第五十一話 西戎の覇者
読者の方よりご指摘を頂いたので
難解と思われる人名、地名にはルビを振る事にしました。
既に書き終えた分も編集して書き足していきます。
* * *
晋帥が秦の三将を虜とする大勝を納めた殽の役から2年が経ち
秦は釈放された三将の孟明視を大将として、報復に来た。
全て先軫が予期した通りであった。
晋襄公は母后の言に乗せられた事を後悔したが
今はとにかく、これを迎え撃たねばならない。
中軍を先且居と趙衰が率い
秦地の彭衙(現在の陝西省渭南市合陽県)で
晋秦両軍は衝突した。これを彭衙の役と呼ぶ。
2年前、殽の役で晋襄公の車右を務めていた者は萊駒であった。
国君の座上する兵車に右する者は、国内一の勇者が選ばれる。
この戦役で、萊駒を上回る勇猛を示した狼瞫という者がいたので
襄公は萊駒に代わり、狼瞫を車右に任じた。
殽の役の翌年、箕の地にて白狄との戦が起きたが
この時に中軍の将・先軫は狼瞫に代わり、狐鞫居を襄公の車右に任じた。
狼瞫は自身の勇に自信があったので、この屈辱に怒り、それを見た友人が語った。
「それほど屈辱であれば、汝は死ぬべきだ」
「わしは死に場所を得ていない」
「ならば、汝のために先軫を殺し、わしも死のう。汝は死に場所を得てから来るがよい」
「上を害する者は死しても先祖の祭祀に加われぬ。
まず、先軫がわしの任を解いた事が正当であったか知りたい」
彭衙の役で、狼瞫は自分の部隊を率いて秦軍に突貫し、戦死した。
しかし狼瞫の猛攻に晋軍が続き、秦軍は崩壊し、晋が勝利を納めた。
死に場所を得た狼瞫により、秦の報復は失敗に終わったのである。
戦後、晋人は秦と孟明視を嘲笑して
「孟明視は『晋君への恩を感謝しに参る』と言った通り、またも晋に勝利を与えた」
と語り、これを唄にして天下に流布させた。
孟明視は屈辱の余り、自害しようとしたが、秦穆公は止めた。
敗戦の責を問わず、今まで通り重用したのである。
孟明視は慎み、民をよく治め、国政に励んだので、秦人は穆公と孟明視を尊んだ。
これを聞いた晋の趙衰は語った。
「次に秦師が来た時は、これに当たってはならぬ。道を開くべきだ。
自ら過ちを認めて徳を増した相手には敵わないであろう」
* * *
戦後、諸侯が晋を朝見したが、魯文公は来なかったので、晋は魯を攻撃した。
魯候は謝罪のため晋を訪問した。
晋は返礼の使者として大夫・陽処父を送り、魯と盟約を結んだ。
魯文公は上卿・公孫敖に語った。
「晋は魯を辱めた。国君が訪問した事への返礼に大夫を送った」
「では今度、晋が主宰する会盟には、それがしが参りましょう」
6月、鄭の垂隴で会盟が行われた。
晋は司空・士穀が参加して、宋成公、陳共公、鄭穆公
そして魯からは公孫敖が出席した。
士穀が公孫敖に尋ねた。
「なぜ魯候は参られないのでしょう」
「我が君は貴国を訪問した際、気の病を得ました」
士穀は晋に帰国して襄公に報告した。
「魯候の病の原因は、返礼の使者に大夫を送った事であろう」と語った。
冬に晋は彭衙の役の報復として秦を攻めた。
晋は先且居、宋は公子・成、陳は轅選、鄭は公子・帰生が軍を率い
秦地の汪と彭衙を占領して兵を還した。
この頃、衛は晋と講和して盟約を結んだ。
衛成公は陳を訪れ、仲介の労を取ってくれた事に謝礼を贈った。
* * *
年が明けて、周襄王29年(紀元前624年)
春正月、晋、宋、魯、陳、衛、鄭の諸侯連合は楚に服した沈国を攻撃した。
沈は漢江の流域にある小国で、楚に従属する事が長い。
その祖先を辿れば、魯国と同じ周公旦の末裔である。
夏、秦穆公は自ら大軍を率いて晋に侵攻した。
黄河を渡ると舟を焼き棄て、全将兵に決死の覚悟を示した。
覚悟を決めた秦軍の勢いは凄まじく
殊に雪辱を期す孟明視は、晋地に侵攻して王官と郊を取った。
晋は前年の趙衰の進言を守って、秦軍の勢いを避けるために
城の守りを固め、外に出て戦おうとはしなかった。
秦軍は茅津から黄河を渡り、殽に至って
穆公は3年前に戦死した将兵の喪を発し、三日間哭泣してから宣言した。
「わしは蹇叔、百里奚の諫言を用いず、多くの民を失った。
