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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第三十五話 覇者不在

いつの時代でも後継者争いはあります。


今は、責任ある立場を嫌がって遠慮する人が割といますが

紀元前の大昔は、今のような娯楽もなかったので

みんな、僅かでもチャンスがあれば

死に物狂いでそれを掴み取ろうとしていました。





       *     *     *




 斉桓公は管仲の遺言を守らず、易牙えきが豎刁じゅちょう、開方の三名を復職させた。

それを強諫きょうかんした鮑叔牙ほうしゅくがは病死した。


 天下に号令する英傑・斉の桓公も、老いには勝てず

すっかり衰えた事で、この三人は斉の国政を壟断ろうだんした。

彼らにとって都合の良い者を要職に就け、媚びへつらう者に褒賞を与え

一方で彼らに逆らう者、諫める者は処刑し、あるいは国外に追放した。


管仲の手腕によって天下に冠たる大国となった斉は

佞臣ねいしんらの手によって、坂を転がり落ちるように

国力と地位を衰微すいびさせていった。




       *     *     *




 この頃、扁鵲へんじゃくという医者がいた。

今日では中国医学の元祖と呼ばれる医聖である。



  (扁鵲は長年、伝説の存在とされていたが、西暦2012年

  四川省の老官山漢墓群ろうかんざんかんぼぐんから920本余りの医学竹簡が出土し

  理論体系化された古代の医学知識が判明した事で

  扁鵲の実在が考古学的に証明されたのである。)



