第四十九話 晋の時代
歳を取ると、何を書いても説教くさくなります。
私はツイッターもやってますが、何を呟いても、そういう雰囲気が自然に出てしまいます。
大昔の偉人が書いた論語も聖書もコーランも、割とそんな感じです。
青空文庫で昔の名作を読んでも、やはり感じられます。
要するに、人は他人に説教するのが好きなのかな。
一種のマウント取りと言えなくもない。
* * *
晋文公は国君になってから、胥臣から書籍を学んだ。
「書籍に書かれている事を実行するのは難しい。ただ見聞のみ増した」
「国君にとって見聞を増やすのは重要な事です。
見聞を以て臣下を見定め、適所に人を置いて職務を実行させればいいのです」
ある日、晋文公は碭山へ狩りに行った。
大沢で道に迷い、暫く進むと漁夫を見つけた。
「道を教えてくれぬか。無事に戻れたら褒美を取らす」
漁夫は道案内をして、文公は大沢から無事に出られた。
「大海の上を飛ぶ大鳥も沢に来れば猟師の獲物になります。
深淵に棲む大亀は浅瀬に出たら漁師の獲物になります。
国君が獣を逐って大沢に迷えば賊徒の獲物になりましょう」
「汝の申す通りである」
文公は漁夫の諫言を称賛し、後日に厚く褒美を与えるため、名を聞いた。
「貧民が身に余る財を手にすれば、盗人の獲物となり果てるでしょう」
と言って、名前を告げずに去った。
文公が胥臣に問うた。
「わしは陽処父を世子・歓の傅(教育係)に任命したい。卿はどう思うか」
「それは世子の資質次第です。聖王の事績は傅育のみに依る物ではなく
その本質が生まれながらに優れていたのです」
「では学問とは無意味であるのか」
「学とは本質を更に美しくするためにあるのです。
だから人は学問をしなければなりません。
学ばなければ正道に入ることができないのです」
* * *
晋文公は曹国を滅ぼし、曹共公を捕えたが
許を攻める前に曹候を釈放し、共公は帰国した。
曹は復国したが、一部の地は晋に接収されたままである。
文公は諸侯の信望を得るため、曹国から得た地を分割し、諸侯に与えることにした。
魯釐公は曹の地を得るために臧文仲を晋に派遣した。
臧文仲は重(魯地)に宿泊した時、館で働く者が助言した。
「晋君は曹地を諸侯に分けようとしており、諸侯は先を争って晋に赴いています。
あなたは一刻も早く曹に行くべきです」
臧文仲は納得して、その夜のうちに館を出て晋に急行した。
曹に最初に到着したのは臧文仲であったため、晋文公より賞賛され
魯国には洮水以南、東は済水に至る広大な地が与えられた。
帰国した臧文仲が釐公に告げた。
「多くの地を得られたのは重にある館にいた者のおかげです」
釐公は館の者を大夫に任じた。
* * *
周襄王23年(紀元前629年)、晋の上軍の将・狐毛が死んだので
文公は趙衰を後任にしようとしたが、趙衰は断った。
「城濮の役では先且居(先軫の長子)が軍を補佐して功を立てました。彼を用いるべきです。
また、臣の同輩には箕鄭、胥嬰、先都がいます」
文公は趙衰の献言を受け、先且居を上軍の将に任じた。
同時に三軍を五軍に増やし、新上軍と新下軍が新設された。
新上軍の将に趙衰、佐は箕鄭が任命され、新下軍の将に胥嬰、佐は先都が任命された。
間もなく上軍の佐・咎犯も死んだために
趙衰を後任とするため、新上軍の将から上軍の佐に配置換えとなった。
咎犯は晋の正卿(宰相)でもあったため、この後任は先軫が就任した。
文公の車右を罷免され、封地の霍を治めていた魏犨も死んだと知らされた。
僅かな間に狐毛、咎犯、魏犨と、立て続けに訃報を聞いた文公は慟哭した。
「わしが今日あるのは、彼らの力による。
先に去って行くのを見送るは、なんと哀しい事か」
胥臣が進言した。
「失った3人の賢臣を継ぎ、卿の位に耐えうる者を推挙します」
「誰であるか」
「郤芮の子・郤缺です。その才覚は子犯(咎犯)に劣りません」
「郤芮は晋に大乱を起こした。その子を用いてよいのか」
「伝説の聖王・堯や舜にも、丹朱や商均の如き不肖の子がいました。
夏朝を創した禹王の父は黄河を氾濫させた鯀です。
賢者と不肖の者の間に父子の繋がりは関係ありません」
文公は胥臣に従い、郤缺を召した。
晋の下軍は胥臣が将となり、郤缺を佐に任じた。
* * *
この年、晋は衛国に属する鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)を討伐した。
趙衰が策を献じ、晋文公は趙衰の策を用いて鄴を破った。
帰国後、文公は論功行賞を行い、趙衰を功績第一であるとして
最初に賞しようとしたが、趙衰が意見を述べた。
「戦勝の末端を賞するなら、兵車に乗った者を賞してください。
根本を賞するなら、臣に助言した郤子虎を賞して頂きたい」
文公は郤子虎を召した。
「わしは趙衰の進言によって鄴に勝った。彼を賞そうとしたら
卿が助言をしたと言う。そこで卿を功の第一として賞する」
しかし、郤子虎は賞を遠慮して言った。
「言うだけなら易しい事ですが、行うのは難しいものです。臣は言うだけの者です」
文公は「汝は賞を辞退してはならない」と言ったので、郤子虎は賞を受けた。
なお、今日でもよく用いられる諺「言うは易く、行うは難し」は
