第四十一話 黄河の東
国舅というのは、読んで字の如く、国君の舅の事です。
狐突が国舅と呼ばれてるのは、晋の献公夫人(狐姫)の父だったから。
なお献公夫人は斉姜(申生の母)、驪姫(奚斉の母)、狐姫(重耳の母)、小戎子(夷吾の母)と大勢います。
狐突が自分の子である咎犯と狐毛を重耳の家臣にしたのは、こういう理由がありました。
あと、咎犯の娘は重耳の最初の夫人でしたが、早世したようです。
両者の間に子がいたかどうかは分かりません。
咎犯が重耳を拉致って斉から脱出する無茶が出来たのも
義理の父子だから、という背景あってこそです。
* * *
晋の公子・重耳の家臣の中で、咎犯と狐毛が最古参である。
重耳がまだ幼年の折から仕えて来た、股肱の臣と言って良い。
父・狐突が晋君に殺されたと聞き、二人は大哭した。
「晋恵公は薨じて、世子・圉が新たな晋君に即位した。
新君は公子に従う者を帰国するように命じ、逆らう親族は処刑すると脅した。
父上は脅しに屈せず、我らを招かなかったために殺されたのだ」
重耳は二人に言った。
「卿らの父は我が父にも等しい。誓って亡父の仇を討とう」
重耳は秦穆公に拝謁し、晋候の横暴を伝えた。
穆公は重耳に語った。
「それは天が晋国を公子に授けようとしているのだ。この機を失ってはならぬ」
趙衰が重耳に代わって言う。
「秦候が天に代わって公子を守ってくださるのであれば、一刻も早く動くべきです。
晋君・圉はまだ改元しておりません。つまり晋の祖廟に即位の報告をしていないという事。
これが済んでしまえば君臣の分が定まってしまい、改めるのは困難です。
その前に公子が帰国して晋君に即位すれば、簒奪には当たりません」
穆公は大いに納得した。
重耳と趙衰が邸に戻ると、晋国から使者が来ていた。
「臣は晋の大夫・欒枝の子で欒盾と申します。
新たな晋君は猜疑心が強く、暴を以て威を立て、国人は服していません。
それで父上は公子の帰国と即位を支援すべく、臣を公子に遣わしました。
今の晋君が信頼しているのは重臣の呂甥と郤芮だけです。
すでに大半の大夫は公子の帰国を待って内応することになっています」
重耳は喜び、翌年の正月に黄河を渡ると約束した。
重耳は天に祈祷して、帰国が叶うか筮で占うと、「泰卦」の「六爻安静」と出た。
意味が分からず、咎犯に吉凶を尋ねた。
「これは天地を合祀し、小が去って大が来るという兆です。
公子が晋に行けば国を得るだけでなく、やがて諸侯の盟主となるでしょう」
翌日、重耳は再び入朝して秦穆公に謁見した。
「すでに事情は聞いている。わしが自ら兵を率いて公子を黄河まで送ろう」
重耳は秦君に拝謝した。
太史に占わせた結果、進発の日は十二月の吉日が選ばれた。
秦軍の先鋒には丕豹が任命された。かつて晋の重臣だった丕鄭の子である。
出発の三日前、穆公が宴を設け、重耳に多くの餞別を贈った。
白璧十双、馬四百頭、それに衣類と食糧などが与えられ
家臣らにも白壁や馬が下賜された。
公子の君臣一同は揃って秦君に再拝し、感謝の意を伝えた。
当日、穆公自らが総大将となり、百里奚、繇余、公子・縶、公孫枝、丕豹を従え
兵車四百乗を率いて公子・重耳を晋に帰国させるため、東へと向かった。
重耳に懐いていた秦の世子・罃は渭陽まで見送り、涙を流して別れを惜しんだ。
* * *
周襄王の17年(紀元前636年)正月、秦穆公と晋の公子・重耳は黄河に到達した。
ここで穆公が再び重耳のために別離の宴を設けた。
穆公は秦軍の半分を公子縶と丕豹に与え、重耳の帰国を支援するよう命じ
残る半数は河西に駐軍させた。
重耳の長い亡命生活で、一行の財産を管理してきたのは壺叔である。
飢餓に見舞われた時、衣服や食の浪費を惜しみ、節約を強いて
苦難の旅を支えて来たのである。
その壺叔が、黄河を渡る前も、普段通りに荷物をまとめ始める。
罅の入った器、破れた莚に幕、残った酒食、ことごとく船に運び入れた。
それを見ていた重耳は笑いながら
「わしは晋に入って国君になる。晋に還れば飽きるほどの美食にありつけよう。
それらはもう必要ない」と言い、全て棄てるように言った。
それを聞いた咎犯は嘆息した。
「公子はまだ富貴を得ていないのに、早くも晋君になったつもりで
これまでの19年間に及ぶ艱難辛苦を忘れてしまった。
すでに新規を求め、古物を棄てるだけでは、我々もまた同様に扱われるだろう」
