第五十八話 春秋の群像
後世『春秋時代』と区分される時代も、中期に差し掛った。
この頃、大国と言えるのは、晋、楚、斉、秦の四ヶ国である。
これに次ぐ中規模の国は宋、魯、衛、鄭の四ヶ国であろうか。
その下に曹、莒、許、杞、陳、蔡、滕、薛など
数十余りの小国群が黄河中流域の中原を領有している。
周王朝初期には数百の諸侯が存在したとされているが
周の東遷以降、王の権威は衰え、力を付けた有力諸侯が
武力を用いて、諸侯の数は、かつての十分の一程度にまで減少した。
4大国の内でも、特に北の晋と南の楚は超大国と言って差し支えない。
この2国が中原の中小諸国を巡って覇権を争い、東の斉と西の秦は
それに次ぐ地位と国力を持して、独立不羈の姿勢を保ちつつも
機会さえあれば中原を窺う気勢を示している。
特に斉は桓公の時代、周王に代わって天下を差配する栄華期を経験している。
故に累代の斉君は、気概だけは晋楚をも凌いでいたであろう。
* * *
周の定王3年(紀元前604年)春、魯宣公が斉に入り
斉の上卿・高固は魯候の娘・叔姫を娶るため、魯宣公を国内に留めさせた。
魯宣公は高固との婚姻を許可した。せざるを得なかった。
夏になって、ようやく魯宣公は斉から魯へ帰国した。
大国の卿大夫が国君を脅す形で婚姻を迫るのは無礼とされたので
天下の君子(知識人)は高固を非難した。
秋九月、斉の高固は叔姫を迎えに魯に入った。
卿大夫が他国から妻を娶る場合、直接迎えに行く事は礼に適っている。
高固が非難されていると聞き、主君の斉恵公が命じたと思われる。
冬十二月、斉の高固と子叔姫が「反馬」のため魯へ入国した。子叔姫の「子」は既婚を表す。
この時代、卿大夫の新婦は、実家の馬車で新郎の家に入るしきたりがある。
結婚後の三ヶ月、馬車は夫の家に留め置かれ、夫は妻を見定める。
妻が相応しくないと判断した場合、その馬車を使って妻を実家に帰す。
妻が気に入った場合、三ヶ月後に馬だけを妻の実家に返す。これを「反馬」という。
* * *
楚では若敖氏の主・子越の乱が終結して
若敖の一族は、大部分が覆滅された。
新たな冷尹(宰相)には虞丘が任命された。
楚荘王の夫人を樊姫と言う。
ある日、荘王は帰宅が遅くなり、樊姫がその理由を尋ねた。
「賢相と話をしていたら、こんな時間になった」と荘王は答えた。
「賢相とは誰の事ですか」
「冷尹の虞丘だ」
樊姫がそれを聞き、笑って荘王に言った。
「妾は妻として王に仕えていますが、王の寵愛を独占したいとは思いません。
一人の女が国君を独占すると、国が乱れる因になると思うからです。
それで妾と同位の妃を数人、王に薦めました。
しかし、虞丘は10年以上も王に仕えながら、一人の賢人も推挙しません。
賢人を知りながら薦めないのは不忠、知らないのは不智です。
これを賢相と言えるでしょうか」
翌日、荘王は朝廷で虞丘に樊姫の言葉を伝えた。
虞丘は「樊姫の申される通りです」と言って、冷尹の職を辞し
次の冷尹に蔿賈の子・孫叔敖を推挙した。
孫叔敖は子文と並び称される、楚の名宰相として歴史に名を残す人物である。
その政治は教化を施して民を正道に導き、上下共に和し
政治は穏やかでありつつ禁令は遵守され、役人は不正をせず、盗賊がいなくなった。
秋冬には民を山に入れて竹木を採らせ、春夏には増水を利用して、その竹木を運び出させた。
楚の人民は利便で安逸な暮らしを楽しんだ。
ある時、荘王は貨幣が軽すぎると言い、小型から大型に改めた。
楚人はこれを不便と感じ、市場の長が孫叔敖にこれを訴えた。
孫叔敖は荘王に言上して、貨幣を旧に戻した。
楚では背の低い馬車が好まれたが、荘王は低い馬車は不便だと思い
馬車を今より高くせよと法令を出した。
孫叔敖は「細かい規則の命令は民を戸惑わせます。
車を高くさせるなら、村里の役人に命じて里門の入り口に立てる柱を高くさせましょう。
馬車を持つ者はそれなりの身分です。頻繁に車を乗り降りすることはないでしょう」と言った。
荘王はこれを許可すると、半年ほどで民は自発的に車を高くした。
楚国はいよいよ富み、兵が強くなった。これは樊姫の功でもある。
孫叔敖を推挙した虞丘は国老と号し、荘王は采地三百戸を与えた。
* * *
3年前、鄭は大棘の役で宋に大勝し、宋の卿・華元を捕えたが
その後、宋からの礼物を受け入れ、華元を釈放した。
楚はこれに不満を抱き、鄭を攻撃した。
鄭襄公は晋に急使を派遣し、援軍を要請した。
晋の卿・荀林父が兵を率いて鄭を救けたので、楚軍は退却した。
周定王4年(紀元前603年)春
晋の趙盾と衛の大夫・孫免が陳を攻撃した。
前年、陳が楚と講和したからである。
夏、周の定王が大夫・子服を斉に送って婚姻を求めた。
秋、赤狄が晋に侵攻し、懐と邢丘を包囲した。
晋成公は赤狄に反撃を命じたが、荀林父が反対した。
「狄は何度撃退しても侵攻してきます。
彼等に民を害させ、その悪を積み上げれば、いずれ自ら滅ぶでしょう」
冬、周の卿士・召公が斉に入って姜氏(定王の后)を迎えた。
楚が鄭を攻め、講和して兵を還した。