 これより12年ほど昔、扁鵲はかく国にいた。

折しも虢国では、太子が急死したばかりである。

そこに現れた扁鵲は「私が太子を蘇らせましょう」と虢公に語った。


 虢公は「太子は既に死んだ。死んだ者が生き返るはずがない」と疑った。

「お疑いになられるのは御尤もですが、どうか試させて下さい」

藁をも掴む気持ちであった虢公は、扁鵲に太子の亡骸を見せた。


扁鵲は砥石ではりを研ぎ、太子の遺体に鍼を打った。

すると、間もなく太子は蘇った。

次に扁鵲は自ら調合した薬を太子に飲ませた。

すると数日後には太子は立ち上がれるようになった。

虢公は感激して、扁鵲に褒美として千金を与えたという。


 この奇跡は天下に広く知れ渡り、誰もが扁鵲の医術を称えた。

その後も彼は天下を巡って数多の人を救ったという。



 ある日、扁鵲は斉都・臨淄りんしを訪れ、斉桓公に謁見した。

「斉候の皮膚に病がございます。治療を致す必要がございます」

桓公はこれを信じず「わしは今まで病気に罹った事がない」と一笑に付した。


 扁鵲は五日後に再びやって来て、桓公に語った。

「斉候の病は血の管に至りました。早急に治療せねば」

それでも桓公は拒否した。


 さらに五日が経った。「病は臓腑ぞうふにまで達しています。どうか治療を」

桓公は三度、治療を断った。


 また五日後、扁鵲は桓公に謁見したが

今度は顔を見ると、何も言わずに帰った。


 桓公は気になったので、使いを遣って扁鵲に話を聞いた。

「斉候の病は骨髄に達した。もはや治す術はない。

皮膚にあるうちは針治療で済んだ。

血に至っても瀉血しゃけつすれば治せた。

臓腑に及んでも薬湯でどうにかなった。

しかし、骨髄にまで達しては施しようがない」


 そして五日後、桓公は病の床についた。

扁鵲を呼びに遣ったが、すでに斉を発ち、どこに向かったか分からぬという。

桓公は扁鵲に従わなかった事を後悔した。




      *     *     *




 斉桓公には王姫、徐姫、蔡姫の三夫人がいた。

王姫、徐姫は早世し、蔡姫は桓公に嫌われ、蔡国へ帰った。

これら三夫人から子は生まれなかった。


 その後、六人の夫人を迎えた。六人はそれぞれ一子を設けた。

長衛姫は公子・無詭むき、少衛姫は公子・元、鄭姫は公子・昭

葛嬴かつえいは公子・はん、密姫は公子・商人、宋華子は公子・雍を産んだ。

また、これらの他にも愛妾が多くいる。


 桓公の子で最年長は長衛姫が産んだ公子無詭である。

長衛姫は桓公の寵臣である易牙、豎刁と親しく

公子無詭を世子に推薦するように運動した。

長子であることからも、桓公は無詭を世子にしようと思った事がある。


 しかしその後、桓公は公子昭が聡明なので昭を愛し

内にあっては管仲と相談の上、昭を正式な世子に定めた。

外に於いても、葵丘ききゅうの会盟で宋襄公に世子昭の後見を頼んだ。


 公子潘は桓公の寵臣・開方と親密にしている。

公子商人は民によく施すので、斉の民から人気があるが

これは次期斉君への野心を抱くがための人気取りである。

公子雍は母の身分が低いため、後継者争いからは一歩退いていた。



 斉桓公は一代の英主であるが、覇業を支えた賢臣を失い

年老いてからは、すっかり覇気が失われた。

壮年の頃から酒色に耽ってはいたが

それでもたぎる野心で常に高い目標を掲げ、斉を繁栄に導いたが

今や、取るに足りない小人を寵愛し、政治への興味も失われて

ただ悦楽にのみ耽って国の乱れを放置し、良臣の忠言を聞かず

阿諛追従あゆついしょうの輩の甘言のみに耳を貸すようになった。


 桓公は、世子昭を除く五人の公子の母である寵姫たちから

自分の子を後嗣あとつぎとするようにと、連日のように懇願されているが

それに対し、諾とも否とも言わず、ただ曖昧に答えるのみである。


 桓公が病に伏したのは、そんな時期であった。


 扁鵲が治療をせず帰ったので、もはや斉候も寿命が尽きたか

と判断した易牙と豎刁は、桓公の没後を見据えて一計を案じ

桓公の命令と偽って、以下のような宣言を布告した。


    我が病は重く、当面は誰とも会わぬ。

    家臣も家族も宮中に入る事を禁ずる。

    国政は我が病が癒えてから決済する。


 だが例外がいた。易牙と豎刁、それに公子無詭と長衛姫である。

他の公子たちは桓公の見舞いに来ても宮中には入れなかった。


 桓公は寝室に監禁され、食も水も与えられなかった。

床に臥したまま、立ち上がることもできない。人を呼んでも誰も来ない。

「仲父の遺言に従わなかったせいでこの様な最後を迎えてしまうとは」

桓公は嘆息すると、血を吐いて斃れた。


 周襄王9年(紀元前643年)10月7日、斉の16代・桓公は卒した。

天下に号令する覇者として君臨した者としては、あまりに惨めな最後であった。




       *     *     *




 桓公が亡くなった事を知り、豎刁と易牙は今後について相談した。

「先君は生前、公子昭を世子に定められたが

同時に公子無詭も世子にすると申したまま薨去こうきょなされた。

つまり、今の斉には世子が二人いて、他の公子も斉候の地位を狙っている。

そこで、まず公子無詭の斉君即位を宣言し

それから先君の喪を発すればいい」


 二人は公子無詭の生母・長衛姫に奏上した。「全て卿らに任せよう」

両名は兵を率いて世子昭を捕えるため、東宮とうぐうへ向かった。



 この頃、世子昭は入宮を許されておらず

従って桓公の病状も確認できないまま鬱勃うつぼつとしていた。


ある日、世子昭が東宮の庭で佇んでいると、一人の婦人が現れた。

