第二十九話 孝子、妖姫より罪を蒙らる
「歴史は夜に作られる」という言葉がありますが
世界の半分は女性です。
これはいつの時代、どこの地域でも基本は変わらないでしょう。
当然、歴史に深く関わってくる女性も数多くいます。
* * *
秦穆公は百里奚を上卿に任じようとしたが、彼は断った。
「なぜ受けてくれぬ」
「臣に十倍する賢才がおります。その者を上卿に登用して戴ければ
臣はその補佐を致します」
「それは何者であるか」
「蹇叔と申す者です。かつて臣が斉にいた頃
公孫無知に仕えようとしましたが、彼は反対したので、臣は救われました。
周で王子・頽に仕えようとした時も反対し
結果、乱に巻き込まれずに済みました。
その後、臣は虞公に仕えましたが、蹇叔はこれも反対していました。
結果、虞は晋に滅ぼされ、臣は災いに遭ったのです。
彼は今、宋で隠棲しています」
穆公は百里奚に手紙を書かせ、公子・縶を宋に送った。
縶は山奥の農村にある草庵で蹇叔に出会った。
蹇叔は百里奚からの手紙を一読して
「井伯(百里奚)はようやく真の主君に巡り合えたようで、何よりです。
秦候はさらに天下の賢者を求めておいでのようですが」
「申される通りです。我が君は貴殿を上卿に登用すると」
「井伯の志を邪魔する気にはなれないが、彼に一目会いたい」
蹇叔は公子縶と共に秦へ向かった。
穆公と百里奚は秦の国境まで出向いて蹇叔を迎え
揃って秦都へ戻り、歓迎の宴を開いた。
穆公が蹇叔に尋ねた。
「秦が強国となるにはどうすべきか」
「秦は西方にあり、地形は険しく、守るに堅い。
足りないのは威徳です。威が足りないと誰も恐れません。
恩徳が足りないと誰も心を寄せません。
これでは中原に覇を称える事は難しいでしょう」
「威と徳、どちらを優先させるべきか」
「徳が基本であり、威はそれを補うものです。
徳があっても力がなければ外の侵略を受け
力が有っても徳がなければ内から崩壊するでしょう」
「徳を敷き、威を示すにはどうすべきであろう」
「秦国は戎狄の風習が残っており、周の礼法が民に行き渡っておりません。
貴賎の別、礼の規準、刑罰の徹底をよく教え
民が主君を敬い、君主は民を施し、刑罰の怖さを知るようになれば
秦は斉の如き天下に号令する国となれましょう」
穆公は蹇叔を右庶長、百里奚を左庶長に任命し
共に上卿にしたので「二相」と呼ばれた。
また、蹇叔の子、白乙丙と西乞術は大夫に封じられた。
秦は二相の政治により、法を作り、民を教化し、罰則を定め、国は豊かになった。
百里奚には妻がいた。名を杜氏と言う。
30を過ぎた頃に百里奚が遊歴に出た後、機を織って暮らしていたが
飢饉に遭って生活できなくなり、子を連れて各地を転々とした。
その後、秦に流れ着き、洗濯をして生活をしていた。
子の名は視 、字を孟明といい、狩猟や喧嘩に明け暮れる毎日であった。
百里奚が秦の宰相になり、屋敷で洗濯女を募集したので
杜氏は応募して、屋敷で毎日洗濯をしていたが、百里奚はかつての妻に気づかない。
ある日、百里奚が堂上で音楽を聴いていた。
杜氏は奏者に頼んで琴を借りて演奏しながら歌った。
五羊皮よ、別れの時を思い出す
門を焚き、薬味を搗いて、雌鶏を煮た
今富貴になりて我を忘れる
父は美肉を食らい、子は飢えに泣く
夫は綾錦、妻は洗濯女
百里奚はその歌を聴き、ようやく妻を思い出した。
妻子を屋敷に呼び、40年ぶりに家族が再会した。
百里奚の子・孟明視は秦の大夫になり
西乞術、白乙丙と並んで「秦の三帥」として秦軍を管轄した。
* * *
この頃、姜戎の吾離が秦の境を侵し、これを三帥が討伐した。
吾離は晋へ逃げ、瓜州(現在の甘粛省敦煌市)は秦の版図となった。
西戎の首領・赤斑は秦の強勢を見て
重臣の繇余を秦に派遣し、秦穆公の為人を観察させた。
穆公は繇余と共に庭園の三休台に登り、宮室の庭園の美しさを自慢した。
