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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第五話 平王卒し、桓王立つ

この時代、貴人は死後「諡」が贈られます。

諡は183文字あり、生前の事績から選定されます。


鄭荘公の場合、生前そう呼ばれていたわけではなく

死後「荘」と諡されて「鄭の荘公」と称されるようになりました。


作中で「鄭伯」と呼ばれているのは

「鄭国の君主で、爵位は伯爵」という意味が込められています。




      *    *    *




 周平王は、鄭荘公が自国の事で多忙であったせいで

長く参内しない事が不満であった。


そう思っていた矢先に虢公かくこう忌父きほが尋ねて来た。


「鄭伯は長年、卿士として朝政を司って来たのに、参内しなくて久しい。

そこで、汝に政務の代理をやって貰いたい」


「鄭伯が参内しないのは国元で有事があったのでしょう。

私が代って朝政を行えば、鄭伯は私を恨み

王に対しても不満を抱くでしょう。いかな王命とはいえ、承諾致しかねます」


平王は再三頼んだが、虢公は頑なに拒み

承諾しないまま、本国へ帰ってしまった。




      *    *    *




 鄭荘公は、平王が虢公に政務を依頼したという噂を聞き

急ぎ周都・洛邑へ行き、平王に謁見した。


「臣は大恩を蒙り、先君より三代に渡って朝政を司って参りましたが

重職を全うする能力がございません。

そこで卿士の地位を返上し、ただ封地をのみ守っていきたいと存じます」


「卿が長く政務を執ってくれなかった事、ずっと気に懸けておった。

此度、帰って来てくれた事を嬉しく思う。

なぜ、そのようなことを申すか」


「国元で弟が謀反しました。それで長く執務に来られませんでした。

国元の事は概ね片付きましたので、急いで上京して参りました次第」


先刻、王が朝政を虢公にお任せなさるとの噂を耳にしました。

それがしの才は虢公の万分の一にも及ばないでしょう。

この為体ていたらくで地位に執着しては、王に申し訳が立ちません」



「卿が長く参内しなかった理由は存じていた。

故に、一時的に卿の代行を虢公に要請したのだが

どうしても承知せず、国へ帰ってしまった。気を悪くしないで欲しい」


「周の政は王の権限、誰を用いるかは王のお決めになられる事。

虢公の才は優れています。彼が卿士を勤めるべきです」


「卿は父上と共に大功がある。鄭伯が卿士でなければならん。

我が王子・狐を鄭国に預ける。それで折れてくれぬか」


「天子が臣下に質を出すなど、聞いた事がありません。

世人は臣が天子を脅迫していると思うでしょう、その罪は万死に値します」


「そうではない。王子に鄭を見学させたいだけである。

また、足下の疑念も晴らしたい」



 鄭荘公はどうしても承知しないので、大臣たちが調停に入った。

「さすれば、王と鄭伯で、質を交換なされては如何でしょうか」


「それはいい考えだ」 と平王も承知した。


鄭公は世子・こつを国元から呼び寄せて周の質とした。


周の王子・狐は鄭に住む事になった。



 その後、鄭荘公は周都に留まって平王を補佐し

特に大事もなく、平王は在位51年で崩じた。



平王の太子・洩父ろうほは早世していたので

平王の孫・林が王になった。周の14代・桓王である。


王子・狐は洛陽に戻り、鄭伯の嫡子・忽は鄭へ帰国して

鄭伯と周公・黒肩が共同で朝政を担当した。




      *    *    *




 諸侯は揃って先王の哀惜と新王就任の祝いにやってきた。

最初に来たのは虢公・忌父で、その立ち居振舞いは礼に適っていたので

人々は彼に好意を感じた。


桓王は鄭伯が長く朝政を独断していると考えており

鄭伯を疑うと共に危険も感じ、周公・黒肩に相談した。


「鄭伯は先王の王子を質に取っていた。わしを軽視しておるに違いない。

恭順な虢公に政権を移したいと思う」


「鄭伯は苛烈な性格。何卒慎重になられますよう」


「わしは王である。坐して言いなりになる事はできぬ」


