第四十四話 周王の出奔
筆者にとって、春秋時代への入り口となったのが
宮城谷昌光先生のベストセラー小説「重耳」です。
日本人作家による、古代中国を題材にした小説といえば
吉川英治「三国志」、司馬遼太郎「項羽と劉邦」
そして「重耳」が代表と言えるでしょう。
コミックなら、横山光輝「三国志」、原泰久「キングダム」、森秀樹「墨攻」
藤崎竜「封神演義」、本宮ひろ志「赤龍王」あたりかと。
* * *
晋の文公は群臣の論功行賞を定めた後、親政に入った。
臣下を適所に用い、多くの刑罰を廃止し、税を軽くして
人と物の交流を盛んにして他国の賓客を礼遇し
身寄りがない者、困窮する者を救済した。
結果、晋は大いに安定し、政治が正され、国は豊かになったので
晋の国人は誰もが文公の統治を称えた。
しかし文公は、自分の政治が正しいのか、誤っているのか確証が持てず
不安が拭えなかったので、太史の郭偃に尋ねた。
「わしはかつて、国を治める事など容易いと思っていた。
しかし、いざ行うと、難しいという事が分かった」
郭偃は文公に、こう回答したと言う。
「我が君が難しいと思えば、容易い事が来るでしょう。
易しいと思えば、困難な事が訪れるでしょう」
* * *
周襄王は晋文公の即位を認め
太宰の周公・孔と内使の叔興を晋に派遣した。
晋は文公自らが国境で出迎え、九牢(牛・羊・馬各九頭ずつ)を献上した。
吉日を選び、晋の副都・曲沃にある武公廟で
晋候は王命を受け、晋献公の位牌を置いて太宰が儀式を進めた。
献公を置いたのは、恵公と懐公の跡を継いだのではないことを示す。
太宰が王命を奉じて礼服を文公に与え、内史が文公を称揚する。
文公は三回辞退してから礼服を受け取った。
儀式が終わると、太宰と内史を持て成すための宴を開き、礼物を贈り
周に帰国する時は文公自ら郊外まで見送った。
文公は天子の命を受けた諸侯としての礼を守り
王室を尊重する態度を崩さなかった。
帰国した叔興が襄王に報告した。
「晋君は必ず諸侯の伯(霸者)になるでしょう。
晋は周王の分枝で同じ姫姓の諸侯。今後も厚遇するべきです」
以後、周襄王は弱体化した斉を遠ざけ、晋と親しむようになった。
* * *
この頃、鄭の文公は楚に従属して
楚王の命に従い、中原の小国を頻繁に攻撃していた。
小国の一つ、滑が衛の盟下に入り
鄭の指示に従わなくなった事で、鄭伯は兵を率いて滑国を討伐した。
滑君は鄭を恐れて講和を求めたので、鄭軍は引き上げた。
しかし、滑は衛に仕えたままで、鄭に服さなかったので
鄭文公は怒り、大軍を発して再び滑を攻撃した。
滑君は衛に救援を求めたので、衛の文公は鄭の無道を周王に訴えた。
周襄王は大夫・游孫伯と伯服を鄭に派遣して
滑を救援するための仲介を行った。
鄭君は周王の偏頗に不満を示した。
「鄭と衛は同格ではないか。王はなぜ衛を優遇し、鄭を軽視するのか」
鄭文公は游孫伯と伯服を鄭の国境で捕え
滑を破ってから釈放すると宣言した。
游孫伯と伯服の従者が脱走に成功し、周都に戻って襄王に報告した。
王使を捕えた鄭伯の無道に対し、襄王は憤慨して
「鄭は楚に従い、周王を見下している。鄭の罪を問う」と宣言した。
大夫・頽叔と桃子が王に進言した。
「かつて、鄭の荘公が周の桓王を一敗地に塗れさせて以来、鄭は周王を憚りません。
今、兵を以て鄭伯の罪を糺そうとしても、王軍だけで鄭に勝つのは難しいでしょう。
そこで、翟の兵を借りて鄭を討ちましょう」
しかし大夫・富辰が反対した。
「それはいけません。鄭伯は無道なりと言えど、周宣王の弟・友の子孫です。
また、鄭武公は東遷の功があり、鄭厲公は『子頽の乱』を鎮めました。
