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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第六十一話 邲の戦い




           *    *    *



 

 「晋軍の一部が黄河を渡って南下した」


 この報せを聞いた時、楚軍は北上してえんに駐軍していた。

楚の中軍を率いるのは冷尹の孫叔敖そんしゅくごう

左軍は子重(公子・嬰斉えいせい)、右軍は子反(公子・側)が率い

黄河で馬に水を飲ませていたところであった。


 なお、黄河で水を飲むというのは、楚が北上して

中原に進出した事を、周の諸侯に、引いては後世にも示す事を意味する。



 すでに鄭は降伏して、目的は達しているため

楚の荘王は退却を考えたが、側近の伍参は晋との戦を主張した。


 一方、孫叔敖は反対の立場を取った。

「楚は昨年は陳を攻め、今年は鄭を攻めました。連年の出師で民は疲れています。

晋は陳や鄭より遥かに大国。もし戦って勝てなかった場合

失われる物は計り知れません。帰国しましょう」

孫叔敖は車と旗を南に向けて撤退の準備をした。


 伍参が荘王に進言した。

「晋は国君が出陣しておらず、晋軍を率いるのは荀林父じゅんりんぽです。

正卿に就任して、まだ間がないので、軍令は行き届いていないはず。

中軍の佐を勤める先縠せんこくは剛腹で仁がなく、命令に従わないでしょう。

上がこの有様であれば、兵など推して知るべし。晋と戦えば、必ず楚が勝ちます。

楚軍は国君が率い、晋軍は卿大夫が率いているのです。逃げれば楚の恥となりましょう」


伍参の進言を聞いた荘王は晋と戦う決断をした。

孫叔敖に北進を命じ、管に駐軍した。




           *    *    *




 一方、晋軍は先縠に引かれる形で黄河を南下して

敖山ごうざん鄗山こうざんの間に陣を構えた。


 この時、鄭の卿・皇戌こうじゅつが鄭伯の使者として晋軍の陣に入った。

「鄭が楚に従ったのは社稷を存続させるためであり

決して晋に二心を抱いたわけではありません。

楚師は勝利を重ねて驕っているため、備えがなく

しかも遠征が長引いているので疲弊しています。

貴国が楚を撃てば、鄭もそれに続きます。楚師は必ず敗れるでしょう」


 これを聞いた先縠は勇躍した。

「これは楚を破って鄭を服す好機。同意すべきですぞ」


 続いて欒書が発言する。

「楚君は即位以来、国政を怠らず、民をよく治め、将兵は命令に忠実です。

楚が驕慢になっているとは思えません。

それに対して晋は徳がなく、楚の怨みを招いています。

我々が曲(非道)で楚が直(正道)では

楚の師が老いている(疲労している)とは言えないでしょう。

鄭の執政・子良は人質として楚に入り、楚と鄭は親しい関係にあります。

鄭が晋に戦いを勧めるのは、晋が勝てば晋に附き

負けたら楚に属くためで、利用しようとしているだけです。鄭の言に従ってはなりません」


 趙括と趙同がこれに反論する。

「郷里よりはるばる師を率いて来たのは敵を求めるためです。

敵に勝って属国を得るのに、何を待つ必要がありましょう」


荀首は「ニ趙(趙同と趙括)は自ら禍を求めている」と戒めた。


 趙朔が発言する。

「欒書は至言なり。その言に従えば、晋国は長く存続できよう。

ここは退くべきである」



 晋の間で意見がまとまらない間、楚の少宰(官名)が晋に来陣した。

「寡君(楚荘王)は幼い時に凶事に遭い、文を成すことが出来ません。

(当時の外交上の定型文。文言で飾らず直接意見を述べる、という意味)

