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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第五十二話 猛暑の陽

春秋時代の庶民の多くは読み書きが出来なかったので

名前はあっても、それを字で書けた人は少数。

それでも不便はあまり感じなかったでしょう。


丁度今、村上春樹氏の「羊をめぐる冒険」を読んでいますが

そもそも「名前」とは一体何なのか、という疑問を感じています。




             *    *    *



 

    周襄王33年(紀元前620年)の年が明けたが

晋の襄公が前年8月に逝去して以来、晋君はなお不在である。


 趙盾ちょうとんの決により、秦に住む晋文公の子・公子雍こうしよう嗣君しくんと決まるも

公子雍は秦にあって亜卿の重職にあり、容易には抜けられない事情があった。


 趙盾の命で公子雍を帰国させるため、先蔑せんべつと士会は秦に向かい

秦君と公子雍の説得を続けている。


 晋の卿・荀林父じゅんりんぽは先蔑の同僚で、彼が秦に行く事を反対していた。

「国内には太子がいる。外から新君を求めるべきではない。

これに関われば、いずれ卿に禍が訪れるだろう」

しかし、先蔑は忠告を聞かず、使者として秦に赴いたのである。




 晋が国難に遭っている隙を突いたのか

3月、魯文公は軍を率いて須句しゅく国を領した。

須句はかつてちゅ国に滅ぼされたが、魯がこれを復国し

その後再び邾に滅ぼされ、魯文公が邾を攻撃したのである。


魯候は邾君の子を須句の大夫にした。




       *    *    *




 秦康公は晋の公子雍を晋に戻す事に決めた。

「先君が晋文公の帰国を援けた時は、護衛がおらず

ために呂・郤氏の乱を招いた」と語り

護衛として白乙丙はくおつへいに兵車400乗を与えて晋に向かわせた。



 しかし、晋では太子・夷皋いごうの母・穆贏ぼくえい

まだ乳児の太子を晋君にするため、群臣らに訴えていた。

「嫡嗣を棄て、外から国君を迎えるなど、先君の遺志ではない」


 穆嬴は太子を抱いて趙盾の邸に出向き、強願した。

「先君は太子を卿に託した。先君が没すれば、その遺命を棄てるのか」


 趙盾は晋の宗族と公族大夫による反乱を恐れ、諸大夫と相談した。

誰もが穆嬴を恐れ、公子雍が即位した時のことを心配した。


 結局、趙盾と群臣は太子・夷皋を晋君に即位させた。晋霊公である。

乳児が国君となり、正卿の趙盾は晋における独裁権力を手にした。



 一方、秦軍は公子雍を帰国させるために晋に向かっている。

これを防ぐため、趙盾は晋軍を率いて西進した。


 4月1日、晋軍は令狐れいこの地で秦軍を夜襲で破り、刳首こくしゅまで追撃した。

秦軍に護衛されていた公子雍の消息はここで途絶えた。

その生死は不明だが、これより後、史書に公子雍の名が出てくる事はない。


 秦軍と共にあった先蔑と士会は秦に亡命した。

荀林父は先蔑の家族や財産を全て秦に送った。



 士会は秦に入って3年間、一度も先蔑に会わなかった。

従者が士会に尋ねた。

「なぜ一緒に亡命した先蔑に会われないのですか」

「わしと先蔑は同罪だ。共に義はない。会う事は出来ない」




