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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第三十六話 宋公の大志

現在でも、組織や集団を自らの思い通りに支配する事を「牛耳る」と言いますが

これは春秋時代、諸侯同士が盟約を結ぶ時の儀式で

犠牲に用いる牛の耳を切り取って、その血を皿に取り

順番にそれを啜る事に由来しています。


これを歃血の儀と呼び、血を啜る順番で揉める事がよくありました。





        *     *     *




 斉国では内乱を収束させるため、ひとまず公子・無詭むきを斉君に即位させた。


 本来、斉君になるべきはずであった世子・昭は

宋国に出奔して宋襄公に謁見し、易牙えきが豎刁じゅちょう叛乱はんらんを訴えた。


 宋襄公は群臣を集めて協議した。

「斉桓公は葵丘ききゅうの盟に於いて、世子昭をわしに託された。

今、斉では佞臣が乱を招き、太子は駆逐され、宋に来られた。

わしは諸侯と共に斉を討ち、世子昭を斉に入れて君位を定めたいと思う。

成功すれば、わしは桓公の覇業を継ごうと思うておる」


 上卿の公子・目夷もくい(字は子魚)が意見を述べた。

「世子昭を斉に帰国させるのは道義に基づいた事ですが

宋は覇者の国にはなれないでしょう」

「なぜそう思う」

「斉は大国で、管仲、隰朋しゅうほう鮑叔牙ほうしゅくがら賢臣が斉君を補佐してきました。

宋は土地の痩せた小国で、文武に人がいません」


「わしは仁義を重んじる。祖国を逐われた世子を援けるのは仁であり

先君の遺志を継ぐのは義である」


 宋襄公は太子昭を斉国に入れるため、諸侯に使者を送り

翌年の正月に斉の郊外で集結することを約した。



 宋の使者に引見した衛君・文公は宋公に同意したが、大夫の寧速ねいそくが反対した。

「斉君・無詭は年長者で、かつて衛を守った功労もあり、いわば衛の恩人。

世子昭を斉君に立てようとする宋にくみするのは、恩を仇で返す行いです」


「衛の恩人は斉桓公であり、世子昭は桓公が後嗣に選ばれた。

これは天下の知る所。無詭が衛を守ったのは役目。世子を立てるのは公義である」


衛文公は寧速の意見を却下して兵を率いて斉に向かった。


 宋公の使者は魯にも送られたが、魯僖公は宋公に同意しなかった。

「斉桓公が昭を託したのは宋公であって、わしではない。

長幼の序に基づき、宋が斉君無詭を攻めるなら、魯はそれを救う」



 曹とちゅは宋に従い、斉攻めに加わる事を決めたので

宋襄公は衛、曹、邾の三国の軍と合流して

世子昭を奉じ、斉の郊外まで侵攻した。




       *     *     *




 斉軍を率いるのは中大夫・司馬に任命された易牙である。

斉君・無詭は易牙に城外の敵を討つように命じ、他の将には城内を守らせた。


 斉の上卿・高虎が国仲に言った。

「無詭を斉君に擁立したのは先君の葬儀を行うためであり、国君に奉じるためではない。

諸侯の援けを得て世子が戻って来たのであれば、無詭を立てる必要はなくなった」


 国仲も同意した。

「易牙と豎刁は権力を独占して斉の国政を乱している。この機に除くべきだ。

世子昭を国君に奉じれば、諸公子の野心も絶たれ、斉は安定する」



 高虎は軍議と称して豎刁を招き、酒を飲ませ、酔った隙を突いて斬り捨てた。

そして斉都の城門を開き、豎刁の首を掲げて世子昭と諸侯を迎え入れた。

斉の国人は易牙と豎刁を嫌っていたため、彼らの傀儡に過ぎない無詭にも服従していない。