咎犯は秦候から下賜された白璧一双を持ち、重耳の前に拝跪して献上した。
「公子が河を渡れば晋に入ります。内には晋の国人あり、外には秦兵あり
晋国は必ず公子のものとなるでしょう。もはや臣の役目は終わりました。
臣には三つの罪があり、その罪に服すことに致します」
重耳は驚いた。
「やっと卿らと富貴を共に享受できる時が来たのだ。三罪とは何であるか」
「公子を強いて旅立たせ、五鹿で困窮に陥らせました。これが一罪です。
曹、衛にて二君より公子に侮蔑を受けさせました。これが二罪です。
公子を酔わせて斉都から連れ出しました。これが三罪です。
罅割れた器は並べる必要がなく、破れた莚は用いる必要がないように
臣も必要なくなりました。どうか罰してください」
重耳が涙を流して言った。
「わしは過ちを犯すところであった」
重耳は壺叔に命じ、棄てた物を全て取り戻させ、黄河の神に誓った。
「もし、わしが帰国して、臣下の労苦を忘れたら、我が子孫を滅ぼせ」
そう宣言すると、誓いの証として白壁を黄河に沈めた。
この時、重耳と咎犯のやり取りを介推が見ていた。
「公子が晋に帰るのは天意によるもの。咎犯はそれを自分の功にした。
天祐を穢れた人の手で握り潰し、富貴を貪ろうとする輩と共にいるのは恥辱である」
重耳は黄河を渡って東に進み、令狐に至った。
令狐の主・鄧惛は城門を閉じて重耳に抵抗したので秦軍が城を包囲した。
丕豹が城壁を登って城門を開き、令狐は陥落した。鄧惛は殺された。
これを聞いた桑泉と臼衰は重耳に帰順した。晋に至る道は開かれた。
* * *
重耳が秦軍と共に晋都に向かっていると聞いた晋懐公は震え上がった。
急いで兵を集め、呂甥と郤芮を将に任命して廬柳に駐軍させた。
両名は秦軍と戦わず、籠城戦を選んだ。
公子縶は秦穆公からの書を廬柳の城内に投げ入れた。
「秦が晋に与えてきた徳は計り知れぬ。しかし晋君は二代続けて秦の恩に背いた。
公子重耳は賢徳で知られており、多くの賢臣が補佐している。
公子を晋の社稷の主にするは天命と信じ、秦は黄河を東に越えた。
卿らに賢愚を見極める目があるなら、矛を収めて迎え入れよ」
両者は書を読んだ後、公子縶に返書を書き送った。
「臣は公子の恨みを得ているので武器を捨てる事は出来ません。
しかし、公子にお仕えするのは臣も望む事です。
もし、公子の諸将と相争う事なく、臣の咎を責めぬと申されれば命に従います」
返書を読んだ公子縶は、廬柳を訪問して二人に面会した。
呂甥と郤芮は公子縶に心情を吐露した。
「臣らは戦いを望んでいるわけではなく、公子が臣を赦さぬ事を恐れています」
公子縶が二人に言った。
「軍を西北の郇に退けるのなら、卿らの誠意を公子に伝えよう」
呂・郤は同意して公子縶を送り出した後、すぐ全軍を率いて郇城まで撤退した。
重耳は咎犯と公子縶を郇城に派遣し、呂・郤と会見させた。
そして、重耳を晋君に擁立し、二心を抱かないという誓約を結んだ。
呂・郤は咎犯と同行して、臼衰に滞在する重耳を迎えた。
重耳は郇城に入り、駐屯する晋軍をその掌中に収めた。
晋懐公は呂甥と郤芮から報せがないので訝しみ、勃鞮を送った。
勃鞮は道中で呂・郤が郇城に退却し、懐公を裏切って重耳に降った事を知り
急ぎ晋都に戻って懐公に報告した。
懐公は恐怖し、今後の方針を諮るべく家臣を招集したが
晋の国人は以前から公子・重耳を慕っており
懐公が呂・郤の二人だけを信任していることに不満を持っていたので
誰も招集に応じなかった。
懐公は絶望した。
「秦から逃げたのは我が過ちであった」
傍らの勃鞮が意見を述べた。
「晋の群臣はすでに重耳を迎え入れました。ここにいては危険です。
ひとまず高梁に避難しましょう」
懐公は同意して、高梁に奔った。
重耳は晋軍を率いて晋の祖廟のある曲沃に入り、武公廟を参拝して帰国を報告した。
晋を出奔してから、実に19年の歳月を経て、ついに重耳は祖国に帰って来た。
その間に晋都の大夫が重耳を迎えるために曲沃まで来たので
彼らを随えて重耳は晋都・絳に入り、24代目の晋君に即位した。
斉の桓公と並び称される春秋時代の英雄、晋の文公の誕生である。
中華文明を育んだ大河である黄河は
無数の支流を集めながら、渭水との合流地点まで
北から南へと流れていきます。
この流れが東西を分断しており、西側が現在の陝西省、この時代の秦国
東が山西省で、この時代の晋国になります。




