第四話 鄭の荘公
春秋時代の人名は、現代より複雑です。
先祖のルーツは姓(姫、姜、姒、嬀、子、嬴など)で表し
地位や出身地などが氏(士、趙、司馬、公孫、国、魏など)になります。
名前は諱と言って、口にするのは不吉、不遜とされましたが
名が呼べないと不便なので、字で呼びます。
* * *
鄭武公夫人は申侯の娘、姜氏(武姜)である。
二子を生み、長男は寤生、次男を段と言う。
姜氏が最初の子を出産する時、非常な難産で
足の方から先に出て来た、いわゆる逆子であったため
逆子を意味する寤生という名を付けたという。
次男の段は安産で顔立ちが良く、文武に秀でていたので
姜氏は寤生よりも段を可愛がった。
夫の武公にも、次期鄭君は段にするべきだと事あるごとに懇願したが
長幼の序に基づき、武公は長男の寤生を世子にした。
姜氏は承知したものの、内心では面白くない。
周平王の28年(紀元前743年)、鄭武公が崩御して
寤生が3代目の鄭君に即位した。鄭の荘公である。
弟の段には共邑を与え、共叔段と呼ばれる。
鄭荘公は先君の武公から周の卿士も引継いだ。
武姜は不満 であった。
「公は先君を継いで、鄭国と卿士の地位を有しながら
段は共邑だけ、不公平ではないか」
「母上は何を望まれるのでしょうか」
「段に、制邑を与えなさい」
「制邑は鄭を守る要地。誰にも与えるな、とは先君の遺命でした」
「ならば京城を」
荘公は黙ったので、姜氏は怒った。
「それも駄目なら、私と段を鄭から追放しなさい」
「では、重臣と諮りますので、明日までお待ちください」
荘公は大夫の祭足に相談した。
「母上は段に京城を与えよと申される。どうすればよい」
「いけません。京城はこの新鄭より大きな城邑。
いかな身内といえど、臣下に与えるには大きすぎます。
国母は共叔殿を可愛がっておられ、これに大領を与えれば
将来、必ず鄭の禍となりましょう」
「だが、母上の申し出である」
結局、荘公は共叔を京城に封じた。
以後、共叔は太叔段と呼ばれる。
京城に移り住んだ太叔段の元に、西鄙と北鄙の大夫が祝賀に訪れた。
「これからは太叔様が我らの主でございます」
太叔段は連日、兵の訓練を行い、また京城の城壁を高くした。
* * *
数年後、太叔段は軍を率いて鄢と廩延を攻め取った。
両邑の責任者は新鄭に逃げて来て、荘公に訴えた。
しかし荘公は何も言わなかったので
上卿の公子・呂が「太叔段、誅すべし」と叫んだ。
「子封(公子・呂の字)、卿には何か考えがあるのか」
「太叔は母后に愛され、京城の堅固を恃み、日夜、兵を鍛えています。
これ即ち、鄭君を簒奪しようとの意思に相違ありません。
臣に兵をお貸し下されば、直ちに京城に駆け、後顧の憂いを絶ちまする」
「段が悪いと確定しておらん。討伐する理由はない」
「両鄙を取られ、廩延や先君の土地が削り取られるのを見過ごすおつもりか」
「段は我が弟。地を失っても兄弟の情は大事にしたい。
母上の気持ちを無下には出来ぬ」
と荘公が言うと、公子・呂は更に続けた。
「臣が憂いているのは、土地ではなく国を失う事でございます。
太叔の勢力は日に日に強くなっており、鄭の民も二心を抱いている。
公が太叔を思うほど、太叔は公を良く思ってはおりません」
「くだらぬ事を申すな。下がれ」
公子呂は正卿・祭足に言った。
「我が君は私情で鄭の社稷を疎かにしている。嘆かわしい」
「主君は非凡なお方。坐して等閑に付す事はないでしょう。
朝廷は多くの耳目があり、事が漏洩するのを恐れています。
いずれ動くでしょう」
公子呂は荘公の私室で会見を求めた。
「何の話であるか」
「我が君が鄭君を継がれたこと、国母は心良く思っていません。
万一、内外で示し合わされると、鄭国は保てなくなります」
「わしにも考えがある。段はまだ謀反を起 してはおらん。
今、彼を討てば、必ず母上が内から邪魔をしよう。
また、段に味方する者も多く、未だ時期は尚早である。
もうしばらく段を泳がせておけば、いずれ新鄭に兵を向けよう。
そこで段を討てば、明確に罪に問え、誰も段に味方はすまい。
卿が武勇を発揮するのはその時である」
公子呂は宮門を出て「祭足は慧眼である」
と独言した。
* * *
しばらく経ち、鄭荘公は祭足を摂政に任じ、自身は周都へ行き
天子の補佐をするという、偽の命令を出した。
武姜はこれを信じ、段が鄭君になる好機であると、
京城の太叔段に、荘公が留守の間に新鄭を攻めよと密書を届けさせた。
公子呂は密書を運ぶ使者を捕えて奪い取り、荘公に届けた。
荘公は密書を読んだ後、別な者を武姜の使者と偽って太叔段に届けさせた。
そして具体的な挙兵の詳細が書かれた、段から武姜への返書を手に入れた。