繇余は「これを人の手で作り上げたとは、到底信じられません」と嘆息した。
「戎夷には礼法がないと聞く。どうやって民を治めているのか」
「中原諸侯が乱れるのは、礼法こそが原因です。
上が法で民を支配しても長続きしません。
それを礼楽で誤魔化しても、いずれ上が下を苦しめる事になり
万民の怨嗟が広がって謀叛の兆しが現れます。
戎夷にはそれがありません。上は下へ素朴に接し
下は忠信を以て上に仕え、上下一体となっています。
煩瑣な法もありませんので、問題点もすぐ解決します」
翌日、穆公はその話を百里奚に語った。
「繇余は晋の賢人で、臣も彼の名はよく存じています」
「あれほどの者を戎夷の族が重用しているのは不安だ」
「内史の廖に相談されてみては」
穆公は廖を呼び出し、相談した。
「美女と楽人を赤斑に送り、繇余をしばらく秦に抑留しておきます。
戎夷の上下が相欺き、政治が乱れれば討伐など簡単です」
穆公はその案に同意し、常に食事は繇余と同席し
蹇叔、百里奚、公孫枝等を順番に同席させて戎の実態を詳しく尋ね
一方で戎夷には美しい楽人を献納した。
戎主・赤斑は大いに喜んで昼は音楽を聴き、夜は美女と同衾して
淫楽に耽り、政治を疎んずるようになった。
1年後、ようやく繇余は秦から帰国した。
赤班は、なぜこんなに帰りが遅くなったか尋ねた。
「臣は毎日、秦君に帰国の嘆願をしていましたが
どうしても返してくれませんでした」
しかし戎主は彼の言を信じなかった。
繇余は赤班が逸楽に耽って政治を疎かにしているのを見て
幾度も諌言したが、戎主は聞かなかった。
穆公は繇余に密使を送り、秦に仕えないかと伝えた。
繇余は戎を捨て、秦に帰順した。
穆公は彼を亜卿に抜擢し、二相を補佐させた。
繇余は戎を討つ案を献策し、三帥は戎へ侵攻した。
戎主赤斑は大敗して秦に降伏した。
赤斑は西戎族の領袖だったので、赤斑が秦に投降した事で
諸戎みな秦を惧れ、土地を献上して臣従して来た。
* * *
晋献公は虞、虢の二国を滅ぼし、これを併合した。
群臣たちは皆祝ったが、驪姫は面白くない。
彼女は世子・申生を虢討伐に出したかったが
里克が代行して勝ってしまい、目算が外れたからである。
驪姫はまた役者の施と相談した。
「里克は晋の重臣。どうすればいいのか」
「荀息の知恵と功績は里克に劣りません。
荀息に奚斉と卓子の傅(教育係)を頼めば対抗できるでしょう」
驪姫は献公に頼んで、荀息を奚斉、卓子の傅とした。
「荀息を味方に付けたが、里克がいる限り申生を排除できない。
どうにかして追い出さねばなるまい」
「里克の方針は前例主義です。申生を世子にしているのも長子というだけの理由。
利害を以て説明すれば、追い出せないまでも、中立の立場を取るでしょう」
驪姫は宴会の準備をして、施は里克と語らった。
「大夫には虞、虢の間を駆け巡られご苦労でございました。
大夫とご婦人の長寿を祝って、一差し舞わせて頂きます」
里克と妻の孟氏は西の席(主人は東、客は西に座るのが習わし)に坐り
施は改めて挨拶をして、酒を勧めた。
「舞の題は「暇豫」といいます。大夫がこの歌をお聞きになり
主君にお仕えになれば、永く富貴が得られるでしょう」
有閑逸楽の人生なら、鳥のほうがいい
衆みな茂木に集まるも、唯独り枯木に留まる
茂木は衆で賑わうも 枯木は斧で斃らるる
どうして枯木に留まるのか
歌い終わると里克は聞いた。
「茂った木と枯れ木とは、何を意味するのか」
「これは人に譬えています。母が夫人なれば子は君主になる。
つまり幹は太く、枝は茂り、鳥がこれに集まるのを茂った木に譬えています。
母が亡くなれば、子は誹謗を受けて災難が及ぶ。
即ち幹が揺るぎ、葉は落ち、鳥は棲まなくなります。これを枯れ木に譬えているのです」
そう言い終わると施は立ち去った。
里克は不安になった。枯れ木とは申生の事ではないかと思い
翌日、自宅に施を呼んだ。
