第六十二話 荘王の覇業
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荘王は凱旋の帰国途上、申公の邑を通過した。
申公は食事を準備して楚王をもてなしたが、王は食事を摂らなかった。
公は自分に落度があったと畏れ、王に謝罪した。
「国君が賢人なら、賢臣の補佐を得れば王業を成す。
国君が凡君であっても、賢臣が援ければ覇業を成そう。
国君が愚昧で臣下がそれに劣るようであれば、その国は必ず滅ぶ。
わしは愚昧の君である。しかも家臣でわしに勝る者はいない。
このままでは楚国が滅びよう。世に聖人、賢人は絶えず現れるはずだのに
わしはそれらを得ておらぬ。どうして食事など出来よう」
邲の戦いにおいて、子重(公子・嬰斉)が王に三回進言したが
いずれも荘王の満足する内容ではなかった。
この時、それを思い出して憂いたのである。
楚は長く天変地異が起きず、平穏な日々が続いていた。
荘王は山川に祈祷してこう言ったという。「天は楚を忘れたのか」
この時代は、国君の過ちを戒めるために天変地異が起きると考えられていた。
それが起きないのは、国君に過ちがないためであると、普通は考えるが
荘王は天が自分を忘れているために、戒めを与えようとしないのだと考えた。
この2つの逸話は、楚荘王が常に奢らず、自分を戒めるべく心掛け
安泰の時でも危難を忘れなかったから、覇業を成せた事を示している。
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邲の役の終結後、鄭襄公と許昭公が楚に入朝した。
楚荘王は鄭伯に「貴国に楚と通じた者がいる。
鄭国を二分し、半分をわしに与え、残り半分を私しようとしている」と伝えた。
急ぎ帰国した鄭の襄公は、大夫・石制と公子・魚臣を謀反の疑いで誅殺した。
楚荘王によって複国した陳、楚に降伏した鄭、楚に帰順した許に続き
衛も晋との盟約に背き、陳の復興を援ける形で楚に服した。
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一方、楚に大敗した晋軍は晋都・絳に帰還した。
正卿・荀林父は敗戦の責を取るため、晋景公に死を請うた。
景公は同意したが、士渥濁がこれを諫めた。
「城濮の役で大勝した文公は喜びませんでした。楚の将・子玉が生きていたからです。
子玉が自害したと聞いた時、初めて勝ったと言いました。文公は楚に二度勝ったと言えます。
此度は我々が一敗地に塗れたわけですが、この上、さらに荀林父を処すれば
晋は楚に二度勝たせる事になりましょう」
景公は諫言を容れ、荀林父を赦し、正卿のままに据え置いた。
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一方、邲にあって下軍の将であった趙朔には非難が集まった。
趙朔と下軍の佐・欒書は共に撤兵派だったが、趙朔の叔父にあたる
下軍大夫・趙同と中軍大夫・趙括が主戦派であったために戦闘となり
早々に崩壊した中軍に巻き込まれ、下軍も全滅に近い被害を蒙った。
前年、晋の司寇(司法長官)になった屠岸賈は
先君・霊公を弑した趙盾を裁くため、趙氏一族を誅滅しようと考えている。
屠岸賈は諸将に宣言した。
「趙盾が直接行った訳ではないが、かの者が先君を弑逆した頭目である。
臣が君を弑しながら、その子孫が卿の地位にあるのは過ちである」
司馬の韓厥が反論した。
「あの時、趙盾は国境近くにいた。故に先君(成公)も趙盾を誅しなかった。
今になって趙盾の子を誅すのは、先君の意向に背く行いである」
韓厥は趙朔に伝えた。
「卿は他国へ出奔せよ。卿に罪はない。いずれ帰国する機会は来よう」
だが、趙朔は拒否した。
「卿が趙氏を絶やさないで頂けたら、私は死んでも恨みはない」
屠岸賈は景公の許可を得ずに趙氏の私邸を襲撃し、趙朔を殺した。
趙朔の妻・趙荘姫は晋の公室から降嫁してきた女性であったため
晋の後宮に戻る事を許されたが、この時すでに趙朔の子を懐妊していた。
数ヶ月後、趙荘姫は男子を産んだ。趙武と名付けられた。
趙朔の子が生きていると知った屠岸賈は趙武を探し出して殺そうとするが
屠岸賈の追及を逃れるため、趙朔の食客だった公孫杵臼が犠牲となり
趙朔の友人、程嬰の機転により、趙朔から趙家の再興を託された
韓厥の支援を得て、趙武は山中に隠れた。
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この頃、楚の重臣・子越の子・闘賁皇は晋に滞在していた。
邲の役で楚に大敗した後、正卿を処罰しなかった晋候の噂を聞き
晋に仕えてみるかと思い、士渥濁と面識を得た。
「楚の名族・若敖氏の血を引く者か」
「父の罪を雪ぐべく、然るべき主を求めて天下を周遊しておりましたが
晋候こそ我が主と見定め、お取次ぎを願いたく存じます」
士渥濁は高い見識と深い洞察力を持つ君子である。
まだ若いが、元より教養深く、諸国を巡る間に
