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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第四十七話 践土の会盟

春秋時代を書いてて、常に悩みの種になるのが

登場人物の年齢です。


多くの文献資料は基本的に編年体、つまり出来事を記録する「年表」なので

没年が判明してる人はそこそこ多いけど、生年が分かってる人はほとんどいません。

前漢時代に入り、司馬遷の「史記」以降は紀伝体、人の事績を主体とする「伝記」になります。


重耳の場合、亡命開始時点の年齢が17歳説と43歳説があり

状況的に見て17歳だろうと筆者は判断しています。

亡命中と帰国してからポンポン子供が産まれてるのに

亡命前には子供がいない(多分)のが理由です。




     *     *     *




 周の襄王21年(紀元前632年)夏4月1日

晋文公の率いる晋軍は三舎を避け、城濮じょうぼくに布陣した。


 楚の冷尹れいいん・子玉の率いる楚軍は

晋軍を追撃して、険阻けんそな地に陣を構える。

楚兵は宋の包囲戦を長く続けてきたので疲労の色が濃い。

楚に従う陳、蔡の軍は特に士気が低かった。


 一方の晋軍もまた万全とは言い難い。

三軍が晋を出たのは前年の秋で、曹、衛と連戦を重ねて来たのである。



 文公・重耳は、楚と戦をすべきか、未だに悩んでいる。

この時、晋兵が歌っているのを聞いた。


            「原田毎毎  舍其旧而新是謀」

(原田とは休耕田を意味する。旧恩を捨て、新たな功を立てよ、という意味であろうか)



