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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第四十五話 大戦の兆し

中国最古の王朝とされる夏王朝ですが

実在したかどうか、未だに確定していません。


ただ、王朝かどうかはともかく

紀元前2000年代の黄河流域に人が住んでいた事は確実です。


」は中華のです。世界の中心という意味です。




      *     *     *




 簡師父かんしほは晋に入り、晋文公に謁見して王命を伝えた。


 文公は咎犯きゅうはんに意見を求めた。

「かの斉桓公は尊王の志を掲げ、諸侯に号令しました。

晋は国君をいたづらに替え続けた余り

民は君臣の大義を忘却して久しい。

我が君は王を援け、太叔の罪を討ち、民に威徳を示すべきです。

晋がこれを行わねば、秦が王を援けるでしょう。

そうなると覇業は秦に帰する事となります」


 文公は太史・郭偃かくえんに卜で占わせた。

「いにしえの黄帝が阪泉はんせんで炎帝を破って

天下の主となった兆が出ました。これほどの大吉はございません」


「周王を差し置き、わしが黄帝の故事をなぞるとは、恐懼きょうくも甚だしい」


「周室衰えたりと言えど、天命未だ改まず。

黄帝に該当するはの周王です。恐れ入るには当たりません」


「卜で占うは天の命。次はぜいでわしの事を占ってみよ」


 郭偃が筮で占った。

かんが下、離が上の大有の

その後、えんが下、離が上のの卦に変わりました。

我が君は天子にきょうされ、その恩光は

晋国を照らすという意味です。これも大吉です」



 文公は王を援けるため、軍旅を催す決断をした。

中軍は文公自ら率い、これを咎犯、欒枝らんしが補佐する。

左軍の将は趙衰ちょうすい魏犨ぎしゅうが佐となり

右軍の将は卻溱げきしん顛頡てんけつが佐に任命された。



 晋文公が出発しようとした時、河東の守将から報告が来た。

「秦候が勤王のために自ら軍を率い、河上の沿岸に至りました」


 咎犯が言った。

「秦君が河上で兵を止めたのは、戎狄の道を通る必要があるからです。

辺境の戎狄は秦と交流がないため、妨害を恐れているのでしょう。

秦君に使者を遣わし、晋の師(軍)が発したことを伝えれば、秦は退きます」


 晋文公は胥臣しょしんを河上の秦穆公に派遣し、晋文公の命を伝えた。

「天子が出奔して外に居るのは諸侯の憂いです。

我が君は天子を安んじるための師を発しましたので、貴君が煩う必要はございません」


 穆公が言った。

「晋は王都に近い。既に晋君が大義を起こしたのなら、わしは朗報を待つ事にしよう」


 蹇叔けんしゅく百里奚ひゃくりけいが反対した。

「晋侯は勤王の功を独占するつもりです。

我が君も東進して、功業を秦と晋で分けるべきです」


「それは分かっている。しかし東道には戎狄があり、妨害する恐れがあろう。

晋候は即位して間がなく、功を立てる必要がある。ここは譲る事にする」


 穆公は公子・ちゅうを王使の左鄢父さえんほと共に氾に送り

襄王を慰労し、穆公自身は軍を率いて帰国した。




      *     *     *




 胥臣が戻って秦君の撤兵を文公に報告した。

晋軍は陽樊ようはんに兵を進め、守将の倉葛そうかつが郊外に出て晋軍を慰労した。


 文公は右軍に命じて太叔帯の籠る温邑を包囲させ

一方で左軍を氾邑に向かわせて、襄王を迎え入れた。



 周襄王は晋軍に守られて周都に帰還した。

周・召の二公が襄王を迎え入れて入朝した。


 温の民は周王が周都に帰還して復位したと聞き

晋軍と共に頽叔たいしゅく桃子とうしを攻めて殺した。

太叔帯は隗后かいこうと共にてきへ逃亡したが、晋軍に追いつかれて戦死した。



 晋文公は王城に入って襄王を朝見し、戦勝の報告をした。

襄王は文公のために酒宴を設け、金帛きんはくを文公に贈ったが、文公は謝辞した。


「臣が賊を討ったのは勤王の意思によるもの。褒美を賜わる訳には参りません。

ただ、臣の死後、すい(天子と同じ埋葬)が許されるなら

