第五十話 誰が為に裁く
以前、ユーチューブで見た動画で
春秋時代の名将ランキングというのがありました。
筆者が名将を選ぶとすれば
鄭荘公、晋献公、士会、伍子胥、孫武、范蠡、趙無恤、曹沬、司馬穰苴あたりを挙げますが
その動画では1位が先軫だったので、渋いチョイスだなあと感心しました。
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周襄王26年(紀元前627年)春
秦軍の兵車三百乗が東進、晋の領内を経て
王城の北門を通過する時に、将兵は冑だけ脱ぎ、周王に拝礼して行軍した。
一度車から降りた将兵は再び兵車に飛び乗って行軍を続ける。
王宮からそれを眺めていた王孫・満が襄王に告げた。
「秦師は敗れるでしょう。秦兵は王の前で戦車に飛び乗り
軍装を解かず、冑だけ脱いだ。軽率で驕慢です。
礼がなく、規律を失った帥が負けないはずはない。
もし負けぬようであれば、天道が廃れた事となります」
秦軍は滑国(晋辺境の邑)に至り、鄭の商人・弦高と遭遇した。
弦高は12頭の牛を秦軍に贈り、こう述べた。
「鄭伯は貴国の兵が通ると聞き、私に慰労するように命じられました」
弦高は秦軍を滑邑に留め、鄭都に使者を送って秦軍の接近を報告した。
鄭穆公は鄭都で賓客として遇している秦の大夫・杞子等の様子を調べた。
杞子等は戦の準備をしていた。
穆公は皇武子を送って杞子等に伝えた。
「卿達が鄭に来て久しく、食も尽きました。もし帰国なされるのなら
原圃(遊園)にて、鹿など獲って帰国時の食糧にしては如何でしょう」
杞子等は陰謀が発覚した事を知り、杞子は斉に、逢孫と揚孫は宋に奔った。
陰謀が露見した事を聞いた孟明視が言った。
「杞子等は鄭を出た。鄭には既に備えがある。勝つのは無理であろう」
秦は滑国を滅ぼして秦に帰還した。
鄭穆公は弦高に褒賞を与えようとしたが、弦高は断った。
「それがしは鄭国のため、秦国を騙しました。
国君が欺瞞の者を賞すれば、国の信用が失われるでしょう。
ですが、国君の厚意を辞するのも義と礼に反します」
弦高は賞賜を受け取らず、一族を率いて東夷へと去った。
鄭穆公は「わしに徳が欠けていた。鄭は義人を失った」と嘆いた。
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晋の正卿・先軫が襄公に進言した。
「秦候は蹇叔・百里奚の諫言を聴かず
その貪婪によって帥(軍)を動かしました。
これは天が晋に与えた好機。秦を討つべきです」
欒枝がこれに反論する。
「先君・文公は秦候の厚恩を受けた。晋はそれに報いていない」
先軫が言った。
「秦は文公の喪を憐れまず、我が国と同姓の滑国を討った。
秦は無礼であり、これを放置すれば数代に及ぶ患憂となろう。
子孫のために謀る事こそ先君は望まれるはず」
襄公は先軫の言に従い、秦へ出征する事を決めた。
晋北に拠を置く姜氏の戎兵を動員して
襄公は白い喪服を黒くして兵を指揮した。
車御は梁弘、車右は萊駒である。
夏・4月13日、晋軍は殽の地で帰国の途上にあった秦軍を大破した。
秦軍は全滅し、孟明視、西乞術、白乙丙は晋の捕虜になった。
帰還した襄公は黒い喪服を着たまま文公を埋葬した。
これ以来、晋では喪服の色が黒と決められた。
* * *
晋襄公の母・文嬴は秦から晋文公に嫁いで来た女性である。
彼女は捕虜になった秦の三将の命を助けるため、襄公に言った。
「三将は晋と秦の関係を悪化させました。秦候は彼らを大いに憎んでいます。
彼等を秦に引き渡せば処刑されるでしょう。
我が君が彼らを処罰する必要はありません。
彼らを秦に返せば、我が君を煩わせる事なく三将を始末出来ます」
