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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第五十九話 夏姫の乱




           *    *    *




 鄭と同様に、晋と楚の間で、幾度も盟約と破棄を繰り返す国がある。

宛丘(現在の河南省周口市淮陽区)のに都を置く、姓の国・陳である。


 元より、どっちつかずの外交を続ける諸侯は鄭、陳の二国に限らず

中原の小国は晋・楚両大国の顔色を窺いつつ、戦々恐々としている。

いつの世も、小国には悲哀が付きまとう。



 周定王6年(紀元前601年)、陳と晋が講和したので、楚が陳を討伐した。

そして陳は楚と講和し、楚は兵を還した。


 

 周定王は卿士・単公ぜんこうを宋に送って聘問へいもんさせた。

宋の後は楚を聘問するため、陳に道を借りた。

すでに天子の使者であっても、諸侯の道を通る時は許可を求める必要があった。

天子の権威が失墜している証の一つであろう。



    7年前に逝去した鄭穆公には娘がいた。『夏姫かき』という名で知られる。

    夏姫の母は穆公の少妃・姚子で、公子・かくの妹にあたる。

    最初は公子・蛮に嫁いだとされるが、蛮は夏姫の兄という説があり

    蛮が夭逝した事から、世の悪評を畏れた穆公に誅されたのかもしれない。

    蛮の死後、夏姫は陳国の大夫・夏御叔かぎょしゅくに嫁いだので、現在、陳にいる。



 単公が陳に入ると、道は雑草が生い茂り、移動に難儀した。

候人(賓客の対応をする官)は現れず

司空(道を管理する官)は巡視せず

湖沢には堤防がなく

河川に橋が架かっておらず

膳夫(賓客の食事を担当する者)は提供する食もなく

里宰(客館を管理する者)は宿の準備をせず

寄寓(旅人が住む施設)がなく

郊外には施舍(旅人が休憩する施設)もなかった。


 陳国の民は陳霊公の命令で、夏御叔の家に楼台を建てるため、労役に駆り出されていた。

陳霊公と、側近の孔寧こうねい儀行父ぎこうほの三人は南冠(楚国の冠)を被り

夏御叔の家に住み、主人の夏御叔を放逐して、夏姫の美肢を代わるがわる姦通し

周王からの賓客である単公に会おうとしなかった。



    その昔、晋献公の寵愛を一身に受け、晋国を大乱に陥れた妖女・驪姫りき

    夏姫は父・穆公から受け継いだ美貌で、驪姫と同様に乱を招き

    その生涯で一君、一子、一国、二卿を滅ぼす事になる。



 夏姫による傾国を最初に予期したのは単公かもしれない。

楚国より帰国した単公は定王に「陳は必ず亡ぶでしょう」と報告した。




           *    *    *




 年が明けて、周定王7年(紀元前600年)

春正月、魯宣公が斉を聘問した。


 周定王が魯に聘問するよう要求したので

魯の仲孫蔑ちゅうそんべつが京師(周都)に入って周定王を聘問した。

定王は仲孫蔑に礼があったため、財物を下賜して厚くもてなした。



 夏、この年も斉国はらいを攻撃した。

斉にとって萊の併呑は国祖・太公望以来の悲願だが

険阻な地形に阻まれ、思うように成果が出せない。



 秋、魯が東北に位置する東夷の小国・根牟こんぼう国を占領した。



 9月、(鄭地)で晋成公、宋文公、衛成公、鄭襄公、曹文公が会した。

晋を中心とする中原諸侯の連合に従わない勢力を討伐するための話合いである。


 陳霊公は楚に従属しており、会に参加しなかったため

晋の荀林父じゅんりんぽが諸侯の軍を率いて陳を討伐したが、陳が降伏する前に兵を退いた。


 晋成公が会盟の途中、扈で薨去したのである。

成公の遺体は晋に運ばれて葬儀が行われた。

次の晋君には成公の太子・孺が即位した。晋の景公である。



 10月15日には、扈の会盟に参加していた衛成公も崩御した。

成公の太子・速が衛候に即位した。衛穆公である。


 扈の会盟に参加した国君が二人、ほぼ同時期に亡くなったのは

この地に疫病が流行していたのかもしれない。



 間もなく、楚の荘王は鄭を攻撃した。

晋が主宰した扈の会盟に参加し、盟約を結んだ事が理由である。

また、晋は国君が亡くなり、幼君が即位した直後で

鄭に救援を出す余裕はないとの判断もあった。


 だが、鄭からの急使を受けた晋の正卿・郤缺げきけつ

即座に軍を率いて鄭に向かった。楚王の目論見は外れた。


 鄭襄公は晋軍と協力して柳棼りゅうふん(鄭地)で楚軍を破った。

鄭の国人は皆喜んだが、子良(公子・去疾)は憂いた。

「小国が大国に勝つ事は災だ。わしが死ぬ日は近いであろう」



 陳霊公と孔寧、儀行父の三人は夏姫の下着を身につけて朝廷で戯れた。


 大夫・洩冶ろうやが霊公を諫めた。

「国君や卿が淫に堕しては民を導くことができません」


霊公は孔寧と儀行父に命じて、洩冶を誅殺した。




           *    *    *




 翌、周定王8年(紀元前599年)


