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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第四十三話 介子推

春秋時代の中期以降は、晋と楚が中心になります。

他の諸侯国は、この両大国のどちらに従属するかで頭を悩ませ続ける事になります。




      *     *     *




  晋を乱した呂・郤の二氏を誅殺した晋文公は

その族党をも誅滅しようとしたが、趙衰ちょうすいがこれを諫めた。

「呂・郤の勢力は大きく、これを滅ぼせば晋の人心は動揺します。

我が君が即位して間もなく、まだ晋は安定していません。

ここは寛容に努めるべきです」


 文公は趙衰の諫言に従い、呂・郤の一族を罪に問わなかった。

しかし、呂・郤の党の不安は解消されないままであった。



 文公がまだ公子・重耳であった頃、その財産を管理していたのは

頭須とうしゅという男であったが、その頭須が宮殿を訪れ、門番に取次ぎを願った。


 文公は頭須の名を聞いて怒りが湧いた。

「あやつがわしの財産を持ち逃げしたから、衛で餓死しかけたのだ。

今頃になって何をしに来たというのか」

文公は謁見を拒否した。


頭須は門番に手紙を渡し「これを晋君にお届けしてほしい」と言って立ち去った。


 文公は手紙を受け取り、中身を読んだ。


     「かつて、我が君に苦難の旅を強いたのは臣の責であり

     この罪は赦されるものでない事は承知しております。

     あの折、勃鞮ぼっていの急追より逃れるべく、我が君は斉へと急行しました。

     過大な荷物は逃亡の足を鈍らせると思い、敢えて向かわなかったのです。

     我が君よりお預かりした財は、てきで暮らす晋君の妻子に用い

     一物たりともわたくししてはおりません。これは調べれば判明する事です」


 手紙を読んだ文公は頭須を赦し、翌日に謁見した。

    


