第三十一話 晋の恵公
古代の中国では十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と
十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)をミックスさせた
六十干支で暦、一日の時間、方位・方角を表していました。
10と12の最小公倍数は60なので、60進法です。
成立は非常に古く、殷王朝の時代には既に完成されていたとか。
甲骨文字には、六十干支に基づいた祭祀の日時記録が残されています。
* * *
晋の公子・夷吾からの手紙を読んだ秦穆公は蹇叔と相談した。
「晋の公子・重耳と夷吾は共になかなかの人物と聞く。
片方を選んで入国を援助するが、卿はどちらがいいと思う」
「重耳は翟に、夷吾は梁にあり、どちらも秦に近い。
献公の弔問という名目で使者を出し、二公子を比べてみたらいかがでしょう」
穆公は公子・縶を使者にして、先ず翟に向かわせた。
公子縶は翟で重耳に会い、秦候の名で晋献公を追悼した。
挨拶が終わると、重耳は何も言わずに退出した。
縶は従者に伝言を頼んだ。
「公子が帰国を望まれるなら、我が君は援助したいと申しております」
重耳はこれを聞いて趙衰に相談した。
「公子は国内から帰国を歓迎されながら断ったのです。
他国の助けを借りて入国するのは宜しくありません」
重耳は公子縶に会って
「主命に背き、逃亡中の身に追弔を賜り、感謝しております。
親子の情だけは大切にしていますが、身分に不相応な事は考えておりません」
そう言って泣き、叩頭して退出し、自分の事は口にしなかった。
自分から帰国の事を言わず、泣いて叩頭した重耳を見て
公子縶は重耳が賢明で私心の無い人物だと感心した。
* * *
次に公子・縶は梁国の夷吾を訪ね、同様に追悼を述べた。
挨拶の後、夷吾は「大夫は秦候の命で先君のお悔やみに参られましたが
他に何か、それがしに申される事はありませんか」と尋ねた。
公子縶は重耳に言ったのと同様に
「公子が帰国を望まれるなら、我が君が援助すると申されております」と伝えた。
それを聞くと夷吾は喜び、叩頭して感謝した。
夷吾は退室して郤芮に言った。
「秦はわしの帰国を援助してくれるそうだ」
「無論、秦にも魂胆はあるでしょう。土地の割譲を約束せねばなりません」
「それは晋にとって大損ではないか」
「帰国できなければ公子は梁で仮住まいのままです。
晋の寸土を惜しむ必要はありません」
夷吾は再び公子縶に会い
「秦君のお力で帰国出来た暁には、東は虢、 南は崋山、内は梁まで
河水より西にある五つの城市を差し上げます」
と言って誓約を認め、黄金四十鎰(一鎰は約900g)と
玉の帯飾り六対を公子縶に渡した。
夷吾は自分から帰国の件を言い、笑って叩頭し、使者に賄賂を渡した。
公子縶は、夷吾は凡庸で欲深であると感じた。
* * *
秦に戻った公子縶は穆公に復命し、両公子の様子を詳細に語った。
「重耳が夷吾より賢明であるな。重耳を帰国させよう」
公子縶は反対した。「我が君は覇業を諦めるのですか」
「晋と、わしの覇業と何の関係がある」
「重耳が晋君になれば、晋は大いに栄えるでしょう。それは秦の脅威です。
夷吾であれば晋は弱くなります。これは秦にとって有利です」
「なるほど」
穆公は公孫枝に兵車三百乗を与え、夷吾を帰国させた。
穆公夫人は穆姫といい、重耳、夷吾とは腹違いの姉にあたり
晋献公の妃・賈君に育てられた才女である。
