第六十話 陳の滅亡
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周定王の9年(紀元前598年)春
楚の荘王が鄭を討伐して、櫟に至り、鄭は楚に服従した。
鄭穆公が卒去してから8年の間に
鄭は晋から5回、楚から7回攻め込まれた。
鄭の執政・子良(公子・去疾)は賢良で知られるが
もはや鄭を取り巻く状況は如何ともし難く
この時に子良が呟いた言葉から、その諦観ぶりが伺える。
「晋も楚も徳を修めず、兵を用いて争っている。
我々はただ、来た者と結べばいい。
晋も楚も信がない。我々に信がなくても当然だ」
夏、楚荘王が夷陵で陳侯、鄭伯と会盟した。
この時の鄭伯は襄公で、陳侯は夏徴舒である。
父・夏御叔と母・夏姫を侮辱されて主君・陳霊公を暗殺し、自ら陳候となった男である。
荘王は陳の先君を弑逆した夏徴舒を簒奪者として捕えようとした。
夏徴舒は夷陵から逃亡して、陳に帰国した。
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楚で最高の官職は冷尹で、孫叔敖がこの地位にある。
孫叔敖は楚王の命令で、楚の邑・沂に築城を開始し
僅か30日で堅固な城が完成した。孫叔敖の有能を示す逸話の一つである。
冷尹を補佐する地位に左尹と右尹があり、荘王の弟・子重が左尹である。
10月に築城が完了して、左尹・子重は楚帥を率いて陳へ侵攻し
楚荘王は郔(位置不明)で待機した。
楚荘王は子重からの使者に陳の様子を尋ねた。
「陳を攻撃するべきではありません」
「その理由は如何」
「陳都の城壁は高く、濠が深く、蓄えも豊富です。
これを陥とすまでに、多くの楚兵を失うでしょう」
これを聞いた寧国が言う。
「陳を討つべきです。陳は小国なのに、蓄えが豊富なのは
税が重く、民を搾取しているからです。民は上を怨んでいるでしょう。
城壁が高く、濠が深ければ、民力は疲弊しています。
これを討てば、必ず取れるでしょう」
荘王は寧国に同意し、陳に軍を進めた。
楚軍が陳の領内に入ると、陳の民はみな恐れ慄き、逃げ惑ったので
荘王は彼らに宣言した。
「我らは少西氏の討伐に来ただけである、汝らに危害は加えぬ」
少西氏とは陳候・夏徴舒を指す。
陳宣公の庶子が少西(字は子夏)で、少西が夏御叔を生み
そして夏御叔と夏姫の間に産まれたのが夏徴舒である。
寧国の進言通り、陳君は陳の民に恨まれており
さしたる抵抗もなく陳都は陥落した。
10月11日、楚帥は陳に入って陳候・夏徴舒と母の夏姫を捕えた。
夏徴舒は都の市に引き出され、車裂きで処刑され、死体は城門に晒された。
荘王は夏姫も処刑するつもりであったが、夏姫を一目見た途端
その美しさに陶然とし、これを後宮に入れる事にした。
陳国は楚の領土に編入され、荘王は夏姫を伴って帰国した。
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この頃、楚の大夫・申叔時が斉を訪問しており
楚が陳を滅ぼした頃に帰国した。
申叔時は荘王に服命した後、何も言わずに退出したので、荘王が譴責した。
「夏徴舒は先君を弑し、みずから陳候となった。
よって、わしは無道の君を討伐し、これを誅殺した。
諸侯も群臣も、みなわしを祝賀する。なぜ汝だけ祝賀せぬ」
申叔時はこう述べたと言う。
「夏徴舒が君を弑逆した罪は大きく、これを討ち、誅殺したのは義によるものです。
諸侯が王に従ったのは、罪ある者を討つためでした。
しかし、王が陳を自国の領土にしたのは、富を貪るためです。
討伐を名義にして諸侯を集め、貪婪によって終了したら
天下に号令することは叶わないでしょう」
荘王はこれを聞いて深く反省した。
「わしにこのような諫言をする者は今までいなかった。陳は複国すべきであろうか」
「奪った物は還すべきです」
楚荘王は陳を複国させるべく、晋に亡命していた陳霊公の太子・午を陳に呼び戻し