「わしが諸国を彷徨っていた間、卿もまた辛抱しておったか」


 頭須は叩頭謝罪してから口を開いた。

「我が君は呂・郤の党がどれほどか存じておりますか」


「甚だ多い」


「彼等は、我が君が本心で赦したとは思っておらず、懐疑しています。

晋を安定させるためにも、彼らを安心させる必要があります」


「卿に何か策があるのか」


「臣が公子の財を盗み、飢餓に陥らせた事、晋の国人は誰もが知っています。

そこで、臣を我が君の坐する車の御者に用いれば

晋の民がそれを見て、晋君は旧悪をも赦す寛容の君であると思うでしょう。

さすれば、呂・郤の党人の抱く懐疑も霧消するに違いありません」


「それは善い策である」


 文公は晋都の巡視を名目にして頭須を御者に任命した。


 それを見た呂・郤の党人は

「国君の財を盗んだ頭須でさえ赦された。ならば我々も大丈夫であろう」

と安堵した。


 文公は頭須に以前と同じく庫の管理を任せた。




      *     *     *




 晋文公は公子だった頃に、諸国で妻を娶り、また子を生んだ。

邑を出奔して、最初に住んだ地は翟国である。

ここで重耳は季隗きかいを娶り、一男一女が産まれた。


 晋君になった重耳に、翟君は祝賀の使者を送り

同時に季隗と二子を晋に送り届けた。

かつて重耳は翟を出奔する時、季隗に25年待てと命じたが

8年で再会を果たす事が出来たのである。


 斉では斉桓公の娘・斉姜せいきょうを迎えたが子は産まれなかった。

だが、偪姞ふくきつという妾との間に一男一女が産まれた。

偪姞は早世したので、残された子は斉姜が育てた。


斉孝公も晋君の即位を慶賀する使者と共に、斉姜と二子を晋に送った。

こちらは3年ぶりの再会である。


 宮中における文公夫人の位階は

斉姜が正夫人、季隗が第二夫人、懐嬴かいえい嬴氏えいし)は第三夫人となった。


 文公の世子には偪姞が産んだ斉姜の子・歓が選ばれた。


 季隗が産んだ娘は伯姫と言い、帰国とほぼ同時に趙衰に嫁した。

以後、彼女は趙姫と呼ばれる。

趙姫は夫の趙衰に、翟にいる妻・叔隗しゅくかいと子の趙盾ちょうとんを迎え入れるように勧めた。


 しかし趙衰は拒否した。

「国君の娘と婚姻を結ぶ知遇を得ながら、翟から妻子を戻す訳にはいかぬ」


 趙姫は父・晋文公に趙衰の言葉を伝えた。

「夫は叔隗を迎え入れようとしません。これはわたしの不徳とする所。

父侯が説得してください」


 文公は翟に人を送り、叔隗母子を晋に招いた。

趙姫は正妻の地位を叔隗に譲ろうとしたが、趙衰は拒否した。

「叔隗が先に夫に嫁ぎ、しかも年上です。長幼の序を乱してはなりません。

それに、叔隗の子・盾は優秀です。嫡子に立てるべきです」


 趙衰は趙姫の言を文公に報告した。

「我が娘には謙譲の徳がある」と賞賛して

叔隗を趙衰の正妻に、趙盾を嫡子に立てた。


 後年、趙姫は趙同、趙括ちょうかつ趙嬰ちょうえいの三子を産むが

いずれも趙盾の才には遠く及ばなかった。




    *     *     *




 晋文公は論功行賞を行うために群臣を招集した。

亡命に従った者が一等、帰国を援けた者が二等、迎え入れて帰順した者が三等である。


第一等は趙衰、咎犯きゅうはん狐毛こもう胥臣しょしん魏犨ぎしゅう先軫せんしん顛頡てんけつ等。

第二等は欒枝らんし郤溱げきしん、士会、舟之僑しゅうしきょう孫伯糾そんはくきゅう祁満きまん等。

第三等は郤歩揚げきほよう、韓簡、梁繇靡りょうゆうび家僕徒かぼくと郤乞げきこつ先蔑せんべつ屠撃とげき等である。


采邑を持たぬ者には地を与え、既に持つ者には加増された。


 文公は白璧五双を咎犯に下賜した。

「卿はわしに璧を与え、それは帰国前に河に投じた。その返礼である」


 また、国舅・狐突ことつ冤死えんしを嘆き、晋陽の馬鞍山ばあんざんに廟を建てた。

後世、馬鞍山は狐突山と呼ばれ、山西省太原市清徐県には狐突廟が現存する。



 文公は論功行賞に漏れがないか気になり、詔令を都の城門に掲げた。


  「未だ功労が認められていない者は遠慮なく進言せよ」


 これを見た壺叔こしゅくが進言した。

「臣は我が君が蒲城にあった頃より君に従い

四方を奔走して我が君に車馬や食を提供して参りました」


文公は大量の金帛を準備して、壺叔を含む全ての賤臣を漏れなく公平に賞した。


しかし魏犨と顛頡は、自分たちが咎犯や趙衰より下という評価が不満であった。




      *     *     *




 介推かいすいは論功行賞の場に現れず

文公もまた、介推がいない事に気づかなかった。


 介推はその性質が潔癖に過ぎ、黄河を渡って帰国する時に

咎犯が自分の功を誇る発言をした事を軽蔑して、論功行賞を受ける事を恥と感じた。


 文公が帰国し、晋君に即位してからは病と称して家に籠り

清貧を守って内職をして細々と生計を立て、老母を養っていたのである。


 介推の友人の解張げちょうは介推に賞が与えられない事が不満であった。

詔令を見た解張は介推の家の門を叩き、それを伝えたが、介推は何も言わなかった。


 介推の老母が尋ねた。

「お前は19年も国君に従い、功は小さくないのに、なぜ名乗り出ないのですか」


「献公の九人の子のうちで、我が君が最も賢才で高徳でした。

恵公と懐公は徳が薄かったので、天は晋国を我が君に与えたのです。

しかし群臣は天意を知らず、功を争っています。寡人(私)はこれを恥とします。

終生、貧しいままで終わろうとも、天道を自分の功にしたいとは思いません」

 

