第五十五話 三桓の台頭
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晋霊公は贅沢を好み、九層の楼台を築くように命じた。
建造のために民を酷使し、膨大な財を費やしたので、国人の多くが反対した。
霊公は「君に諫言する者は処刑する」と宣言した。
晋に孫息という器用な男がいて、上書して霊公に謁見した。
霊公は諫言に来たと思い、矢を番えた弩を構えて威嚇しながら迎えた。
孫息は恐れる風もなく、霊公に発言をする。
「臣は諫言に来たのではありません。我が君に、芸をお見せしたく参上致しました」
「芸か。何を見せてくれる」
「十二枚の博棊(将棋の駒)を積み重ね、その上に九つの鶏卵を置きます」
「卵を九つも積み重ねるなど、出来るはずあるまい。成功すれば一つ望みを叶えよう」
孫息は博棊を十二枚重ね、更に一つ一つ卵を載せていく。
霊公と側近らは息を止めて見入っている。
孫息は、ついに九の鶏卵を積み重ねる事に成功した。
「見事である。褒美を取らせよう。何でも言うがよい」
「では、我が君に、臣の話を聞いて頂きたく存じます。
今、臣は九つの卵を載せました。これよりも、もっと危ういものがございます」
「それは何であろう」
「九層の楼台の建設が始まり、すでに三年ですが
この間、男は農作業が出来ず、女は織物が出来ず、晋の国庫が空になりました。
諸侯が晋から離れて楚に付き、晋の社稷が絶えたら
我が君は楼台に登って何を眺めるのでしょうか。
これこそ、九の累卵より、遥かに危ういと申さねばなりません」
「晋は諸侯の覇者であり、多額の幣(貢物)を受け取っておる。
今、諸侯は宋を討伐に向かっているが、どうせわしに賄賂を贈ってくる。
汝が九つの卵を重ねて積んだように、九層の楼台は趙盾が支えてくれよう」
霊公は孫息の諫言を聴かず、楼台の建設を続けた。
周の匡王3年(紀元前610年)春
晋の荀林父、衛の孔達、陳の公孫寧、鄭の石楚が軍を率いて宋国へ向かう。
宋昭公を弑殺して即位した宋文公を譴責するためである。
宋文公は晋霊公に賄賂を贈って服従を示したので
晋は文公の地位を認め、兵を還した。
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これより8年前、鄭は楚との戦に敗れ
公子・堅、公子・尨、楽耳の三大夫が楚に捕えられた。
楚の荘王は鄭と友好を結ぶため、蔿賈を鄭に遣わして三人の大夫を返還した。
鄭穆公は帰国した大夫から楚の内情を聞いた。
「楚王が遊蕩に耽る有様は偽りであったか。
晋君からは良い噂を聞かぬ。如何すべきか」
鄭は北方の晋と南方の楚の中間にあり、この両大国は
中原の覇権を求めて衝突を続け、その都度、鄭が戦場となる。
鄭の為政者は、常に厳しい判断を迫られる立場にあった。
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晋霊公は楚が鄭に接近しているとの情報を得て
鄭が二心を抱き、楚に従っていると疑い、鄭穆公との会見を拒否した。
鄭の執政・子家は手紙を書いて趙盾に届けた。
「楚国に接する陳国と蔡国が晋に朝見するのは、鄭の調停によるもの。
鄭は晋に従順であるのに、なぜ疑われるのでしょう。
鄭君は晋襄公に一度、貴君に二度朝見しました。
太子・夷も頻繁に絳(晋都)を訪れました。
鄭は小国ですが、その誠意は他に並ぶ国がありません」
趙盾は晋の大夫・鞏朔を鄭に送って鄭と講和し
晋の趙穿(趙盾の従弟)と大夫・公壻池が人質として鄭に入った。
一方、鄭穆公は晋へ太子・夷と石楚を人質として晋に送った。
この頃、周の卿士・甘歜が王帥を率いて戎族を邥垂で破った。
戎族が酒を飲んでいる隙をついた勝利であったという。
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周匡王の4年(紀元前609年)
この年、秦康公が死に、太子・稲が即位した。秦共公である。
春、斉懿公は魯へ出兵すると発表したが、直後に病に倒れた。
これを聞いた魯文公は叔彭生に命じて令亀で占わせた。
占いの結果について、太史の楚丘が告げた。
「斉侯は出兵する事なく卒するでしょう。ですが病が原因ではありません。
また、我が君と叔彭生は、斉候より早く咎を受けます」
2月23日、魯文公が泉台で急死した。