穆姫は夷吾に手紙を書いた。
「公子が無事に晋君に即位なされば、賈君を大切にして下さい。
内乱で出奔した他の公子は皆冤罪です。彼らを帰国させて下さい。
彼らはきっと晋の藩屏(はんぺいとなることでしょう」
夷吾はこの手紙を何度も読み返し、懐にしまった。
* * *
この頃、斉桓公は晋の内乱を聞いて
これを鎮圧しようと謀り、自ら高梁まで出てきた。
しかし公孫枝の率いる秦軍が公子夷吾を擁して晋に向かっており
さらには周王も大夫・王子党を晋に派遣していたので
方針を変更して隰朋を派遣し、周、秦両軍に会って
共に夷吾の君位継承を援助することにした。
里克と邳鄭は国舅・狐突に出席してもらい
百官を引き連れ、晋君の車を準備して晋国境まで迎えに出た。
公子夷吾は晋都・絳に入り、晋候に即位した。晋の恵公である。
周の襄王2年(紀元前650年)のことであった。
だが、晋の国人が晋君に望んでいたのは
重耳であったから、夷吾の即位に失望した。
恵公は長子の圉を世子に定め
狐突、虢射を上大夫、呂甥、郤芮を中大夫、屠岸夷)とがんい)を下大夫に任じた。
梁繇靡を王子党の帰国に随行させて周へ派遣し
韓簡を隰朋の帰国につけて斉へ派遣し
それぞれの協力に感謝の意を表した。
秦の公孫枝は河西の五城を受取るために晋に残ったが
晋恵公は五城を秦に割譲するのが惜しくなり、群臣と協議した。
呂甥が意見した。「我が君が秦に五城を与えると申された時は
まだ公子で、晋君ではありませんでした。
今、晋君として譲れないと申せば、秦は何も出来ないでしょう」
里克が反論した。「我が君は晋君になられたばかりです。
隣国の信頼を失うことは好ましくありません。約束を果たすべきです」
続いて郤芮が述べた。「秦に割譲する五城は晋の西半分に及びます。
これは先君・献公が大変な苦労をして手に入れた土地です。割譲は出来ません」
再び里克が反論する。「何故そんな約束を軽々にしたのか理解しかねます。
約束を破れば秦を怒らせることになりますぞ」
「割譲しなければ信を失う、割譲すれば国力を弱める。如何すべきか」
「いっそ秦に戦いを挑む覚悟で割譲を断るべきでしょう」
呂甥が最後にそう言ったので、恵公は同意し、秦への断り状を書いた。
「秦君に河西五城の割譲を約束しましたが
『その地は先君が苦難の末に築き上げたものであり
国外へ逃亡中の公子が勝手に決めた約定は認めない』
と、国内の大夫らが申しております。
晋の社稷を預かる者として、これに抗する術はありません。
秦君の御恩は決して忘れるものではございませんが
諸般の事情をご賢察の上、何卒ご猶予を頂きたく存じます」
「誰か秦へ行ってくれる者はいないか」
邳鄭が名乗り出た。恵公はこれを許した。
晋恵公は帰国する時、里克に田百万穂畝、邳鄭に田七十万畝を与える約束をしていたが
守る気などない事に気づいた邳鄭は不満を抱いている。
秦への使者を名乗り出たのは、秦君に晋候の吝嗇を訴えるためであった。
* * *
邳鄭は公孫枝に随って秦へ行き、穆公に拝謁して恵公の国書を提出した。
穆公は手紙を一読して「夷吾を晋君にしたのは過ちであった」
と激しく怒り、邳鄭を斬ろうとしたので公孫枝が止めた。
穆公は「晋君を唆したのは誰だ」と尋ねた。
邳鄭は「晋の諸大夫は秦候の恩を感じ、約束を守るべきだと申しておりますが
呂甥と郤芮が反対しています」と告げた。
さらに邳鄭は続ける。
「秦君には晋へ使者を出して頂き、両名を秦国へ呼び出して処刑した後
翟におわす公子重耳を帰国させて頂ければ
