第五十四話 三年、鳴かず飛ばず
ここまでに春秋の覇者と呼びうる者は
鄭の荘公、斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公の5人が出てきました。
6人目は前回から登場した楚の荘王です。
楚は戦国末期に始皇帝に滅ぼされるまで永く続きますが
荘王の治世が楚の黄金期と見ていいでしょう。
楚は春秋戦国時代を通じて、南方の雄として大きな存在感を放ち続けますが
晋、秦、斉、呉の引き立て役に終始したというか、損な役回りが多い国です。
* * *
斉懿公は、魯国からの要求を拒否して、周の卿士・単伯と斉昭公の生母・昭姫を捕えた。
「昭姫が魯に帰国すれば、国外からわしを非難し続けよう。
それは斉の君臣の道を乱す行為である。帰すわけにはいかぬ」
魯の卿・季孫行父は
晋の朝廷に斉君の無道を報告し、調停を依頼した。
晋の正卿・趙盾が斉国に入り、斉の上卿・国帰父と会見した。
趙盾が語った。
「斉候は先君を弑逆して君位に就いた。
それを母后より非難される事を畏れ、仲介に来た王の卿士ともども捕えるなど
王庭に仕える者の道ではない。即刻、単伯を釈放し、昭姫を魯へ帰されよ」
国帰父が言う。
「先君は幼く、斉の国人から支持されておらず、国事が滞る事を憂いたのです。
我が君は公子の頃からよく民に施し、国人から人気があり
斉の社稷のため、已む無き事として先君にお隠れ頂きました。
昭姫が魯にて斉を悪し様に語られぬと誓われれば、単伯と共にお返しいたします」
趙盾は昭姫を説得して、その同意を得たので
斉懿公は単伯と昭姫を釈放した。
* * *
前年、晋が開催した新城の盟に、蔡国が参加しなかったので
蔡を攻めるかどうか、晋の群臣で相談した。
正卿・趙盾が発言した。
「西の秦、南の楚が中原を窺っている。蔡は遠い。譴責の使者を送るに留める」
郤缺は反対した。
「我が君はまだ幼い。臣下が動かねば晋の覇業は挫折する」
郤缺は晋の上軍と下軍を率いて蔡を攻めた。
趙盾は出師に反対したので、中軍は動員されていない。
晋軍は蔡都に入城し、城下で盟約を結んで帰国した。
* * *
斉懿公は、秋、軍を率いて魯へ侵攻した。
魯が晋に調停を申し出た事が気に入らなかったからである。
斉の侵攻を受けた魯候は、季孫行父を晋に急行させ、援けを求めた。
冬11月、晋霊公、宋昭公、衛成公、蔡荘侯、鄭穆公、許昭公、曹文公が
鄭地の扈で会し、新城の盟約を確認し、斉討伐を相談した。
斉懿公は重臣と対応を諮った。
「晋が諸侯を率いて来ると、斉のみでは勝てぬ。どうすればよい」
斉の卿・高固が応えた。
「晋候は九層の楼台を築き、莫大な費用を浪費しているとか。
そこで晋に賄賂を贈り、この機に昭姫を魯に還して
先の約定を実行に移せばよいかと存じます」
斉懿公は高固の助言に従い
晋霊公に賄賂を贈って、魯から兵を退いたので
諸侯による斉討伐は中止になった。
しかし、扈の会盟が終わった後、斉は再び魯に侵攻した。
前年、曹国は魯に朝見していたので、斉軍は曹も攻撃し、曹都の外城を突破した。
魯の季孫行父は斉を非難した。
「斉侯の行いは礼に外れている。禍から逃れられないだろう」
* * *
周匡王の2年(紀元前611年)春正月、魯の文公が病に倒れた。
魯候は斉と講和するため、季孫行父を斉に派遣した。
季孫行父と斉懿公は陽穀の地で会見したが
斉懿公は「諸侯が大夫と盟を結ぶのは礼を失している。
魯君が治ってから盟を結ぶ」と言い、盟約を結ばなかった。
季孫行父は魯に帰国して、公子・遂と語った。
「斉君こそ非礼であるのに、我々が礼を失していると詰るのはおかしい。
我が君の病は重く、朝政にも出られぬ有様である」
「我が君がご存命のうちに、斉と和を結ばねばならぬ」
そこで公子・遂は斉懿公に賄賂を贈り
斉地の師丘で魯と斉は盟約を結んだ。
この頃、魯都・曲阜の南郊・郎邑の泉宮から蛇が現れ、曲阜に侵入した。
蛇は17匹いた。これは魯の先君(初代・伯禽から釐公まで)と同じ数である。
