第四十八話 衛候と鄭公子の帰国
城濮の戦いは、春秋時代に起きた無数の合戦でも
歴史的意義の大きなターニングポイントです。
両軍の兵力規模は、正確な数値は不明ですが
最も大きな数字で両軍合計12万、最小で5万程度と言われています。
筆者の想像では、晋軍4万、楚軍3万ぐらいかなと思ってます。
* * *
陳に亡命していた衛成公は、元咺の子・元角を誅殺した。
「元咺は叔武を国君に立てた」という公子・歂犬と華仲の讒言を信じたからである。
しかし、実際には叔武は衛君になっておらず
子を殺されても、元咺は叔部を補佐して、不在の成公に代わって政治を行っている。
践土の会盟に国君代理として出席した衛の叔武は
晋文公と会見して、衛君の帰国を懇願したので
文公は叔武の願いを聞き届け、衛成公を帰国させることにした。
衛成公は甯兪を衛都に派遣して
宛濮の地で衛の国人らと盟を結ばせた。
甯兪は衛の国人に向け、盟約の内容について宣言した。
「天が禍を衛国に降し、君臣が協力しなかったため、この憂いを招いた。
今、天は衛を憐れんで君臣の心を一つにした。
国君に従って国外に出た者も、国内に留まった者も、その功罪は問わぬ」
衛国内の人々は安心し、成公の帰国に賛成した。
衛成公は衛に帰国したが、元咺と叔武を簒奪者と疑っている。
先に成公の近臣である甯兪が衛都の城門をくぐり、門衛の長牂が城内へ導いた。
門衛のいない城門を公子・歂犬と華仲が兵を率いて通過した。
叔武は成公の帰国を聞き、出迎えるために城門へ向かったが
途中で成公の命を受けた歂犬と華仲が叔孫を殺した。
その後、成公が衛都に入り、叔武の簒奪が冤罪であった事を知ると
叔武の遺体を膝の上に乗せて泣き、歂犬と華仲を処刑した。
叔武が殺されたと知った元咺は晋に出奔した。
* * *
楚を破り、諸侯と盟約を結んだ晋文公は践土から晋に帰国した。
晋軍が黄河を渡った時、文公の車右・舟之僑が命を無視して先に帰国した。
文公は舟之僑を罷免して、士会を新たな車右に任じた。
文公は国都に凱旋して、祖先の太廟に戦勝を報告してから宴を開き、論功行賞を行った。
功の第一は咎犯であるとしたが、他の者が異見を述べた。
「城濮の役は、先軫の謀によって成功しました」
これに対して文公はこう言った。
「子犯(咎犯)はわしに信を失うなと勧め
先軫は戦に勝つ事が第一であると言った。
わしは先軫の言を用いて勝ったが、これは一時の言葉に過ぎぬ。
子犯の言は万世の功となる。故に子犯の功が第一である」
同年の冬、晋文公は温の地に諸侯を招集して
盟約に背いた国を討伐することを宣言した。これを温の会盟という。
 
温に集まった諸侯は晋、魯、斉、宋、蔡、鄭、陳、莒、邾、秦である。
秦は初めて諸侯の会盟に参加した。
この会盟で、晋に出奔した衛の元咺が
衛成公の誤認による叔武殺害の件を晋文公に訴えた。
甯兪は衛成公を補佐し、鍼荘子が元咺の不義を訴え
士栄が衛候に代わって答弁を行ったが
衛に恨みのある晋文公は、衛成公に罪ありとの判断を下した。
文公は士栄を処刑し、鍼荘子は脚切りの刑に処した。
甯兪は忠臣であるとして赦された。
衛成公は晋文公に捕えられ、周都に護送され、幽閉された。
元咺は衛に帰国して衛の公子・瑕を新たな衛君に擁立した。
温の会盟が終わった後、晋文公は河陽に襄王を招いた。
諸侯は河陽で襄王に朝見した。
* * *
許国は楚と盟約を結んでおり、践土と温の二会盟
いずれにも参加せず、周王にも朝見しなかったので
文公は許国の討伐を決めた。
晋文公は諸侯を率いて許都を包囲したが、文公が陣中で病に罹った。
曹共公は晋の筮史に賄賂を贈って
「晋君の病の原因は曹を滅ぼしたことにある」と言うように請うた。
筮史が晋文公を諫言した。
「斉の桓公は諸侯と会して異姓の諸侯を封じましたが
我が君は諸侯と会して同姓の曹国を滅ぼしました。
曹の国祖・曹叔振鐸は周文王の子で
晋の国祖・唐叔虞は周武王の子です。
諸侯を集めて同族を滅ぼすのは礼ではありません」
文公はこの諫言に従い、曹共公を復位させると、文公の病は癒えた。
曹も諸侯の軍と合流して許攻撃に参加した。
諸侯に包囲された許は降伏して、楚との盟約を破棄して
周王に朝見し、諸侯と結んだ。
 
