第三十九話 諸国を巡る
筆者は1970年代生まれのファミコン世代で
スーマリ、ゼルダ、ドラクエに熱中した子供でした。
これを書いてる間、別タスクではユーチューブを立ち上げ
イヤホンを差してファミコンやスーファミなどの
レトロゲームBGMを聴いてる事が多いです。
* * *
公子の一行は、泥酔した公子・重耳を車に乗せると
深夜のうちに斉都・臨淄を出た。
都城の門は夜は閉じられるが、斉姜が根回しをしてくれていた。
一団は宋を目指して夜通し駆ける。重耳はまだ目が覚めない。
五十里(約22km)も進んだ頃、ようやく東の空が白みかけた。
一番鶏の鳴き声が彼方に聞こえる。日がゆっくり昇っていく。
ようやく重耳は目が覚めた。
いつもの屋敷ではなく、車に乗せられていることに気づく。
宿酔いで痛む頭の霧が少しずつ晴れていき、状況を理解した。
「なぜ、わしは車に乗っている」
咎犯が応えた。
「お目覚めになられましたか。我々は宋国へ向かう途上でございます」
「咎犯、わしを勝手に連れ出し、どういうつもりであるか」
「我々は公子に、晋君になって戴くつもりです」
「わしは斉で暮らすと何度も申したはずだ。すぐ引き返せ」
「引き返すには、もはや斉都は遠すぎます。
それに、今戻れば斉候も黙っていないでしょう」
重耳は激怒し、咎犯を剣で殺そうとしたので
咎犯は車から降りて逃げ出した。
重耳は咎犯を追おうとするが、趙衰たちが重耳を宥め、説得する。
少し頭の冷えた重耳の元に咎犯が戻り、地に伏して謝罪し、語った。
「公子の大業が成らねば、それがしは自ら死にます。
それまでは、この身を公子のお役に立ててください」
「いいだろう。もし成らねば汝を殺し、その肉を食らう」
「その時には、この身は道端に捨てられ
腐って山犬の餌となり果てているでしょう。
公子は山犬と争ってこの肉を食されるおつもりか。
晋君となれば、遥かに美味な肉を毎日食べられるのです」
重耳は機嫌が収まらず
「汝が伯父でなければ、今すぐに殺しているところだ」
趙衰が口を開く。
「我らは家族を捨て、故郷を捨てて、公子に付き従ってきました。
全て、公子に晋君になって戴きたいがためです。
此度の謀は、我ら臣下一同で相談して決めた事。
咎犯一人を憎むのは誤りでございます」
重耳もようやく納得して
「卿らの衷心は分かった。こうなれば、わしも晋へ帰国する事を考えよう」
一行は歓喜し、朝餉の用意を始めた。
* * *
重耳たちは、宋に行く途中にある曹国に入った。
曹共公は朝政よりも遊蕩に費やし、国は乱れていたが
賢臣として高名な大夫・僖負羈の手腕で、辛うじて保たれていた。
晋の公子・重耳が曹に入国したと聞いた僖負羈は曹公に進言した。
「晋と曹は同じ姫姓の諸侯です。重耳の一団を厚遇するべきです」
「我が曹は小国だ。しかも中原の中心にあり、諸国の公子の往来は絶え間ない。
いちいち公子を礼遇していたら費用が嵩む」と曹共公は反対した。
「晋の重耳公子は格別です。その賢才は天下に知られ、かの斉桓公も厚遇しました」
「ならば一宿だけは供する。それで同姓への礼は果たせよう」
重耳一行は曹公の別館に案内され、晩飯が提供された。
だが曹公は来ず、料理も粗末だったので重耳は不愉快であった。
これを憂慮した僖負羈は、妻の呂氏を伴って公子の慰問に訪れた。
僖負羈と妻は帰宅して、重耳について語った。
「お前は観相の才がある。公子を見てどう思った」
「公子の瞳は重瞳。これは王者の相です。
伝説の聖王・舜も重瞳であったとか。
