第四十六話 晋楚の対立
晋の文公・重耳にまつわる故事「三舍を避ける」
相手に敬意を払う、あるいは恐れて引く事を意味し
現代でも死語にはなっておらず、稀に用いる人がいます。
プロ野球の監督を長年務めた故・野村克也さんなんか、使った事があるんじゃないかな。
彼の愛読書の一つに、管仲の故事集「菅子」がありますから。
* * *
楚の成王は子玉を将に任じ、宋を討伐すべく北上した。
途中で陳、蔡、鄭、許の四諸侯が楚軍に合流する。
楚と諸候の連合軍は宋の緡邑を包囲したので
宋成公は司馬・公孫固を晋に送って救援を依頼した。
晋文公は家臣を招集して、宋を救援すべきか討議にかけた。
最初に先軫が発言した。
「斉の桓公亡き後、今や楚は滔天の勢い。
我が君が楚王に私恩ありと言えど
楚は斉を討ち、宋を攻め、中原の和を乱しました。
周王の名の元に楚を退け、斉・宋を救う事で
晋は諸侯に名を挙げる事となります。
今こそ威を以て天下に覇を定める好機と言えましょう」
文公が問う。
「わしは宋の患を除きたい。如何すべきか」
咎犯が答える。
「かつて我が君が諸国を流浪していた折、衛と曹は我が君を辱めました。
今、曹は楚と盟を結び、衛は楚と婚姻の間柄にあります。
帥(軍)を率いて我が君の仇敵たる二国を伐てば
楚は両国を援けるべく兵を動かすでしょう。それで宋を救う事になります」
文公は同意し、宋の公孫固に、帰国して宋公に城を堅守するよう伝えた。
公孫固は命を受けて帰国した。
だが、楚と戦うだけの兵が晋に不足している事を文公は憂慮した。
そこで趙衰が助言した。
「昔、大国は三軍を擁し、次国は二軍、小国は一軍を擁しました。
晋武公は始め一軍の王命を受け、献公は二軍を作り、晋の地を数千里に拡げました。
今の晋は既に次国ではありません。三軍を作るべきです」
文公が聞く。
「三軍の将たりうる者はいるか」
趙衰が答える。
「将は勇よりも智が肝要。さらに智よりも学が適しています。
智勇を兼備し、更に学を修めた者を求めるならば
臣が知る限りでは、郤縠しかおりません」
文公は郤縠を招き、元帥に任命した。
文公は吉日を選んで被廬で大蒐(閲兵)を行った。
中軍は郤縠が将、郤溱が佐となり、上軍は狐毛が将に、咎犯が佐となる。
下軍は欒枝が将、先軫が佐になり、趙衰が大司馬に任命された。
また、文公の座上する戎車は荀林父が御し、魏犨が車右になった。
* * *
年が明けて、周襄王21年(紀元前632年)春正月
晋文公は郤縠に、曹と衛を討伐する策を尋ねた。
「まず曹の討伐を名分に衛に道を借りますが
衛と曹は和睦しているので衛は断るでしょう。
そこで我が軍はまず、南河に向かい
不意を突いて衛の国境を攻めれば必ず勝てます。
衛に勝った後は勢いに乗って曹も討ち破る事が出来ましょう」
文公は衛に使者を送り、曹討伐のために道を借して頂きたいと衛成公に伝えた。
郤縠の予想通り、成公は反対した。
「衛と曹は楚に服している。晋に曹討伐の路を貸せば、楚の怒りを買うであろう」
衛の大夫・元咺は衛候を諫めた。
「かつて晋君が公子であった頃に我が国を通った時
先君・文公は礼を失しました。
今回、晋が道を借りに来て、再び礼を失すれば
晋は曹より先に、我が衛国を攻撃するでしょう」
しかし衛君は元咺に従わず、晋の要求を拒否した。
晋軍は衛国を迂回して南行し、黄河を渡って五鹿の地に入った。
文公が言った。「ここはかつて、農夫がわしに土を寄越した地ではないか」
下軍の佐・先軫は「我が君、五鹿を取りましょう」と進言した。
文公は許し、晋軍は五鹿へ侵攻した。
五鹿に戦の備えはなく、民は突然現れた晋の大軍に驚き、一日で陥落した。
文公は喜び、咎犯と趙衰に言った。
「卿らはわしに、『土を与えられたのは、その土地を得る事』
と言ったが、今日それが実現した」
五鹿は老将・郤歩揚に守らせ、晋軍は斂盂まで進んだが
ほどなく中軍の将・郤縠が病に倒れた。
郤縠は、見舞いに来た文公に言った。
「臣の天命はここで尽きるようです。我が君に最後の意見を申します」
「謹んで拝聴しよう」
「晋が曹と衛を討つのは、楚を得ることが目的ですが、晋のみで楚は得られません。