周襄王の23年(紀元前630年)、今度は鄭が楚に通じた。
周の王子・虎、魯釐公、晋の咎犯、宋の公孫固、斉の国帰父
陳の轅濤塗、秦の小子憖、蔡人が翟泉で会盟して
践土の盟約の確認と、鄭の討伐が決められた。
この時、本来であれば諸侯の国君のみ参加が許されるはずの会盟で
魯以外の諸国は卿を会見に参加させたのである。
これは、君主の権限が下へと委譲された事を示している。
* * *
9月、晋と秦の連合軍が鄭都・新鄭を包囲して
晋は函陵に、秦は氾水の南に駐軍した。
鄭の大夫・佚之狐が鄭文公に進言した。
「燭之武を秦候に会わせましょう。秦は必ず兵を還します」
鄭文公はこれに従い、燭之武を召したが、燭之武は辞退した。
「臣はすでに年老いており、我が君のお役に立てません」
「卿を早く用いなかったのは、わしの過ちであった。
だが、鄭が滅んだら、汝の家族にも害が及ぼう」
燭之武は同意して、秦の陣営に向かった。
 
燭之武は秦穆公に面会した。
「秦と晋に包囲された今、鄭は滅びるでしょう。
もし鄭を滅ぼして秦君の利になるのなら、秦は戦いを続けるべきです。
しかし、秦から鄭は遠く、一方で晋は鄭に近いので、鄭が滅びて利するのは晋です。
晋が鄭を併せて強盛となれば、将来は秦の憂いとなるでしょう。
鄭を残し、西方の秦と東方の諸侯を往来する道筋とすれば
秦にとって大いに利する事ではないでしょうか」
秦穆公は納得して鄭と盟を結び
鄭都に杞子、逢孫、揚孫の三大夫を残して兵を還した。
晋の咎犯は無断で兵を還した秦に怒り、追撃しようとしたが、文公が反対した。
「わしが今の地位にあるのは秦候のおかげである。秦との友好を失うのは不義である」
晋軍は単独で鄭を攻め、城壁の女垣(城壁の低い箇所)を破壊したので
鄭文公は晋に賄賂を渡して講和を求めたが
文公はこれを拒否して「叔詹を引き渡せば兵を還す」と伝えた。
叔詹はかつて亡命中の公子・重耳(晋文公)が鄭に入った時、鄭文公に
「公子を礼遇するべきです。さもなければ殺しましょう」と進言した。
晋文公はこれを怨んでいる。
叔詹は晋候の元へ降ると言ったが、鄭文公は許さなかった。
「卿は管仲が一目置いた賢臣である。晋には引き渡せない」
「臣一人の命で鄭民が赦され、社稷を守る事が出来ます。惜しむ事ではありません」
鄭文公は叔詹を晋に送った。
晋文公は叔詹を捕え、尋ねた。
「卿は鄭伯に、わしを殺せと進言したのは真であるか」
「真です。厚遇せぬなら、今のうちに殺せと申し上げました」
「当時、わしは寸地も持たぬ亡命者であった。なぜ斯様な進言をしたのか」
「今、臣が晋君の御前に引き据えられている事を予期したからです」
晋文公は怒り、叔詹を煮殺そうとして、鼎を用意した。
叔詹は自ら鼎に向かい、鼎の耳を握って叫んだ。
「今後、忠によって主君に仕える者は、皆、私と同じ最期を迎えるであろう」
晋文公はこれを聞いて叔詹を赦し、鄭に送り返した。
鄭文公には三人の夫人がいて複数の子が産まれたが
世子・華と、弟の公子・臧はすでに鄭文公に殺されており
残った公子も全て放逐されて、鄭に公子はいなかった。
鄭の公子の一人、公子・蘭は晋に出奔し、この時20歳で晋文公に仕えていた。
公子蘭の母は賤妾の燕姞で、鄭文公の夫人ではない。
この戦いには公子蘭も従軍していたが、鄭都の包囲戦には参加しておらず
文公の指示で晋東部の国境まで退いていた。
 