前漢時代の学者・桓寛の「塩鉄論」(紀元前81年)が初出とされているが
この時の郤子虎の発言が元である、という説もある。
郤子虎の名はここでしか出てこないため、郤缺と同一人物かもしれない。
* * *
晋が五軍を編成し、鄴を討った事を知った楚成王は
晋を畏れて大夫・闘章を晋に派遣し、晋との和平を請うた。
晋は陽処父を楚に送り、晋と楚は和平を結び、交流が再開した。
12月、狄の軍勢が南下して衛都・楚丘を包囲したため
衛は楚丘から帝丘に遷都した。
帝丘に遷った衛成公は夢を見た。
夢の中で衛の国祖・康叔封に会い、康叔が成公に告げた。
「相(夏王朝5代目の王)が、わしの祭祀を奪う」
翌日、成公は相に康叔の祭祀を奪わせないために
相の祭祀を行うと宣言したが、甯兪が反対した。
「相は祀られなくなって久しくなりますが、これは衛の罪ではありません。
衛は周王より分かれた姫姓の諸侯です。
周の天子によって定められた祭祀を変えてはなりません」
成公は甯兪に従い、命令を撤回した。
翌、周襄王24年(紀元前628年)、狄で内乱が発生したので
衛は前年の報復として狄を攻め、これを破って盟約を結んだ。
同年4月15日、鄭文公は在位45年で崩御し
世子・蘭が鄭君に即位した。鄭の11代・穆公である。
これより22年前、鄭文公の賤妾・燕姞の夢に
南燕の国祖・伯鯈が現れて彼女を祝福し、蘭の花を与えた。
ほどなく彼女は懐妊して、生れた子に蘭と名付けた。
鄭伯は燕姞に蘭の蕾を下賜して、これを我が子・蘭に与えた。
公子蘭はこれを肌身離さず持ち続け、その美しい容姿から
「蘭の化身」と呼ばれ、誰からも愛されて、ついに鄭君となった。
この頃、晋文公が病に倒れたので、諸侯が晋候への朝見に訪れた。
しかし衛候は晋に朝見しなかった。
衛成公は晋文公の病を知ると、上卿・孔達に命じて
鄭の緜、訾、匡の三邑を攻撃した。
鄭の新君が晋と親しい事から、前年に晋が鄴を討った事への報復である。
文公の病はいよいよ重くなり、重臣を招き、遺詔を伝えた。
「世子・歓を立て、諸卿はこれを補佐して晋の覇業を失わぬように。
諸公子が国内に留まっていると、国政を混乱させる恐れがある。
公子・雍は秦に、公子・楽は陳に、末子の公子・黒臀は周に仕えさせよ」
集まった重臣は再拝して遺命に服した。
周襄王24年(紀元前628年)12月9日、晋の文公・重耳は在位9年で没した。
12月10日、世子歓が喪主となって文公の棺を祖廟のある曲沃に運ぶため
群臣が晋都・絳を出た時、霊柩の中から牛のような鳴き声が聞こえた。
郭偃がその声を聴き、大夫達に棺を拝させて言った。
「我が君は大事を命じられた。明年、秦が国境を越えて我が国を侵す。
これを撃てば必ず大勝するであろう、と」
葬儀を終えて世子歓が晋君に即位した。晋の25代・襄公である。
これまで友好な関係を築いてきた晋と秦は
晋文公が崩御した頃から、徐々に険悪となっていく。
文公の棺から聞こえた鳴き声は、それを予言したものかもしれない。
晋襄公と群臣たちは秦の侵攻に備える準備を始めた。
* * *
年が明けて周襄王25年(紀元前627年)
鄭に駐軍している秦の将・杞子が秦穆公に使者を送った。
「鄭人が私に北門の鍵を任せました。秘かに兵を進めれば鄭国を得られます」
穆公は蹇叔と百里奚に意見を求めると、共に反対した。
「師(軍)に千里の行軍を強いて遠国を攻めても得られる物などありません。
どれほど秘しても鄭に知られます。多くの将兵を失うだけで終わるでしょう」
しかし穆公は諫言を聞かず、孟明視、西乞術、白乙丙を召して鄭に出兵させた。
百里奚は泣いて、子の孟明視に語った。
「わしは汝が出る姿を見送るが、戻る姿を見ることはないであろう」
孟明視は自分の才勇に自信があるので成功を疑わず
百里奚の反対を気にしなかった。
穆公が百里奚に伝えた。
「汝は長く生き過ぎた。年老いれば分からぬ事もある」
蹇叔は泣いて西乞術と白乙丙に語った。二人とも蹇叔の子である。
「晋は必ず殽で守るであろう。殽には二陵がある。
南陵は夏王・后皋の墓で、北陵は周文王が風雨を避けた場所である。
もし汝らがその間で死ねば、わしが骨を拾うであろう」
二人はそれを聞いて出征を辞退しようとしたが、蹇叔が反対した。
「我々父子は長く秦の禄を食んできた。君命で死ぬのは本分である」
これを聞いた穆公は怒り、蹇叔と百里奚を譴責した。
「なぜ卿等は我が師に対して号哭し、軍心を損なわせようとするのか」
「臣は師に対して号哭するのではありません。我が子のために号哭するのです」
秦軍が秦都を出た後、蹇叔は病と称して入朝しなくなり、致仕(退職)を申し出た。
しかし穆公は出仕を強制したため、蹇叔は病が重くなったと称して銍村に還った。
今更ですが、タイトルに「天の時代」とあるのは
ファンタジー要素が含まれてるからです。
記述してる内容は紀元前に著された史料を基にしていますが
その史料自体が、甚だ信憑性やリアリティに欠ける内容なので。
晋の文公・重耳が死んだ後、その棺から牛の鳴き声が聞こえて
それを聞き取る役目の人がいて、しかもそれで戦争が起きる時代です。
よく言えば牧歌的、悪く言えば命が安い。