二先君(楚の成王と穆王)が鄭を攻めたのは、鄭を安定させるためでした。

寡君は晋の罪を得るつもりはありません。どうか兵を退いて帰国されたし」


 これに士会が答礼した。

「昔、周の平王は我が先君・文侯に

『鄭と共に周室を援けよ。王命を廃してはならない』と命じられました。

今、鄭はそれに従わず、寡君(晋景公)が臣らを送って鄭に罪を問うたのです。

貴君を煩わせるつもりはありません。ただ恭しく君命を拝すだけです。

(晋君の命を完遂するだけであり、楚と戦うつもりはありません)」


 これを知った先縠は、士会は楚にへりくだっていると感じ

趙括を送って楚の少宰に伝えた。

「行人(士会)の言には誤りがある。寡君は群臣を派遣して

大国(楚)を鄭から駆逐するように命じ『敵から逃げてはならぬ』と申された。

我々は君命から逃げることはできない」




           *    *    *




 楚陣に戻った少宰の報告を受けた孫叔敖は

なおも晋との決戦を避けるべく、和平の道を模索し

改めて使者を晋の正卿・荀林父に直接送った。


 元より、楚との戦に否定的な見解だった荀林父は

渡りに船と、孫叔敖の停戦案に同意し、晋楚の会盟の日が決められた。



 しかし、楚の許伯と楽伯、攝叔せっしゅくが晋に「致師(戦いを挑む事)」した。

許伯が車を御し、楽伯が弓矢を持って左に、攝叔がと盾を持って右に乗る。


許伯「致師とは、御者は旗が傾くほど車を疾駆させ、敵営に近接して還るものである」

楽伯「致師とは、車左は矢で敵を射ち、御者が車を降りたら御者の代わりに轡を取り

馬を整えたら還るものである」

攝叔「致師とは、車右は敵営に入って敵を屠り、捕虜を得て還るものである」

三人は晋陣に突進し、それぞれの役を果たして引き上げた。


 晋軍が三人の乗る兵車を追撃して、左右から挟撃した。

楽伯は左右から迫る晋の兵馬を射て、晋軍の動きを止めた。

だが楽伯の矢は残り一本しかない。

突然、鹿が現れたので、楽伯は鹿の背に矢を射て鹿を討ち取った。

晋の鮑癸ほうきが三人の兵車に追いつくと、攝叔は鮑癸に鹿を献上した。

「これを従者の膳にしてください」

鮑癸は鹿を受け取り、追撃を止めた。

「楚の車左は射術を善くし、車右は辞を善くする。彼等は君子である」

三人は無事に楚陣へ帰還した。




           *    *    *




 かつて晋の魏錡ぎき魏犨ぎしゅうの子)は、晋成公が定めた公族大夫の地位を求めたが

得ることが出来ず、不満を持ち、晋師の敗戦を望んでいた。

上にいる者が失敗すれば、下の者が昇格する機会が巡ってくるからである。


 魏錡は主戦派として致師の任を買って出たが、荀林父に拒否された。

代わりに使者として楚陣に行くことを許可された。

魏錡は楚と晋の交戦を要求するために楚陣に赴いた。


 趙旃ちょうせん趙穿ちょうせんの子)も卿の地位を望んでいるが

未だ得られておらず、不満を抱いている。

楚の致師(楽伯等)を逃したことにも怒って出陣を請うたが、許可されなかった。

そこで会盟を請う使者として楚陣に行くことを願い出て、許された。



 魏錡と趙旃が楚陣に向かった後、郤克が言った。

「あの二人は不満を持っています。備えをしておかなければ必ず敗れます」


 先縠が反論する。

「鄭人が戦いを勧めても従わず、楚人が講和を求めても同意しない。

一体、我々は何のために帥を率いてここまで来たのか。

出征しながら方針が一致しないのに、いくら備えても役に立たぬ」


 士会が言う。

「備えをしておいた方がいい。二子がもし楚を怒らせたら晋を襲うだろう。

この時に備えがなければ、我々は滅ぼされてしまう。

まず備えをして、楚に戦う意思がないと分かった時点でそれを解き

盟約を結んでも損することはない。もし楚が晋と戦う気であっても

備えがあれば患いはない。諸侯との会盟でも警するではないか」


 士会は上軍大夫の鞏朔きょうさく韓穿かんせんに命じて、敖山の七ヶ所に伏兵を置いた。

中軍大夫の趙嬰斉は部下を送り、黄河の畔に、万一の退却時に備えて舟を準備させた。


 しかし、先縠は動かず、何も準備をしなかった。

これが後に、晋の中軍と下軍に惨禍をもたらす。




           *    *    *


 