翌日、桓王は鄭伯に言った。

「鄭伯は先王の臣。帰国して休まれよ」


「臣も以前より辞任を考えておりました。お暇を頂きます」

荘公は怒って退出し、即日帰国した。



 主君が桓王から罷免されたと知った鄭君の家臣は不満を漏らした。


高渠弥こうきょびは「鄭君は二代にわたって周を補佐し、その功は甚大である。

礼を欠いたわけでもないのに、罷免して虢公を用いるとは」と憤慨した。


頴考叔えいこうしゅくは「君臣の関係は母子と同じです。

先王は王子を質に送るほどに鄭君を頼りになされました。

今の王もいずれは後悔して、鄭君をお召しになられるでしょう」と述べた。


祭足は「兵を率い、周の国境付近で収穫物を略奪しましょう。

王が使者を寄越し、譴責けんせきされれば引き揚げます。

何も言わなければ、入朝なさればよろしいでしょう」と語った。


荘公は祭足の提案に同意し、彼に兵を預けた。




      *    *    *




 祭足は鄭兵を率いて周の温邑に来て

「我が国は今年災害にあって、民は食べるものが無く餓えています。

特別に穀物を千鍾(約910トン)ほどお譲り願いたい」と申し入れた。


温邑の大夫は、王の指示を受けていないといって断った。


祭足は兵士に命じ、無断で収穫物を刈り取って強奪した。


祭足は温の境界に3月ばかり留まってから、成周(洛邑)に移って

実った麦をことごとく刈り取った。



 温と成周の大夫は、周桓王にこれを報告した。


王は怒って鄭を攻めようとしたが、周公・黒肩が反対した。


「これは鄭の祭足による独断かもしれません。

小事を荒立て、鄭との友好を乱すのは好ましくありません」


王は国境の防備を固めて侵入に備えるに留め

麦刈りの件は問題にされなかった。


鄭荘公は王が鄭を責めようとしないので、忸怩たるものが有り

結局、入朝して関係改善することにした。




      *    *    *




 荘公が周都へ向かう準備をしていると、斉国から使者が来訪した。

鄭伯と石門(現在の山東省済南)で会いたいと

斉君・僖公の命を伝えて来たのである。


斉は東方の大国である。

鄭荘公も以前より、斉と盟約を結びたいと思っていたので

周都への来朝を後回しにして、先に石門へ行く事にした。



鄭と斉の両君は盟約を交わした。これを石門の盟という。


盟約が終わり、両君が歓談を行い、その席上で

「鄭伯の世子は婚姻なされておりますか」と斉僖公が尋ねた。

「まだ、その年齢に達しておりません」

「私に娘がいます。もし良ければ、年頃までお待ちいただけたらと思います」



 荘公は快諾して帰国し、世子にこの話をした。


「結婚は同等の者が結ばれるべきです。

鄭は小国、斉は大国で釣り合いません。辞退いたします」


「これは斉侯の申し出である。斉と縁組しておけば頼りになる」


「男子は志を立てれば姻戚などあてにしません」


荘公はそれ以上は強要しなかった。



 その後、斉の使者が来て、鄭の世子は結婚を望んでいないと聞き

それを僖公に報告した。


「世子は遠慮しているのだろう。娘はまだ幼い。いずれまた話をしよう」




      *    *    *




 衛国で謀叛が起きた。衛の公子・州吁しゅうくが衛桓公を弑逆したのである。


鄭荘公は「州吁は戦いを好むと聞く。鄭と衛はかつて兵火を交えた。

衛の帥(軍)が鄭を侵すやもしれぬ。衛との境を注視せよ」と訓戒した。



 州吁が主君を殺した経緯について語る。


衛桓公の父で衛の先君・荘公の夫人は

斉の東宮・得臣の妹で、名を荘姜といったが、子が産まれなかった。


そこで衛荘公は陳国から妃を迎え、この女性を厲嬀れいぎと言った。

しかし、彼女にも子供が出来なかった。


厲嬀には戴嬀たいぎという妹がいて、姉と共に衛に嫁いでいた。

この戴嬀が、衛公との間に二人の男子を生んだ。

長兄は完、次弟は晋という。


衛荘公は公子・完を世子に定め、荘姜が自分の子として育てた。


その後、衛荘公は宮女との間に男子を生んだ。これが州吁である。


公子・州吁は粗暴な性格で戦いを好み、多くの問題を起こしたが

衛荘公は州吁を溺愛し、我儘を許してきた。