大多数の国人は高虎に従って後に続いた。


 国仲は入朝して宮門に向かい、斉君・無詭に上奏した。

「国人はみな世子を斉君に奉戴したいと申しております。我が君に退位を願います」

「易牙と豎刁はどこにいる」

「易牙は兵を率いて城外にあり、豎刁は誅殺されました」


 無詭は怒って国仲を捕えようとしたので、国仲は逃げた。

無詭は剣を掲げて国仲を追い、兵士数十人を率いて公宮を出ると

外には無詭に従う兵に数倍する群臣が武器を取って無詭を妨害した。

彼らは易牙と豎刁に排斥され、恨みを抱く者たちである。

無詭は逃げようとしたが、彼らに襲われて殺された。


 国仲は国人らを慰撫し、無詭の遺体を棺に納め

斉君の礼で号哭したので、他の者もそれに倣った。




      *     *     *




 一方、易牙が率いる斉軍の将兵もまた

城外で諸侯と対峙しつつ、本心では易牙に服しておらず

諸侯に敗れる事を望み、世子の帰国と斉君即位を願っている。


 ほどなく斉君・無詭と豎刁が殺されたという噂が届くと

斉の将兵みな歓喜する様を見て、易牙は恐れを抱き

数人の家臣を連れて魯へ奔った。


 間もなく高虎が軍中に到着し、軍を掌握し、武装を解いた。

そのまま郊外に進んで世子昭を迎え入れた。


 高虎は宋、衛、曹、邾の四国と講和を結び、四国は兵を退いた。



 高虎は世子昭を斉都・臨淄りんし城外の公館に住まわせ

公宮に使者を送って、国仲に即位の準備をするように伝えた。


 公子・元と公子・潘は城外で世子昭を迎え入れようとしたが

公子商人はこれに反対し、彼らに語る。

「世子昭は我々より年少で、しかも先君の葬儀に参加していない。

宋の威を借りて斉を奪おうとするは、礼法に背く行いである。

すでに諸侯の軍勢は去った。無詭の仇を取り

我々3人のいずれかが斉君になるべきではないか」


 三公子は無詭の生母・長衛姫に報告した。

長衛姫は「汝等が無詭の仇を討ってくれるのなら悔いはない」と涙ながらに応えた。

誅殺された豎刁の腹心も加わって、三公子は私兵を率いて臨淄の城門を閉じた。


 国仲から臨淄の内情を聞いた高虎は世子昭に言った。

「無詭と豎刁は死にましたが、その余党は三公子を担いで城門を閉ざしています。

このまま都に入れば戦いになり、もし負ければ、今までの苦労は水泡に帰すでしょう。

ここは再び宋国に奔り、宋公の援助を求めるのが上策かと」


「卿の方策に従おう」


高虎は世子・昭を奉じて宋国に向かった。



 宋襄公は宋の国境まで引き上げたところであったが

そこへ再び世子昭が訪れたので、驚いて理由を尋ねた。


 高虎が事情を説明した後、襄公は語った。

「我らの撤兵が早すぎたようだ。世子を臨淄に入城させるまで兵を留めるべきだった」


 襄公は公孫固、公子・とう華御事かぎょじらを率い

自らは中軍を指揮して世子昭を斉まで送った。



 宋軍は再び斉の領内に至り、高虎が先行して

斉の各地にある関所を開くように命じて臨淄まで直進した。


 宋襄公は臨淄の城門が固く閉ざされているのを見て

城攻めの準備に取り掛かったが

城内の三公子は宋軍の準備が終わる前に城門を開いて攻撃した。


 宋軍の先鋒・公子蕩は斉軍の奇襲に対応出来ず逃走した。

前衛が崩れたのを見た中軍の公孫固は華御事、高虎らと共に斉軍へ反撃した。


 戦いは混戦となったが、兵力では宋軍が優勢であり

また、斉軍は三公子の意思が統一していなかったせいもあって

結果は宋軍の大勝に終わり、斉軍は壊滅した。


 公子元は衛国に出奔した。

 