 7月13日、晋の使者として魏錡が楚陣に入った。

しかし、楚の潘党ばんとうが魏錡を追い返し、熒沢けいたくまで追撃した。


 魏錡は逃走中に六頭の鹿に遭遇し、これらを射ち取ると、振り返って潘党に献上した。

潘党は兵を還した。


 夕刻には趙旃が楚陣に接近し、軍門の外に席を設け、部下を営内に入れた。


 楚荘王の右広は早朝の鶏が鳴く時間になると車に乗って戦闘態勢に入り

正午になると左広と交代し、日が沈むと左広も戦闘態勢を解く。

荘王が右広にいる時は、許偃きょえんが御者を、養由基ようゆうきが車右を勤める。

荘王が左広にいる時は、彭名ほうめいが御者を、屈蕩くつとうが車右を勤める。


 趙旃が楚陣に接近して部下を営内に派遣すると

左広にいた楚荘王は兵を率いて趙旃を駆逐した。

趙旃は車を棄てて林に逃げた。屈蕩が車から降りて趙旃と戦い、その戦袍を得た。



 魏錡と趙旃が楚陣に向かった後、晋の荀林父等は

二人が楚軍を怒らせ、戦端が開かれる事を恐れ

兵車を出して連れ戻しに行かせた。



 この時、魏錡を追い返した潘党は、遠くに砂塵が舞い上がるのを見て

急いで本陣に戻って「晋師が動いた」と伝えた。


楚軍は趙旃を駆逐した荘王が晋軍に包囲されることを恐れた。

孫叔敖が言う。「進攻しよう。我々が人を逼迫しても、我々が人に逼迫されてはならぬ」

楚の三軍が荘王を救うべく、大挙して晋軍を襲った。




           *    *    *


 


 不意を突かれた形となった晋軍は楚の勢いに圧倒され

晋の元帥・荀林父は軍中で戦鼓を叩き

「先に黄河を渡った者に賞を与える」と宣言した。退却命令である。


 晋軍は一斉に後退を始め、中軍と下軍が黄河に向かった。

趙嬰斉は事前に舟を準備していたが、数が足りず

渡河出来たのは一部の将兵だけだったため、兵達は争って舟に乗ろうとする。

岸を離れた舟に乗ろうとして、舟の縁に手をかけた途端

舟が大きく傾き、沈みそうになったため、縁を掴む兵士の指を

舟上の兵が次々に斬り落とし、縁を掴む指を失った兵は黄河に沈んでいった。

斬られた兵士の指は舟の中に溜まり、掬って捨てるほどであったという。



   この時の情景を、前漢時代の歴史家・司馬遷は著書「史記」で

   『船中人指甚衆(舟の中は、人の指で溢れ返った)』と

   漢字六文字だけで、この惨状を表現している。



 楚の工尹・斉が右拒(右の方陣)を率いて、撤退する晋の下軍を追撃する。

全く備えをしていなかった下軍は士気も騰がらず、楚軍の猛攻に耐えかねて

数多の晋兵が黄河に追い落とされて溺死した。



この戦いが始まる前に、楚荘王は唐狡とうこう蔡鳩居さいきゅうきょを楚の同盟国・唐に送っている。

「わしは不徳かつ貪婪なため、大敵を招いてしまった。

これは我が罪である。もし楚が敗れたら、貴君の恥にもなろう。

出師を成功させるため、貴君の援けを借りたい」


 唐恵侯は出兵に同意し、潘党と共に

楚の左拒(左の方陣)を率いて晋の上軍と対峙する。



 晋は中軍と下軍が右(黄河方面)に移ったが、士会の率いる上軍は動かない。

郤錡げきき(上軍の佐・郤克の子)が士会に「楚軍と戦いますか」と尋ねた。


「楚兵は強い。上軍のみで戦っても全滅する。退却するべきだ。

敗戦の誹謗と屈辱を諸将と分け合い、兵を生還させれば今後に活かせよう」


 あらかじめ伏兵を置いていた士会は、自ら後殿しんがりとなり

追撃する楚軍を的確に討ち破りつつ、秩序を保って粛々と退却した。

晋は中軍と下軍が壊滅したが、上軍は軍容を損なわず、一人の死者も出さなかった。


 春秋時代を代表する名将・士会の武名を後世に轟かせたのが、この撤退戦であった。

もし士会が中軍の将であれば、勝敗の帰趨はどうなっていたであろう。




           *    *    *


 