臣が王より受けた恩は地下にあっても忘れる事はないでしょう」


 しかし、襄王はこれに反対した。

「先王が礼や文(規則)を定めたのは上下を隔てるためである。

私労(個人的な功)によって大典を乱すわけにいかない。

隧の許可は出来ぬが、候の大功を忘れることはない」


 襄王は晋に南陽の陽樊・温・原・州・けい・組・攢茅さんぼうの8邑を与えた。

文公は王に感謝して退出した。


 しかし、陽樊の民は王の徳を感じ、晋の統治に反対したため

文公は陽樊の民が他の地に遷ることを許した。

陽樊の民は大半が周王の統治する邑に遷った。




    *     *     *




 ここで、斉国の現状に目を移す。


斉は桓公の没後、内乱によって国力を大きく衰耗させた。

ようやく乱を鎮め、斉君に就いた孝公は、国威を回復しつつあるが

公子・無虧むきを援けた魯僖公を憎み、鹿上ろくじょうの会では盟約に署名せず

斉君に即位の労を取ってくれた宋襄公との関係を絶ち

もうの会にも参加せず、楚成王に背いたため、諸侯は斉から離反した。


 孝公は桓公の覇業を再興すべく、魯を攻めようと思い、群臣にはかった。

「かつて魯侯は無虧を援け、わしを苦境に陥らせた。この仇にまだ報いていない。

また、魯は北の衛、南の楚と通じており、この三国が斉を攻めたら、破るのは難しい。

今年、魯は飢饉であると言う。この機に魯を攻めようと思う」


 上卿の高虎こうこが諫めた。

「魯を援ける諸侯は多く、斉の味方は寡ない。討伐は難しいでしょう」


「討伐の功なくとも、諸侯が魯に対してどう動くか、探る事は出来よう」


孝公は自ら兵を率いて魯の北境を攻めた。



 魯国の北境から魯の朝廷に急使が向かった。


  大夫の臧孫辰ぞうそんしんが魯僖公に進言した。

「魯は飢饉に襲われ、戦う力がありません。

斉候は魯に恨みがあります。斉君の怒りを解けば戦いを避けられるでしょう」


 僖公が尋ねた。

「誰か斉君を説ける者はいるか」


 臧孫辰が応えた。

「先の司空・無駭むがいの子で子禽しきんという者がいます。

この者を斉君につかわせば、君命を辱めることなく、斉を退かせるでしょう」


「子禽はどこにいる」


「食邑の柳下りゅうかにいます」


僖公は柳下に使者を送って子禽を招聘したが、病と称して辞退した。


 臧孫辰が僖公に言った。

「子禽には展喜てんきという従弟がいます。彼に説得させましょう」


僖公はこれに従い、展喜を使者として柳下に送った。


 子禽は展喜に斉を退かせる策を語った。

「斉君が魯を攻めるのは、斉桓公の覇業を継ぎたいからだ。

覇業は勤王に基づく。先王の命に拠って斉を譴責けんせきすれば、魯を攻める口実はなくなる」


 展喜が柳下から戻り、子禽の言を僖公に伝えた。


 僖公は斉軍を慰労するため肉、酒、穀物等を準備し

数車に乗せて展喜に預け、北境に向かわせた。



 展喜は国境を越えて斉軍を慰労した。

展喜は礼物を斉の将・崔夭さいように贈り、崔夭は展喜を斉候に謁見させた。


 展喜は斉侯に謁見し、礼物を献上して言った。

「魯君は斉君が自ら魯に臨もうとしていると聞き、臣に命じて斉を労わせました」


孝公は笑って「魯候は斉軍を畏れておられるか」と言った。


「魯の小人は胆を冷やしております。君子は恐れていません」


「魯は飢饉に苛まれ、施伯せいはく曹劌そうかいも既に亡い。

恐れを抱かぬ者は何に頼っているのか」


「魯の君子が頼るのは先王の命です。昔、武王は太公を斉に封じ

周公は子の伯禽はくきんを魯に封じて、成王は周公と太公に盟を結ばせました。

『子孫代々、共に王室を援け、互いに害することの無きよう』と。

この誓いに背き、斉桓公の積んだ徳業を損なう事を、斉君がなさるはずはありません」


 孝公が展喜に言った。

「卿は戻り、魯侯に伝えよ。わしは魯と和する。再び兵を用いることはない」

孝公は兵を率いて帰国した。



 展喜は魯に帰り、僖公に報告した。

僖公は大いに喜び、展喜を厚く賞した。


 臧孫辰が僖公に進言した。

「斉師は退きましたが、斉候は魯を軽視しています。