陳君に即位させた。陳の成公である。
楚に亡命していた陳霊公の家臣、孔寧と儀行父も陳に戻った。
後年、孔子は荘王を称賛して語った。
「楚荘王は賢人である。千乗の国(陳国)を軽んじ、一言(申叔時の進言)を重んじた」
荘王は夏姫を後宮に入れようとしたが、申公・巫臣が反対した。
「王が諸侯を集めたのは、夏氏の罪を討つためです。
夏姫を妃妾にすれば、色を貪ることになります。
貪色は淫であり、淫は大罰です。王には良く考慮して頂きたい」
荘王は諫言に納得して夏姫を諦めた。
荘王の弟・子反が夏姫を娶ろうとしたが、またも巫臣が諫めた。
「夏姫は不祥の人である。最初の夫・子蛮と二人目の夫・夏御叔は共に夭折し
陳侯は弑逆され、夏徴舒は戮され、孔寧と儀行父は亡命し、陳国は滅んだ。
これほどの不祥な者は他にいない。夏姫を得たら、良い最期は迎えられない。
天下には多くの美姫がいる、彼女でなければならない理由はない」
子反も夏姫を諦めた。
結局、夏姫は楚の連尹・襄老の妻となった。
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さて、荘王の太子は審と言い、傅(教育者)をつける年齢となった。
傅は次代の国君の師でもあるため、絶大な権限を奮う事が出来る。
故に知識と能力、そして徳の高い者を選ばねばならない。
荘王は大夫・士亹を太子・審の傅に任命しようとしたが
士亹は「臣は才浅く、傅の大任に耐えられないでしょう」と断った。
荘王は「汝であれば太子を善に導く事が出来るはずである」
と言ったが、士亹は首肯せず、こう言った。
「善になるかどうかは太子次第です。太子が善を欲すれば善人が集まります。
善を欲しなければ、善人がいても用いることができません」
しかし、荘王は士亹を太子の傅に任じた。
士亹は大夫・申叔時に意見を求めた。
「春秋(歴史)を教えることで、善を勧めて悪を抑える事が出来よう。
先王の係累と事績を教え、明徳の王は顕揚され、幽昏の王は廃されることを理解させ
太子の徳行を励まし、相応しくない言動を制限すればいい。
もし太子が教えに従わず、行動を改めないのであれば
賢良の人材に補佐させるべきである」
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魯の公孫帰父が斉と共に莒を攻めた。
莒都は現在の山東省日照市莒県にある小国で
萊と同じく、しばしば斉、魯の侵攻を受ける。
晋の正卿・郤缺が白狄の族・衆狄との講和に望んだ。
衆狄は白狄の東部に拠点を置く小国で、隣接する赤狄の族から常に圧迫され
労役に苦しんでいたため、晋に帰順する事を決めた。
秋、晋景公が狄地・欑函に入り、狄の主と会見する。
景公が出発する前に、晋の諸大夫は狄の主を呼び出そうとしたが、郤缺は反対した。
「徳がない者は勤労でなければならない。
勤労を棄てて人に何かを要求する事は出来ぬ。
狄主を呼び出すのではなく、我々が自ら彼等の地に行くべきだ。
周文王も勤労であったと聞く。文王より徳の薄い我々は尚更である」
狄の諸族はこの会合で晋を信頼して、以後、晋の北境は平和になった。
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周定王10年(紀元前597年)春になり
陳成公はようやく国内を鎮撫させ、安定したので、先君・霊公を埋葬した。
この頃、晋の正卿・郤缺が亡くなり、子の郤克が後を継いだ。
通常、晋では卿が世代を後退する場合、最下位の下軍の佐から始まるが
晋景公は郤克を引き立て、第四位の地位である上軍の佐に抜擢して
上軍の将となった名将・士会を補佐する立場となった。
正卿、即ち中軍の将に任じられたのは荀林父
次卿となる中軍の佐は先縠が任命された。
前年、鄭は楚と辰陵で会盟したが、その後すぐまた晋に服したので
楚荘王が鄭を攻撃して、鄭都・新鄭を17日間に渡って包囲した。