        *    *    *




 4月には宋の成公が崩御して、宋に政変が起きた。

成公の死後、成公の弟・ぎょが太子と大司馬の公孫固を殺して

宋君になったが、宋の国人はこれを認めず

宋君・禦を弑し、成公の少子・杵臼しょきゅうが即位した。宋昭公である。



 この時、宋は公族の力が強く、重職を独占していた。

右師・公子成、左師・公孫友(目夷の子)、司馬・楽豫がくよ

司徒・鱗矔りんかん、司城・公子蕩こうしとう、司寇・華御事かぎょじ華父督かほとくの孫)である。


 宋昭公は公族の権限を削いで国君の力を増すために

これら群公子を除こうとしたが、楽豫が諫めた。

「公族は公室の枝葉です。これを除いたら幹や根を守るものがなくなります。

主君が徳によって臣下に親しめば、皆、股肱となります。なぜ除くのでしょう」


しかし、昭公は諫言を聞き入れなかった。

「晋の文公は『太子を除く全ての公子は晋の国外に住むように。

国内に留まれば乱を招く』との遺命を遺したではないか」


 宋昭公の考えを知った宋の諸公子は、国人と共に私兵を率い

宋公を攻め、宋公に従う公孫鄭を公宮で殺した。


 昭公は公子らと和解し、楽豫は司馬の職を公子・ごう(昭公の弟)に譲った。




             *    *    *




 中原北部の広大な領域を勢力に持つてきは、白狄と赤狄に大別されるが

そのうち、赤狄の族・が魯国の西境に侵攻した。


 魯文公は晋に報告して、狄の討伐を依頼した。


晋の趙盾は狄に亡命している狐射姑こやこに仲介を頼んだ。


 狐射姑は狄の相・酆舒ほうじょを訪ね、狄を譴責した。

酆舒は狐射姑に「晋の趙衰と趙盾では、どちらが君子であろう」と尋ねた。

狐射姑は「趙衰は冬の太陽の如く温和で、趙盾は夏の太陽の如く烈しい」と答えた。


潞君は晋を畏れ、魯から引き揚げた。



 8月、晋の趙盾は鄭地のばつに諸侯を招集し、晋君の即位を報告した。

集まったのは斉昭公、宋昭公、衛成公、鄭穆公、許昭公、曹共公、魯文公である。

しかし、魯候は会盟に遅参した。


 9月、趙盾は晋軍を率いて魯を攻めた。

魯候が扈の会盟に遅れた事への懲罰である。


 10月、魯は公子・遂に贈物を持たせて晋に派遣して

趙盾と公子・遂は衡雍えいようの地で盟約を結んだ。



 11月、晋の卿・郤缺げきけつが趙盾に語った。

「文公の頃、我が国は衛、鄭と和せず、両国から地を奪いました。

すでに晋は両国と和していますので、奪った地を返すべきです。

晋君は幼く、正卿が諸侯の盟主の地位にいます。

盟主は徳を積まなければいけません」


 12月、趙盾は解揚げようを使者として

匡と戚の地を衛に返還し、鄭には申から虎牢に至る地を返還した。




        *    *    *




 翌年、周襄王34年(紀元前619年)の夏

前年の令狐の役の報復で、秦が晋を攻撃して武城を占領した。



 8月28日、周襄王が崩御して、太子・壬臣じんしんが即位した。周頃王である。

翌年が頃王の元年となる。


 魯の卿・公孫敖こうそんごうが周襄王の弔問のため

周都に向かう途中、へい(弔問の財)を持ったまま、きょ国に亡命した。


 周頃王は、諸侯で魯だけ弔問の使者が来ないので

毛伯・衛を魯に派遣して理由を尋ねた。