また、公子に従う臣も、悉く並の者ではありません。
公子は必ず帰国して晋君となり、公子を軽んじた我が国は討たれるでしょう」
妻の話を聞いた僖負羈は礼物を携え、重耳の公館を再び訪ねた。
重耳に面会した僖負羈は曹君の罪を謝罪し、また敬意を表した。
重耳は感心して
「曹国にも貴殿の如き賢臣がおられるか。
わしは亡命中の身の上であるが、もし帰国が叶えば、きっと恩に報いよう」と語った。
また、僖負羈は重耳に食糧と白壁を贈ったが
重耳は食だけ受け取り、白壁は固辞した。
翌日、重耳一行が曹を出た時、僖負羈は城外まで見送った。
* * *
重耳一行は曹を去って宋国に入った。
咎犯は旧知の間柄にある宋の司馬・公孫固に面会した。
「先年、我が国は楚との戦に敗れ、我が君は負傷して、いまだ起きられぬ有様だが
晋の公子重耳の名声は夙に知られ、その賢才を慕っている。
我が君には、公子とお会いするよう申し上げる」
襄公は楚との負け戦以来、楚国を深く憎み、報復したいと常々思っている。
そんな折、公孫固から晋の公子重耳が宋に訪れたとの報告を受けた。
晋は大国で、重耳は賢才で名を知られているので、襄公は喜んだ。
宋公は怪我を押して重耳と面会し、国君の礼を用いて
七牢(牛・豚・羊を七頭ずつ)を重耳に贈った。
また、宋襄公は重耳に尋ねた。
「公子は斉国に5年間滞在していたと聞く。斉桓公は公子を如何に遇されたのか」
「先の斉君はそれがしに馬車二十乗と、豪華な邸を下賜くださり
候の息女を娶わせ、大夫の地位を以て、永く斉に仕えよと申されました」
宋公は一時、斉桓公を継いで天下に号令しようという野心を抱いた。
重耳に七牢を以て報いるだけでは桓公に劣ると思ったが
馬車二十乗は、楚に敗れて困窮している今の宋にとって厳しい。
重耳が下がった後、宋公は公孫固を呼んで相談した。
「公子には天が味方しています。必ず晋に帰国し、晋君に即位するでしょう。
楚から宋を護るには大国・晋の後援が必要となります。
そのためであれば馬車二十乗など、安いものでしょう」
「桓公は馬車二十乗で重耳を斉の大夫にした。わしは宋国ごと重耳に託す。
わしは気宇と覚悟だけは桓公に勝ったと言えるかの」
襄公は公孫固を通じて馬車二十乗、馬にして八十頭を重耳に贈った。
また、重耳の滞在中、常に訪問して様々な礼物を授けた。
重耳は宋公の厚遇に深く感謝した。
また、咎犯と公孫固で、今後についての会談が行われた。
「公子は宋の支援で晋への帰国を望んでおられるようだが
楚に大敗した今の宋にその力はない。他の大国に頼られよ」
「宋公の公子への厚恩は決して忘れる事はないでしょう
いつか、公子が晋君となられた時は、貴国と永く誼を結ばせて頂きます」
咎犯は重耳に公孫固の意向を伝え、宋を出立する事に決めた。
宋襄公は重耳が出発する前日には
馬車に満載するほどの食糧や衣服を贈った。
出立の時、重耳は臣下一同と宋公に拝礼した。
襄公は重耳が宋国を発つと容体が悪化して寝込む日々が続き
ついに覚悟を決め、枕頭に世子・王臣を呼んで遺命を伝えた。
「わしは賢臣に恵まれたが、彼らの言を聞かなかったため、宋の社稷を損なった。
汝が位を継いだら、子魚(公子・目夷)を上卿に任じ、師と仰ぎ、その言に従え。
楚は宋の仇である。これと和してはならぬ。
公子重耳は必ず晋君となり、諸侯を糾合するであろう。
我が子孫は晋に仕えよ。さすれば宋は安泰である」
「誓って、我が君のご遺命、違えませぬ」
王臣は再拝した。