それがしと里克が晋君・夷吾を追放します。
元より、晋の国人は夷吾を歓迎しておらず、重耳を待望しておりますので」
「よかろう。わしも最初は重耳を帰国させるつもりであったのだ」
穆公は大夫の冷至を帰国する邳鄭と共に晋へ派遣した。
* * *
里克も邳鄭も、公子重耳を君主に迎えるつもりであったが
当の重耳がどうしても承諾せず、逆に夷吾は多額の賄賂を褒賞に
帰国を求めてきたので、仕方なく彼を迎えることになった。
しかし晋恵公・夷吾は即位後、褒賞の約束を反古にした。
更には秦への五城の割譲まで理由をつけて踏み倒したのである。
更には虢射、呂甥、郤芮という私臣を重用し、代々の旧臣を遠ざけた。
里克は夷吾を晋君に据えた事を後悔していたが
郤芮はそれを鋭く嗅ぎ取っており、邳鄭が秦へ使いに行った後
里克との陰謀を恐れ、彼の周囲を密かに見張っていた。
邳鄭もまた、郤芮たちに目を付けられる事を配慮して、里克に挨拶せず出発した。
里克は邳鄭と話をしようと彼を呼びに使いを送ったが
邳鄭はすでに出発した後で、里克は自ら追いかけたが間に合わなかった。
これを確認した郤芮は恵公に報告した。
「里克は汾陽の田を貰えない事で、我が君に不満を抱いています。
邳鄭が秦へ行ったのを自分で追ったのは、何かを企んでいたに違いありません。
里克と邳鄭は重耳を即位させるつもりでした。我が君の即位は本心ではありません。
ここは、後顧の憂いを絶っておくべきでは」
「里克と邳鄭にはわしの即位に功がある。どうすればよい」
「両大夫は、奚斉と卓子を弑逆し
先君の遺命を受けた荀息を自害に追い込んでいます。
我が君の帰国に功があったのは私恩です。主君弑逆の罪は公儀です」
「いいだろう。卿に任せる」
晋恵公は里克討伐を許した。
郤芮は里克の屋敷へ行き、里克に恵公の意を伝えた。
「卿がいなければ晋君になれなかった。その恩は忘れ難い。
しかし、卿は二君を弑逆し、一人の忠臣を自害に追い込んだ。
先君への大義から、卿に自死を命じると、我が君は申されました」
「豎子を迎え入れたのは我が過ちであった。泉下で荀息に謝罪して参る」
里克は剣を抜き、自刎して果てた。
* * *
里克を処分した事で、祁挙、共華、賈華、騅遄らが恵公への不満を口にした。
恵公は彼らも除こうとしたが、郤芮が諫めた。
「邳鄭が秦にいます。誅殺を行い過ぎるのは宜しくありません。
晋の乱れを口実に邳鄭が秦候を唆し、軍旅を催すかもしれません」
「わしは帰国の際、秦候夫人に、賈君の面倒を見ることと
公子たちを帰国させる事を頼まれている」
「賈君は構いませんが、公子は君位を狙うものです。帰国させてはなりません」
恵公は賈君に会いに行った。
賈君は先君・献公の妾であったから、恵公の母と言えるが、歳はそれほど違わない。
恵公は賈君を見て、その若く美しい事に驚き、淫欲の情を発した。
「わしは姉上から、あなたを悦ばせて差上げよと仰せつかったのです」
賈君は恵公に従った。
「我が君、亡き太子(申生)の冤罪を晴らしてください。
それを以て貞操を守れなかった償いとします」
「驪姫とその子が誅殺され、太子の冤罪は晴れたはず」
「故太子は形のみの葬儀しか受けておりません。
晋室の墓に移して謚号を贈れば
太子の魂魄も無事に天上へと昇るでしょう」
恵公は同意し、郤芮の従弟・郤乞を曲沃へ向かわせ、改葬させた。
最後まで父君に孝行だったので「共」と謚し、狐突を派遣して祭祀を取行った。
郤乞が申生の遺体を掘り起こすと、まるで生きているようであったが
