第六十三話 名相・士会
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夏姫が嫁いだ楚の連尹・襄老は、邲の役で戦死した。
だが襄老の遺体は晋に行ったままで、葬儀が行えないでいる。
寡婦となった夏姫は襄老の子・黒要と私通したという噂が流れた。
申公・巫臣は夏姫に
「故郷の鄭に帰るとよい。いずれ、わしがそなたを妻に迎えよう」と伝えた。
一方で巫臣は鄭にも使者を送り
「襄老の遺体を晋から取り戻したい。夏姫の帰郷する許しを鄭伯に伝えてほしい」
と伝えた。
巫臣は楚荘王にこの案件を伝えて
「先の戦で楚は晋の大夫・智罃を捕え、晋は楚の公子・穀臣を捕えました。
楚と晋、互いに両者の交換を要求していますから、公子穀臣と共に
襄老の遺体を返還して頂くよう、鄭伯に仲介して頂きましょう」と説明した。
荘王は夏姫の帰国を許した。
巫臣は鄭から夏姫を妻に迎える手筈をつけ、鄭の襄公もこれを許した。
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春秋時代の大国・晋の位置は現在の山西省である。
今日の中国でも山西省を略称で晋と呼ぶ。
山西省は北部の省境を万里の長城が通り、その北は内蒙古自治区となるが
この時代、まだ長城は建設されていない。
晋より北を根拠地とするのが、半農半牧の狄であり
狄は白狄と赤狄に大別され、さらに諸部族に細分化される。
晋景公の姉・伯姫は赤狄の潞国の君主・嬰児に嫁いでいた。
潞では宰相の酆舒が専横して、潞君夫人・伯姫を殺し、潞君は目をに傷を負った。
姉を殺されて怒った晋景公は赤狄討伐を宣言したが、晋の諸大夫が反対した。
「酆舒は三つの優れた才覚を持つ者。かの者が死ぬのを待ちましょう」
伯宗がこれに反対した。
「赤狄には五罪あり、三才では補えません。
一つ、祭祀を行わない。二つ、酒を好む。三つ、仲章を用いず黎氏の地を奪う。
四つ、伯姫を弑逆した。五つ、君の目を傷つけた。
今、罪がある者を討伐せず、後の機会を待てば、手が出せなくなるでしょう」
景公は伯宗に同意し、赤狄への兵を起こした。
6月18日、荀林父が赤狄を曲梁で破り
26日、潞国は滅び、荀林父は長狄焚如を捕え、潞君・嬰児を連れて晋に帰還した。
酆舒は衛国に逃げたが、衛の穆公は酆舒を晋に護送し、酆舒は晋で処刑された。
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7月に秦の桓公が晋を攻撃、輔氏(晋地)に駐軍する。
晋景公は稷(晋地)で治兵(軍事演習)を行い、狄に侵攻して
赤狄の潞国の跡地に黎侯を封じた。
さらに晋軍は雒(晋地)に至り、魏顆(魏犨の子)が輔氏で秦軍を破り
秦の将・杜回を捕えた。
魏犨には生前、愛妾がいたが、子が産まれなかった。
魏犨は病に倒れると魏顆を呼び「わしが死んだ後、愛妾を改嫁(再婚)させよ」と遺命を伝えた。
その後、病が重くなると「わしと愛妾を共に殉葬するように」と遺命を変更した。
魏犨の死後、魏顆は最初の遺命に従い、妾を他家に嫁がせた。
「亡くなる直前の父上は意識が混濁していた。明白であった頃の命に従う」
輔氏で晋と秦の軍勢が衝突した時、魏顆は一人の老人が草を結んでいるのを見た。
秦の杜回は戦の最中で結ばれた草に躓いて転倒し、そこを魏顆に捕えられたのである。
その夜、魏顆は夢の中で、その老人に告げられた。
「わしは汝が改嫁させた婦人の父である。汝が亡父の正しき遺命に従った事に報いた」
なお魏犨の子は三人あり、嫡子が魏悼子、魏錡と魏顆は庶子とされる。
魏氏の系統は魏悼子に継がれ、魏悼子の子を魏絳と言う。
魏錡は呂の地を得て呂錡と改名している。
戦後の論功行賞で、晋景公は荀林父に狄の奴隷千人と土地を与え
士渥濁には瓜衍の地を与え、こう告げたという。