「私は斉君の妾で晏蛾児あんがじと申します。

先刻、我が君は崩御なされました。

豎刁と易牙は公子無詭を次期斉君に即位させるため

太子に兵を向けました。一刻も早くお逃げください」


 世子昭は先君の死を嘆く暇もなく、上卿・高虎こうこの邸に向かった。

桓公が崩御したと聞かされた高虎は激しく慟哭どうこくした。

「豎刁と易牙は古今に類を見ぬ逆賊・奸臣である。

いずれ必ず天誅を下されるであろう。

だが、宮中を牛耳られている今は我らに不利。世子は宋へお逃げください。

先君はかつて葵丘の会盟で世子を宋公に託しましたので」


 世子昭はその夜のうちに高虎の士・崔夭さいゆうと共に宋へ出奔した。



 易牙と豎刁は東宮を包囲したが、世子昭は見つけられなかったので

ひとまず宮中へ戻り、公子無詭を即位させる事にした。


 宮中にはすでに斉の重臣が集まっている。

晏蛾児や高虎によって、桓公の崩御が知れ渡ったのである。

易牙・豎刁によって東宮が包囲された事もすでに伝わっている。

そこへ両名が戻って来た。


 重臣らは両名に尋ねた。「世子はどこにいる」

「世子無詭は宮中におられる」

「無詭は世子ではない。世子昭はいずこだ」

「世子昭は行方不明である。先君は遺命により、長子の無詭を世子に立てた」

「世子が代わったという宣言は聞いておらぬ。汝らは先君を誑かした逆臣である」


 易牙と豎刁は宮廷の外へ逃げ、待機していた兵士を率いて宮中へ突入して

重臣らを武力で恫喝、駆逐したので、彼らは恐れて退去した。




       *     *     *




 翌朝、宮中に於いて公子無詭を17代目の斉君に擁立した。

だが百官はおらず、拝礼して即位を祝賀するのは易牙と豎刁しかいなかった。


 前例のない空虚な即位式に不快を露わにした斉君・無詭に易牙が語った。

「先君の喪を発していないので葬儀が行えません。国・高の二卿を招けば

百官を呼び集めて、正式に即位の運びとなるでしょう」


 無詭は同意し、右卿・国仲こくちゅうと左卿・高虎に出廷を命じた。

両名は喪服を着て入朝した。


 易牙と豎刁は門外に出迎えた。

「今日は新君が即位する吉日です。喪服はお脱ぎください」

「先君のひん(入棺)がまだ済んでおらぬ。

新君を先に拝すのは礼に適っていない。

我らが従うのは先君を弔う喪主である」

国仲と高虎は再拝して帰った。


 無詭が豎刁に尋ねた。「まだ殯を終えていない。これでは大喪が行えない」

これに豎刁が答える。「大喪を主催するには

他の公子をどうにかしないといけません。

葬儀に出席する公子が逆心を抱かぬよう、兵を以て服従させます」

斉君は同意し、宮中の兵を全て廟堂に集めた。



 一方、開方も公子潘を擁立して兵を率い、宮廷の右殿に陣取った。


 また、公子商人と公子元が結託し、私兵を揃えて

公子元が左殿に、公子商人は朝門に営を構えた。


 こうして四公子が喪主の地位を狙って互いに睨み合う状況となった。


 公子・雍はこの争いに加わらず、秦に出奔した。



 ほどなく、斉の国人たちは世子昭が宋へと出奔した事を知った。

斉の朝廷では次期斉君の座を巡り、公子たちの睨み合いが続く。

先君の葬儀も行われず、斉の臣は従うべき主君が不在であることから

門を閉ざして出廷しなくなった。


 この状況を国仲と高虎は憂いたが、良い解決法も見つからない。

こうして諸公子が対峙したまま、二ヵ月余が経過した。




   *     *     *




 ついに高虎が決断した。

「先君はまだ入棺されておらぬ。わしが諸公子の仲裁に入ろう」

国仲もそれに同意した。


 高虎が続いて言う。

「ただ諫めるのみでは成功しないだろう。

斉の群臣と共に朝堂に入り、公子いずれかを推戴する必要がある」


 国仲が提案した。

「後嗣は年長者を選ぶのが決まりである。ひとまず無詭を喪主としよう」


 国・高両氏は群臣を招き、葬儀に参加するよう薦めた。

百官は国氏と高氏が先頭に立つなら安心だと思い、喪服を着て入朝した。


 国仲が無詭に言った。

「人は生きている間は父母に仕え、亡くなれば葬儀を行うのが天の道です。

先君が崩御なされて67日が過ぎたのに、まだ入棺もされていない。

国君は国人全ての範であるべきだと言うのに

諸公子らの振舞いは、あまりにも礼を逸脱しております」


 無詭はそれに返す。

「先君の喪礼を行いたくないのではない。諸公子が脅威となっているせいである」


 高虎が言う。

「太子は国外に奔りました。公子が最年長です。公子が喪主となり

先君を收殮しゅうれんなさり、臣らが諸公子を抑えれば、斉は休まるでしょう」


無詭は喜び「それはわしが望む事である」と言った。


国・高氏は諸公子に武器を置き、喪服を着て宮中に入るように説得した。



 桓公の遺体は寝室に寝かされたままで、長い間放置していたため

死臭が発散して蛆が湧き、部屋の外にまで這い出していた。

先君の無惨な姿を見て、無詭も群臣一同も大哭たいこくした。


 即日、遺体は棺に納められ、無詭を喪主として葬儀が行われた。


 ようやく桓公は眠りにつく事が許されたのである。




春秋五覇の筆頭である斉の桓公は

管仲や鮑叔がいなくなると、一気にダメダメになり

病気で動けなくなると監禁され、最後は餓死させられた、というのが定説になっています。


管仲は文句なしで名宰相ですが、桓公の評価は今一つ定まりません。

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