泉台は2年前、魯文公の生母・姜氏が17匹の蛇によって急死した泉宮跡である。
いずれも死因は謎である。
文公が崩御して、太子・悪が魯君に即位したが
公子・遂(文公の叔父)が公子・俀を魯君に就けるべく画策を始めた。
魯文公には妃が二人あり、長妃の斉姜は太子・悪と公子・視を産み
次妃の敬嬴は公子・俀を産んだ。
敬嬴は非常に美しかったので、文公は敬嬴の方を寵愛していた。
その後、敬嬴は公子・遂と親しくなり、これと私通して、公子・俀を託したのである。
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5月、斉懿公はやや病状が回復したので、斉都の郊外にある申池で静養した。
そこで下僕の邴歜が、懿公の車の御者・庸職を鞭で打った。
庸職は邴歜を非難すると、邴歜が反論した。
「汝は主君に妻を奪われたが怒らなかった。鞭で一度打ったくらいで、なぜ怒る」
庸職はこれに言い返す。
「汝は父を足切りの刑にされた。それを恨まないのか」
二人は懿公への怨みを語り合って意気投合し、主君の弑逆を企んだ。
数日後、邴歜と庸職は寝ている懿公を殺し、竹林に死体を棄てた。
その後、斉都に帰り、宗廟に暗君の死を報告して、斉を出奔した。
斉の国人は邴歜と庸職を逐わず、また、懿公の子を擁立もしなかった。
懿公は斉君に即位してから驕慢になり、民の支持を失っていたからである。
斉の卿・高固は衛に行き、懿公の兄・公子元を斉に連れ帰り
斉君に即位させた。斉恵公である。
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魯の公子・遂は公子・俀を魯君に立てようと
密かに叔彭生に話を持ち掛けたが、彼は反対した。
公子・遂は斉恵公の即位を祝賀する名目で斉に行き
斉恵公と面会して、公子・俀の即位を許可するように求めた。
斉恵公は上卿・国帰父に相談した。
「わしは魯との関係を強化したいと思っている。卿の意見を聞きたい」
「今の魯君は先君の太子で、生母は斉の出身。
太子が後を継ぐのは当然であり、斉と縁戚を持っているのも歓迎すべき事です。
しかしこれでは、魯は斉に対して感謝が生まれません。
公子・俀の即位に協力すれば、我が国は魯に対する影響力が大きくなるでしょう。
我が国の公女を新君に娶らせれば、縁戚も維持できます」
斉恵公は同意して、公子・俀の夫人を斉から求める事を条件に
公子・俀の魯君即位を認め、恵公は公子・遂と共に魯へ入った。
6月、魯文公を埋葬する儀が行われ、これに斉恵公も参加した。
7月、斉恵公の帰国と共に、魯の公子・遂と叔孫得臣も斉に入った。
斉候が魯文公の葬儀に参加したことに拝謝する名目であったが
面会が終わった後、二人は斉軍と共に、秘かに魯へ向かった。
公子・遂は深夜、斉軍と共に魯宮を襲い、魯君・悪と公子・視を弑逆した。
そして魯宮を制圧し、公子・俀を魯君に即位させた。魯の宣公である。
公子・遂は君命と称して叔彭生を招聘した。
叔彭生の宰(家臣の長)・公冉務人が言った。
「入宮したら殺されます」
「分かっている。しかし君命には逆らえない」
「君命が本物でなければ、従う必要はございません」
叔彭生は諫言を聞かず魯宮に入り、殺されて、死体を馬糞の中に埋められた。
公冉務人は叔彭生の家族を連れて蔡に奔り
叔彭生の子・皮を立てて叔仲氏を存続させた。
魯文公夫人・斉姜は二人の子を殺されたため斉に帰った。
斉までの途上、魯の邑で泣いて訴え続けた。
「天よ、公子・遂は無道である。嫡子を殺して庶子を魯君に立てた」
魯の民は斉姜を憐れみ、魯人は斉姜を哀姜と呼ぶようになった。
魯国における主君の交代劇は、公室の衰退を顕していると言えた。
魯桓公の子孫を三桓氏と呼び、孟孫氏、叔孫氏、季孫氏を名乗る。
爾後、三桓氏の権勢は徐々に強まり、それに応じて公室は衰耗していく。
* * *
臣下による謀反の風は宋にも吹いた。
宋武公の子孫・武氏と、宋穆公の子孫・穆氏が
先君・昭公の子を擁し、司城の公子・須(宋文公の弟)と共に謀反を計画した。
12月、宋文公は謀反を知り、弟の須と昭公の子を殺した。
また戴公・荘公・桓公の公族に命じて武氏を攻撃させた。
武氏と穆氏の一族は宋国から放逐された。
宋文公は宋荘公の孫・公孫師を新たな司城に任じた。
ほどなく司寇の公子・朝が死に、戴公の族・楽呂が後任の司寇となった。