「狄の地を得たのは、三年前、荀林父の敗戦の罪を許すよう進言した士渥濁の功である」
晋の大夫・羊舌職がこの褒賞を高く評価した。
「用いるべきを用い、敬うべきを敬うとは、この事である。
士渥濁は荀林父を用いるべきだと知り、国君はそれを信じ、徳を明らかにした」
余談であるが、羊舌職の子は、後に晋国一の賢者と言われる叔向である。
叔向は夏姫の娘を娶る事になるが、後述する。
杜回を捕える手柄を立てた魏顆は
令狐の地を下賜され、以後は令狐顆と呼ばれる。
晋景公は大夫・原同を周に送り、狄の捕虜を献上したが
原同の王に対する態度は不敬だったので
周の卿士・劉公は「10年以内に原同は咎を受けるであろう」と予言した。
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周の定王14年(紀元前593年)春正月
晋の士会が軍を率いて赤狄の甲氏、留吁、鐸辰を攻撃
これらを滅ぼし、狄の捕虜を周王室に献上した。
3月29日、晋景公は荀林父に代わって、士会を正卿・中軍の将に任じた。
すると晋の盗賊はみな秦に逃げたという。
これについて羊舌職が語っている。
「聖王・禹が善人を用いたら、不善の者が遠ざかったという。我が国も同じである。
善人が上にいれば、悪事を働く者はいなくなる」
士会は晋の歴代宰相で、最も優秀であったと言われている。
次に紹介するのは、士会に関する逸話の一つである。
周王室では前年から毛氏と召氏の二卿士による政治的な混乱が続き、
両氏が卿士・王孫蘇を討とうとしたので王孫蘇は晋に奔った。
晋景公は士会に命じて王孫蘇を周に送り、官位を戻し、周室の乱を平定した。
周定王は士会をもてなし、大夫の原公は宴席で王を補佐する。
宴が始まり、殽烝が出された。
殽烝とは宴席で出される料理の種類で、骨付きの牛肉を俎に乗せた物で
天子が諸侯をもてなす宴で用意する。
士会が原公に殽烝の意味を問うと、周王が自ら説明した。
「王は、諸侯との宴では房烝を用い、親族とは殽烝を用いる。
諸侯は享でもてなし、卿は宴でもてなすのが、王室の礼である」
周王室の儀礼に接した士会は、帰国すると晋の法を整理する研究を行った。
その法は後に「范武子(士会)の法」として、晋で長く重用される事となった。
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周の定王15年(紀元前592年)春
晋景公が郤克を斉に送り、斉頃公を会盟に招いた。
この時、斉頃公の母・䔥同叔子は帳の後ろに隠れて
使者として入国した郤克の様子を覗き見したと言われる。
斉を訪問したのは郤克だけではなく、魯、衛、曹からも使者が来ており
それぞれの使者には特徴があった。
晋の郤克は眇(片目が小さい)、魯の季孫行父は禿頭
衛の孫良夫は跛(足萎え)、曹の公子・手は僂(猫背)である。
四人が同時に斉国を聘問すると、斉頃公は四人を案内する担当に
それぞれの特徴に合わせた者を選んだ。
眇の者が眇の郤克を案内し、禿の者が禿の季孫行父を案内し
跛の者が跛の孫良夫を案内し、僂の者が僂の公子・手を案内した。
帳の裏影でその様子を見ていた䔥同叔子は、声をあげて笑った。
四人の使者は怒って退出し、斉に報復することを約束し合った。
郤克の怒りが特に凄まじく、黄河に至った所で
「河神よ、斉に報いずんば、我に咎を与えよ」と誓ったという。
これを知った斉の君子達は「斉の禍がここから始まった」と噂した。
郤克は晋に帰る前に、副使の欒京廬を斉に留め
「斉候を会盟に招くまで、帰国してはならぬ」と厳命した。
晋都・絳に帰った郤克は晋候に斉の討伐を請うたが、晋景公はこれを拒否した。
そこで郤克は自領の私兵を率いて斉を討つ許しを請うたが景公はこれも許可しなかった。