ここに、後世に我が過失を明記させる事を宣言しよう」
世の君子は穆公を賞賛した。
「秦君は人を用いる事に周到である。故に孟明はついに勝利を得た」
秦が晋を破ったこの戦いを、王官の役と呼ぶ。
* * *
この年の秋から冬にかけ、楚軍が江国(現在の河南省信陽市息県)を包囲した。
江は秦、黄、徐と同じ嬴姓の国で、周成王に封じられた名門諸侯である。
晋は江国の危機を周王室に報告して
王叔桓公が周軍を、晋の陽処父が晋軍を率いて
江を援けるために連合で楚を攻め、方城の関門を攻撃した。
この時に連合軍は楚の息公・子朱と遭遇した。
子朱は江都の包囲を解き、楚に還る途上であったから
周と晋は楚の撤兵を見届けて兵を還した。
この戦役で晋が単独で楚を攻めず
また、楚軍が江から退いたのを見て自らも撤退したのは
前年に晋と楚が盟約を結んでいたからである。
* * *
前年、晋襄公が魯文公に無礼を働いたことを悔いて
改めて盟を結ぶことになり、魯文公が晋に入った。
12月22日、晋と魯が盟約を結んだ。
ほどなく衛成公も晋に入り、正式に盟約を結んだ。
晋に人質として入っていた衛の将・孔達は衛に帰国した。
小国の諸侯は覇者に対して貢納の義務があり、これを「会正」と呼ぶ。
曹共公が晋に入って会正した。
秋、晋襄公は秦を攻め、刓と新城を包囲した。王官の役の報復である。
秦は城門を固く閉ざしたので、晋は戦果なく引き揚げた。
* * *
周襄王30年(紀元前623年)、楚は再び江国へ出兵して
楚軍は江都に突入した。江は滅亡し、祭祀は絶えた。
江国が滅んだと聞いた秦穆公は喪服を着た。
「秦と江は同盟を結んでおり、また同じ嬴姓の国でもあった。
江の社稷が滅んだ事を大いに憐れみ、また、我が国も自戒せねばならぬ」
秦穆公は大夫・由余の策謀を用いて西戎の主を討伐した。
秦は西戎十二ヵ国を併合して、その領土は西方、千里の地に及んだ。
穆公は西戎の珍品、宝物、捕虜を周王室に献上して
周天子は秦に召公・過を送って穆公を祝賀し、金鼓を下賜した。
秦の穆公は後世、西戎の覇者と称される。
斉の桓公、晋の文公と並ぶ春秋五覇の一人である。
しかし、秦国は西に偏っていたがために
穆公の悲願であった中原進出は叶わなかった。
東隣にある晋が果てしなく膨張を続け、超大国となって
秦の東進を阻み続けているからである。
* * *
翌、周襄王31年(紀元前622年)
秦の属国・鄀が秦に背いて楚に附いたので
秦は鄀を攻撃して鄀都・商密(現在の河南省南陽市淅川県)を占領した。
鄀の民は東南(現在の湖北省宜城市)に移動して国を建て、楚の属国になった。
秋、楚国の東方にある東夷の国・六が楚に背いた。
楚の孫伯と子家が兵を率いて六を滅ぼした。
六の君主は偃姓で、祖先は太古の皋陶氏と言われている。
冬、楚の公子・燮が蓼を滅ぼした。
蓼の国君は周と同じ姫姓で、その先祖は皋陶の父・顓頊まで遡る。
なお、楚国もまた顓頊の子孫が建てた国と言われている。
六と蓼、いずれも先史時代から続く古い歴史を持つが
春秋の乱世に巻き込まれ、その社稷は滅び、祖先の祭祀は途絶えた。
魯の大夫・臧文仲は皋陶の後裔が凋落した事を嘆いている。
* * *
晋の陽処父が衛を聘問し、帰国する時に甯邑を通り、甯嬴の客舎に宿泊した。
甯嬴は妻に「久しく求めていた君子に出会えた」と告げて
陽処父に仕える事にして、共に晋都に向かった。
しかし、甯嬴は河内の温山で引き返して家に戻って来たので、妻が理由を尋ねた。
「乱臣は剛に頼り、高明な者は柔に頼る。
陽処父は君子だが、剛に頼り過ぎている。良い終わりを迎えることはないであろう。
従えば、利は薄く、難を受ける事は多い。それを避けるために戻った」
この年、晋では趙衰、欒枝、先且居、胥臣と、重臣が相次いで亡くなった。
いずれも晋文公の代から晋の覇業を支えてきた名臣たちであった。
晋襄公は晋軍の再編成を行い、新上軍と新下軍を廃し、五軍を三軍に戻した。
先且居を継いで晋の正卿(宰相)・中軍の将となったのは咎犯の子・狐射姑である。
趙衰は中軍の佐であったが、これを趙衰の嫡子・趙盾が継いだ。