そこで斉と秦に使者を送り、これと結ぶのです。
秦は晋と親しく、斉は楚を憎んでいるため、必ず晋と結ぶでしょう。
斉、晋、秦が組めば、衛・曹は恐れて和を請い、楚を制する事も出来るはずです」
「卿の献言、よく分かった」
晋文公は斉に使者を送り、共に楚を討つべしと斉候に伝えた。
* * *
斉ではこの前年、孝公が崩御した。
その後、斉の大夫・開方が孝公の子を弑逆し、公子・潘を斉君に擁立した。
これが斉の19代・昭公で、桓公と葛嬴の子である。
斉は穀の地を楚に奪われたため、楚を恨んでいた。
晋侯からの使者に引見した斉昭公は、共に楚を討つという申し出を快諾して
斂盂に向かい、晋候と会見して晋と講和を結んだ。
一方、五鹿を失い、晋を畏れた衛の成公は
甯速の子・甯兪を斂盂に派遣し、晋に謝罪して和を請うた。
しかし、文公は衛の申し出を拒否した。
「衛はわしを二度も拒んだ。今になって講和を求めても遅い。
晋帥を率い、楚丘(衛都)を蹂躙するつもりである」
甯兪は帰って衛侯に報告した。
楚丘に住む国人は晋軍を恐れて恐慌に陥った。
甯兪が衛成公に提言した。
「晋君の衛への怒りは凄まじく盛んで、民は恐れ慄いています。
我が君は都城を出て禍を避けるべきです。
衛候が城を出たと知れば、晋は楚丘を攻めないでしょう。
その後、再び晋に友好を乞えば、衛の社稷を守ることができましょう」
成公が嘆いて言った。
「先君は晋候に対して礼を失し、わしも一時の不明を犯した。
二代にわたって禍を国人に及ぼし、衛に住む面目はない」
成公は大夫・咺と弟の叔武に国を任せ、襄牛に逃げた。
同時に大夫・孫炎を楚に派遣して援軍を求めた。
二月、晋軍を率いる郤縠が陣中で病没した。
晋文公はその死を惜しみ、遺体を晋に帰国させた。
郤縠に代わり、先軫が元帥に選ばれた。五鹿を取った功による。
また、先軫に代わって下軍の佐になったのは胥臣である。
文公は衛国を滅ぼすと主張したが、先軫が諫めた。
「此度の出師は宋を楚の包囲から援けるのが目的です。
未だ斉・宋は楚の患から解けていないのに、先に他の国を滅ぼすのは
亡国を復興させ、小国を慈しむ、伯(覇者)の道に背く事になります。
衛は無道ですが、衛君は既に国を出ました。今は曹を討つべきです」
文公は先軫の諫言に従った。
* * *
三月、晋軍は曹都を包囲したが、城門は堅固で多くの兵が犠牲になった。
曹は晋兵の死体を城壁の上に積上げたので、晋の兵士は動揺して士気が落ちた。
そこで晋文公は、郊外にある曹人の墓地に本営を移動させた。
これを見た曹の兵士は祖先の眠る墓地が荒らされることを恐れ
晋兵の死体を棺に入れ、晋軍に引き渡すため城外に出した。
その後、晋軍は曹軍に総攻撃をかけ
三月八日に晋軍は曹の城門を破って入城し、曹共公を捕えた。
文公は亡命中に僖負羈から恩を受けた事を覚えていたので
曹城を攻撃する前、文公は僖負羈に使者を送った。
「晋軍が入城する前に、汝は家の門に印をするがよい。
晋が将兵には汝の家を侵さないように命じる」
僖負羈は自邸の門に印をつけ、七百余家の曹人を自分の邸に避難させた。
文公は総攻撃の前日、僖負羈の邸宅を侵さないよう命じたが
魏犨と顛頡がこれに納得しなかった。
「我が君は我らの功労に報いず、敵国の家臣を気に掛けている」
魏犨と顛頡は文公の19年に及ぶ亡命行に従ったが
同じく亡命に従った咎犯、狐毛、趙衰、先軫ほどの地位を与えられていない。
魏犨は文公の乗る兵車の車右に過ぎず
顛頡は重職に就いていない事が不満だったので
二人は晋軍が曹都に入城した時、僖負羈の屋敷に火を放った。
だが、魏犨はその時に負傷したので、文公の知る所となった。
文公は二人が軍令に違反した事に怒り、顛頡を処刑した。
晋君に長年従ってきた顛頡が処刑された事で、晋兵は規律を正した。
文公は魏犨も処刑するつもりでいたが、その能力を惜しんだので
負傷で助かる見込みがないなら処刑するつもりで、使者を送って様子を見させた。
魏犨は使者に会って、その場で体を激しく動かし、戦える事を示した。
文公は魏犨の死刑を免じたが、車右の任は解き
