第三十二話 韓原の戦い
作中に出てくる地名で、判明しているものは
可能な限り、カッコつけて現在の地名を併記するようにしていますが
分かっていない地域もかなりあります。
この時代は頻繁に街が建設されたり、戦争で消滅したりと
人の移動で街そのものが転移するので、同じ地名が複数個所にあったりして
ややこしい事になります。
遊牧民の場合、季節ごとに獲物を追って移動する事が普通で、本拠地が存在しない。
彼らの多くは文字を持っていないから、余計に分かりにくいのです。
* * *
管仲が病床で斉桓公に、自分の死後は易牙、豎刁、開方の三人を遠ざけ
隰朋に国政を任せるように、と言った事が易牙の耳に入った。
易牙は鮑叔牙に語った。
「仲父の命を救い、斉の相国に推薦したのは卿だと言うのに
我が君が仲父の見舞いに行った時、国政を任せるべきは隰朋だと申した。
卿はこれを聞いてどう思われるか」
「さすが仲父であるな。我が君に推薦した甲斐があった。
仲父は斉の民と社稷に仕える者。友であるわしなど念頭にない。
仲父がわしを司寇に任じたのは、わしの性向が向いているというだけじゃ」
易牙は何も言えず引き下がった。
翌日の深夜、管仲は亡くなった。
桓公は慟哭して、斉を覇者たらしめた偉大な宰相の死を嘆いた。
上卿の高虎が葬儀を行ない、封地はそのまま管仲の子に継がせた。
易牙は大夫の伯氏に言った。
「昔、我が君は卿が所有していた駢邑・三百戸を取上げて仲父に与えた。
すでに仲父は亡い。我が君に申し上げ、返還してもらっては」
伯氏は「わしは功がないから封地を失った。仲父は死しても功は残っている。
申し上げられるはずがない」と言った。
易牙は鮑叔牙や伯氏の返答を聞き
「仲父に比べ、我らの何と小さい事か」と嘆息した。
桓公は管仲の遺言に従い、隰朋に国政を任せた。
しかし、翌月には隰朋も病死した。
斉候は次に鮑叔牙を首座に据えようとしたが、牙は辞退した。
「今の斉で卿より有能な者は見当たらぬ。他に誰か心当たりがあるか」
「我が君が易牙、豎刁、開方を遠ざけて頂ければ、お受け致します」
「仲父もそう申しておった。卿に随う」
即座に桓公は三人を罷免したので、鮑叔牙は隰朋の後任を引き受けた。
周襄王6年(紀元前646年)
杞国が淮夷(淮河流域の夷狄)に侵掠されたので
杞君・成公が斉に救援を求めて来た。
桓公は宋、魯、陳、衛、鄭、許、曹の七ヵ国の諸侯軍を動員して
自ら杞国を救援すべく出陣し、淮夷を撃退した。
杞の都・雍丘は淮夷によって破壊されたので、都を縁陵に遷した。
桓公は諸侯に命じ、杞都の建設を援助した。
管仲がいなくなっても、斉はまだ従前の通り動いている。
* * *
その頃、晋では凶作が続き、民の間では連日のように餓死者が軒を連ね
晋室や大夫の領地の税収も減り、危機に陥っていた。
晋君・恵公は他国に食糧の援助を頼むことにしたが
晋は中原の諸侯国と関係が薄く、しかも領土が広くて民も多いので
支援に必要な穀物は膨大な量になる。
秦は大国で、しかも晋とは姻戚関係もあるが
これまで土地の割譲を反故にしたりと不義理を繰り返してきたので
恵公も言い出せないでいた。
大夫・郤芮が進言した。
「我が国は約束を破ったわけではなく、延長を頼んだだけです。
秦が援助を断れば、秦が先に晋との関係を絶つことになります」
続いて慶鄭が発言した。
「今の晋に食はありませんが、金や布帛、玉壁なら、まだ国庫に残っています。
これを全て払底し、秦から食を買えばよろしいかと存じます」
国庫に残っているのは希少な国宝ばかりで、恵公は嫌な顔をしたが
背に腹は代えられないと同意し、慶鄭にそれらを持たせて秦に派遣した。
* * *
秦穆公は慶鄭に引見した後、群臣を集めて協議した。
「晋は約束の五城割譲も実行していないのに、飢饉だからと言って
食料の援助を頼んできたが、どうしたものか」