「たとえ禄を求めずとも、入朝して我が君を一見する事で

お前が股を割き、主君の飢えを救った労苦を思い出して頂けるのではないですか」


「寡人は国君に求めるものがありません。なれば一見する必要もありません」


「いいでしょう。では母子二人で山に隠れましょう。市井にいては汚れるだけです」


「寡人は以前から綿上めんじょうが好きでした。綿上の山で暮らしましょう」


介推は母を背負って綿上に奔り、深い谷の中に草廬そうろを建てて暮らした。




           *     *     *




 介推が晋都から消えた事で、解張は文公の論功行賞に不満を抱き

主君を諫める書を書いて夜の間に朝門に掛けた。


 翌朝、文公が開廷すると、近臣が解張の書を持ってきた。



     「龍は居場所を失い、数匹の蛇が従い、天下を流浪した。

     龍が飢えて食を乞い、一蛇が股を割き、壤土を安んじ、龍は天に昇る。

     数匹の蛇は穴に入り、それぞれ安寧を持つも、一蛇だけ泣く」



 読み終えた文公は驚いた。

「これは介推の事ではないか。かつてわしは衛で飢え、推が股を割いた。

わしは功臣を賞したが、推を忘れていた。わしの罪は深い」


 文公は人を送って介推を探したが、誰も行方を知らない。


 解張が名乗り出た。

「あの書は私が推の代わりに書いたのです。

推は賞を求めることを恥じ、母を背負って綿上の山谷に隠れました。

ただ、私は彼の功が忘却されることを恐れたのです」


「汝が書を掲げなかったら、わしは推の功を忘れていた」

文公は解張を下大夫に任じた。



 文公は解張の先導で綿上に向かった。

だが、いくら探しても介推の足取りが見つからない。


 近くに住む農夫に尋ねると

「数日前、老婆を背負った一人の男を見ました。

山の下で休んで水を老婆に飲ませてから、また背負って山を登って行きました」


 文公は山に行き、人を四方に送って介推を探したが、どうしても見つからない。


「推はわしを恨んでいるのか。山に火をつければ母を背負って出て来るか」


 文公は山に火をつけさせた。火は三日三晩燃え続けた。

介推は山から出ず、母と抱き合ったまま枯柳の下で焼死していた。


 介推の遺体を見た文公は涙を流して綿山の下に埋葬した。

山の麓に祠を建てて祀り、周りの田を祠田とした。

そこに住む農夫に毎年の祭祀を管理するように命じた。


「綿山を介山と改め、我が過ちを後世に伝える」


   

   現在、山西省に介休市という地域がある。介推が休息した地であるとか。

   介推は後世、氏姓と名の間に尊称を意味する「子」を挟んで「介子推」と呼ばれる。

   文公が山林を焼いたのは三月五日の清明の頃で

   介子推の無念を悼む国人は、介子推が「抱木焼死」した事を嘆いて

   清明の前後一ヶ月は火を用いない「寒食」を食したという。

   この慣習は二千年以上を経た明清時代まで続き、毎年、冬至になると

   乾し飯を用意して冷水で食べる風習「禁火」が残ったという。


介子推に関するエピソードは

何度見ても、文公の行動がおかしい。

なぜそこで山に火をつけたのか、理解に苦しみます。


中国の春秋時代は日本の縄文末期、まあ大昔です。

残されている記録の信頼性には疑問も多く

介子推は実在しなかったか、実在したとしても

この話は後世の創作だった可能性もあります。

むしろ、その方が救われるというか。

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― 新着の感想 ―
[一言] まさしく、火を放って出てくると考える部分はおかしい
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