 楚荘王が陣に戻って右広の戦車に移ろうとしたら屈蕩が言った。

「王は左広で戦を始めました。ここで戦を終えるべきです」

この戦いの後、楚王が戦に臨む場合、常に左広の車に先に乗る決まりが出来た。



 晋軍の兵車が一台、穴に嵌って動けなくなった。

追撃していた楚兵は、車前の横木を外せば穴から出られると教えた。

この助言で晋の兵車は脱出したが、少し進むと馬が同じところを回って前に進まなくなった。

楚兵は旗と衡(馬の動きを規制する横木)を外し

車を軽くして馬を動きやすくするように教えた。


 この逸話は楚が晋を急追するつもりがないことを示している。

戦勝した楚荘王はこの時に「晋楚は仲が良くないが、両国の民に罪はない」と言ったという。


楚兵は荘王の意志に従い、晋軍を追いつめなかった。



 一方、助けてもらった晋兵は振り返ると嘲笑して言った。

「我々は楚人のように何度も逃げ回ったことがない。

楚兵のように逃げる事に慣れていないから、どうすればいいか分からなかった」


単なる負け惜しみに過ぎない。

敗れても驕慢な晋と、覇者の風格と余裕を持つ楚王の対比として書かれている。



 楚荘王に追い返された趙旃は、二頭の良馬に車を牽かせて

兄と叔父を逃げさせると、他の馬に自分の車を牽かせて退却を始めた。

しかし楚軍に遭遇して動けなくなったため、車を棄てて林に逃げた。


 この時、晋の逢大夫が二人の子を車に乗せて逃げて来た。

逢大夫は趙旃を見つけたが、助けたくないため

二人の子に「振り返ってはならない」と命じた。

しかし二人の子は振り返って「趙旃が後ろにいます」と言った。

逢大夫は怒って二人を降ろすと、近くの木を指さし

「ここで汝等の屍を拾うことになるであろう」と言った。

逢大夫は趙旃に縄を渡して車に乗せ、二人の子を置いて逃走した。

趙旃は助かったが、翌日、二人の子が木の下で重なって殺されていた。



 楚の大夫・熊負羈ゆうふきが退却中の知罃ちおう(字は子羽。荀首の子)を捕えた。

それを見た荀首は族人を率いて退き返した。

魏錡が御者になり、下軍の多くの士が従う。


 荀首は自分が背負っている矢袋から矢を取り出すと、射る前に確認し

良い矢は使わず、魏錡が背負っている矢袋に入れた。

魏錡が怒って言った。「あなたは自分の子より矢が大事なのか」

荀首が言う。「人の子を得なければ、わしの子を得ることもできない。

むやみに良い矢を使ってはならない」


楚軍に遭遇した荀首は連尹・襄老を射殺してその屍を車に乗せ

公子・穀臣こくしんを射て捕えてから、兵を還した。


この戦から8年後、襄老の死体と公子・穀臣は楚に帰り、知罃は晋に帰国した。




           *    *    *



 

 日が暮れる頃、楚軍はひつ(鄭地)に駐軍した。

晋の残った軍は戦う能力がなく、夜を通して黄河を渡った。

士会の率いる上軍も、この時に黄河を北上して還った。



    かくして楚と晋による大会戦「邲の役」は終わった。楚の圧勝である。

    楚の冷尹・子玉が晋の文公に大敗した「城濮の役」から36年が経ち

    楚の荘王は先君・成王の雪辱を果たしたのである。

    この戦後、楚は中原に進出して、諸侯ことごとく楚に服する事になり

    一方の晋は敗戦で受けた被害により、積極的な行動に出られず

    その勢力を黄河以北に釘付けにされ、荘王の存命中は中原から遠ざかった。



 翌、7月14日、楚軍の輜重が邲に到着して、楚軍は衡雍に駐軍した。


 潘党が荘王に言った。

「敵を破れば功績を子孫に示すものです。

晋兵の屍を集めて京観(敵兵の死体を積んで土をかぶせた高台)を作りましょう」


 荘王が言う。

「『武』という文字は『止』と『戈』で成り立つ。周武王は商に勝ち、こう歌った。

『干戈を納め、弓矢をしまおう。わしは美徳を求め、大楽に述べ、王となり天下を保つ』

『紂を滅ぼし、功を定めた。征討するのは、ただ安定を求めるためである』

『全土を安んじ、毎年豊作になるように治めよう』


つまり、武とは暴を禁じ、戦いを止め、強大な国力を保ち、功業を安定させ

民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする事で、子孫にその功を伝えるためにある。


今、わしは二国の兵屍を晒した。これは暴である。

兵によって諸侯に威を示したが、これでは戦いはなくならない。

暴を禁じず、戦を止めさせる事が出来ねば、強国を保つことは出来ぬ。

晋が存在している間は、楚は心安らかにはなれない。

安寧を望む民の願いに背けば民を安んじる事は出来ない。

徳を修めずに力で諸侯と争ったら衆を和す事は出来ない。

人の危機を自分の利とし、人の乱に乗じて自分の栄えとすれば、豊かになれない。


武には七徳(禁暴・停戦・保大・定功・安民・和衆・豊財)があるが

晋に武を用いたわしに一徳もないようでは、子孫に功を示すことは出来ない。


昔の聖王は不敬な者を討伐し、その元凶を殺し

その一党を誅滅して京観を築き、懲らしめたのである。

今、晋の罪は明らかではなく、その民も忠を尽くして君命のために死んだ。

京観を作って懲らしめるべきではない」


荘王は河神を祭り、先君の宮を造り、戦勝の報告をしてから兵を還した。



 楚の荘王・旅は覇気に富み、賢臣に恵まれ、彼らをよく使いこなし

楚の歴代君主でも事績と徳業に於いて他に比肩する者なく

斉桓公、晋文公、秦穆公と並んで春秋五覇の一人に挙げられる。


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