鄭伯は楚との講和を考え、太史官に卜わせたら「不吉」と出た。
次に「太廟に臨んで大哭し、巷街に車を出す」と卜うと「吉」と出た。
「巷街に車を出す」の意味は二説あり
一つは「城中に兵車を連ね、陣を構えて戦いの姿勢を見せる」という説と
「鄭を棄て、他の地に遷る姿勢を見せる」という説である。
鄭の国人は太廟で大哭し
陴(城壁の低くなった場所)を守る将兵も城壁の上で大哭した。
兵車や馬車が城内の街路に並べられた。
それを知った楚荘王は一時兵を退き、その間に鄭人は城を修築した。
暫くして楚軍が再び新鄭を包囲し、三ヶ月後に陥落した。
楚荘王は外城の門から新鄭に入城し、逵路(大通り)に至り
鄭襄公は肉袒牽羊して楚荘王を迎えた。
「肉袒牽羊」とは、上着を脱いで上半身裸になり、羊を惹くという意味で
降伏して相手に服従し、臣僕となることを請願する四字熟語である。
降伏した鄭襄公が楚荘王に言う。
「孤(私)は天を奉じず、君に仕えず、逆に君を怒らせ、敝邑に招いてしまいました。
これは孤の罪なので、たとえ我々を捕虜として辺境に放逐しようとも
敝邑を諸侯に分け与え、我々を奴隷に落としたとしても、その命に従います。
しかし、もし以前の友好を考慮し、鄭の社稷を滅ぼすことなく
君に仕える事が出来るなら、それは君の恩恵によるものです」
楚荘王の近臣が王に語った。
「鄭を赦してはなりません。我々は鄭を得ました。これを捨てる必要はありません」
しかし、荘王は鄭を赦した。
「鄭君は人の下に立つことが出来る。必ず信によって民を用いるであろう。
鄭はまだ滅びる時ではない」
楚王は軍を三十里撤退し、鄭の講和を受け入れた。
楚の師叔が鄭に入って盟を結び、鄭の執政・子良は人質として楚に送られた。
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6月、晋が鄭を救うために三軍を動員した。
中軍の将は荀林父、佐は先縠、中軍大夫は趙括と趙嬰斉
上軍の将は士会、佐は郤克、上軍大夫は鞏朔と韓穿
下軍の将は趙朔、佐は欒書、下軍大夫は荀首と趙同である。
全軍を監督する司馬は韓厥が任命された。
だが、晋の大軍が黄河に至った時、鄭が既に楚と講和したと知り
中軍の将・荀林父は退却を考えた。
「既に鄭の救援に間に合わないのに、出兵によって民を煩わしている。
敢えて戦う必要はない。楚帥が退いてから動いても遅くはない」
上軍の将・士会もこれに賛成した。
「用兵は相手の状況を確認して動くものです。
楚王は徳を修め、礼を守っているので、敵にしてはなりません」
しかし、中軍の佐・先縠が反対した。
「晋が諸侯に霸を称えているのは、我々に武力があるからです。
諸侯を失えば力が失せ、敵がいるのに戦おうとしなければ、武を失うでしょう。
師を整えて出征しながら、敵を前にして退くべきではありません」
先縠は中軍の佐に属す兵を率いて黄河を渡った。
上軍の佐・郤克が司馬の韓厥に
「先縠は元帥(荀林父)の命令を無視した。処罰すべきである」と言った。
しかし韓厥は、郤克を嫌っているため、彼の発言を取り上げなかった。
下軍大夫・荀首が言った。
「先縠の師は危険である。楚軍に遭遇したら必ず敗れるだろう。
仮に先縠が生きて還れたとしても、大咎から逃れることは出来ない」
司馬の韓厥が荀林父に告げた。
「先縠が偏師(一部の兵)を率いて難に陥れば
責任は元帥である卿の責任となります。
鄭国を失い、師までも滅ぼしたら、重い罪になりますから
ここは元帥として、全軍に進軍を命じるべきです。
全軍で戦えば、敗れたとしても、敗戦の責任は分担されます。
元帥一人で全ての罪を被るより、六人で罪を分けた方が宜しいでしょう」
荀林父は全軍に前進を命じた。
ついに60話まで来ました!
この時期は晋と楚が泥沼の交戦状態で
その間にある鄭は悲惨な事になってました。
この状況を例えるなら、ロシアとドイツに挟まれたポーランドでしょうか。