襄公はこれに同意して、孟明視、西乞術、白乙丙を帰国させた。
暫く後、先軫が襄公に三将の様子を聞いた。
「母后が請うので釈放した」と襄公は答えた。
これを聞いた先軫は激怒して晋候を非難した。
「晋の将兵が多くの血を流して捕えた敵将を
婦人の甘言に乗せられて逃がすとは。
戦果を失い、敵を助長する行いです。晋は間もなく滅ぶでしょう」
襄公は三将を釈放した事を後悔して、陽処父に追撃させた。
孟明視等は既に黄河を渡る舟中にいたので
陽処父は三将を引き戻すため、兵車の馬を外し、襄公からの贈物であると偽った。
だが孟明視は晋将の策略と見抜き、舟を返さず、稽首して言った。
「臣等は晋君の恩恵により、晋の犠牲の祭祀に使われずに済み
帰国して秦候に処刑される事で、死しても名を残せます。
もし、死なずに済めば、晋君への恩を感謝しに参ります」
陽処父は舟が西へと向かうのを虚しく眺め、帰国した。
先軫は襄公に言った。
「孟明視の言う晋への恩とは、敗戦の報復という意味です。
秦候は三将を罰せず、重く用いて、晋を破るでしょう」
先軫は襄公に向かって唾を吐いた。
秦に戻った三将を、穆公は郊外で出迎え、泣いて言った。
「わしは賢臣の諫言に逆らい、臣を辱めた。敗戦はわしの罪である。
卿らに罪はない。どうか恥を雪ぐために尽力してほしい」
* * *
秋、晋の北方に大きな勢力を有する白狄が晋に侵攻して、箕に至った。
(白狄は狄の一種で、姓は隗、釐、姮などがいる)
8月22日、晋襄公が自ら軍勢を率いて
白狄を箕で破り、郤缺は白狄の君主を捕えた。
この戦いの前に先軫は言った。
「それがしは主君に唾を吐いた。しかし、我が君は罰しなかった。
ならば、自分で罰せねばなるまい」
先軫は冑を脱いで狄軍に突撃し、戦死した。
先軫の死体は狄から晋に返された。
晋軍は箕から還ると、襄公は三つの命令を下した。
最初に、上軍の将・先且居(先軫の子)を中軍の将に任じた。
次に、郤缺を推挙した胥臣に先茅の地を与えた。
最後に、郤缺を卿に任命し、冀の地を与えた。以後、郤缺は冀缺とも言われる。
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中原諸侯の多くは晋と盟約を結んでいるが、許は楚に従属して
晋の盟約に一度も参加していないため、晋、陳、鄭が許を攻めた。
許は降伏して晋と講和した。
この時、楚の令尹は、城濮の役で楚の右軍を率いていた子上である。
子上は許の南にある蔡と、許の東にある陳を攻め、両国は楚と講和した。
許は蔡、陳からの圧迫を受け、再び楚に従属した。
鄭は3年前、晋文公の援助で公子・蘭が鄭の太子となり
前年、鄭文公が崩御した後、蘭が鄭伯に即位し、鄭穆公となった。
鄭穆公とは腹違いの兄弟である公子・瑕は
楚に出奔していたので、楚は公子瑕に兵を与え、鄭を攻めた。
親晋派の穆公を退け、公子瑕を鄭君に就ける目論みである。
楚軍が桔柣(鄭の遠郊)の門を攻めた時
公子瑕の乗っていた兵車が周氏の池で横転し
瑕は鄭の外僕に捕えられ、楚軍は退却した。
鄭穆公は公子瑕を処刑した。
公子瑕の母・蘇妃は公子瑕の遺体を鄶城の下に埋葬した。
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12月、晋の陽処父が楚の盟下にある蔡を攻めた。
楚の令尹・子上が蔡を援け、晋軍と泜水を挟んで対峙した。
陽処父は子上に手紙を送った。
「楚が晋との戦を欲するなら、晋は一舍(三十里)を退く。
楚帥が泜水を渡って陣を構えた後、いつ戦うかは卿が決めよ。
戦を望まぬなら帰還せよ、師を疲れさせ、財を費やすのは無益である」
手紙を送った後、陽処父は楚軍の渡河を待った。