楚王に贈物を持って拝謁し、斉の討伐を乞いましょう。

斉侯が楚を気にして魯を正面から窺えなくなれば、魯は安泰です」


 僖公は同意して、公子遂と臧孫辰を楚の聘問へいもんに向かわせた。




         *     *     *




 臧孫辰は楚の重臣・子玉しぎょくと面識があるので、子玉を通して楚王に謁見した。


 臧孫辰が楚王に言った。

「斉は鹿上の約に背き、宋は楚と泓水おうすいで戦いました。二国とも楚の仇敵です。

王が二国の罪を問うなら、魯は楚師の先鋒を引き受けましょう」


 楚成王は喜び、子玉と申公・叔侯を将に任命して斉を攻撃し、陽穀ようこくの地を奪った。

そして斉桓公の子・公子・ようを陽穀に封じ、雍巫ようふを相に任命した。


 子玉と申公は意気揚々と楚都に凱旋した。


 楚の令尹れいいん・子文は老齢であったので

これを機に、冷尹の地位を子玉に譲ろうとしたが、楚王が反対した。


「子玉は、楚の斉に対する恨に報いた。卿は宋を討ち、鄭の仇に報いてほしい」


「臣は王より冷尹の地位を賜り、既に30年になります。

今や年老いて才は涸れ、若い子玉に遠く及びません」


「宋は晋に仕えている。宋を討てば晋が必ず援けに来よう。

晋・宋両国に抗しうるのは、卿を置いて他にはおらぬ」



 楚王は宋を討つ準備を調ととのえ、子文を大将、子玉を副将に任じた。


 楚王は子文に命じ、の地で徴発した新兵を訓練させた。

子文は朝のうちに訓練を終わらせ、一人の負傷者も出なかった。


 続いて楚王は子玉にの地で徴募した新兵を訓練させた。

子玉の訓練は厳しく、一日中続き、七人が鞭打たれ、三人が死んだ。

訓練が終わった後、軍が整然と揃い、精強になった。


 楚王は喜んで言った。「子玉は子文に勝る」


 間もなく、子文が再び地位を子玉に譲る事を請い、楚王は同意した。

子玉は令尹になり、中軍の将として楚の全軍を掌握した。




         *     *     *




 楚の群臣が子文の家を訪問し、良き後継を得た事を祝賀する宴を開いた。

ただ、大夫・蔿呂臣いりょしんは病床にあって訪れなかった。


 酒が回り、宴たけなわとなった頃、一人の少年が邸の門を叩いた。

子文が中に入るように言った。

少年は宴の場に入ると、子文を祝賀せず、末席に座った。


子文は少年に尋ねた。「汝の名は何という」

「蔿呂臣の子・蔿賈いかと申します」

「わしは楚王のため、良き将を推挙した事を皆が祝賀する。汝はなぜ祝賀せぬ」

「臣には公を祝賀する気にはなれません」


子文は怒って「なぜ、わしを祝う気になれないのか」と問うた。


「公の推挙なされた新たな冷尹は、勇に任せて事を行います。

進む事は知るが、退く事を知らず、重責を任される者ではありません。

あの者が楚軍を率いれば、必ず晋に大敗し、楚国を損なうでしょう。

そうなれば、冷尹を推挙した公も責を問われる事になります。

公を祝賀するのは、冷尹が宋・晋に勝った後でいいと思います」



 その場にいる群臣たちは蔿賈を嘲笑したが、子文は笑わなかった。

今の晋君はかつて楚を訪れた公子・重耳であり

彼もその臣も、並ならぬ才覚を持つ賢才である事を思い出したのである。


間もなく宴は解散となった。子文は暗澹として気分は晴れなかった。


作中に出て来る「卜」は占いの一種で

亀の甲羅を焼いてから水で冷やし、そこに出来るヒビで吉兆を占いました。

国事に関する重要な決断はこれで決めたそうです。


「筮」は数十本の竹ひごを使った占いで、これは現代の易者も用いてます。

昭和の頃には街角でたまに見かけました。最近は減ったようですが。


占いで戦争するかどうか決めるというのは、いかにも春秋時代ですが

21世紀の今でも「ゲン担ぎ」をする受験生やスポーツ選手は少なくありません。

毎年、受験シーズンになると「受験グッズ」「合格グッズ」等を目にする方も多いでしょう。


人に出来る事には限りがあり、最後は運任せになるのは

数千年前から変わりません。

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