 魯は叔孫得臣に幣を持たせて周に送り

翌年2月に周襄王の葬儀・埋葬が行われるまで滞在した。



 周襄王の姉は宋襄公の夫人であったが

宋昭公が即位した時、襄公夫人に礼を用いなかった。


 夫人は宋の公族大夫(華、楽、皇の三氏)に命じて

宋昭公に与する孔叔、公孫鍾離こうそんしょうり、公子卬を殺した。




        *    *    *




 これより2年前、晋襄公が晋の五軍を三軍に縮小した時に

襄公は大夫の箕鄭父きていほ、先都、士縠しこく梁益耳りょうやくじ

抜擢して、それぞれ軍を任せようとした。


 しかし、先克がこれに反対した。

「狐氏と趙氏は先君の代からの功臣。重く用いるべきです」

襄公はこれに従い、狐射姑を中軍の将に、趙盾を佐にした。


 これ以来、箕鄭父、先都、士縠、梁益耳の4大夫は先克を恨んでいる。



 この頃、先克が大夫・蒯得かいとくの領地・堇陰とういんを奪った。

蒯得は先克を憎み、箕鄭父等と組んで先克の暗殺を企てた。



 年が明け、周頃王の元年(紀元前618年)正月

晋の箕鄭父、先都、士縠、梁益耳、蒯得が謀反を起こして

私兵を率いて先克を急襲、これを殺した。


 1月18日、趙盾は晋軍を率いて先都と梁益耳を捕えた。


 箕鄭父、士縠、蒯得は自領の邑へ逃亡し、籠城したが

荀林父がこれを攻めて陥落させ

残る三人の大夫も捕えられ、叛乱は鎮圧された。


 3月28日、謀反を起こした五大夫は処刑され、その首は市に晒された。




          *    *    *




 楚の大夫・范山はんざんが楚穆王に進言した。

「晋は国君が幼く、大夫の叛乱が起きるなど、安定していません。

王が中原を望まれるなら、今が好機でしょう」


 楚穆王は大国の王らしく、野心は強い。

先王が城濮の役で晋に敗れて以来、雪辱を晴らすべく好機を窺っていた。


 楚王は自ら楚軍を率いて狼淵ろうえんに駐軍し

楚と晋の間にある鄭国を攻撃した。


 楚が中原へ北進するには、まず鄭を確保する必要がある。

鄭を獲れば周都、さらに晋都への距離も遠くない。



 楚の猛攻を受けた鄭穆公は晋に急使を派遣し、援軍を請うたが

救援が来る前に楚軍は鄭軍を大いに破った。


 鄭は公子・堅、公子・ひょう楽耳がくじの三大夫が楚の捕虜となり、楚と講和した。


 楚軍が撤退した後、趙盾の率いる晋、魯、宋、衛、許の連合軍が到着した。


 穆公は彼らを労った後、晋に見切りをつける決断をした。

「晋の文公は我が恩人。しかし、わしは鄭の社稷と民を守らねばならぬ。

賢臣・咎犯も申したではないか。大義の前に小恩は捨てよと」



 鄭を破った楚軍は勢いに乗り、陳国に侵攻して壺丘こきゅうを占領した。


 続いて楚の息公・子朱ししゅも東夷から陳を攻めたが

陳は反撃して楚軍を敗り、楚の公子・はつを捕えた。


しかし、陳は大国・楚を恐れて公子茷を返還し、楚と講和した。




        *    *    *




 楚の重臣・子越が財物を持って魯を聘問した。

その態度は驕慢であったため、魯の卿・叔仲恵伯が彼を評した。

「子越は楚王・若敖じゃくごうの後裔だが、彼の代で滅びるであろう」


若敖の子が名臣・闘伯比で、闘伯比の子が賢相・闘谷於莵とうこくおと(字は子文)