強烈な臭気で誰も近寄れなかった。
郤乞は墓の前に香を焚き、申生の遺体に向って
「太子は生前、心身共に潔癖であられました。何故不浄になられたのでしょう。
不浄は太子に似つかわしくありません。どうか清められたまえ」
すると臭気は芳香に変った。郤乞は申生を新しい棺に納めて改葬した。
曲沃の民が尽く参列し、町は哀哭の声で覆われた。
最後に狐突が供物を持って申生の霊を祭り「晋共太子之墓」と墓碑を書いた。
* * *
改葬が済んだ日の夜、狐突は夢を見た。
葬儀が終わり、帰宅しようと車に乗り、しばらく進むと
突如、見た事もない不思議な軍勢に囲まれた。
狐突が何事かと驚き畏れていると、一人の老人が狐突の前に出て来た。
それは申生の太傅・杜原款であった。
「共太子は国舅にお伝えしたい事があり、罷り越した次第です」
狐突は呆然として、杜原款が既に亡くなっている事も忘れ
「太子は何処におられる」と聞いた。
杜原款は後ろの車を指差し、太子はあれにおわすと言うので
狐突はその車の前へ行った。
太子・申生は生前と同じ姿で、御者を下し、狐突を乗せた。
「国舅、久しいのう」と声を掛けた。
狐突は申生と再会し、涙が出た。
「太子は冤罪で自害なされ、さぞご無念であられた事でしょう」
「天帝はわしを憐れみ、こうして国舅の夢の中で再会を果たした。
晋君・夷吾は無礼である。約を違えて秦候を裏切り、里克を殺し
賈君を辱め、わしを改葬した。弟の貪婪卑劣を憎む。
それで、わしは天帝に依頼し、晋を秦に与える事にした」
「晋君の罪は深い。ですが晋の民に罪はありません。
太子が同姓を捨て、異姓に社稷を譲るは仁孝に悖ります」
「国舅の申す事も道理。では天帝に奏上する内容を変えるとしよう。
七日後、新城の西に祈祷師がいる。その者を通じて国舅に結論を伝える」
そこで狐突は目が覚めた。
七日後、狐突は城西に行くと、祈祷師がいた。
「先程、神霊のお告げがございました。共太子は再度、天帝に奏上したところ
『かの者を罰し、子孫を断絶させるが、晋の社稷と民には害を及ぼさぬ事にした。
晋は韓の地で秦に拝するであろう』と告げられたそうでございます」
狐突は、この事は決して口外してはならぬと、祈祷師に謝礼を渡して立ち去った。
* * *
狐突は晋都・絳へ戻り、邳鄭の子・邳豹と話をした。
「今の晋君は無礼が過ぎる。やはり公子重耳に帰国して頂かねば」
と話し合っていると、邳鄭が秦から帰国したと連絡があったので、豹は私邸に帰った。
邳鄭は秦の大夫・冷至と共に帰ってきた。
絳の郊外まで来た時、里克が主命で自害されたという報せが入った。
邳鄭は秦国へ引返そうかと思ったが、子の豹が絳にいるので
自分が逃げたら豹に累が及ぶと思い、躊躇していた。
その時、大夫の共華と郊外で会った。
邳鄭は里克の件について聞くと、共華は一部始終を話して聞かせた。
「都へ入るべきかどうか迷っている」
「里克と同じ考えの者はわしを含めて大勢いるが、まだ他の者に累は及んでおらん。
卿は秦に遣わされていたから、知らぬふりを通せばよい。
畏れて逃げれば里克と同罪と思われ、却って危険だ」
邳鄭はその意見に従い、そのまま絳城に入った。
先ず恵公に復命し、冷至を恵公に引き合わせた。
冷至は国書と車十乗分の贈物を恵公に献上した。
以下、国書の内容である。
晋と秦は婿舅の関係にある。五城は晋、秦どちらにあっても同じ事。
そこに住む民を不幸に陥れてまで手に入れようとするものではない。
それより、秦は他国と争い、また境を戎狄に攻められ、大いに難渋している。