鄭の公子・曼満と伯廖が会話を交わし
伯廖は曼満が卿の地位を望んでいる事を知り、伯廖は他の知人に語った。
「曼満は徳が薄いのに貪欲である。3年の内に死ぬであろう」
翌年、曼満は鄭人に殺された。
* * *
周定王5年(紀元前602年)春
衛成公が孫良夫を魯に送って盟約を結び、晋との会盟について相談した。
夏、魯宣公が斉恵公と共に萊国(現在の山東省濰坊市)を攻撃した。
萊は、斉の領内にある国と言っていい。
春秋時代、今日の概念の領土的な国はまだ成立しておらず
ある土地に人が集まり、定住することで、集落が形成される。
外敵の襲来に備え、集落を柵、堀、城壁で囲んで「邑」となる。
邑はムラであり、街であり、都市であり、国都となる。
中国大陸を鳥瞰的に眺めれば、都市(邑)は点であり
それらを線(道路)で結んだ、点と線が、この時代の国である。
斉は山東半島の至る地域に邑を建設し、それらを道路で結んでいる。
邑の数は不明であるが、後年の戦国時代には70を越えたという記録がある。
萊は斉の有する点と線に属せず、狭間を領有するだけの小国だが
その歴史は斉より古く、萊の国君は殷の遺民が建てた宋と同じく、子の姓を持つ。
夷狄ではなく、周に入朝する諸侯でもある。
秋には魯候が再び萊を攻めた、とあるので
斉も魯も萊との戦いに苦戦している様子が伺える。
* * *
この秋には、前年に続いて再び赤狄が晋を侵し
赤狄は向陰の郊外に実った禾を奪った。
鄭は晋と講和することになった。
これを提案したのは鄭の公子・宋で、鄭伯の相(補佐役)として会盟に参加する。
冬、晋成公、魯宣公、宋文公、衛成公、鄭襄公、曹文公と
周の卿士・王叔桓公が黄父(晋地)で会し
晋を中心とする諸侯連合が、楚を中心とする勢力に対し
今後どう対応するかについての方針が相談された。
なお、この黄父の会盟で、魯国は盟約に加わっていない。
晋成公が即位してから、魯宣公は晋を朝見した事がなく
大夫に晋を聘問させたこともなかったために
晋成公が魯宣公を捕えたからである。
後に魯が晋に賄賂を贈り、宣公は釈放された。
* * *
中国大陸を流れる巨竜・黄河は長い歴史の中で幾度も流れを変えた。
この年「河が徙った(移った)」という記録が残っているのが
文献上で最も古い、黄河の動いた記録である。
黄父の会盟が終わり、黄河が動いたという報せを受けて、晋は楚を攻めた。
晋軍は楚地に入り、三舎(3日間の行軍距離、90里、38km)を侵攻し
さらに南下を続ける。
楚の諸大夫は迎撃を主張したが、楚荘王は反対した。
「先君・穆王の時代は、晋が楚を攻撃することはなかった。
わしの代になって晋が楚を攻めるようになったのは、わしに責任がある。
もし敗北を招けば、諸大夫を辱める事になる。それは避けねばならぬ」
諸大夫は荘王に進言した。
「先君の時代は、晋が楚を攻撃することがありませんでしたが
臣等の代になってから、晋が楚を攻撃するようになりました。
これは臣等の罪です。どうか迎撃をお命じください」
荘王は涙を流し、諸大夫に拝礼した。
晋軍を率いる荀林父はこれを聞いて
「楚は君臣ともに過ちが自分にあると言って譲らず
国君が臣下に対して頭を下げる事が出来る。
これは上下一心、三軍同力というものである」
晋軍は夜の間に兵を還した。
* * *
周定王6年(紀元前601年)春
晋に捉われていた魯宣公が黄父の会から帰国した。
夏、白狄と晋が講和を結び、共同で秦を攻めた。
秦は楚と友好を結び、黄父の会盟に参加しなかったからである。
この戦いで晋軍は秦の間諜を捕え、晋都・絳の市で処刑したが
6日後、間諜は生き返り、秦に帰国した。
夏6月、群舒が楚に背いた。
群舒とは、現在の安徽省から河南省にかけての一帯を領有する
偃姓諸侯の建てた舒国の一群で、舒庸、舒鳩、舒蓼など、七ヵ国以上ある。
楚荘王は群舒の一つ、舒蓼を攻め、これを滅ぼした。
楚軍は滑汭(滑水が曲がる場所)まで進行して
ここに国境を定め、長江下流域を領する呉・越両国と盟約して帰国した。
呉国の正確な成立時期は不明ながら
伝説によれば、周武王の曾祖父・古公亶父の長男・太伯を国祖とする。
つまり、周朝と同じく姫姓の諸侯である。
越国の成立はさらに古く、夏朝の初代・禹王の後裔が建てたと言われている。
呉越の民は身体に文身をして、川や湖に素潜りをして魚を獲り
髪を短くするという、中原とは大きく異なる異民族の風習を持つ。
共に、未だ中原の文明に浴せぬ蛮族だが、これより100年ほど後には
大いに存在感を示す有力諸侯となる。
* * *
この年の冬、晋の正卿・趙盾が亡くなった。
趙氏は趙盾の子・趙朔が継いだ。
正卿には郤缺が就いた。
郤缺は食中毒で倒れた下軍の佐・胥克を廃し
後任に趙朔を指名して、趙氏は引き続き晋の六卿となる。
今回はちょっと解説が多くなりました。
何しろ、日本の弥生時代より、もっと昔の話なので
当時の様々な風習やしきたりを知っておかないと
どうしても、うまく説明できない部分が出てきますので。