 公子潘と公子商人は敗残兵を集めて城に入ったが、背後に宋軍が迫っていたので

門を閉じられず、世子昭の車を御する崔夭さいゆうが城内に突入した。


 国仲は世子昭を迎え入れ、斉の群臣一同を揃えて二公子を抑え

昭を斉君に即位させた。斉の孝公である。



 斉候に即位した孝公は崔夭を大夫に任じ

宋公には多大な金と布帛ふはくを贈ってねぎらった。


 宋襄公は斉境に五日間留まり

公子の叛乱はないと確認してから宋に帰還した。


 この時、魯僖公が軍を発して無詭を援けようとしていたが

孝公が既に即位したと聞いて、途中で引き上げた。

以後、魯と斉は長く対立する事になる。



 公子潘と公子商人は相談して、罪を全て公子元に被せたが

国・高氏は、乱の首謀者である易牙と豎刁だけを裁くよう孝公に進言した。

孝公はそれを容れ、二人の党人は全て誅殺したが、他の者は赦された。



 周襄王10年(紀元前642年)8月

斉桓公を牛首堈ぎゅうしゅこうの上に埋葬し、三つの大墳を連ねた。

その側に晏蛾児あんがじを埋葬して一つの小墳を造った。



 斉孝公の即位で、桓公没後から始まった斉の内乱は、ひとまず終結した。

しかし、もはや斉に覇者の国の面影は残っていない。




        *     *     *




 宋襄公は斉軍を破り、世子昭を国君に即位させる大功を立てた事で

斉桓公の如き諸侯の盟主になりたいと思うようになった。


 そこで、とう、曹、邾、しょうの小国を集め、曹国の南で会盟を行った。

この時、滕と鄫の国君が会盟に遅刻したので、宋襄公が問い糾した。

「会盟に遅れて来るのは怠慢である」として、両国の君を拘禁した。


 宋の公子蕩が襄公に言った。

「かつて斉桓公は南征北討しましたが、東夷は服していません。

我が君が覇道を進むのであれば、東夷を服すべきです。

東夷を服すため、鄫君を利用しましょう」


「鄫君をどう用いるのか」


睢水すいすいの辺には風雨をもたらす神がいるという伝説があり

東夷の族は社を建て、代々の主が四季の祭祀さいしを行います。

その祭祀で、我が君は鄫君を犧牲にして睢水の神を祭るのです。

諸侯を生贄に捧げる権力があると見た東夷は挙って宋に服するでしょう」


これを宋の公子・目夷もくいが諫めた。

「祭祀とは人のために神を恐れ、祈りを捧げるためにあるもの。

人を生贄にして祭祀を行うのは天道に背く行い。

また、東夷が祀るものを我が君が祀っても、東夷は服さないでしょう。

斉桓公は、亡んだ国を復興させ、戎狄を征伐した事で覇者になったのです」


公子蕩は反論した。

「宋と斉の覇業は異なるもの。斉桓公は盟主となるのに20年を要しました。

威を以て臨まねば、諸侯は宋を軽視するでしょう。

鄫君を宋の覇業のために使うべきです。」


 襄公は早く覇者になりたいので

目夷の諫言を聞かず、公子蕩に従って邾文公に命じ、鄫君を殺した。


 襄公は東夷の族長を睢水の祭祀に招き、鄫君を生贄に使ったが

東夷は宋に馴染んでおらず、参加する者はいなかった。


 鄫君が殺されたと聞き、恐ろしくなった滕君・嬰斉えいせい

宋に賄賂を贈って釈放された。



 曹の大夫・僖負羈きふきが曹共公に言った。

「宋君は暴虐です。従う必要はありません。帰るべきです。」

曹共公は宋襄公に別れを告げて去った。


 宋襄公が怒って使者を送り、曹共公を譴責けんせきした。

「古では、国君が諸侯を尋ねた時、贈物を準備して友好を深めたと言う」


これに僖負羈が返答した。

「宋君による会盟の招聘は突然の事であったため

公を労う財物は準備出来ていません」

曹共公は財物を贈らずに帰った。


 襄公は怒って曹を攻撃する命令を発したので、公子目夷が諫めた。

「かつて斉桓公は諸侯への財物を贈るは多く、受け取るはすくなく

財物の内容を責めず、会盟に参加しない者を誅せず、寛大でした。

曹公が礼に欠けたところで、宋が失うものはありません。戦を避けるべきです」


 しかし襄公は目夷の諫言を聞かず