まず蹇叔が進言した。
「土地の割譲を反故にした晋候の不義は許し難いですが
吝嗇な晋君が民のために希少な国宝を手放した事は徳行と言えましょう。
我が国は豊作続きで食は余っています。支援するべきでは」
公孫枝も蹇叔に賛成したが、恵公に父を殺された邳豹は反対した。
「晋が凶作であるのは晋侯が無道であるための天罰です。
この飢饉に乗じて晋を討ちましょう」
百里奚が発言した。
「施しを与える者は施しを受ける者です。
天災は巡り巡って、どこの国も避けられない事ですので
晋の天災を援助して、晋の民を救うのは天道です。
晋を救えば、秦にも恵みが回ってくるでしょう」
繇余も賛成した。
「仁者は相手の危機に乗じて利を求めず
智者は僥倖で功を得ず、と申します。
ここは援助するべきです」
最後に穆公が宣言した。
「不義は晋候であって、飢えているのは晋の民だ。
民衆に苦難を押し付けるわけにはいかぬ」
秦は食糧を支援する事に決まった。
秦による晋への食糧支援は「汎舟の役」と呼ばれ
渭水から黄河、汾水、雍水、絳水の間を進む
食糧を満載した舟の舳先と船尾が接触するほどであったという。
この膨大な食量は晋の各地へ送られ、晋国の飢饉を救った。
晋の民は秦候の恩徳に感激し、みな涙したという。
* * *
百里奚が「天災は巡り巡って」と語った通り
翌年の冬、今度は秦国が天災に見舞われてほとんど収穫がなく
逆に晋国は豊作であった。
穆公は冷至に、前年、晋から食糧の見返りに送られた国宝を持たせて
食料支援の依頼をすべく、晋へと派遣した。
この時、邳豹が言った。
「晋君は貪欲で、その近くに侍る郤芮、呂甥、虢射は豺狼の如き者です。
送って来るのは食糧ではなく、兵でしょうな」
穆公は笑って「いかな晋候も、そこまではするまい」とのみ語った。
冷至に引見した晋恵公は秦の依頼に応じ、すぐ食料を送るよう家臣に命じた。
しかし、これに郤芮が反対した。
「秦に食料をお送りになるということは、土地と城も秦に割譲されるのですか」
「わしが送るのは食料だけだ。それは関係ない」
「なぜ、秦に食料をお送りになるのでしょう」
「去年の返礼に決まっているではないか」
「我が君が帰国された時の大恩を捨て
去年の食糧支援の小恩に報いる。これは奇妙ではありますまいか」
ここで慶鄭が口を挟んだ。
「臣が去年、君命を奉じて秦へ行った時、秦君は承諾なされました。
恩を仇で返すようであれば、秦の恨みを買うでしょう」
続いて呂甥が発言した。
「秦が晋に食料を送ってきたのは五城のことがあるからです。
食料を送らなければ秦は晋を恨むでしょう。
しかし、五城を割譲しないのであれば、結局、秦は晋を恨んだままです。
ならば、送る必要もないのでは」
韓簡がそれに反論した。
「人の災いを喜ぶのは不仁なり。人の施しに背くは不義なり。
と申します。仁と義に背けば国を守る事は出来ません。支援するべきです」
虢射が進言した。
「去年、天は晋を飢饉にして秦に与えた。
秦はこれを取らず、食を与えて晋を救った。愚かな事です。
今年は秦を飢饉にして、晋に与えようとしている。
これは天意です。秦を討ち、これを取る好機ではありませんか」
恵公は虢射の意見を採用して、秦に食糧支援をしなかった。
冷至の復命を聞いた秦穆公は烈火の如く怒った。
「晋君・夷吾とその臣は犬畜生にも劣る。不義の国を討つ」
穆公は卜徒父を呼び、晋との戦について筮で占わせた。
「黄河を渡り、侯の車、転ぶ。大吉です」
「候とはわしの事ではないのか。わしの車が転んで、なぜ吉と言える」
「ここで言う候とは、兵車千乗を有する国君、つまり晋候の事です。
晋候の兵車が転べば、秦は晋君を虜とする大勝を得るでしょう。故に大吉です」
穆公は占いの結果に満足し、400乗の兵車を動員して晋に侵攻した。
中軍は穆公と百里奚、それに西乞術と白乙丙、邳豹も加わった。
