉頃公が全軍に「朝食は晋軍を殲滅した後にする」と宣言して
馬に甲冑をつけず、晋軍に突撃した。
一方で晋の郤克が座する兵車は、御者が解張、車右は鄭丘緩である。
郤克は斉で受けた恥辱を晴らす機会が訪れ、勝つまで退かぬ覚悟で臨む。
斉候が自ら先陣を切って、猛烈な勢いで晋陣に突撃する。
晋の中軍の将・郤克は斉兵の放った矢により傷を負ったが、そのまま戦鼓を叩き続けた。
だが徐々に力が落ちていき、郤克は後方に退くべきと思った。
御者の解張が言う。
「それがしの手と肘も矢に貫かれました。しかし御は続けられます」
続いて鄭丘緩が言う。
「険しい場所を通る度に、私は兵車を降りて押してきたのです。
怪我をした程度で下がる訳にはまいりません」
解張が更に言う。
「晋の三軍の心はこの車にあります。
晋師の耳目は旗鼓にあり、進むも退くもこれに従います。
この車を守り切れば勝てます。負傷を理由に国の大事を損なう事は出来ません」
解張は左手で手綱を握ると、右手で鼓の枹を持ち、郤克の代わりに戦鼓を叩いた。
郤克が乗った戦車は退かず、晋軍がそれに続いて斉軍を襲う。
斉軍は逃走を始め、晋軍はそれを追撃して華不注山を三周したという。
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戦いの前日、晋の司馬・韓厥は夢を見た。
韓輿(韓厥の亡父)に「明日は車の左右を避けよ」と言われたのである。
通常、元帥は戦鼓がある車の中央に立って指揮を執り
御者が中央前方、車左は弓を持ち、右には矛を持った車右が立つ。
司馬である韓厥は車左になるが、この時は父の言葉を守り、御者として車の中央に立った。
韓厥が斉軍を追撃すると、斉頃公の御者・邴夏が「あの御者を射ちましょう」と言った。
しかし頃公は「中央に立つ者を射るのは非礼である」と言い
韓厥の車左と車右を射た。車左は車から転落し、車右は車中で死んだ。
晋の大夫・綦毋張が車を失い、韓厥を追った。「車に乗せてくれぬか」
韓厥は車を止めて綦毋張を乗せ、自分の後ろに立たせた。
韓厥は体を屈め、車中で倒れている車右の死体が車から落ちないように位置を安定させた。
この隙に、追撃されている斉頃公の車右・逢丑父が頃公と立つ位置を変えた。
斉頃公の車が華泉(華不注山の麓の泉)に近づいた時
左右の馬が木に遮られて動けなり、この間に韓厥が追いついた。
韓厥は頃公の兵車の前に進み、再拝稽首した。
「晋君は群臣に命じて魯・衛の要求に応えましたが
こうも申されました。『師を斉君の地に入れてはならぬ』
不幸にして此度の出征を避けること叶わず、他に人もいないので、役を果たさせて頂きます」
車の中央に立っていた逢丑父は、咄嗟に
右に立っていた頃公を車から下ろし、華泉で水を取って来るように命じた。
頃公と逢丑父は似た甲冑を纏っていたので、頃公の顔を知らない韓厥は
逢丑父を頃公だと思った。
逢丑父は晋軍の捕虜となり
頃公は車から下りて逃走し、佐車(副車)に乗って斉陣に還った。
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韓厥は逢丑父を捕えて郤克に献上した。
だが郤克は頃公の顔を知っているので、これが頃公ではないことに気づいた。
郤克は怒り、逢丑父を処刑しようとした。
頃公の代わりに殺される逢丑父はこう言った。
「今後、自分の主君のために難を受けようとする者はいなくなるであろう。
今、最後の一人が処されるところである」
「かつて、我が国の文公が鄭の叔詹を赦したように
我が身に代わって主を助けた者を殺すのは不祥である」
郤克は逢丑父を処刑せず、これを赦した。
 
斉頃公は逢丑父を求め、三度出陣した。
一度目は晋の陣に突入し、逢丑父を見つけられず帰還した。
二度目は狄の陣を攻め、見つけられずに帰還した。
三度目は衛軍を攻め、またも見つけられず帰還した。
三回とも斉の将兵が頃公を厳重に守っており
また、いずれの陣にいる兵も頃公に危害を加えようとしなかった。
 
頃公は逢丑父を諦め、斉軍は退却して徐関(斉地)に入り
関守に「斉師は敗れた」と言った。
 
晋軍は斉軍を追撃して丘輿(斉地)を経由して馬陵を攻撃した。
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7月に入り、斉頃公は宰相の国佐を晋に派遣して
紀甗(紀国の礼器)、玉磬(楽器)、斉地を晋に譲渡して講和を求めた。
「もし晋が講和せぬなら、斉は最後まで晋と戦うと申せ」
国佐は郤克に賄賂を贈ったが、郤克は講和を拒否した。
「䔥同叔子を晋に送り
斉国内の全ての畝(あぜ道)を東向きにせよ。さもなくば講和には応じぬ」
畝を東に向けるのは、晋軍の東進を容易くするためである。
国佐が言う。
「䔥同叔子は斉候の母后です。晋でこれに対等なのは晋君の母后です。
正卿が諸侯の母を人質にしようとするは不孝の道と言えましょう
不孝によって諸侯に号令したら、徳から外れることになるでしょう。
また、先王は地の理によって境界を定め、畝は南を向き、東を向くと決められましたが
卿は畝を全て東に向けよと申された。これは先王の命に背く事です」
衛の孫良夫が郤克を諫めた。
「斉は我々を憎んでいます。講和に同意しなければ
斉は我々を更に憎み、しかも得る物がなくなります。
同意すれば、卿は斉の国宝を得て、晋は斉地を獲得し、衛、魯は失地を取り戻し
天下は禍難を避けられるのです」
郤克は講和に同意した。
「晋が兵車を率いたのは魯と衛の請いに応じたからである。
魯と衛の進言があれば、わしも寡君に復命できよう」
7月22日、晋の郤克と斉の国佐が袁婁で盟約を結んだ。
晋は斉が魯から奪った汶陽の地を返還させた。
 
 