ほどなく宋襄公は没した。
世子王臣が喪を主宰し、宋君に即位した。宋成公である。
周襄王16年(紀元前637年)の事であった。
* * *
宋国を出た重耳は、次は鄭国へと向かった。
鄭文公は重耳が鄭に来たという噂を聞くと
「重耳は父・晋献公の命に背いて逃走し、天下を流浪する不肖の者である。
礼遇する必要はない」と言い、面会しなかった。
これを上卿・叔詹が諫めた。
「公子重耳は天祐の人。我が国を訪れたなら礼遇すべきです。
重耳が出奔してから晋は安定した試しがありません。
これは天が重耳を待っている証でしょう。
臣下の咎犯、趙衰は当代の傑物。必ず晋に帰国し、天下に号令するでしょう」
「重耳はもう若くない。今更何ができるというのか」
「あくまで、我が君が重耳に礼を尽くさぬのであれば、殺すべきです。
このまま、あの者が国を出れば、後に必ず鄭の禍となるでしょう」
鄭伯は驚きつつも笑って
「卿の言は大仰に過ぎる。礼遇せよと言えば、次は殺せと言う。
重耳など、如何ほどの者であるか」
重耳は宿舎に停泊して、鄭伯に面会を求めたが
鄭文公は門を閉じ、重耳の受け入れを禁じた。
「鄭伯は無礼である」
重耳は憮然として宿舎に戻り、翌日、鄭を出る旨を臣下に伝えた。
重耳は趙衰と語った。
「鄭は小国、期待はしていなかったが、鄭伯の態度は気に入らん。
次はどこへ行けばよいであろう」
「南方の大国・楚へ行きましょう。
楚王のお心に適えば、必ず公子の帰国を支援してくださるでしょう」
「楚は周王に憚らず王を称する蛮夷である。これに頼るのはどうかと思う」
「楚王は斉桓公の頃、周に入朝しました。
また、冷尹の子文は謙譲の徳篤い君子として高名です。
必ず公子を厚遇するでしょう」
話の途中、先軫が重耳と趙衰に異変を告げた。
「鄭の上卿・叔詹が我らを夜討ちにしようと企図しているとか」
「叔詹と言えば鄭の賢相と名高い。何かの間違いではないか」
「それがしもそう思ったのですが、叔詹の邸内には兵が詰めかけ
物々しい雰囲気です。一刻も早く鄭都を出るべきかと」
「それが真ならば、猶予はならぬ」
重耳一行は予定を一日繰り上げ、鄭を出て楚へと進んだ。
鄭を出て、楚へと向かう重耳一行に、一人の若者が加わった。
叔詹による襲撃を先軫に伝えた、鄭の公子・蘭である。
「鄭では世子・華、次子の公子・臧が誅殺されて以降
公子らが次期鄭君の座を巡り、争いが絶えぬと聞いてはおった」
「我が母上は賤妾ゆえ貧しく、大夫の支援も得られず
それが却って幸いし、争いに巻き込まれずに済んでいましたが
鄭にいては危険だと察し、この機に晋へ逃れよと申されたのです」
「だが、我らが晋に帰れる保証はない。
旅の空で朽ちるかもしれぬ。それでもついて来るか」
「公子には天祐があります。必ず帰国なさり、晋君と相成るでしょう」
先軫は「世辞が利いて、その顔なら、旅芸人でもやっていけるのう」と笑った。
重耳の亡命行に加わった鄭の公子蘭、この時13歳。
後世、蘭の化身と称されたほどの美貌であったという。
重耳は19年に及ぶ亡命生活で放浪公子と言われてますが
実際に放浪した期間は2年もありません。
翟(狄)に12年、斉に5年以上滞在しており
そこで骨を埋める覚悟だった様子が伺えます。
行く先々で妻を娶り、子供まで作っていますから
安定志向で無理をしない人物だったのでしょう。
実際、他国へ出奔した公子はそれが普通ですので。
重耳の場合は彼の周囲と、彼の生きた時代がそれを許さなかったようですが。