子文の弟が司馬・子良、そして子良の子が子越である。

子良の妻が子越を産んだ時、子文は子良にこう言ったという。

「この子の容姿は熊か虎の如く、その声は山犬、狼の如し。

今のうちに殺さねばならぬ。成長すれば、我が若敖の一族を滅ぼすであろう」

子良は子文の命に従わず、子越を育てた。




             *    *    *




 周頃王の2年(紀元前617年)、秦の康公が3年かけて築いた楼台が完成した。


 これを聞いた晋の趙盾が言った。

「秦君は財を浪費し、民は疲弊している。今なら容易く秦に勝てよう」

趙盾は晋軍を率いて秦に侵攻し、少梁を取った。



 秦に亡命していた士会が秦康公に進言した。

「河西の地は晋にとって防衛は困難です。河を越えねば兵を送れません。

晋は戦勝に奢っており、今なら勝てます」

秦康公は兵を率いて晋軍を破り、北徴を取った。



 この頃、楚王が斉国の討伐を宣言して、兵の動員を行った。


 秦の大夫・任妄じんもうが康公に進言した。

「斉は楚から見て東にあるのに、兵は西に向かっています。

楚王が斉を討伐すると宣言したのは偽りで、秦を討つようです。

我が国は楚との境の守りを固めるべきです」


 秦康公は進言に従い、秦・楚国境の守備を固めた。

それを見た楚王は出兵を中止した。




      *    *    *




 楚で内乱が起きた。

楚の工尹こういん(建設長官)・子西が大夫・子家と謀り

楚王の弑逆を目論んだのである。


 子西は先王(成王)に恩があるので

成王を弑逆して王になった穆王を恨んでいた。


 しかし、王に密告する者がいたので、計画が露呈し

穆王は子西と子家を処刑した。




 子西が先王から受けた「恩」とは何であったか。


 これより16年前、子西は子玉と共に楚軍を率いて

城濮の地で晋軍と戦い、大敗した。

戦後、子玉は自害したが、子西は自害に失敗して生き延び、楚へ帰国した。

楚成王は子西の責を問わず、商公に任じた。


 しかし、子西は敗軍の将として誹謗される事が続いた。

子西は屈辱に耐えられず、商を出て舟で漢水を溯り

長江に入って楚都・えいに向かった。

その途上で渚宮にいた楚成王が宮殿を出て、偶然、子西に出会った。


 楚成王は子西に尋ねた。

「卿はどこへ行こうとしているのか」


 子西は答えた。

「臣は王の寛恕で死を逃れることが出来ました。

しかし、讒言によって、臣が逃走したと噂されています。

それで楚都に行き、司寇の裁きを受けて死にたいと思ったのです」


「卿が不遇の死を迎える事は、わしが許さぬ」

楚王は子西を工尹に任じた。



 その後、楚成王は太子商臣に弑逆され、商臣が楚王となった。

子西はこれを暗殺しようとして失敗し、処刑された。




      楚の范邑に住む巫の矞似いつじが楚成王、子玉、子西に語った。

               「三君は不遇の死を迎える」

         この予言は当たり、楚成王は太子から死を賜り

             子玉は敗戦の責を取って自害し

       そして子西は王の弑逆が露見して誅殺されたのである。




              *    *    *




  秋、楚の属領・息で陳共公と鄭穆公が楚穆王と会見した。

両国とも晋から楚へと盟主を替えたのである。



 冬、楚穆王、陳共公、鄭穆公、蔡荘侯がそれぞれ軍を率いて

宋を討つべく、厥貉けつらくに結集した。


 宋の司寇・華御事が言った。

「楚は我が国を晋から離そうとしている。戦っても勝ち目はない。

楚に降れば、宋は晋に従うべしという宋襄公の遺命に逆らう事になるが、民に罪はない」

華御事は楚に降り、楚王を宋都に迎えた。


 楚は孟諸もうしょにて陳、鄭、蔡、宋と講和した。



 中原の四諸侯と盟約を結んだ楚穆王は甚だ上機嫌で

孟諸で狩猟を催す事にした。

「わしは狩猟が好きだが、楚の領内はもう飽きた。

中原では、どのような獣が獲れるか試してみたい」


 楚王は早朝に出発すると命じたが、宋公が反対した。

「獣が穴から出るのは中天を過ぎてから。早朝では何も捕まらないでしょう」


 それを聞いた楚の左司馬・申舟しんしゅうは、宋公のしもべを鞭で打った。

「王命でござる。従われよ」


 もう一人の左司馬・子朱が諫めた。

「申舟は剛直に過ぎる。国君を辱めてはならない」


 申舟はこれに反論した。

「わしは王から与えられた任を実行しただけである。

強き者から逃げず、弱きを虐げず、狡猾な者、無法の者を取り締まる。

命を惜しんで職責を怠るわけにはいかぬ」



 後年、申舟はこの頑強な性格が災いして、楚の覇業の犠牲になる。




時代が下るにつれて、情報量がどんどん多くなっていきます。

ただ、春秋時代の中期は、晋と楚の時代と言えるので

今後はこの両国が中心で、その周辺がどう動いたか、という感じに描写していくと思います。

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