第五十三話 仮面の国君
晋の霊公、楚の穆王の頃から、北の晋と南の楚が超大国となり
間に挟まれた中原諸侯はどっちに従うか、常に苦渋の選択を迫られる。
そんな中で東の斉と西の秦はどっちにも従属せず独立不羈を保つ。
要するに、これが春秋時代のテンプレです。
超大国の晋が趙、魏、韓に三分された事で
春秋時代が終わって戦国時代に遷る、と見ていいでしょう。
* * *
春秋時代の全期間を通じても屈指の名将と言われる士会。
彼が晋から秦へ出奔して6年になる。
その士会が秦にいることを恐れた晋霊公は、秦の東進に備えて
大夫・瑕嘉に命じ、桃林の塞を守らせた。
晋には三軍があり、六人の卿が将と佐を勤める。
中軍の将・趙盾、佐・荀林父
上軍の将・郤缺、佐・臾駢
下軍の将・欒盾、佐・胥甲である。
中軍の将が正卿、つまり晋の宰相で、中軍の佐が次卿として、正卿に次ぐ地位となる。
周頃王の5年(紀元前614年)夏、晋の六卿が諸浮の地に集まり、謀議を行った。
最初に正卿・趙盾が口を開く。
「士会が秦にあり、狐射姑が狄にいる。これは晋の禍である」
荀林父が続く。
「狐射姑は外事に明るく、しかも晋に多大な功を持つ咎犯の子。呼び戻すべきである」
郤缺が言う。
「しかし、狐射姑は晋を濫した。その罪は小さくない。
呼び戻すなら冠絶した軍才を持つ士会であろう。しかも彼には罪はない」
欒盾が発言した。
「士会は得難い傑人ゆえに、秦君が士会の才腕を気に入り
側近として重用していると聞く。如何して呼び戻すか」
趙盾は語った。
「魏氏を利用し、策を以て士会を連れ戻そう」
趙盾は大夫・魏寿余の家族を捕えて
夜半、密かに魏寿余を秦に奔らせた。
秦に入った魏寿余は秦康公と会見した。
「晋君は魏氏の罪を問い、先君・文公より賜った地を召し上げると申された。
魏氏は一族を挙げて秦に帰順する所存です」
秦康公はこれに同意したが、秦の大夫・繞朝が反対した。
「これは士会を連れ戻そうとする晋の策謀に違いありません」
しかし康公は繞朝の諫言を聞かなかった。
魏氏の大領が手に入る事に目が眩んだからである。
その夜、魏寿余は士会に会おうとしたが
繞朝が見張っているので、会う機会が得られなかった。
翌日、朝廷に出た魏寿余は、士会の足を踏んで意図を伝えた。
士会は理解した。
秦康公は秦軍を率いて魏邑へ向かった。
河西に到達すると、魏邑の民が河東にいた。魏寿余が康公に告げた。
「彼らを説得します。秦軍の中に晋の者がいれば、臣と共に行かせてください」
秦康公は士会を選んだが、士会は辞退して言う。
「晋人は信用できません。約束を違えれば臣は晋で殺され
秦にいる妻子も殺されるでしょう」
「もし晋が約束を破ったとしても、卿の家族を晋に帰らせることを黄河に誓う」
士会は了承して、魏寿余と共に黄河を渡った。
魏邑の民は士会を歓迎し、そのまま晋に帰国した。
河西でそれを眺めた秦康公は騙された事を知ったが
誓いを守って士会の家族を晋に帰らせた。
繞朝は大いに悔しがった。
* * *
周に入朝する諸侯で、邾という小国がある。
周の武王に封ぜられた長い歴史を閲する国であるが
常に大国に翻弄されてきた悲哀の小国であった。
この年、邾の国君・文公が都を邾邑から繹邑へ遷都すべく、吉凶を卜わせた。
邾邑は魯都・曲阜に近く、現在の山東省曲阜市にあり
繹邑は現在の同省鄒城市で、曲阜から少し南にある。
卜った太史官は「民には利がありますが、国君には不利です」と答えた。
文公は「民の利は即ち国君の利である。初めに天が民を生み、それから君が立った。