子上が川を渡ろうとすると孫伯(子玉の子)が反対した。
「晋は信用出来ません。渡河の途中で我々を攻撃するつもりです。ここは兵を退くべきです」
子上は孫伯の進言に同意し、晋軍を誘うために一舍退いた。
それを見た陽処父は「楚は逃走した。晋の勝利である」と宣言した。
晋楚両軍は撤兵した。
楚の太子・商臣は、晋に敗れて帰国した子上を楚王に讒言した。
「かつて子上は城濮の役で大敗する因を作り
今また晋との戦いを避けました。晋から賄賂を貰っているに違いありません」
楚成王は子上を殺した。孫伯が新たな冷尹になった。
子上は公子・商臣を太子にする事に反対していたので
商臣の恨みを買っており、まずい戦によって報復を受けたのである。
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周襄王27年(紀元前626年)
晋襄公は文公を祀る小祥の祭祀を終わらせた後
文公が病臥にあった折、晋との盟約を破棄した衛国の討伐を宣言した。
衛に向かった晋軍は南陽に至り、先且居が襄公に進言した。
「まず、我が君は王に朝見するべきです。臣が師を率います」
先且居と胥臣が衛に進軍し、襄公は温で周襄王に朝見した。
5月に晋軍は衛の戚邑を包囲し
6月に占領して戚の主・孫級を捕えた。
衛成公は晋に攻撃されていることを陳に伝えた。
「衛は小国で晋は大国。衛はすでに戚を奪われた。
楚と盟約を結ぶ貴国の援けがほしい」
陳共公は「衛は晋に反撃して時間を稼いで頂きたい。
その間に楚へ急使を送り、楚の来援を請う」と返信した。
衛候は陳候を信用して、孔達に兵を与えて晋を攻撃した。
しかし、陳の急使を受けた時、楚は内乱の最中で
援軍を出せなかったので、衛は晋に降伏した。
晋は衛の戚を占領した後、諸侯との国境を定めた。
* * *
楚成王は末子の職を可愛がり、商臣を太子から廃嫡して
王子職を後継者に立てたいと思うようになった。
噂を聞いた太子・商臣は、師・潘崇に尋ねた。
「どうすれば王の考えを確認できるだろうか」
潘崇が答えた。
「江国に嫁いだ王の妹・江羋を宴に招き
わざと不敬な態度を取れば分かるでしょう」
商臣は潘崇の言に従って江羋を宴に誘い、わざと不遜な態度を取った。
江羋が怒って言った。
「太子は賤しい。王が職を後継に選ぶのは当然である」
商臣は潘崇に相談した。
「王が私を廃そうとしているのは本当であった」
「太子は王子職に仕えることが出来ますか」
「出来ぬ」
「では、楚を出奔しますか」
「それも出来ない」
「大事を成すことが出来るでしょうか」
「出来よう」
「ならば、廃嫡される前に事を成すべきです」
10月18日、晋軍が衛国の戚邑を占領した頃に
商臣は太子宮の兵を率いて、成王の宮殿を包囲した。
成王は太子の兵に囲まれて
「せめて最後に熊の掌の料理を食べたい」と言った。
この料理は調理に時間がかかるので、時間稼ぎが目的であった。
しかし商臣は拒否したので、成王は縊死した。
こうして太子商臣が楚王に即位した。楚の穆王である。
穆王は成王の諡号を「霊」にしようとしたが
成王の遺体は目を開いたままであったので、「成」に改めると瞑目した。
「霊」は国を乱した国君に与えられる悪諡で
「成」は国を安定させた国君に与えられる美諡である。
穆王は太子だった時の財物、僕、妾を全て潘崇に与え
太師に任命して宮廷警護を任せた。
文官と武官を明確に区分するのは戦国時代以降ですが
春秋時代の中期あたりから兆しはありました。
身分が低くても能力の高い者が代理で仕事をするという、よくある話です。
戦国時代にはこれが制度化されますが、この頃は全てが個人の裁量任せです。
人使いの上手い人は「高い徳を持つ者」と敬われました。