晋文公は公子蘭の賢才を気に入っていたので
文公は鄭伯に対し、公子蘭を鄭の太子に立てることを要求した。
鄭の大夫・石癸が言った。
「公子蘭は姫姓と姞姓の血を引いている。その子孫は必ず繁栄するであろう。
晋候の要求は天が公子蘭に道を開くために降したに違いない」
石癸は侯宣多、孔将鉏と共に公子蘭を迎え入れ
鄭の祖廟で誓いを行い、鄭の太子に立てた。
晋は鄭と講和した後、兵を還した。
* * *
温の会で衛成公が捕えられ、周に護送されて2年が過ぎ
晋文公は周王に、衛成公を殺すように懇願したが、王はこれを拒否した。
「政令は上から下に出される事で、君臣の間に秩序が生まれる。
今、晋候は伯(覇者)として政令を定めているが
衛候を害すれば徳を損ない、諸侯を従わせる事は出来ないであろう。
わしが衛侯を庇うのは晋侯のためである」
 
晋文公は衍という医者を送り、衛成公の毒殺を命じた。
しかし衛の甯兪が衍に賄賂を贈ったので、成公は死ななかった。
文公は成公の殺害を諦め、衍の罪を問わなかった。
魯の卿・臧文仲は、晋候が衛候の毒殺を目論んだと聞き、魯釐公に言った。
「衛君に罪はありません。刑には五種類ありますが、毒で暗殺する刑はありません。
晋は毒を以て衛侯を暗殺しようとして失敗し、医師を裁かなかった。
これは晋候が暗殺の悪名を恐れたからです。
今、諸侯が衛侯の釈放を求めたら、晋候は従うでしょう」
釐公は納得し、衛成公を釈放するように請い、周襄王と晋文公に双玉を贈った。
晋文公は衛成公の釈放に同意した。
同年秋、周襄王は衛成公を釈放した。
衛成公は衛国の周歂と治厪に賄賂を贈り
「わしを復位させてくれれば、汝等を卿に任じる」と言った。
二人は元咺と衛君・瑕と子儀(瑕の弟)を殺して成公を迎え入れた。
衛成公は国都に入り、太廟で先君の祭祀を行った。
周歂と治厪は卿に任命されるため、礼服を着用して太廟に向かった。
しかし、先に太廟に入ろうとした周歂は門をくぐった途端、急死した。
冶厪はこれを見て恐ろしくなり、卿を辞退した。
衛成公は、自身の帰国に貢献した魯の臧文仲に礼物を贈ったが
「他国の臣が国君と直接関係を持つのは礼に反します」
と言って受け取らなかった。
春秋時代の識字率はかなり低く、庶民の大半は読み書きが出来なかったでしょう。
文字にしても、まだ洗練されておらず、絵や図案を崩した原始的な象形文字。
亀の甲や動物の骨に彫られた甲骨文、鼎に鋳られた金文が、当時の一次史料です。
紙が発明されるのは、これより700年ぐらい後で
文章は竹簡、木簡と呼ばれる札に書かれ、稀に布を用いたそうです。
これらは燃えやすいので、長い歴史の中で大部分が焼失、散逸し
現代まで伝わったのは、ほんの僅かです。
 