民に利があるのならそれを実現させねばならぬ」と言い、遷都を決めた。
邾文公の近臣が反論する。
「不利というのは天寿を全うしない事を意味します。我が君は長寿を求めないのですか」
文公が言う。
「国君の寿命は民を養うためにある。民に利があるなら、これほどの吉はない」
文公は邾から繹に遷都して、間もなく崩御した。
当時の君子は「邾文公は天命を知る者であった」と称賛した。
文公の子・貜且が邾君に即位した。邾定公である。
定公の弟・捷菑は母の生国である晋に奔った。
捷菑は趙盾を説得して邾に兵を向かわせ、定公を逐って自分が邾君になろうとしたが
邾の国人は「貜且は先君の長男で、しかも太子であった」
と言い、趙盾も貜且が正当な邾君であるとし、兵を退いた。
魯文公は邾文公を弔問する使者を送ったが
この使者は邾を小国と侮り、態度が不敬だったため
邾定公は怒って魯の南境を攻撃した。
これに対し、魯の卿・叔彭生が魯軍を率いて邾を討伐した。
* * *
楚穆王が崩御して、太子・旅が楚王に即位した。楚荘王である。
荘王はまだ若いため、国内の公子や重臣が代理で国政を担当していた。
荘王が即位した直後、群舒が楚に叛いたとの報せが届き
令尹・子孔と潘崇が群舒へ討伐に向かった。
この時、楚都の守備を担当した王子・燮と子儀が叛し、楚都・郢を占拠した。
燮と子儀は最初から群舒の大夫と連携していたらしい。
楚荘王は捕えられ、王子・燮が王位を自称した。
子儀はかつて秦の大夫であったが、殽の役で秦が晋に大敗した後
秦と楚を講和させるために楚へ赴き、そのまま楚の重臣になっていた。
子儀は楚と秦が協力して晋と戦うことを再三要求していたが実現出来ず
王位を目論む王子・燮と結託し、冷尹の地位を狙って謀反を起こしたのである。
王子・燮と子儀は刺客を送って子孔を暗殺しようとしたが、失敗した。
謀反を知った子孔と潘崇は軍を引き返して楚都に向かった。
王子・燮と子儀は楚荘王を連れて楚都・郢を離れて
商密へ向かう途中で廬邑を通った時に
廬邑の大夫・戢黎と家臣の叔麇の手にかかり
王子・燮と子儀は暗殺され、王子・燮の乱は鎮圧された。
荘王は戢黎と叔麇によって無事に保護され、楚都へ帰還した。
以後、荘王は疑心暗鬼に陥って家臣が信じられなくなり
国政を顧みず、毎晩のように豪勢な宴を行って
「わしに諫言する者は処刑する」と宣言したので
楚は大いに乱れ、悪臣は王に諂って下から賄賂を取り、良臣は嘆いた。
* * *
12月、魯の文公は、5年前に結んだ衡雍の盟約を再確認するため、晋に向かった。
途上、衛国を通過し、衛地の沓で衛成公と対面した。
衛成公は魯文公に語った。
「今、我が国の北境は、狄から侵攻を受けている。晋君にお伝え願えないか」
「承知した。晋候の号令で衛を救援して頂こう」
魯文公は晋霊公と会見し、衛国の救援が決まった。
魯候は晋から魯への帰国途上で鄭を通過した。
鄭穆公は大夫・子家に諮った。
「魯候に我が国と晋の仲介を頼めないであろうか」
子家は穆公に
「魯候は棐を通ります。宴席を設けて魯候を歓迎しましょう」と提案した。
穆公は承知した。
鄭伯は棐で魯候と面会し、宴を開いた。
席上、子家は魯候に鄭と晋の和平の仲介を懇願した。
「楚の新君は遊興に耽り、国政を顧みず、国は乱れているそうな。
晋候が楚を討つなら鄭は従います」
これに対し、魯の卿・季孫行父は
「我が君も同じお考えです。魯が鄭と晋を仲介しましょう」と答えた。