間もなく魯文公の生母・姜氏が死んだので
魯の国人は、姜氏の死は蛇が原因だと言って、泉宮を破壊した。
* * *
南方の楚国では、荘王が即位して3年が経つが、政治を全く顧みず
「王を諫める者は死罪にする」と宣言して、日夜宴を楽しんでいた。
ついに見かねた大夫・伍挙が楚王に進言した。
この時、荘王は左に鄭姫を、右に越女を抱き、鍾鼓の間に坐っていた。
荘王に謁見した伍挙が発した。「王よ、ひとつ謎掛けをしましょう」
「よかろう、申せ」
「丘の上に鳥がいます。その鳥は、三年飛ばず
三年鳴くこともありません。これは何の鳥でしょうか」
「その鳥は、一度飛んだら天を衝くであろう。
三年も泣かない鳥は、一度鳴いたら人を驚嘆させよう。
汝の申したい事は分かっておる。退がれ」
しかし、数ヶ月経っても楚王の遊蕩は続いていたので
続いて楚の大夫・蘇従が王を諫めた。
荘王が言う。
「わしに諫言する者は死刑にすると命じたはずだ」
「臣の身一つで王の目を開かせるなら本望です」
荘王は破顔して「うむ、よくぞ申した」と叫んだ。
この日を限りに荘王は悦楽を棄て、自ら政治を行った。
3年間、王に媚び諂ってきた奸臣・佞臣ら数百人を処分して
代わりに優秀な者、数百人を抜擢し、伍挙、蘇従、蔿賈を側近にした。
蔿賈は22年前、当時の冷尹・子玉が晋に敗れる事を予期した神童である。
* * *
この年、楚は大飢饉に襲われ、作物が獲れず、民が飢えた。
これを見て、楚の周辺の戎夷が楚の国境を侵した。
楚の西南から戎族の山夷が侵攻して阜山に至り、大林に駐軍した。
山夷は楚の東南からも侵攻して陽丘に至り、訾枝を攻める。
戎族の侵攻に呼応して、楚に接する庸国は蛮夷を率いて楚に侵攻した。
北西からは麇国も百濮の族を率いて楚地・選に集結した。
楚の国境は蛮夷の襲来に晒され、申邑と息邑は城門を閉じて籠城した。
楚荘王は百官を招集して廟議を開き、対応策を尋ねた。
「百濮は選を拠点に楚へ深く侵攻してきております。
ここは楚都・郢を捨て、より険阻な阪高に遷都してはいかがでしょう」と言う者がいた。
蔿賈がこれに反対した。
「我々が行ける地なら敵も行ける。逃げてもこの危機は解決しない。
敵が楚の領内に深く侵攻したのなら、今こそ攻めに転じる時だ。
戎夷が攻めて来たのは飢饉で我々が飢えていると判断したからである。
こちらから討って反撃すれば、楚に余力ありと見て、退くであろう」
荘王は蔿賈の進言を採用した。
蔿賈は楚軍を率いて楚都・郢を出て北西に向かった。
楚軍は、廬までは準備した食を消費し
それ以降は各地で倉庫を開き、将兵に食を与えた。
量は少なかったが、全将兵に等しく分配されたので、楚軍の士気は騰がった。
百濮は15の諸部族に分かれており、兵の数は多いが、結束は弱い。
しかも楚が飢えていると思い、油断していたので
楚軍の猛攻を受けると、たちまち四分五裂して、それぞれの根拠地に還った。
* * *
続いて楚軍は師叔を将として、西境の句澨に駐軍し
廬邑の大夫・戢黎が庸を攻めた。
しかし、廬戢黎は庸の方城で撃退され、家臣の子揚が捕えられた。
それから三日後、子揚は脱走して楚軍の陣営に逃げ帰って報告した。
「庸軍には多くの蛮族が集結して、兵数は我々より多い。
ここは楚王自らが楚の全軍を以て攻めるべきです」
師叔はこれに反対した。
「蛮族など、所詮は烏合の衆に過ぎぬ。劣勢になれば撤退しよう。
このまま交戦しながら退いていけば、敵は驕る。最後に勝てば良いのだ。
昔、先君・蚡冒が陘隰を帰順させたと同じ策である」
楚軍は庸軍と7回戦い、7回とも敗れて撤退した。
庸軍は楚軍を深追いして、裨、鯈、魚の三族が楚軍を追撃する。
庸の軍が伸びきったのを見た師叔は
臨品まで進み、楚軍を二隊に分け
子越が石溪から、子貝が仞から出発して庸都を直接攻撃した。
さらに秦国と巴国も楚に協力して援軍を出した。
楚、秦、巴の三国の大軍による痛烈な反撃によって