地下の粉塵に塗れる経験を経て成長した闘賁皇を見て気に入った。
士渥濁は晋景公に闘賁皇を推挙し、苗の地を与えられた。
晋の大夫となった闘賁皇は以後、苗賁皇と呼ばれる。
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冬、楚荘王が䔥(しょう)国(現在の安徽省蕭県)討伐に向かった。
䔥は宋と同じ子姓の国であるため、宋の華椒が䔥の救援に向かった。
「王よ、将兵が寒に苦しんでおります」と、楚の重臣・巫臣は荘王に告げたが
荘王は宋と蔡が接近していると聞いたので、急いで䔥を陥とそうとした。
しかし、楚軍は䔥との戦いに敗れ、熊相宜僚と公子・丙は䔥の捕虜になった。
楚荘王は「我々は兵を退く。捕虜を殺さないでほしい」と伝えたが
䔥人は二人を殺したため、怒った荘王は䔥を包囲攻撃して、䔥国は楚に滅ぼされた。
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晋の先縠、宋の華椒、衛の孔達と曹人(おそらく大夫)が清丘(衛地)で盟約を結んだ。
この会盟で「困難がある国を援け、二心を持つ国を討伐する」という約定が交わされた。
当時、陳は楚に従っていたため、宋が盟約に従って陳を攻撃した。
これに対し、衛の孔達は宋の華椒に告げた。
「かつて衛候と陳候は友好関係にあり、29年前に晋が衛を攻めた時
陳は衛を援けた事があった。今度は衛が陳を援ける番である。
もし晋が攻めてきたら、私が責任を取って死ぬ事にする」
衛は陳を援けるために兵を出した。
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年が明けて、周定王の11年(紀元前596年)
斉の東方にある小国・莒は、毎年のように斉、魯からの侵攻を受けており
晋の盟下に入って斉、魯を牽制したが
邲の戦いで晋が楚に大敗したため、斉が莒を攻撃した。
楚荘王が宋に侵攻した。楚が䔥を攻めた時、宋が䔥を援けた事への報復である。
前年の清丘の盟に参加した晋、宋、衛のうち、宋は楚と対立して
楚の同盟国である陳を討伐したが、衛が陳を援け
晋は楚に攻撃された宋を援けなかったため、楚の侵攻を許した。
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晋の中軍の佐・先縠は前年の邲の戦いにあって
敗戦の戦犯であったため、晋の国人から強く非難された。
中軍の将・荀林父が非戦派で、責を問われなかったのに対して
先縠が主戦派だった事も大きな理由である。
荀林父に代わり、先縠に敗戦の罪を問い、これを誅するべし
という噂が晋国内を巡るに及び、先縠は謀反を企み、赤狄と結んだ。
赤狄は晋に侵攻し、清原に至ったが、晋景公はこれを討伐した。
景公は先縠に邲の敗戦と赤狄の侵攻の罪を問うたので
先縠は翟に奔って晋を攻撃しようと謀ったが、事前に捕えられ
先縠の一族は皆殺しにされた。
ここに、晋文公に仕えた功臣・先軫を輩出した先氏の一族は滅亡した。
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清丘の盟を破って衛が陳を援けたため、晋は使者を送って衛を譴責した。
晋の使者は「罪が明らかにならなければ、晋は衛を攻めるであろう」と言った。
これに対して衛の執政・孔達は
「陳を援けよと申したのはそれがしである。衛の社稷を守らねばならない」
と言って自害した。
衛穆公は孔達の首を差し出して晋に釈明した。
「衛国に不覚の臣・孔達あり、衛と晋の関係を悪化させた罪に服させた」
晋の使者は孔達の首を持って帰国した。
しかし衛候は「孔達は衛国を救った忠臣である」と称賛し
孔達の子に自分の娘を妻に娶らせ、執政の地位を継がせた。
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周定王12年(紀元前595年)夏
晋の景公は鄭攻めを決めた。邲の戦いで鄭が楚に従ったからである。
荀林父は「戦うまでもありません。晋師の武威を示せば、鄭は晋に帰順するでしょう」
と景公に語る。
晋候は鄭の討伐を諸侯に宣言した後、蒐(閲兵)のみで兵を還した。
しかし荀林父の思惑は外れ、鄭は晋に帰順しなかった。
鄭襄公は鄭穆公の孫・子張を楚に送り、子良と人質を交代した。
それまで楚の人質だった子良は鄭に帰国した。
帰国後、鄭の執政となった子良は楚に従属する方針を固めた。
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楚荘王は申舟を斉に送り
「斉に向かう途上で宋を通る時、宋に道を借りてはならない」と命じた。
また公子・馮を晋に送り
「晋に向かう途上で鄭を通る時、鄭に道を借りてはならない」と命じた。
申舟はかつて孟諸で宋昭公の僕を鞭打ったため、宋に憎まれている。
申舟は荘王に語った。
「鄭は楚に従属していますが、宋は晋に親しくしています。臣は宋で殺されるでしょう」