荘公は返書を手に入れて「もはや、母上も段を庇えまい」と呟いた。
武姜に別れの挨拶を述べ、周へ行くと言って
実は廩延へ向った。
一方、公子呂に二百乗の兵車を与え、京城付近で太叔段を待伏せていた。
その太叔は武姜の密書を受取り、息子の公孫滑を衛国に向かわせた。
兵を借りるためである。
そして自らは鄭君より摂政になるようにとの命令があったと偽り
両鄙の兵も合わせ、京城を出た。
公子呂は事前に京城に兵を潜入させており
太叔の兵が出発したら狼煙を上げ、城門を開けよと指示しておいたので
簡単に京城を占拠した。
太叔もすぐに京城を失った事に気づき、慌てて兵を返した。
京城に近づくと、公子呂が城壁の上に立っており
「降伏すれば、京城に住む汝らの家族に手は出さぬ。
だが、強いて我らに矢を射るのであれば、容赦はせん」
と大喝したので、太叔の率いる兵士の大半が降伏してしまった。
太叔は京城を離れ、再起を図るために鄢邑へ向かった。
だが、鄢邑には荘公が兵を率いて待ち構えていた。
仕方なく昔の封地、共邑へ逃げ、そこで籠城したが
荘公の軍勢に攻められ、あっけなく陥落した。
太叔は自刎して果てた。
荘公は弟の遺体を見て泣き崩れたが
すぐに気を取り戻し、祭足に命令した。
「死んで、黄泉で再会するまで、母上にはお会いしない」
と書いた手紙を渡し、武姜を穎に移すよう命じた。
武姜は観念し、宮門を出て穎地へ赴いた。
荘公は新鄭に帰っても母に会えず
「わしは弟を殺し、母上と離れることになった」と嘆いた。
穎谷の封人(国境の町の責任者)に頴考叔という人がいた。
無欲で正直、常日頃から親孝行で知られた君子である。
荘公が武姜を穎に移してきたのを見て
「我が君の心痛、いかばかりであるか」
と言って、狩の獲物を献上するという名目で荘公にお目通りした。
「これは何という鳥であるか」
「梟と申しまして、昼間は目が不自由で泰山も見えず
夜はほんの小さな物でも見られるそうな」
ちょうどその時、料理が運ばれてきた。
荘公はその料理を頴考叔に与えた。
考叔はいい肉を選んで包み、袖に仕舞った。
荘公は考叔にその理由を聞いた。
「我が家は貧しく、美食にありついた事がありません。
我が君より戴いた肉を母にも食べさせたいと思いました」
「卿は親孝行である。肉はいくらでもある。卿も食せよ」
「我が君にも母上がおられるはずでは」
「わしは諸侯である。そなたのようには行かぬ」
荘公は太叔と武姜の顛末を話した。
「黄泉の誓いをしてしまった以上、もはや会うわけには参らぬ」
「太叔様は亡くなられましたが、太后はまだご健在です。
子は親に孝養を尽くさねば、梟と変わりません。
そこで、臣に一計がございます」
「申してみよ」
「地を掘り、そこに部屋を作ればよいのです。
地下でお会いになれば、黄泉の誓いを破った事にはなりません」
荘公は頴考叔に命じ、曲洧の牛脾山の麓を掘らせ、地下室を作った。
武姜と荘公はそこで会い、互いに和解した。
荘公は頴考叔を大夫に任じ、公孫閼と共に兵権を掌握させた。
* * *
さて、太叔の子・公孫滑は、衛軍を借りに行った途中で
父が殺された事を知り、そのまま衛に亡命する形となった。
公孫滑は衛君・桓公に鄭荘公の非道を訴えた。
衛桓公は「鄭伯は無道である、公孫のために鄭を討つ」と言って鄭に出兵した。
鄭荘公は公孫滑が衛公の支援を得て
鄭に侵攻している、との報せを受けると、家臣らを集めて対策を諮った。
「衛君は公孫滑に唆されています。
我が君が衛公に手紙を書いて詳しく説明すれば、ご理解いただけるでしょう」
公子・呂がそう提言すると、荘公はそれに同意した。
衛桓公は鄭荘公の手紙を読み、事情を理解した。
「太叔は自滅であった。公孫滑の言い分に大義はない」
衛桓公は撤兵を命じたが、すでに公孫滑は廩延を攻め落としていた。
鄭荘公は怒り、大夫・高渠弥に命じて二百乗の兵車で廩延を攻めた。
公孫滑は廩延を捨て、衛へ逃げ戻ったが
高渠弥は勝ちに乗じて衛の郊外まで追撃した。
衛桓公は家臣を集め、戦うべきか守るべきかを問うた。
「鄭軍を迎撃しましょう」と桓公の弟・州吁が主張した。
だが、衛の大夫・石碏は反対した。
「鄭軍が来たのは公孫滑の罪を問うためです。
鄭伯が文書を出したのに返答しなかったので、非は我らにあります。
謝罪すれば鄭は兵を退くでしょう」
桓公は石碏に同意し、鄭伯に手紙を送った。
荘公は衛公からの書簡を読み
「衛君は自らの過ちを認めた。もはや戦う理由はない」
と言うと、高渠弥に兵を退くよう命じた。
また、公孫滑を衛で引き取ってもらうよう、衛君に手紙を送った。
鄭の荘公は、筆者が好きな人物の一人です。