宋文公は謀反の風を切り抜けて
巧妙に諸公子を用い、公族間の争いを収束させて、人心を安定させた。
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年が明けて、周匡王の5年(紀元前608年)
春正月、魯の宣公が正式に魯君として即位した。
2月、晋霊公が魯候が先君を弑逆した罪を問うため、諸侯へ号令をかけた。
魯宣公は晋に賄賂を贈ったので、晋は魯攻撃を中止した。
3月、魯の公子・遂が斉に入り、宣公の夫人(姜氏)を迎えに行き
姜氏を伴って公子・遂が魯に帰国し、宣公と姜氏との婚姻が行われた。
4月、魯の季孫行父が斉に行き、財物を納めて会盟を求めた。
5月、魯宣公と斉恵公が平州で会見し、公子・遂が斉に入って謝意を伝えた。
6月、魯は斉への謝礼として、に済水以西の地を譲った。
7月、邾君が魯に来朝して魯宣公の即位を祝った。
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晋の正卿・趙盾は自らに従わぬ者を罰した。
下軍の佐・胥甲が衛に追放され、胥甲の子・胥克が胥氏を継いだ。
胥甲に仕えていた大夫・先辛は斉へ出奔した。
晋霊公は驕侈であったので、趙盾は頻繁に主君を諫めたが
霊公は態度を改めず、晋の政治は乱れ、楚と戦える余裕がなくなった。
趙盾は、幼君を即位させた事を後悔していた。
「やはり、公子・雍を晋君にすべきであった。
中原の諸侯は晋と楚を比べている。このままでは楚に属く諸侯が増える一方であろう」
荀林父が提案した。
「ならば、秦と講和してはいかがでしょう。
楚は秦と盟約を結び、西方の安全を確保しています。
我が国が秦と結べば、楚は安心して北進出来なくなりましょう」
郤缺げきけつ)が告げた。
「ですが、晋は秦と争う事が多い。講和には応じないでしょう」
欒盾が進言した。
「我々が崇国(秦の属国)を攻めれば、秦は崇を援けようとするでしょう。
それをきっかけに秦との講和を要求します」
士会が反対した。
「小国を犠牲にして講和を求めるのは礼に反します。
覇者たる者の道ではありません。崇を攻めても秦は動きますまい」
趙盾も士会に同意したため、秦との講和は中止になった。
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鄭穆公は、蘭の花に水をやりつつ、執政・子家に告げた。
「子家、晋を捨て、楚と組む。異存はあるか」
「晋と交換した人質はどうなさるおつもりですか」
「卿は趙穿と公壻池を伴って晋に向かい、太子と石楚を連れて戻れ。
今の楚王は、晋文公に匹敵する傑物と見た。太子・夷を楚に送ろう。
晋君は民を酷使し、暴虐趙である。信用出来ぬ」
子家は趙穿と公壻池を晋に帰し、太子・夷と石楚は鄭に帰国した。
ほどなく鄭は楚と盟約を結び、太子・夷を人質として楚に送った。
晋霊公は鄭が楚に従ったと聞いて激しく憤った。
「鄭伯が晋を裏切ったのは、これで何度目になるか。
先君(晋文公)のおかげで鄭君の地位に就いておきながら、恩を仇で返す無道の輩である」
霊公は鄭を攻めよと趙盾に命じたが
その時、陳が楚に攻められ、晋に救援を求める急使が晋都に到着した。
「まず陳国を救うのが先決です、鄭の罪を問うのは、その後でいいでしょう」
趙盾は晋軍を率いて陳に向かった。
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6年前、陳共公が崩御した時、陳の盟主である楚は葬儀に参加しなかったので
陳霊公は怒り、晋と盟を結んだので、楚の蔿賈は陳を攻めた。
蔿賈は陳を攻めた後、次に宋へ侵攻したが
晋軍が接近していると聞いて宋から退き、楚へ帰国の途についた。
楚軍が宋から退いたと聞いた趙盾は目標を鄭に変更して
宋文公、陳霊公、衛成公、曹文公と合流するため棐林(鄭の北部)に進んだ。
そして、北林(鄭地)で偶然が起こった。
楚軍を率いて楚へ退却する蔿賈と
連合軍を率いて鄭に向かう趙盾が遭遇したのである。
両軍は北林で想定外の戦闘となった。
結果、連合軍は敗れ、晋の大夫・解揚が楚軍に捕えられた。
解揚は後に釈放された。
その頃、晋では鄭から帰国した趙穿が
晋霊公の命令で晋軍を率い、秦の属国・崇を攻撃した。
秦との講和を結ぶのが目的であったが
士会が予想した通り、秦は動かなかった。