鄭穆公は魯の協力に感謝して拝礼し、魯文公も答礼した。
魯文公は晋に取って返し、鄭と晋の和平を成立させた。
* * *
年が明けて周頃王6年(紀元前613年)春、周頃王は在位6年で薨去した。
頃王の太子・班が新たな周王に即位した。周の匡王である。
頃王が薨去した時、周の王室では周公・閲と王孫蘇が争っていたので
王の訃告が発せられなかった。頃王の卒した正確な日時は不明である。
周公・閲と王孫蘇の争いを晋が仲介する事になった。
匡王は王孫蘇を支持していたが、途中で周公・閲の支持に変わったので
卿士・尹氏と大夫・聃啓を晋に送って周公・閲を助けた。
晋の趙盾は王室の争いを調停し、それぞれの職位を復帰させた。
* * *
この頃、斉国では、公子・商人が民に多く施すので人気があった。
一方で、斉昭公の世子・舎はまだ幼く、人気がなかった。
5月23日、斉の昭公が崩御して、昭公の世子・舎が斉候に即位した。
しかし、斉の国人は舎よりも公子・商人を斉君に推す声が大きかった。
公子・商人は覇者・斉桓公の子で、先君・昭公の弟である。
桓公の死後、国君の座を狙って他の兄弟と争った事もあり
斉君への野心は今なお捨てきれておらず、
長きに渡って民を施して人気を高め、多くの君子と交わってきたのである。
7月、公子・商人は斉君・舍を弑逆した。
しかし、自ら斉君に立たず、兄の公子・元に位を譲った。
だが公子・元は断った。
「汝は長く、国君の地位を求めてきた。
わしが汝に仕える事は出来るが、汝がわしに仕える事は出来ない。
わしが斉君に即位すれば、汝はわしを弑逆するであろう。
汝が国君になればよい」
こうして公子・商人が斉君に即位した。斉懿公である。
公子・元は斉懿公に親しまず、斉を出て衛に出奔した。
* * *
6月、魯文公、宋昭公、陳霊公、衛成公、鄭穆公、許昭公、曹文公と
晋の趙盾が、新城(鄭と宋の境界)で盟約を結び
楚に服従していた陳、鄭、宋は晋に付いた。
蔡国は会盟に参加せず、楚に従ったままである。
7月、彗星が北斗に入った、と記録にある。
これを見た周の内史・叔服が呟いた
「今後7年のうちに宋、斉、晋の国君が乱に遭って死ぬであろう」
宋の大夫・高哀が狄との戦いで功を挙げ、卿に昇進したが
宋公は義を知らない、いずれ誅殺されるであろうと判断し、魯に出奔した。
斉の政変を知った魯の公子・遂は周匡王に使者を送った。
「斉候は昭姫の子(斉君・舎)を殺しました。昭姫は魯の公女です。
昭姫を斉から呼び戻させてください。斉人に国君を殺させた罪を問います」
冬、周の卿士・単伯が斉に入った。
しかし斉懿公は周と魯のやり方が気に入らず、単伯と昭姫を捕えた。
公子・商人は斉候に即位して斉懿公になると
それまでの寛容な態度を一変させ、暴虐になった。
公子・商人は邴歜の父とよく狩りをしたが、いつも負けていた。
これを恨んでおり、斉候になると、邴歜の父の足を切って、邴歜を下僕にした。
斉の国人で庸職という人物がいた。
その妻が美人であったので、斉懿公はこれを奪って側室にし
庸職を自分が座上する馬車の御に任じたという。
斉の国人の期待とは程遠い斉懿公の悪政に不満が募り
衛に出奔した公子・元に期待する声が高まった。
公子・商人、後の斉の懿公。
彼の生き様は、人間の負の部分を曝け出しています。
人気取りにひたすら隠忍自重と、借金してまで他人に大盤振る舞い。
その甲斐あって君主になった途端、残虐な本性を顕す。
昔の2chコピペでよく見た、いじめられっ子が出世して復讐する話と同じ。