翟は戎狄であり、周の同族ではありません。
夷狄を用いて同姓を蔑ろに扱い、小恨に報いて大徳を棄ててはなりません」
頽叔と桃子が反論する。
「昔、武王が商を討伐した時には九族の夷が武王を援けました。
成王に叛逆して三監の乱を起こしたのは管叔、蔡叔、霍叔で、みな武王の弟でした。
鄭伯の横暴は管・蔡・霍と同じ。翟は狄とはいえ、周に仕えております」
襄王は頽叔と桃子に同意して、両名を翟に派遣した。
翟君は王命を受諾し、兵を率いて鄭を攻撃し、櫟城を破った。
その後、頽叔と桃子に使者を同行させ、周王に戦勝を報告した。
周襄王は大いに喜んだ。
「翟君の功は大きい。わしは最近、中宮(王后)を喪った。
そこで、翟より后を迎えようと思うが、どうであろう」
頽叔が言った。
「翟君には叔隗という娘が二人あり、共に大層な美人であるとか。
姉の叔隗は晋の卿・趙衰に嫁ぎましたが
妹の叔隗であれば王は求められます」
襄王は満足して、再び頽叔と桃子を翟に派遣して婚姻を求めた。
翟君はこれを快諾した。
「娘が王后になれば、わしは王の舅になる」
叔隗を王后にすべく周に送った。
襄王が叔隗を后に立てようとすると、再び富辰が諫めた。
「翟の功を認めるのなら、慰労し、金帛を贈るだけで充分です。
天子の后を夷狄から迎えれば、必ず将来の患を招くことになります」
襄王は諫言を聞かず、叔隗を王后に迎えた。隗后と言う。
* * *
噂に違わず、叔隗は美しかったが、王の后には相応しくなかった。
翟の本来持つ戎狄の風に染まって成長したために
幼い頃から弓馬に親しみ、翟君の狩りにはいつも同行していた。
しかし、周王の后となってからは、後宮から出られず
退屈で窮屈な暮らしに辟易していた。
ついに我慢ならず、襄王に懇願した。
「妾は幼い頃から狩猟に親しんで参りましたが
今は宮中で鬱勃として、毎日が面白くありません。
大狩を主宰して頂けませんか」
襄王は同意して太史に吉日を選ばせ、北邙山で狩猟を催した。
隗后の心は久しぶりに見る好天の空の如く晴れやかであった。
「獲物三十禽を捕えた者には三乗、二十禽なら二乗、十禽なら一乗の車を下賜する」
王は褒美を宣言したので、参加する者は大いに乗り気で獲物を探し求めた。
刻限となり、諸将を呼び戻した。
みな、自分が捕えた禽獣を王と王后の御前に献上した。
殆どは十禽、二十禽であったが、唯一人、三十禽を越えた者がいた。
襄王の庶弟・王子帯である。太叔帯とも呼ばれる。
先王(恵王)の時代、襄王がまだ太子・鄭であった頃、王子帯と後継者争いをした。
争いに敗れた帯は斉に出奔したが、後に赦され、5年前に周に戻って来た。
襄王は約束通り太叔帯に車三乗を与え
他の者も獲物の数に応じて褒美が与えられた。
殊に太叔帯を称賛したのは、王の横に座っていた隗后であった。
後で身分は王弟と聞き、常ならぬ情を抱いて、翌日の狩猟では隗后も参加した。
隗后は太叔帯と共に狩りを楽しみ、両者は接近した。
狩りが終わって王宮に戻った後、隗后は寺人に賄賂を渡し
太叔帯は側室に入る事を許された。
襄王は后と弟の情事に気づかぬまま、回数を重ねていったが
ある夜の歓宴で太叔帯が泥酔して、つい普段の調子で隗后と戯れたので
襄王は激怒して太叔帯を誅殺しようとした。
太叔帯は宴席から逃亡し、自領の甘に入った。
太叔帯と隗后の関係を知った襄王は、隗后を廃立した。
頽叔と桃子は「王室と翟との婚姻を取り次いだのは我々だ。
隗后が廃されたと翟君が知ったら、我々を責めるだろう」と畏れた。
そこで二人は甘に入り、太叔帯を奉じて襄王を攻撃した。
