第三話 洛陽遷都
これまで周王朝メインで書いてきましたが
これからは諸侯が中心の描写になるので
時系列や場所が飛び飛びになる事が増えるでしょう。
可能な限り、読者の皆様が混乱しないように書いていくつもりです。
* * *
周平王は、衛武侯の爵位を公に上げ、晋侯・仇に河内の地を与えた。
王を守って戦死した鄭伯・友は「桓」と諡された。鄭の初代・桓公である。
桓公の世子・掘突には祊邑を加増した。
周の属国であった秦は諸侯に加えられ、秦伯に封じた。
周公・咺は太宰、周平王の生母・申后は太后(王母)となる。
また、都内で被害を受けた民衆を慰撫し、家臣たちには酒食を振舞った。
褒姒と伯服は庶人に落とされたが
虢石父、尹球、祭公は先王の時代に功があり
王のために死んだ事も勘案して
その地位と爵位は保全され、子孫が継承することを許した。
平王は衛侯を司徒(土地管理官)に任命し、鄭伯・掘突を卿士にして
太宰・咺と共に天子の補佐として朝廷に常駐する。
申、秦両君は本国に戎狄が迫っているので帰国した。
申侯は娘を鄭伯・掘突に妻として与えた。後の武姜である。
一方、諸侯に敗れて周都より追放された犬戎は、なお強勢を保っている。
暴君を打ち倒した功ありながら、禄にありつけなかった恨みを抱き
間もなく、大軍を率いて周の国境を侵した。
辺境の邑、岐・豊の大半を占拠し、次第に周都・鎬京に迫って来た。
烽火は絶え間なく上がり続け、諸侯が軍勢を率いてこれに当たる。
戦乱によって都の宮殿は多くが焼失し、塀は崩れ
建物も傷んだまま放置されて、陰惨な光景ばかり目に付くが
国庫に蓄え無く、宮殿を再建する目途は立たない。
そこで平王は、鎬京から東にある洛陽への遷都を考え、大臣らに諮問した。
「昔、成王が都を鎬京に定めた時、洛陽も建設した。これはどのような意図があったのか」
「洛陽は東都と称し、召公・奭が地を占い、周公・旦が建設を担当しました。
東都は天下の中心にあり、四方からの入貢を受け入れるのに好都合でした。
宮室の制度は鎬京に倣い、朝見のある年毎に
天子は東都へ行幸され、諸侯に接見されたのです」
「今、犬戎が鎬京に迫っており、災難に遭うかも分からぬ。
そこで、わしは洛陽に遷都しようと思うが、どうであろうか」
太宰・咺も同意見で
「今、王宮は焼失して再建は容易ではなく、民を疲弊させ、財政を圧迫しており
西戎がこれにつけ込んで兵を起こしたら防ぎようがありません。
洛陽への遷都は当を得ていると考えます」
他の文武官も犬戎を恐れ「太宰の仰る通りです」と口を揃えた。
ただ、司徒の衛武候のみ不満気な様子で、平王が理由を尋ねた。
「司徒はなぜ黙っておる」
「異見を申さば、君臣の和を乱すと思い、口を噤んでおりましたが
あえて、王のために申し上げます。
鎬京は東に崤山と函谷関があり、西は隴・蜀の山河に守られ
肥沃な土地が広がる地形で、これに勝るものはありません。
洛陽は天下の中央に位置するとはいえ
地勢は平坦で、四方から敵を受ける地形です。
ゆえに、成王は二都を建設しながら、西京に本拠を置いて天下の要とし
東都は一時的な巡幸用に留めたのです。
王が鎬京を捨て、洛陽に遷都されることで
今後、王室の権威が衰えていくのを憂慮します」
「犬戎は岐、豊を侵略し、その勢いは止め難い。
しかも宮城は壊され、威容が失われている。東遷は止むを得ぬ仕儀と心得る」
と平王が言うと、衛武侯は更に加えた。
「犬戎は豺狼の如きもの。不当に宮室に侵入して来ましたが
これは申侯の過ちで、結果として宮城を焼かれ
前王が殺されたのです。犬戎は不倶戴天の仇敵です。
何卒、王は志を強く持たれ、節倹愛民、練兵訓武により
宣王にならって北伐南征し、戎主を捉え、先王の恥を雪がねばなりません。
これを避けて退けば、それだけ敵は押し込んできて
次第に蚕食され、岐、豊だけでは済まなくなります。
古の聖王・尭舜は土壇に茅葺きの建物に住み
夏の禹王も小さな宮殿に住まれましたが
それを陋屋とは考えませんでした。
京師の壮観とは宮殿の姿だけを言うのでしょうか。どうかご賢察を」
これに対し、太宰・咺が口を開いた。
「司徒殿の話は平時の事で、非常時には通じません。
前王は政治を怠り、人倫に外れ、賊の侵略を招きましたが、もはや過去の話。
今、王は名誉を回復されましたが、国庫に蓄えなく、兵は寡なく
民衆は犬戎を豺狼の如く怖れています。
再び戎兵が来れば、民心は瓦解し、国を誤る事になりましょう」