中軍の佐は正卿に次ぐ次卿の地位である。
年が明けて周襄王32年(紀元前621年)
陽処父が晋に帰国して、再編成された軍を見た。
彼は趙衰によって取り立てられたので、趙衰の嫡子である趙盾を正卿に推挙した。
趙盾は以前から賢臣として諸侯の間で高名であったので
晋襄公は陽処父に同意して、中軍を再改編し、趙盾を中軍の将(正卿)に変更した。
狐射姑は正卿から次卿に降格されたので、陽処父を恨んだ。
晋の正卿となった趙盾は国政改革に着手した。
それまでの法令を全て再検討して刑罰、法令、訴訟を整理し
財物の取引・貸借には契約を用いる条例を作り、旧弊を除き
身分秩序を定め、礼制を正し、才能ある者を抜擢していった。
政令を規定したら太傅・陽処父と太師・賈佗にこれを委ねて施行した。
* * *
この年、秦穆公が崩御した。在位39年であった。
秦には殉死の風が残っており、穆公が雍に埋葬された時、実に177人が殉葬されたという。
この中には穆公の覇業を支えた百里奚、由余、蹇叔も含まれていたと言われている。
穆公と共に賢臣も没したため、この後、秦は長く停滞し
大国の地位は保ち続けたが、中原に覇を唱える事は出来なかった。
その理由の一つが、殉死の風習であると言われている。
秦穆公には40人の子があり、太子・罃が位を継いだ。秦の康公である。
ここで、一つの伝説を語ろう。
穆公の40人の子の一人に、弄玉という娘がいた。
この頃、秦に蕭史という簫(縦笛)の名人がいて
彼が奏でる簫の音色を聴くと、孔雀や鶴が舞い降りたという。
穆公は蕭史を気に入って、弄玉を妻として与えた。
蕭史は妻の弄玉に簫を教え、数年後には夫に匹敵する腕前に成長した。
弄玉が吹く簫の音色は鳳の鳴き声の如くで、それを聞いた鳳凰が家の屋根に止まった。
それを聞いた穆公は宮殿に鳳台を築き、蕭史と弄玉の夫婦はそこに住んだ。
ある日の朝、夫婦は鳳台に登って簫を吹き、鳳凰の声を奏でた。
すると、鳳凰が天から降りてきた。二人は鳳凰に乗って天に昇ったという。
* * *
同年8月14日、晋襄公が崩御した。在位は7年であった。
世子・夷皋はまだ乳児だったため、正卿の趙盾は年長者を国君に立てようと言った。
「秦にいる公子雍(襄公の弟)は徳を積み、君子として知られている。
しかも秦での地位は亜卿である。公子雍を新たな晋君に立てるべきであろう」
狐射姑はこれに反論した。
「陳にいる公子楽(襄公の弟)を立てるべきではないだろうか。
公子楽の母・懐嬴は懐公と文公に愛され、晋を安定させるのに向いていよう」
趙盾が言う。
「懐嬴は地位が低い。それに陳は小国。公子楽では晋は安定しないであろう」
この議論は決着がつかず、趙盾は秦に先蔑と士会を派遣して
公子雍を晋君として迎えるよう命じた。
一方で狐射姑も陳に人を送り、公子楽を迎え入れようとした。
しかし、趙盾が人を送って郫(晋の邑)で公子楽を暗殺した。
9月、狐射姑は一族の狐鞫居に命じて、陽処父を暗殺した。
正卿の地位を失った事への恨みであった。
先年、甯嬴が予言した通り、陽処父が良い終わりを迎える事はなかった。
11月、趙盾は陽処父を殺害した罪で狐鞫居を処刑した。
狐射姑は晋で孤立したので、父・咎犯の故国である狄に亡命した。
趙盾は臾駢に命じて、狐射姑の妻子や財産を狄に送り届けさせた。
かつて晋軍の再編時、狐射姑が臾駢を辱めた事があったので
臾駢の家臣たちは、狄へ向かう途中、狐射姑の妻子を殺そうと言った。
しかし臾駢は反対した。
「人に恵むも、人を恨むも、その家族には関係がない。
趙盾は狐射姑に礼を施そうとしている。これを私怨に利用するのは誤りだ」
臾駢は狐射姑の家族や財産を守って狄まで運んだ。
作中に出て来る「春秋五覇」はこの時代の5人の覇者を指します。
しかし候補者は5人どころか10人以上いて
その中から5人が選ばれるんですが、選定は史料によってバラバラです。
確実に言える事は、斉の桓公と晋の文公が外される事はありません。
一般的に春秋時代の覇者は「斉桓・晋文」と括られ、他の候補者が残り3枠を埋めます。