右軍は公孫枝、左軍は公子・縶が率いる。
留守を守るのは穆公の世子・罃で、これを蹇叔と繇余が補佐する。
辺境の守備は孟明視である。
* * *
河西より晋の朝廷に急報が届いた。秦軍が国境を侵したとの報である。
晋恵公は群臣を集めて朝議を開いた。
「秦が理由もなく晋を攻めて来た。どう対応するべきか」
慶鄭が提言した。
「秦候が攻めて来た理由は我が君が信義に背いたからです。
今からでも食糧を支援し、河西の五城を秦に割譲しましょう」
「河西の地は先君が切り開いた土地、晋の社稷である。
それを武威に屈して譲る事は出来ぬ」
続いて郤芮が意見した。
「秦は凶作で、兵は飢えているはず。
しかも我が国の方が兵は多い。これを討つのは容易い。
ここで秦候を虜とすれば、晋は大いに盛んとなります」
恵公は同意して、晋軍を迎え撃つ準備を開始した。
晋は兵車600乗を動員し、恵公が自ら中軍を率いて
晋都・絳を出て西に向かった。
晋侯の座上する兵車を引く馬は、鄭伯が献上した「小駟」と言う馬である。
恵公が最も気に入ってる馬であったが、これに慶鄭が懸念を示した。
「戦で用いる馬は本国産という決まりです。道に慣れ、人心も心得ているからです。
小駟を用いるのは好ましくありません」
「わしはこの馬に慣れている。案ずるでない」と恵公は諫言を無視した。
秦軍は河西で連戦連勝を続けて黄河を東に渡り
韓原(現在の陝西省韓城市)に滞在した。
晋恵公は秦軍が韓原まで侵攻してきたと聞いて焦慮した。
ひとまず韓原から十里ほどの所に兵を留め、大夫の韓簡に秦軍を探らせた。
韓簡は戻って恵公に報告した。
「秦軍の兵数は我々より少数ですが、闘志は我々の三倍もあります」
「なぜ三倍だと思った」
「かつて我が君は梁へ出奔され、その後は秦の援助で晋君になられ
秦の救済で飢饉を免れました。秦より三回の恩恵を受けながら
一度もお返しをしていませんので、秦の君臣に溜まった鬱憤により
我が方の三倍する力となっております。ここは秦と講和すべきでは」
恵公は怒って
「卿まで慶鄭と同じ事を申すか。わしはあくまで秦と戦う」と強弁し
韓簡を秦軍の陣地へ使者として送った。
秦軍を率いる穆公に謁見した韓簡は
「我が君は600乗の兵車を揃え、秦侯を歓迎する準備をしております。
出来れば退いて頂きたいのですが、そうもいかないでしょう」と伝えた。
これに対し、穆公は公孫枝を送って返答した。
「せっかくの晋候の歓迎である。享受せねば失礼というもの。
公子(夷吾)が帰国したいと申したから国へ返し、食を欲すれば差し上げた。
此度は戦での歓待に応じるのみである」
韓簡は密かに呟いた。
「晋は敗れるであろう。死なずに虜囚になれば幸運である」
決戦を翌日に控え、晋恵公は郭偃に、車右を誰にすべきか占わせた。
その結果、慶鄭と出たが、恵公はこの結果を無視して
家僕徒を車右に、郤歩揚を御者に任命した。
* * *
周襄王7年(紀元前645年)9月14日
秦穆公は自ら戦鼓を敲いて進軍を開始した。
晋恵公はこれに応じ、同じく戦鼓を轟かせ、両軍は韓原で対峙する。
「晋軍はこちらより兵が多いようです。ここは慎重に行くべきでは」
と百里奚は警戒したが、穆公は反対して
「士気は当方に利がある。ここは力押しじゃ」と、積極策で行った。
晋軍の先鋒は屠岸夷で、真っ先に敵陣に突入し、秦兵を次々に屠っていく。
晋の勢いを止めるために秦軍から白乙丙が飛び出し、屠岸夷と一騎打ちになった。
屠岸夷の突進で秦軍がやや乱れたのを見て取った恵公は
韓簡と梁由靡を秦の左軍に突入させ、自らは家僕徒と共に右軍へ進撃した。
しかし、秦の右軍には猛将の公孫枝がおり
家僕徒がこれに当たるも、勝負にならない。
兵数では晋、将兵の士気で秦が上回る晋秦両軍の激戦が続くうちに
晋恵公の兵車を引く愛馬の小駟は、戦場に漲る殺気に畏れ慄いた。