襄王は「弟と戦えば先后(太叔帯の生母)が嘆くであろう」と言って抵抗せず
王都を出て坎欿へ出奔した。
頽叔と桃子は太叔帯を王位に就けようとしたが
周公・孔や富辰がこれに反対し、周の国人の多くは襄王を支持したので
危険と察した頽叔、桃子は太叔帯を奉じて翟へ奔った。
ほどなく襄王は坎欿から都に迎え入れられた。
翟に入った頽叔と桃子は翟君を説得した。
「周王は叔隗を后位から廃しました。太叔が周王になれば復位させましょう」
翟君は説得に応じて、翟に従属する狄の族も動員し、大軍を率いて王都に迫った。
襄王は王軍を率いてこれと戦ったが、大敗した。
周公・忌父、原伯、毛伯が捕虜になった。
大夫の富辰は「寡人は幾度も王を諫めたが
王は聞き入れず、今度の難を招いた。
だが、王に恨まれていると思われるのは不忠である」
そう言うと、私兵を率いて狄に突撃して戦死した。
翟に敗れた襄王は百官と共に鄭に奔り、氾に住んだ。
王が氾に入ったと聞いた鄭文公は
「天子は翟が鄭に及ばないことを知った」と笑った。
鄭伯は氾に鄭の人足を派遣して仮王宮を建設し
文公が自ら訪問して王の様子を伺い、食糧や衣類を提供した。
襄王は鄭伯に感謝の意向を伝えたが、本心では屈辱を抱いている。
一方、太叔帯は翟軍と共に周都・洛邑に入ったが
周の国人は太叔帯よりも襄王を支持しているため
翟軍が去った後は都に住みづらくなり、隗后と共に周都を出て温に住んだ。
周都は周公忌父、原伯、毛伯らが留守を守ったが
翟が睨みを利かせているため、氾から襄王を迎えられないでいた。
* * *
周王と太叔帯の内訌を見て、宋成公は楚に入って講和した。
帰国する時に鄭を通過したので、鄭文公が宋成公をもてなした。
鄭の卿・皇武子が礼について鄭伯に説明した。
「宋は商(殷王朝)の後裔であり、立場上は周の客です。
かつては天子が祭祀を行ったら宋に祭肉を贈り
王室で喪事があったら宋が弔問して新王が拝礼したのです」
鄭文公はこれに従い、宋成公を厚遇した。
氾に住む襄王に簡師父が進言した。
「諸侯で覇業の志があるのは、秦と晋です。
両君に勤王の義を説き、周都に帰還する助力を請いましょう」
襄王は簡師父を晋に、左鄢父を秦に派遣した。
* * *
鄭に続き、魯と宋も氾に使者を送って王の安否を気遣い、様々な支援を送った。
しかし、衛は送らなかったので、魯の大夫・臧孫辰が言った。
「衛侯は死ぬだろう。諸侯は枝で、王は木の元(根)である。
木に元がなければ枯れる。王を尊ばない候は滅ぶ」
翌年の春、臧孫辰の予言が当たり、衛の文公は崩御した。
世子・鄭が文公の喪主となり、衛候に即位した。衛の成公である。
周恵王18年(紀元前659年)に即位した衛文公・毀は
一度は狄に滅ぼされた衛国の復興にその生涯を捧げた。
即位時、衛の民は五千、兵車は僅か三十乗しかなかったが
粗布を着て礼に従い、農を教え、商を流通させ、工人を施し
賢者に教えを請い、学を勧め、能臣を採用して行政を整備し
税を軽減し、刑罰を公平にし、自ら労して民と苦しみを共にした。
衛候が崩御した時、兵車は三百乗にまで殖えていたという。
名君、惜しむらくは、復興に意を注ぐあまり、外を見る余裕がなかった事であろうか。
その代償は文公の子孫が引き受ける事となる。
春秋時代には数百の国々があったそうですが
国名すら分かっていない国もあり、当然、正確な数も分かりません。
「春秋十二列国」とされる主要12国にしても
現代まで伝わっている建国神話は、いずれも眉唾ですが
そこは突っ込むよりも、当時の人々の思考や文化を知るための
史料の一種と考えるようにしてます。