 咎犯きゅうはんが躊躇する文公を促す。

「楚と戦いましょう。勝てば諸侯を得ることができます。

敗れたとしても、晋は山河に守られた国。恐れることはありません」


「わしはかつて、楚王から恩恵を受けた。恩を仇で返してよいものか」


 欒枝らんしが進言する。

「周に入朝していた漢水の諸候、ことごとく楚に併吞されました。

小恩を想って大義を忘れてはなりません」


しかし、文公はなお迷い、諾とは言わなかった。



 この夜、文公は楚の成王と争う夢を見た。

楚王が晋候と組み合い、押し倒されて

晋候が楚王に脳を噛まれた夢である。


 翌朝、文公が夢のことを話すと咎犯が解説した。

「吉夢です。楚王は下を向いて罪に服し、我が君は天を仰ぎ見たのです」




        *     *     *




 一方、楚の陣営であるが、この夜、子玉もまた夢を見た。

子玉は瓊弁けいべん玉纓ぎょくえい(共に、玉を用いた装飾品)を持っている。

夢に黄河の神が現れ「瓊弁と玉纓をわしに譲れば、汝に孟諸もうしょ(宋地)を与える」

と言われたのである。


翌朝、目が覚めた子玉は夢の内容を臣下に話した。


子玉の子・孫伯そんはくと左軍の将・子西が言った。

「黄河の神が冷尹を試されているのです。瓊弁と玉纓を黄河に沈めましょう」

だが、子玉は瓊弁と玉纓を惜しみ、従わなかった。


 大夫の栄黄えいおうも子玉に進言した。

「使わない瓊玉など必要ありません。河神の祝福を得られるなら

必ず出師すいしは成功し、楚は晋を破るでしょう。惜しむことはありません」

しかし子玉は同意しなかった。


栄黄は嘆息して、孫伯と子西に言った。

「神が令尹を敗けさせるのではない。令尹は自ら敗れるであろう」



 子玉は大夫・子越しえつを晋陣に送って決戦を請うた。

「晋楚の勇士で力比べをしましょう。晋候が車上で見物するなら、冷尹も伴をします」


 晋文公が欒枝を送って応えた。

「晋は楚の恩恵を忘れたことがなく、我が君は三舎を避けた。

国君が兵を退いたのに、大夫(子玉)はそれにならわず、我々を追った。

命に従う気がないのなら、明朝、再会しよう」


ついに晋文公は楚と戦う覚悟を固め、三軍を整列させた。




       *      *      *




  翌朝、晋・楚の両軍は城濮の地で激突した。

中央では晋・楚の中軍同士が対峙し晋の上軍は楚の左軍に当たる。


楚の右軍に対するのは晋の下軍だが

中・上の両軍よりも前進している。


 最初に戦端を開いたのは、晋の下軍と楚の右軍である。

楚の右翼を構成するのは陳と蔡の軍である。

ここが楚の三軍で最も脆弱であると文公は見抜いた。


 この目論みは功を奏し、晋の下軍は猛烈に楚の右軍を痛撃すると

いとも容易く陳・蔡両軍は潰走して、楚の右軍は混乱に陥った。


 さらに、晋の左翼に陣取る上軍の将・狐毛は

二隊を派遣して横から楚の右軍を衝いた事で、楚の右師は壊乱した。

陳、蔡の将兵はほぼ無抵抗で退却し、戦場から離脱した。


 楚の右翼を壊滅させた晋の下軍の将・欒枝は

兵車に柴を牽かせ、激しく砂煙を巻き起こしながら後退した。

砂塵を起こす事で軍が動く様子をはっきり見せるためである。


 その砂塵を見た楚の左翼は追撃を始めた。

晋の下軍が戦いに敗れ、敗走していると誤認したのである。


 突出してきた楚の左軍へ、晋の中軍が側面から楚の左軍を急襲する。

さらに晋の上軍は楚の左軍後方から攻撃し

楚の左軍は横と後ろから挟撃される形になった。

左軍はこれに抗しきれず、ほどなくこれも壊滅した。



 楚の中軍を率いる子玉は、両翼を失った事を見て取ると

敗北を認め、兵をまとめて整然と退却した。晋文公は追撃を禁じた。



 楚軍は中軍のみ残し、左右の軍は全滅に等しい被害を蒙った。

畢竟ひっきょう、城濮の役は一日で決着がついた。晋の圧倒的な勝利である。



 晋軍は城濮に三日留まり、楚軍が遺棄した食を消費した後、退却した。


 楚に大勝したが、文公は喜色を顕さなかったので、左右の者が尋ねた。

「我が君は楚に勝ったのに、なぜ憂いておられるのですか」


「戦に勝って国を安んじるのは聖人しかいないと聞く。

わしは詐術を用いて楚を破った。それを憂いている。

また、子玉とその中軍はまだ健在であり、楚王の軍も控えておるのだ」




      *      *      *




 子玉が敗れたと聞いた楚王は譴責けんせきの使者を送った。

「今回の戦で多くの兵が死んだ。冷尹が帰国したら、兵の家族に申し訳が立たぬ」


 子西と孫伯が使者に告げた。

「冷尹は自害するつもりでしたが、我々が思い留まらせました。

王の裁きを待ち、それに従うべきであると申したのです。冷尹は自ら裁くでしょう」


楚軍が連穀れんこくに至った時、子玉は自害した。



 かつて楚の范邑はんゆうに住む矞似いつじが楚王、子玉、子西に言った事がある。

「三君は不遇の死を迎えるでしょう」


 楚成王は子玉を譴責する使者を送ってからこの言葉を思い出した。

すぐ自害を禁じる使者を送ったが、間に合わず、子玉が自害した後に使者が着いた。


 子西も子玉を追って首を吊ろうとしたが、縄が切れて失敗した。

そこに成王の使者が到着して自殺を止めさせたため、子西は生きて帰国した。



 子玉の死を聞いた晋文公は、ようやく安堵し

「これでわしを害する者はいなくなった」と独語した。

文公が勝利を確信したのは、この時であろう。




     城濮の役で晋が楚を破った事は、晋文公の名を巨大にした。

    楚は限りなき伸張を続け、強大になるに従って中原の諸侯は周を軽んじ

    時が経つほどに楚は膨らみ、周は萎み続けていたのである。


     斉桓公と管仲ですら、楚と直接には戦っておらず

    諸侯の連合軍を率いて南下し、周への入朝を促した程度である。

    楚の北進は一時的には止まったが、戦に敗れたわけではない。

    管仲と桓公の没後、楚は以前に増して野心の手を河北に伸ばした。

 