御足労ながら、賢臣と名高い呂甥と郤芮に弊国まで訪問頂き
ご助言を賜りたいので、よろしくお願いしたい。
恵公は過大な贈物を見て喜び、五城を割譲せずに済んだ事に安堵して
すぐ呂甥と郤芮を秦に向かわせようと考えた。
だが、両者は不安を感じた。
「土地の割譲を反故にした事を咎めず、しかも礼物は多すぎる。
秦候の目的は我々を誘って人質にする事ではないか」
「うむ、邳鄭は秦と共謀しているかもしれぬ」
ひとまず、恵公に助言して
「晋君が即位して、まだ間がない。今しばらく余裕ができるまで待って欲しい」
と言って、冷至には帰国してもらった。
郤芮と呂甥が秦に行かず、動く様子がないので
ある夜、邳鄭は祁挙、共華、賈華、騅遄らを自宅に集めて密議を行った。
これは呂、郤の知るところとなった。
二人は腹心を邳鄭の近くに潜ませ、常時探らせていた。
郤芮と呂甥は屠岸夷を呼んだ。
「卿はかつて里克を助け、幼君の弑逆に協力した。
我が君は里克を大義の元で裁き、今度は卿を始末する気でおられる」
「それがしはどうすれば良いのか」
「邳鄭が大夫らと謀り、晋君を追放して重耳を帰国させようとしている。
卿は彼らの仲間に入り、内情を探って報告せよ。
その功をもってすれば、我が君は卿を赦すであろう」
翌日の夜、屠岸夷は邳鄭に会いに行った。
後日、邳鄭と屠岸夷を含む10名の大夫が署名した誓書を認めて
重耳を帰国させるべく、秦と翟の協力を得る運びとなった。
屠岸夷は密書を持って翟へ向かうように命じられたが
実際に向かったのは郤芮の邸であった。
郤芮は晋恵公に謁見し、密書と共に邳鄭の陰謀を報告した。
翌日、恵公は邳鄭を呼び出し、謀反の罪で捕えた。
密書に書かれた他の8人の大夫も次々と捕えられたが
ただ共華は「邳鄭に都入りを薦めたのはわしだ。彼に会わせる顔がない」
と言って捕まる前に自害した。
他の大夫は捕まった後、間もなく処刑された。
恵公は里克と邳鄭の一族を皆殺しにしようとしたが、郤芮が反対した。
「あまりに人を殺し過ぎると国が乱れ、他国の侵攻を招くかもしれません」
恵公は承知して、里克と邳鄭の一族の罪は問わないと布告した。
また、功のあった屠岸夷を下大夫から中大夫に昇進させ
邳鄭の領地である負葵の田・三十万畝を褒美として与えた。
* * *
邳鄭の子・邳豹は秦へ出奔し、秦穆公に会って一部始終を説明した。
「晋侯は秦の大恩に背き、百官は晋君に従わず、民衆は帰服していません。
晋を攻めれば必ず内部から崩壊し、秦の属国とできましょう」
秦穆公は邳豹の提案を群臣に諮った。
「邳豹の案に従って晋を攻めるという事は
臣を助けて君を討つ事になり、天道に背く行いと言えましょう」
と蹇叔が言い、続いて百里奚が発言した。
「民衆が服していないのであれば、いずれ内より異変が起きるでしょう。
それまで待つべきだと思います」
「わしも邳豹の案は性急に過ぎると思うておる。
一朝にして九人もの大夫を誅殺しながら、晋が乱れる様子はない」
結局、邳豹の案は却下された。
邳豹は秦に留めて秦の大夫に取り立てた。
晋恵公の2年、周襄王の3年(紀元前649年)のことである。
* * *
この年、周の王子・帯(襄王の弟・叔帯)は
賄賂を使って伊、雒の戎族と組み、京師(洛陽)を攻撃させた。
子叔帯が内応する約束で諸戎は王城を包囲した。
これを防衛するのは周公・孔と召伯・廖である。
王子帯は戎軍との関係を知られる事を恐れ、戎と連絡を取らなかった。
襄王は諸侯に援軍を求める急使を派遣した。