公子蕩に兵車三百乗を率いさせ、曹を包囲させた。


僖負羈が曹軍を良く統率したので

曹都は三ヵ月に渡って持ち応え、城は陥ちない。



 この間に鄭文公が楚に従属し

魯、斉、陳、蔡の四国が楚と盟を結ぶ約束をした。


 宋襄公はそれを聞いて驚いた。

諸侯が楚に従えば、宋の覇業は挫折すると思ったので

襄公は曹攻撃を中止して公子蕩に帰国を命じた。


 曹共公も宋軍の再出兵を恐れ、宋に謝罪して両国は和睦した。




         *     *     *




 宋襄公は葵丘の盟で斉桓公に世子昭を託され、その遺命を果たせた事で

斉の覇業を継ぐ事を自負して、覇者への道を邁進してきたが

宋は斉に比べて小国であるため、諸侯はなかなか宋に服さず

斉が内乱で衰えた後は、南の大国・楚と盟を結ぶ諸侯が相次いだ。


 襄公は憤慨し、公子蕩に相談した。

「今、大国と言える諸侯は斉と楚ですが、斉は桓公の没後、地位を失いました。

楚は周王にはばからず王号を僭称し

漢水の諸侯を滅ぼし、中原に進出してきました。

そこで楚王に厚く財物を贈り、楚に対して一旦は諸侯を宋へ譲るように伝えて

諸侯を招集し、その力を借りて楚を圧するべきかと」


 だが、公子目夷が反対した。

「楚が宋に諸侯を譲るはずがない。むしろ争いの火種となろう」


 宋襄公は目夷の意見を無視して公子蕩に命じ、賄賂を楚に贈った。


 楚成王は公子蕩に接見し、翌年春に鹿上ろくじょうの地で会見する運びになった。


 「鹿上は斉地だ。斉侯に伝えねばならぬ」

宋襄公は再び公子蕩を斉に派遣し、斉孝公も会見に同意した。



 周襄王の14年(紀元前639年)正月

宋襄公が鹿上に入り、盟壇を築いて諸侯を待った。

二月、斉孝公、楚成王が到着した。


 盟約を結ぶ序列は周王の爵位(公、候、伯、子、男)で決まる。

公爵位の宋が首座、侯爵の斉が次席となり

楚は王を自称しているが、爵位は子爵なので末席となる。


 会盟の日、三君が鹿上に登壇する。

襄公は盟主として先に牛耳を執り、歃血てんけつの儀式が行われた。


 襄公が両君に語った。

「わしは微力ながら宋君を継ぎ、諸侯の友好を修復しようと試みています。

そこで二君の威徳を借りて、八月に諸侯を盂地に集めたい。

貴君が天下の安寧を思われるなら、恩徳を授けて頂きたい」


 斉孝公と楚成王は互いに回答を譲り合った。

襄公はそれを見て「二君が宋を棄てないのであれば、共に署名を願います」

と言って誓書を取り出し、先に楚王に署名を求めたので、斉候は不満を持った。


 楚成王が誓書の内容を見ると、斉桓公の衣裳の会に基づき

兵を従えない事が定められ、既に宋公の署名があった。


 楚成王が襄公に言った。

「衣裳の会ならば、宋公自ら諸侯を招けるはず。なぜ楚が必要なのですか」


 襄公は「鄭は貴国と盟を結んで久しい。陳と蔡は最近、斉で盟を受けた。

会盟を催すには貴国の助力が必要です」と返事した。


 楚成王は「なら斉君が先に署名するべきである。楚は後で構わない」

と言って斉候に渡そうとした。


 しかし斉孝公は「わしは宋公の助力で斉君となれました。

斉は宋の盟下も同然。楚君の威令こそ最も肝要です」と楚を促した。


 楚王は先に署名し、次いで斉候に渡そうとしたが、孝公は署名を拒否した。

「楚国が参加されるなら斉は必要ありません。

ただ盟約の末席に名を連ねるだけで十分です」


 孝公は宋襄公が先に楚王に署名を求めた事で

斉を軽視していると感じ、不快であったから署名を拒否したのである。


 宋襄公は斉候にそれ以上は何も言わなかった。


 三君は鹿上に数日滞在してから帰国した。


作中での一人称は「わし」や「それがし」を用いてますが

国君の場合は「寡君」、それ以外は「寡人」というのが

この時代の一般的な自称で、現代の「私」に相当します。

「寡」は「少ない」という意味で、へりくだった表現です。

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