     このまま楚の膨張が続けば、周は滅亡の憂き目に遭うと思われていたが

    楚の敗北を目の当たりにした諸侯国は、楚から晋に鞍替えを始めたのである。




          *      *      *




 周の襄王21年(紀元前632年)夏4月27日、晋軍は衡雍えいよう(鄭地)に至る。

践土せんど(衡雍の西南・現在の河南省新郷市原陽県)に王宮を築き

王都に使者を送り、周襄王に行幸を願った。


 周襄王を迎えた晋文公は、王命の元で諸侯を践土に招集した。



 かつて晋文公がまだ公子・重耳であった頃、諸侯を放浪した。

公子を冷遇した諸侯は衛、曹、鄭の三国であったが

衛、曹は晋に攻められ、かつての報復を受けた。


 鄭文公は、楚を破った晋の軍勢が鄭領内の衡雍に滞在しているのを見て

衛や曹と同様に鄭が晋文公の報復を受ける事を畏れた。


 鄭伯は公子・人九じんきゅうを衡雍に送って過去の無礼を謝罪し、晋との講和を求めた。

晋文公は欒枝を鄭に送って盟を結んだ。


 5月9日、晋候と鄭伯は衡雍で会盟した。


 5月10日、晋文公は楚との戦いで得た捕虜や戦利品を周王に献上した。

楚の兵車数百乗、捕虜は数千に及んだと言う。



 かつて、周平王の在世中、鄭伯は周の卿士であった。

平王の時代に鄭武公と晋文侯が周の東遷を援けた過去に基づき

襄王は鄭伯に平王時代の礼で王を補佐させた。

「鄭と晋が協力して周王室を援けよ」という襄王の意志が込められている。



 5月12日、周襄王が宴を設けて晋文公をもてなした。

襄王は策命によって、晋文公を侯伯(諸侯の長)に任じた。


 晋文公は三回辞退してから侯伯になることを受け入れ

策書を拝受して退出し、その後、周襄王を三回朝覲した。

晋文公の所作は全て周の礼に適っており、周の卿士みな感嘆した。



 襄牛じょうぎゅうに避難していた衛成公は楚が晋に敗れたと聞いて

諸侯や衛の国人からの攻撃を恐れ、楚へ出奔した。

その後、陳国に遷ったが、そこで諸侯が践土に集まっている事を知り

元咺げんかん叔武しゅくぶ(成公の弟)に、会盟に参加するように命じた。



 5月16日、晋、斉、魯、宋、蔡、鄭、きょの国君が践土に集まり会盟を行った。

衛は叔武が国君の代理で出席している。


 また、陳は楚と同盟を結んでいたが、晋を恐れて陳候も会盟に参加した。

しかし諸侯と盟約を結ぶことは出来なかった。



 5月26日、王子・虎が践土で諸侯と盟を結び、宣言した。


「諸侯は皆、王室を援けよ。互いに争ってはならない。

この盟に裏切った者は天神が誅殺し、その国を滅ぼし

禍は玄孫やしゃごに至るであろう。誅殺に老幼の区別はない」



 晋の文公・重耳は、斉の桓公に続く二人目の覇者となった。


践土の会盟が行われたのは紀元前632年。

日本はまだ縄文時代の末期。歴史時代に入っていません。


殷周時代のものと思われる青銅器を見ると

中華文明の歴史の深淵に感嘆させられます。


なお、周よりも前の殷王朝の方が技術水準は高かったようです。

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