蛮夷の諸部族は大敗し、生き残った者は全て降伏し、楚荘王と盟約を結んだ。
ほどなく楚軍は庸都を陥とし、庸国は滅亡した。
その間に、楚の西南より迫る阜山の山夷は伍挙が討ち
東南から陽丘に進出した山夷は蘇従がこれを撃退した。
楚荘王は四方から襲来した夷狄を退け
長年敵対してきた2国を滅ぼした事で、自信を深めた。
「北進は楚の累代の悲願である。誓ってわしの代で晋を討つ」
* * *
楚軍が凱旋して、楚王は将兵を労い、群臣を集めて酒宴を開いた。
日が暮れた後も、燭に灯を燈して酒宴は続けられたが
突然、突風が吹き、灯燭の火が消え、周囲は闇に包まれた。
この時、一人の男が闇に乗じ、荘王の妻妾の衣服を引っ張った。
妻妾は咄嗟に男の冠から纓(冠を固定する紐)を取り、王に告げた。
「灯燭の火が消えた隙に、私の衣を引く者がいたので
その者の冠から纓を取りました。纓のない冠を被った者が犯人です」
だが、荘王はこう言った。
「わしが酒宴を開き、人を酔わせたから礼を失したのである。
婦人の節を顕揚するため、士を辱める行いは王の取る道ではない。
この場にいる者は、全て冠の纓を取るがよい。それまで火を灯してはならぬ」
宴席にいる群臣が全て冠纓を切って、燭に火が点いた。
そのまま荘王も群臣も宴を楽しんだ。
* * *
宋昭公の弟・公子鮑は、徳の篤い人物で
宋を飢饉が襲った時、自分の貯えを民に施して救済した。
また、宋の重臣とよく交わり、優れた人材を国のために活用したので人望を得た。
宋昭公は礼がなく無道であったため、宋の国人は公子鮑を支持するようになった。
かつて、司城の役職にあった公子蕩が死んだ後、
蕩の子である公孫寿は継がず、公孫寿は自分の子の蕩意諸に継がせた。
「宋君は無道である。主君に近ければ禍が及ぶであろう。
しかし官職を棄てれば一族を守れなくなる。
我が子に跡を継がせれば、子が亡んでも一族は亡ばぬ」
宋昭公の祖母・王姫は、宋公を孟諸の沢へ狩りに行かせた。
機を見て昭公を殺害するつもりであった。
宋昭公はそれに気づき、全ての財宝を持って狩猟へ出発した。
事情を知った司城・蕩意諸が宋公に告げた。
「我が君、諸侯を頼ってお逃げになられては」
「わしは宋の国人にも、君祖母(王姫)にも見捨てられた。
諸侯の誰もわしを受け入れる事はないであろう。
一度は国君となった以上、人臣に堕ちるのは耐えられぬ」
昭公は財宝を全て近臣に与え、立ち去らせた。
しかし、蕩意諸のみ受け取らず、立ち去らなかった。
王姫は昭公のみ殺害するつもりであったから
蕩意諸に立ち去るよう勧めたが、従わなかった。
「一度は国君の臣となった以上、その難から逃げたら
たとえ生き延びても、後の国君に仕えることはできないでしょう」
11月22日、宋昭公は孟諸に到着する前に
王姫が大夫・衛伯を送って昭公を殺した。蕩意諸は自害した。殉死であった。
公子・鮑が新たな宋君に即位した。宋文公である。
文公は弟の公子須を蕩意諸の後任として司城に任命した。
後に司馬の華耦が死んだ後、蕩意諸の弟・蕩虺を司馬に任命した。
* * *
宋昭公が弑殺されたとの報せが晋に届き、趙盾は晋霊公に宋討伐を請うた。
しかし霊公は反対した。
「前の宋君は無道であったと聞く。この政変は天命であろう」
趙盾は晋君に告げた。
「最も大なるものは天地の関係、それに次ぐのが君臣の関係です。
尊卑の差は明らかにしなければいけません。
宋の臣が宋の君を弑殺したのは、天地に背き、人の道に逆らう行い。
これに天罰を与えるのが、盟主である晋の役割です」
晋霊公は出兵に同意した。
趙盾は太廟で令を発し、軍を召集した。
諸侯に使者を送って宋の討伐を伝え、宋へと向かった。
楚は領土の広さと人口の多さで中華諸侯を圧倒していますが
楚の貴族は南方部族の首領で、楚王はそれら諸部族の盟主に近い存在だったようです。
また、統治手段も中原に比べて遅れているというか
殷王朝までの祭政一致の国体が維持されていた形跡があります。