ついには公孫枝の叫んだ怒声で驚き、暴走を始め
御者の郤歩揚にも制御が利かず、泥沼に嵌り込んで動けなくなった。
郤歩揚は必死で泥沼から這い出ようとするが
小駟は力が弱く、足が泥から抜け出せない。
丁度そこに慶鄭が通りかかったので「慶鄭、わしを乗せよ」と恵公が叫んだ。
「我が君は善を忘れ、徳に背き、臣下の諫言を聞かず、占いに従わず
私を車右にしませんでした。自ら敗北の道を歩んだのです」
慶鄭はそのまま去って左軍へ向かった。
その左軍では、韓簡と梁由靡が優勢に戦いを進めている。
秦穆公を守る西乞術は、韓簡の猛撃に耐えられず兵車から落ちた。
そして、梁由靡がまさに秦穆公を捕えようとしていた時に、慶鄭が現れて
「我が君が危うい。助けに行ってくれ」と叫んだ。
梁由靡はやむなく秦穆公から離れ、恵公を援けに右軍へ向かった。
ひとまず窮地を脱した穆公であるが、そこへ西乞術を放置して韓簡が襲い掛かる。
穆公もこれまでかと観念しかけた時、戦場の西から謎の一隊が乱入してきた。
数にして300人余りの一隊は、韓簡率いる晋軍に猛然と襲い掛かった。
さすがの韓簡も想定外の奇襲に防戦一方となり、その間に穆公は窮地を脱した。
やむを得ず穆公の確保を諦めた韓簡は、梁由靡を追って恵公の救助に向かう。
しかし、その時すでに晋恵公は秦軍に捕えられていたのである。
捕えたのは公孫枝であった。
晋候を失った晋軍は総崩れになり、秦軍は勢いに乗じて日没まで追撃を続けた。
600乗を数えた晋軍の兵車で、生き残ったのは3割に満たず
家僕徒、虢射、郤歩揚ら、多くの晋将も捕まり、屠岸夷は戦死した。
主君を捕えられ、戦意を失った韓簡と梁由靡は秦に降った。
慶鄭は晋君が捕えられたと聞き、戦場から脱出して晋へ帰国した。
* * *
本陣に戻った穆公は「井伯(百里奚)の忠告を無視したせいで、危うい所であった」
と疲れた表情で語った。
「ところで、戦の途中でわしを助けた謎の一隊がおった、あれは何者であろう」
穆公がそう言うと、一人の大男が現れ、穆公の前に跪いた。
「卿は件の一隊を率いた者であるな。なぜ、わしを助けた」
「かつて、我が君の愛馬が岐山の麓へ逃げた折
我らの集落に住む者がその馬を捉え、食らった事がございました。
ほどなく秦の官吏が集落へ来て、その者らを捉え、処罰しようとしました。
その時、我が君は『馬一頭のために人を害するのは君子ではない。
肉を食ったなら、酒も飲まねば体に悪い』と申され
我らに酒を振舞って釈放なさいました。
この度、秦が晋と戦うと聞いて従軍を請い、許されました。
我が君が窮地に陥ったのを見て、今こそ御恩に報いる時ぞと
全員で死力を尽くした次第でございます」
穆公は感動して、十分な褒美の品々を用意したが、彼らは受取らずに帰って行った。
与える者は与えられる、施す者は施される。
恩を仇で返す者は仇で返され、恨みを買えば身を亡ぼす。
秦の穆公と晋の恵公、まさに斯くの如し。
かくして、韓原の戦いは秦軍の勝利で終わった。
晋は主君を俘虜にされ、7割の兵を失う大敗を蒙った。
「文化の痕跡は辺境に残る」という言葉があります。
戦争の前に亀卜で吉兆を占うのは、殷王朝の時代から続く伝統ですが
春秋時代にまで時代が下ると「占いに意味はない、有利な方が勝つ」
という主張が多数を占め、廃れていきました。
まあ実際、その通りですから。
ただ、秦や楚といった、中原から離れた辺境の諸侯国では
春秋時代の初期には、殷時代の伝統がまだ残っていたようです。
これらも、中原と接触が増える事で廃れていきますが。
なお、甲骨占いは一種のゲン担ぎで
どう解釈しても吉になる、あるいは占いが必ず的中した事にするよう
巧妙に操作していました。
発掘された甲骨文字を分析すると
後で文字を書き足したり、書き直していた痕跡が判明しています。