衛の大夫・石碏せきさくは衛荘公を諌めたが聞かなかった。


石碏の子・石厚は州吁と仲が良かった。



衛荘公が崩御して、嫡子・完が位を継いだ。これが衛桓公である。


衛桓公は惰弱であったため、石碏は落胆し、老齢を理由に退隠し

石厚が石碏の後を継いだ。


脆弱な衛君を見て、州吁と石厚は共謀して君位の簒奪を考えた。



丁度その頃、周都で平王が崩御し、桓王が即位したという知らせが届いたので

衛桓公は先王の弔問と新王の祝賀のため、周に行くことにした。


州吁と石厚は、衛桓公が周都へ向かう前日に送別の宴を催し

衛公の油断を誘って、衛桓公を弑したのであった。



衛桓公は病死したと朝廷に報告して、急ぎ葬儀を終え

州吁が衛君になり、石厚を上大夫に任命した。


衛桓公の弟で州吁の兄である公子・晋はけい国へ出奔した。




      *    *    *




州吁が衛君に即位して間もなく

兄を殺害して衛君になった噂は国中に伝わった。


そこで州吁は近隣国を攻めて武威を示し、目を国外に向けさせ

国内を鎮めようと考え、どこを攻めるか石厚と相談した。


「鄭はかつて公孫滑の乱の時、我が国に攻めて来ました。

先君が罪を認めて許されたものの、これは衛の恥辱と言えます。

出兵なさるのでしたら、鄭以外にはないでしょう」


「鄭は斉と石門で盟約を結んでいる。

衛だけで鄭と斉を相手にするのは難しいのではないか」


現在、異姓諸侯では宋が有力です。同姓諸侯なら魯がおります。

さらに陳と蔡の軍も合わせ、5国が連合すれば心配ありません」


「陳、蔡は鄭と周の関係を見抜いている。

鄭討伐を呼びかければ応じるだろう。

だが宋、魯はどうすれば味方に出来るか」


「宋は数年前、公子・ひょうが鄭に出奔しました。

鄭伯はこれを受け入れ、馮を宋君に就けようと目論んでいますので

鄭を討つと宣言すれば、必ず宋公は応じるでしょう。


また、魯の国事は公子・が握り、魯君は無きが如しです。

賄賂を渡せば魯軍も動かせます」


州吁は4国に使者を出した。




      *    *    *




 やがて、鄭都・新鄭の城門は千乗を超える兵車で包囲された。

衛、陳、蔡、魯、宋の五ヵ国の軍勢である。


鄭荘公は家臣の意見を聞いたが、主戦派と講和派に分かれて定まらない。



荘公は「衛君・州吁は兄を殺して位を簒奪した者。民心は離れている。

それで4国から兵を借りて鄭を攻め、国民の目を外に向けておるだけだ。


魯は公子・翬が衛の賄賂に目が眩んだだけの事。

陳、蔡は鄭に対する戦意はない。

宋だけは公子・馮が我が国にいるから本気であろうな。


ひとまず公子・馮には新鄭から長葛ちょうかつへ向かって貰う。

それで宋軍は新鄭の包囲を解くであろう。


子封(公子・呂)には兵500を与える。

東門を出て衛と一戦し、負けたふりをして逃げよ。

州吁の目的は勝利によって面目を保つ事。それで満足しよう。


国元が不安定だから、いつまでも外征は続けられん。

衛君の本音は早く撤兵して帰国を望んでいる」



鄭荘公は大夫・瑕叔盈かしゅくえいに一軍を預け、公子・馮を護って長葛へ移し

宋へ使者を送った。


「公子・馮は我が国へ逃げてきましたが、誅殺するに忍びず、今日に至っています。

今は長葛で罪に伏しておりますので、宋君にお任せします」


宋君・殤公は長葛を包囲するため、兵を移動した。


蔡、陳、魯は宋軍の移動を見て撤兵と思い

自分たちも引き揚げる気持ちになった。


その時、公子・呂が東門を出て衛軍と交戦したが、三国は傍観していた。


ほどなく公子・呂は敗勢を装って逃げ出した。


石厚は東門まで追撃し、公子・呂が城門に逃げ込んだので

東門外の麦を全て刈り尽し、全軍に撤兵を伝えた。




この戦いは新鄭の東門が主戦場になった事から

後世、東門の役と呼ばれる。


州吁による衛君の簒奪には諸説あり

鄭荘公の弟・太叔段やその子・公孫滑が

実は生存して、このクーデターに関わっていた可能性もありますが

この話では採用しませんでした。

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