議論の最中、申公から火急の報せが届いた。
申国は犬戎に絶え間なく攻められ、今や亡国の瀬戸際に立っている。
至急、援軍を送られたし、と。
結局、平王は衛武公の主張を却下し、東遷を決めた。
遷都の王命は民衆に告示され、都の至る所に札を立て
祝史(神官)は遷都の理由を起草し、宗廟に祀って報告した。
遷都の日が来た。
大宗・伯が七廟の位牌を抱いて先導した。
秦伯は平王が東遷を決定したと聞き、自ら兵を率いて護衛に就いた。
これに多くの民衆も老幼を助けながら付き従った。
昔、宣王が大祭の夜、少女が位牌を一つに束ね
東へ去ったという夢を見たのは、今日の東遷の事であったか。
宣王の代に起きた怪異ことごとく現実となったのである。
* * *
さて、平王は遷都して、洛陽に遷った。
街は賑わい、宮殿は華美で鎬京と変わらぬ光景に、平王は喜んだ。
新たな都に諸侯は祝賀に訪れたが、楚だけが来なかったので
平王は楚の討伐を臣下に諮った。
「楚は遥か南、化外の蛮族。宣王もこれを伐ち、一度は服従させましたが
馬車一乗の献上品のみに留めております。
今は遷都したばかりで民も不安が大きく
遠征するほどの余裕はございません。
しばらくは放置なさった方がよろしいかと」
王は家臣に従い、南征は中止した。
* * *
秦の襄公が王に帰国の挨拶に来た。
「今、岐と豊の地は大半が犬戎に占拠されている。
公が両の地より戎を駆逐出来れば、地は公に差し上げよう」
襄公は王に深謝した。
帰国後、襄公は兵馬を調え、3年で犬戎を討伐して
岐・豊からその勢力を駆逐し、秦の領地としたのである。
周や申が敵わなかった犬戎を、一諸侯の秦が討ち
周の祖先・古公亶父の拓いた発祥の地が秦の版図となった事は
小さからぬ意味を持つ。
即ち、王の実力に翳りが見え、それに取って代わるように
諸侯の力が増してきた証である。
そも、秦とはいかなる国か。
その始祖を辿ると五帝の一人、顓頊の後裔・皋陶と言われる。
堯の治世に皋陶は司法の地位に就き、舜の時代には牧畜で仕え
皋陶の子・伯翳が夏王朝の創始者・禹の治水工事を輔け
その功績で嬴の姓を賜ったとされる。
伯翳の子孫で、周の5代・穆王に仕えた造父という者がいる。
馬車の御に優れ、その腕前で穆王より認められたという。
造父の孫・非子は犬丘に住み、馬の飼育が得意で、多くの良馬を育てた。
周の8代・孝王は非子に汧水と渭水の間の地を与え、馬の飼育を命じた。
非子はその地でさらに多くの馬を繁殖させ、孝王はその功を認めて
当時、周の属国であった秦を彼に与えたのが、嬴秦の始まりである。
秦の襄公は、非子より数えて6代目の秦君にあたる。
岐、豊の地を得た襄公は秦都を雍に定め、諸侯と交わった。
平王の6年(紀元前766年)、襄公は卒し、後を文公が継いだ。
ある日、秦文公は夢を見た。
鄜邑の野に黄色い蛇が天から降りて来て、男子の姿に変え、文公にこう言った。
「我は天帝の子である。天帝は汝を白帝に任じ、西方の祭事を司れ、とのご下命があった」
そこで文公は目が覚めた。
翌日、太史・敦を呼び、これを占わせた。
「慶事にございます。白は西方の色、殿に西方を司れとの天帝のご意思です」
そこで文公は鄜邑に高台を築き、白帝廟を建てて
鄜畤と名付け、白牛を犠牲にして祭った。
魯の恵公は、秦が無断で天帝を祀っていると聞き
太宰の譲を周に派遣し、平王に対して
郊禘の礼(天子が天と先祖を祀る礼)を魯も行えるよう許可を願い出たが
平王はこれを許さなかった。
「魯の国祖・周公旦は周朝建国に偉大な貢献がありました。
国家の儀式の形式も周公が決めたものです。
なぜ、周公の子孫がそれに倣ってはいけないのでしょう。
秦が許される手続きを、なぜ魯には許されないのでしょうか」
ついに魯恵公は王の許可を経ずに郊禘の礼を行った。
平王はこれを知っても糾弾しなかった。
* * *
掘突は桓公から位を継ぎ、鄭の2代目・武公となった。
鄭武公は周の混乱に乗じて東虢と鄶を併呑し
鄶に遷都して新鄭と呼び、滎陽を京城と呼んで、制邑に関所を置いた。
鄭は非常に強大となり、衛武公と共に周朝の卿士であったが、
平王13年(紀元前758年)、衛武公が崩御して
鄭武公が単独で朝政を担当した。
こうして周王室の衰退と、諸侯の台頭は着実に進んでいったのである。
作中、鄭の国に制邑という関所が出てきますが
これは三国志で有名な虎牢関の事です。
およそ900年ぐらい時代が離れてるので
現代と平安末期ぐらい違います。