 春、魯宣公は斉に朝見し、魯が斉に服したので

斉恵公は、かつて魯から割譲された済水西の地を魯に返還した。


 ほどなく斉恵公は亡くなり、太子・無野が即位した。斉頃公である。

魯宣公が恵公の葬儀に参加した。


 生前、斉恵公は崔氏一族を重用していたため

崔氏は斉国において大きな影響力を持ったが

上卿の高固、国佐に疎まれた。

恵公の没後、崔氏は国、高二氏から弾圧され、衛に出奔した。


 斉は斉候、国氏、高氏の三族がその支配地域を三分しており

対外的には斉候が斉の国君であっても、国内統治は三頭体制で

国氏と高氏の領地には斉候も介入できない、半独立勢力である。




           *    *    *




 陳国で「夏徴舒かちょうじょの乱」が発した。


5月8日、陳霊公、孔寧、儀行父が夏徴舒(夏御叔と夏姫の子)の屋敷で宴を開いた。

宴席で霊公は儀行父に「徴舒は汝に似ている」と言うと

儀行父は「主君にも似ています」と応えた。


 夏徴舒は霊公等の戯言を耳にして、激しく憎んだ。

霊公が部屋を出た時を狙い、夏徴舒は馬厩から矢を射て、霊公を殺した。


 霊公が殺されたのを見た孔寧と儀行父は

夏徴舒を畏れて楚に奔り、霊公の太子・午は晋に出奔した。

夏徴舒が自ら陳君に即位した。




           *    *    *




 魯の大夫・公孫帰父こうそんきほが斉に行き、斉恵公の埋葬に立ち会った。



 前年、楚を破った鄭は、報復を恐れて楚と講和した。

そのため、今度は晋・宋・衛・曹が鄭を攻撃した。

鄭が諸侯と講和したため、諸侯は兵を還した。



 秋、周定王が卿士・劉公を魯に送って聘問させた。

劉公は魯の卿大夫に礼物を贈った。


魯の上卿・季孫行父きそんこうほ仲孫蔑ちゅうそんべつは質素だったが

下卿・叔孫僑如しゅくそんきょうじょと公孫帰父は奢侈であった。



 劉公が帰国すると、定王は魯の卿大夫で誰が賢人かを尋ねた。

「季孫氏と仲孫氏は魯で長く存続し、叔孫と東門(公孫帰父)は亡びるでしょう。

たとえ家が亡ばないとしても、その身が禍から逃れることはできません」


 定王がその理由を聞いたので、劉公は王に答えた。

「臣は臣らしく、君は君らしくなければいけません。

寛大、厳粛、公正、仁愛が主君の姿で、忠敬、謹格、恭順、倹朴は臣下の姿です。

季孫・仲孫の二子は倹であり、財を満足させる事ができます。

民から搾取することなく、宗族が国人の支持を得られるでしょう。

叔孫・東門の二子は奢侈でした。これでは困窮した者を憐れむことができず

必ず憂いが訪れます。人臣が上を顧みず、自身を富ませようとしたら

国はその負担に堪えることができません。これは滅亡の道です」


 定王が「叔孫・東門の滅亡はいつになろう」と聞くと、劉公が語った。

「東門(大夫)の位は叔孫(下卿)に劣りますが、叔孫よりも奢侈です。

二君に仕えることはないでしょう。

叔孫(下卿)の位は季孫・仲孫(上卿)に劣りますが、季・孟より奢侈です。

三君に仕えることはないでしょう。

それぞれが早死すれば家の滅亡は防げるかもしれませんが

そうでなければ害悪が増え、必ず家を滅ぼすことになります」



      後年の事であるが、魯宣公の没後、公孫帰父は斉に出奔した。

      宣公、一君のみにしか仕える事が出来なかった。

      それから16年後には、叔孫氏も斉に出奔した。

      宣公の次代の魯候が卒する2年前で、二君に仕える事は出来たが

      次の魯候に仕える事はなかった。


      劉公が王に語った通りになった。




           *    *    *




 魯の大夫・公孫帰父が小国・ちゅうを攻め、しゃく邑を取った。

邾の君主が斉に訴えたので、魯の季孫行父が釈明のために斉を聘問した。


 冬には公孫帰父が繹から搾取した贈物を携えて斉に行った。

魯が小国の邾を侵したことに斉が介入するのを避けるためである。

斉は返礼の使者として上卿・国佐を魯に送った。


 この年、魯で洪水が起き、作物が流され、飢饉が襲った。



 鄭が晋を含む諸侯と講和したため、またも楚荘王が鄭を攻撃した。

晋の士会が諸侯の軍を率いて鄭を援け

楚師を潁水えいすいの北で撃退した。



 鄭の執政・子家が亡くなり、鄭人が子家の一族を攻撃した。

子家は穆公の代から鄭に長く仕え、多くの功を残したが

6年前、鄭の先君を弑逆した報いを、その死後に蒙る事となったのである。

子家の棺は破壊され、族人は駆逐され、鄭を出奔した。


鄭人は子公と子家に弑逆された鄭幽公を改葬して

諡号を「幽」から「霊」に改め、鄭霊公となった。


鄭襄公は子家に代わって子良を鄭の執政に任じた。



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