舟之僑を新たに車右に任じた。
晋は楚の盟下にある曹、衛を攻撃したものの
楚軍は両国への救援に向かう事はなく
宋都・商丘を攻撃する手を緩めないので
宋は再び晋に危急を告げた。
晋文公はどうすべきか、臣に諮った。
「宋は今や陥ちる寸前である。援けねば宋と晋の関係は絶たれるであろう。
しかし、楚と戦うには兵が足りぬ。どうすればいいか」
先軫が策を提案した。
「まず一旦、我々が獲った曹と五鹿の地を宋国に与えます。
更に、宋がそれらの地を秦と斉に贈らせるのです。
秦と斉には地を得た見返りとして、楚に宋の包囲を止めるように言います。
楚がこれに応じれば、我々が戦わずして宋は救われます。
もし、楚が拒むなら、斉も秦も楚を恨み、我々と共に楚と戦うでしょう」
文公は先軫の進言に同意して、曹と五鹿を宋に与えた。
宋は斉と秦に両地を贈り、斉と秦は楚に対して宋との停戦を求めた。
楚成王は斉、秦からの撤退要請に応じる事を決め
楚軍の将・子玉に、宋から兵を引き上げる命令を下した。
子玉に従って宋を包囲していた鄭と許は帰国した。
しかし、子玉自身は楚王の命令に納得できず
楚と盟約を結ぶ曹と衛に侵攻した晋を攻めると進言したが、成王は反対した。
「晋と戦ってはならぬ。晋君とその臣下は百戦錬磨の古強者揃い。
斉と秦も晋に従っており、これと当たるのは楚に不利である。
晋君は天命を授けられた者。廃することはできない」
しかし子玉は晋との交戦を望み、子越を楚王の使者に送った。
「楚には、令尹(子玉)を誹謗する者がおり
『子玉は三百乗以上の兵を率いて勝ちを得る事は出来ない』
と申す輩の口を塞ぎたく存じます」
成王は子玉が晋と戦う事を認めたが
与えた兵は僅か六卒(兵車180乗)であった。
子玉の率いる兵は、宋を包囲していた楚軍と
陳と蔡の軍に、六卒が加えられた。
* * *
子玉は大夫・宛春を晋軍に送った。
「襄牛にいる衛侯を復位させ、曹の地を旧に復せば、臣も宋の包囲を解きましょう」
晋の咎犯は怒って文公に言った。
「子玉は無礼です。我が君は宋を援けたという1徳のみで
子玉は衛と曹を救った2徳を得ようとしています。従うべきではありません」
しかし先軫は反論した。
「ここは要求に応じるべきです。楚は一言で宋、曹、衛の三国を援け
晋がこれを拒めば、一言でそれを妨害する事になります。
そうなると晋は無礼になり、宋との盟約を棄てることになります。
救いに来たのに棄てたら、諸侯にどう説明できるでしょう」
「では、子玉の要求に応じるべきか」
「我が国は曹・衛の二国と盟約を結び、楚と離間させるのです。
そして使者の宛春を捕え、子玉を怒らせ、これと一戦します。
楚王は晋と戦う様子はありません。
子玉の兵のみであれば、我々が勝つでしょう」
納得した文公は宛春を捕え、秘かに曹・衛と盟約を結んだ。
二国は楚との関係を絶った。
子玉はこれに怒り、宋の包囲を解いて晋軍へ侵攻してきた。
楚軍の接近を知った晋文公は、全軍に対して
三舍(九十里)を避けよと命じ、退却を開始した。
晋の下軍の将・欒枝が意見した。
「子玉の軍は宋を包囲すること半年に及び、疲弊しています。
なぜ三舍も退かれるのですか」
咎犯がこれに応えた。
「楚王の恩恵がなければ我々はここにいない。
三舍を避けるのは楚の恩に報い、かつての約定を守るためである。
我々が兵を退くことで楚が退けば、それ以上に望むことはない。
しかし、もし楚が兵を還さず、強いて戦うとなれば
君(晋文公)が退いたのに臣(子玉)がそれを犯す事となり、非は楚にある」
晋軍は三舍を退き、城濮((じょうぼく)(現在の山東省菏沢市鄄城県)まで撤退した。
重耳が楚軍を三舎避けたのは、楚王との約束を守った美談扱いにされてますが
身も蓋もない事を言うと、これは創作でしょう。
ついでに言うと、重耳が放浪時代に蔑ろにされた衛や曹に報復して
恩を受けた宋を救うのも、話としては出来過ぎています。
晋の文公・重耳は春秋時代の中期以降、ほとんど神格化されるので
後年、彼の事績に多くの逸話が「盛られた」と解釈すべき。
そう主張したのは、歴史作家の故・陳舜臣先生です。