秦穆公と晋恵公が軍を率いて周の救援に向かった。
戎は諸侯の軍がやってくるのを知って東門を焼き、略奪して去った。
秦軍は京師の西、晋軍は南に陣を敷いたため
両君は顔を合わせなかったので
穆公は恵公に使いを送り、穆姫の書いた手紙を渡した。
晋侯が賈君を辱めた事、公子たちを帰国させていない事
里克と9人の大夫を処刑した事、五城の割譲を反故にした事
その他の問題点を数え上げ、速やかに非を改め
秦と晋の友好を失わないで欲しいと書いてあった。
手紙を読んだ後、晋恵公は秦軍から攻撃される事を畏れて撤兵した。
事実、秦の陣地では邳豹が穆公に晋軍への夜襲を勧めていたが
穆公は「秦も晋も勤王のためにここへ来たのだ。
私怨があってもそんなことをすべきではない」と拒否したのである。
この時、斉の桓公も管仲を周救援に派遣したが
すでに戎軍は撤退したと聞いたので、使者を送って戎主に詰問した。
戎主は斉を畏れて、王子帯との関係を白状した。
襄王は王子帯を王都から追放し、斉へ出奔した。
戎主は使者を京師に送って謝罪し、襄王もこれを許した。
襄王は自分の即位には管仲に功があった事を思い出し
今また戎と講和の労に報いるため、上卿として礼遇しようとした。
だが管仲は「斉に国、高の二卿がおりますので、お受けできません」
と言って辞退し、下卿の礼を受けて帰国した。
* * *
この冬、管仲が病に罹り、斉桓公は自ら見舞った。
「長年わしを補佐してきた寧戚も賓須無も亡くなり、今また仲父が病に倒れた。
もし仲父に何かあれば、誰に斉の政を任せれば良いであろうか」
「我が君は誰が良いと思われますか」
「鮑叔牙はどうであろう」
「鮑叔牙は君子ですが、善悪の峻別に厳しすぎます。
善を好むのは良い事ですが、悪を憎みすぎると人は耐えられなくなります」
「では隰朋はどうかの」
「悪くはございません。彼は誰の意見もよく聞き、常に国の事を考えています」
「ふむ、ところで易牙についてはどう思う」
「我が君よ、易牙、豎刁、開方の三人は絶対に近づけてはなりません」
「なぜじゃ」
「易牙は我が君を満足させるため、自分の子を蒸し焼きにしました。
豎刁は自ら去勢して我が君の近くに侍りました。
開方は衛の太子の地位を捨て、衛君が崩御しても葬儀に行きませんでした。
いずれも人の所業ではありません。
斯様な人非人を近づければ、斉は大いに乱れるでしょう」
「その三人はわしに仕えて長い。なぜ仲父は今までそれを言わなかった」
「我が君が彼らを信頼し、重用しているからです。
彼らのもたらす害悪を河水の氾濫に例えるならば
寧戚、賓須無、鮑叔、隰朋、それに臣が堤となって防いでいるのです。
すでに寧戚、賓須無は亡く、臣も長くありません。
この上、鮑叔と隰朋も去ってしまえば、もはや堤はなく
将来、斉は彼らのもたらす洪水で甚大な被害を蒙るでしょう。
繰り返しますが、あの三名は必ず遠ざけるようお願いいたします」
桓公は何も言わず帰って行った。
殷周時代の王朝は
王とは即ち神、天に代わって地を治める存在とされ
現代的な解釈をすれば、宗教団体が土地と人民を支配していました。
これは程度の差こそあれ、世界中ほとんどの地域がそうでした。
他民族との戦争は、その土地に住む者が信仰する神同士の代理戦争で
負ける事は、土地の神が亡ぶ事を意味し
神を祀る祭壇、あるいは御神体を奪われます。
信仰の対象を奪われた民族は、自分たちを滅ぼした敵の信仰を強制され
心身両面での支配を受ける事になります。