景公は郤克に「卿の怨みで国を煩わせる事は出来ぬ」と言った。
晋景公は晋に覇権を齎した英傑・晋文公(重耳)の孫で、先君の霊公、成公に比べて
知恵の回りは良く、士会ら能臣にも恵まれた明主と言えよう。
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斉頃公は上卿・高固を会盟に参加させるべく、特使として晋に派遣した。
高固に従う副使は晏弱、蔡朝、南郭偃で、いずれも身分は斉の大夫である。
しかし、一行が歛盂に至った時、高固は晋の怒りを恐れて斉に逃げ帰った。
6月15日、晋景公、魯宣公、衛穆公、曹宣公、邾君が断道(晋地)で会し
楚に帰順した宋・鄭・陳の討伐についての相談を行い、盟約を結んだ。
斉の晏弱達は断道に到る前に、郤克によって捕えられ
野王に晏弱を、原に蔡朝を、温に南郭偃を拘禁した。
郤克は欒京廬を叱責した。
「わしは斉候を会盟に連れて参れと申したではないか。
それが、卿どころか大夫三人を寄越すとは、斉は晋をどこまで侮辱するのか」
郤克は欒京廬に、晏弱ら三大夫を誅殺し
改めて斉候を招聘せよと命じたが、士会がそれを止めた。
「大夫とはいえ、斉国を代表して参った者である。殺してはならぬ。
遠路より会盟に来た国の代表を誅すれば、次の会盟に参加する諸侯が減るであろう。
我が君の徳を損じる行いは許さぬ」
郤克は斉への怒りよりも、士会に対する尊崇の念が更に大きい。
已む無く士会に従ったが、収まりがつかず、士会に尋ねた。
「では、会盟が終わった後であれば宜しいですかな」
「この会盟が終われば、わしは告老(引退)する。その後は卿が後を継ぐ」
郤克は斉から戻って以来、沈鬱なままの表情が、初めて晴れやかになった。
士会は野王に晋の大夫・苗賁皇を派遣し、晏弱と面会させた。
「会盟が続いている間、汝らは無事であるが、その後は保証できぬ」
「延命を望んで晋と斉の友好を断つ訳には参りません。君命に殉じます」
「正卿は忠に殉じる事を潔しとはしない。生きて斉に還られよ。今少しお待ち頂きたい」
急いで晋都に帰った苗賁皇は景公に進言した。
「斉候は晋を恐れて会盟に参加せず、四子を派遣しましたが
上卿(高固)は斂盂で逃げ帰り、残った三子は危険を招致で晋に参りました。
彼等を厚遇すれば、会盟に参加した諸侯も晋に好意を持つでしょう。
ところが逆に彼等を捕えてしまった。これは晋の過ちです。
来た者を害し、諸侯を恐れさせれば、会盟を行った意味がなくなります」
景公は納得し、晏弱の監視を緩めさせた。
晏弱は斉に帰国し、蔡朝と南郭偃もほどなく帰国した。
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断道の会盟が終わった後、士会は子の士燮を招いた。
「人を怒らせたら必ず報復を受けるという。
郤克の怒りは激しく、斉に対して怨みを晴らす事が叶わなければ
晋の内において発散しようとするだろう。
権力を持たねば怒りを発散することもできない。
わしは身を退き、彼の怒りを晴らさせてやろうと思う。
汝は賢大夫に従い、君命を奉じ、恭敬に勉めよ」
士会は告老して、晋の正卿には郤克が就いた。
士会が晋の宰相を勤めた期間は僅か2年であった。
政界から引退した士会と、後を継いだ士燮の話がある。
ある日、士燮の帰りが遅くなり、夜更に朝廷から戻った。
士会がその理由を聞くと、士燮は答えた。
「秦から客が来て、謎かけを三つ出しました。
諸大夫は誰も答えられることが出来なかったので、私が三つ答えました」
それを聞き、士会は激しく怒った。
「諸大夫は答えを知らなかったのではない。年長者に譲ったのだ。
汝は若年でありながら、三回も先人に譲らなかったのか。
わしが晋国にいなかったら、汝は生きておらぬ」
士会は杖で士燮を打ち、冠の上についた簪が折れたという。