「汝が宋で殺されたら、わしが宋を討伐する」
申舟は子の申犀を荘王に預け、自分が殺された後の宋討伐を約束させた。
斉に向かった申舟は宋で捕えられた。
「楚の使者が我が国を通りながら道を借りないのは
我が国を楚の領地と見ているからだ。これは我が国が亡んでいるのと同じ。
ここの使者を殺したら、楚は必ず我が国を討伐し、滅ぶであろう。どちらも同じ事である」
宋の重臣・華元は申舟を殺した。
楚荘王は申舟との約束を守り、宋への出師を決めた。
その忙しさは、従者が慌てて王の後を追い、宮殿の庭で靴を履かせ
宮門の外で剣を渡し、荘王が蒲胥(地名)まで来た時
ようやく車が追いついて王を乗せたほどであった。
9月、楚軍が宋を包囲した。
荘王の厨房では肉が腐り、樽の酒も悪くなっていたので、将・子重が荘王に報告した。
「王の厨房は食が腐るほどあるのに、兵は飢えています。これで勝てるのでしょうか」
荘王は「将兵に十分な肉と酒を与えよ」と命じた。
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冬、魯の公孫帰父が斉襄公と穀で会見した。
そこで斉の大夫・晏弱と会い、魯国について語った。
晏弱は斉に帰国して上卿・高固に言った。
「公孫帰父は貪欲です。彼はいずれ魯から亡命するでしょう。
貪欲な者は人を陥れようとし、人を陥れる者は人から陥れられます」
魯の仲孫蔑が魯宣公に語った。
「小国が大国から攻められないようにするには、聘問と贈物をする事です。
宮庭に礼物を並べ、朝見して功を立てる必要があります。
大国からの譴責を受けてから財物を贈っても間に合いません。
今、大国の楚は小国の宋を包囲しています。我が魯も状況を良く見るべきでしょう」
宣公は納得して、翌年、公孫帰父を宋に派遣して楚荘王に会見した。
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楚軍に包囲されている宋は、晋に救援を告げた。
晋景公は援軍を送ろうとしたが、伯宗が反対した。
「今の晋に楚と戦う力はありません。天道は楚君にあります。
天には逆らえません。今は力を蓄える時期です」
景公は同意して、出兵を取りやめたが、大夫・解揚を宋に派遣して
「晋師は晋を出た。いずれ到着する。楚に降伏してはならない」と伝えさせた。
しかし、解揚は鄭を通った時に捕まり、楚に連行された。
楚荘王は解揚に賄賂を与え、逆の内容を宋に伝えるよう命じた。
「『晋帥は来ない。速やかに楚に降れ』と宋人に申すのだ」
「私は晋君の命に従います」と解揚はこれを拒否した。
荘王は三回命じ、ついに解揚は同意した。
解揚は楚の楼車に登り、宋の城壁に接近すると、宋人に向かって叫んだ。
「晋師は既に出発した。もうすぐ到着する。楚に降伏してはならぬ」
怒った荘王は解揚を殺そうとした。
「汝はわしに同意したのに背いた。汝は信を棄てた」
これに解揚が答えた。
「楚君は臣に賄賂を贈った。これに信はありません。
ひとたび晋君より命を受けた以上、たとえ死んでも君命は廃さないものです。
臣が君に同意したのは、晋君の命を奉じるためです。
これを果たせて死に場所を得るのは臣の望むところです」
荘王は解揚の忠義に感動して、釈放して帰国させた。
晋に帰国した解揚は卿に昇進した。
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楚軍による宋都の包囲は9ヶ月に及ぶが、未だ陥落しない。
ついに楚荘王は諦めて、宋からの退却を決断した。
しかし申犀が荘王に稽首して申し出た。
「父は死ぬと知って王命を果たしました。王は自分の言を棄てるのですか」
荘王は何も答えなかった。
荘王の御者・申叔時が助言した。
「宋都の周囲に家を建て、田を耕しましょう。それを見れば宋は降伏します」
荘王はこれに従い、退却を一時棚上げして持久戦の構えに入った。
城内にいる宋の国人は、長期に及ぶ籠城で、疲労は極限に達している。
しかも、いくら待っても晋の援軍は来ない。
そこへ楚軍が宋の城外に家を建て
耕作を行っているのを見た宋文公は、華元を楚軍に遣わした。
華元は楚の陣に入り、子反と面会した。
「宋君の言を卿に伝える。『もはや食は尽きた。たとえ国が滅ぶとも降伏はしない。
しかし、楚が一舎(30里)退くなら、楚君の命に従う』」
子反は荘王に報告して、荘王は軍を30里撤退させた。
宋文公は約束を守って楚と講和し、華元は人質として楚に行く事になった。
「楚が宋を騙す事なく、宋も楚を騙さない事を誓う」
かくして、宋は楚に服した。
宋が楚の盟下に入った時点で、楚荘王の覇業は成ったと言うべきであろう。
ここで初めて名前が出た趙武ですが
本場の中国では非常に人気のある人物で
中国の伝統芸能である京劇や、映画、TVドラマ、ミュージカルの題材にもなってます。
残されてる逸話などは、ちょっとご都合主義に過ぎますが
それを加味しても、RPGの主人公まんまな人生なのは
晋の文公・重耳と並び称されると思います。