「知っている事を話してくれ」
「大夫は世子の傅です。申し上げるのは憚られます」
「お主は災いを未然に教えてくれた。咎めるつもりはない」
「我が君は夫人の情に絆されて
太子申生を殺し、奚斉を世子に立てるおつもりです」
「止めることはできないのか」
「我が君は年老いて、寝食すら夫人なしでは出来ぬ有様。
夫人の思うがままです。我が子を世継にしたいと願うのも親の情。
また、外にあっては荀息が我が君の信頼篤いのもご承知の通り」
「いかな主命とはいえ、世子を殺すことはわしには出来ぬ。
かと言って主君に逆らう事も出来ん。どうすれば良いか」
「どちらの味方もせず、中立でいる事でしょう」
そう言うと施は帰った。
翌日、里克は大夫・邳鄭の家に行った。
「10年前、太史・蘇が卜筮で『戦に勝つが不吉である』と言った事が現実となった」
「何があったのだ」
「我が君は世子を廃嫡して奚斉を世子に立てようとしているらしい」
「それで、卿はどうするつもりだ」
「わしは中立の立場でいようと思う」
「卿は世子の傅を勤めた。今更、中立にはなれまい。
世子の寄って立つ大樹となるべきであろう」
「卿の申す通りだ。わしは佞臣に惑わされていた」
その日から里克は病気を理由に参内しなくなった。
* * *
施が復命すると驪姫は喜び、その夜、献公に言った。
「太子は曲沃に行って長くなりました。一度呼び戻しては如何でしょう」
献公は申生を呼び戻した。
申生は帰ってきて献公に挨拶をして、次いで驪姫に挨拶をした。
驪姫は表向きは歓迎の意を示した。
翌日、驪姫は申生を庭園に誘った。
驪姫は予め髪に蜜を塗っていたので、蜂や蝶が次々とその髪に集まってきた。
「太子、蜂や蝶を追っ払って頂戴」と驪姫が言うので、申生は袖で払った。
献公がこれを遠方から見ると、夫人を打擲しているように見えた。
献公は怒って申生を誅殺しようした。
驪姫は「太子は私が主君に頼んで都に戻って頂いたのです。
今、我が君が太子を処刑なさったら、人は私の差し金と思うでしょう」と反対した。
献公は申生の処刑は取りやめたが、曲沃に戻るように命じた。
数日後、献公が翟桓へ狩りに行っている間、驪姫と施は相談して
「主君は前夫人・斉姜の夢をご覧になった。
曲沃で斉姜を祀ってほしい」と曲沃に使者を出した。
申生は祭壇を設け、斉姜を祀り、献公に胙(供え物の肉)を送った。
献公はまだ狩りから帰っていなかったので
胙は宮中に保管され、その間に驪姫は肉と酒に毒を入れた。
六日後に献公が帰って来た。
驪姫は「世子は斉姜の夢を見たので、曲沃で祀ったそうです。
六日前にその胙が届きましたが、お帰りまで待っておりました」
献公が杯を取って酒を飲もうとすると、驪姫が遮った。
「外部からの酒食は試食が必要です」
「そうだな」
献公は肉を一切れ犬に食わせると、犬は死んだ。
献公は驚愕し、杯の酒を地面に垂らすと、地面が膨れ上がった。
内侍を呼び、酒を無理やり飲ませると、血を吐いて死んだ。
驪姫は泣きながら「太子は何と恐ろしい事をするのか」と叫び
酒と肉を口にして自害しようとするのを献公が制止した。
献公は烈火の如く怒り、即座に朝廷に家臣を招集した。
狐突は閉門しており、里克は病を理由に、邳鄭は他事で外出しているため
三人は欠席したが、その他は全員集まった。
献公は申生の謀反を群臣に報告した。
彼らは以前から献公が驪姫の子、奚斉を
世子にする謀略を巡らしているのを知っていたので、反論しなかった。
「太子は無道なり、臣が討伐します」と東関五が言った。
「申生は戦上手だ。用心せよ」
直ちに東関五と梁五に兵を与え、曲沃に向かわせた。
狐突は門を閉じて外には出なかったが、朝議を探らせていた。
軍を曲沃に向けると聞き、曲沃にいる太子・申生に急使を出した。
狐突からの手紙を読んだ申生は太傅・杜原款と相談した。
「胙は宮中に六日間も放置されていたのです。驪姫が毒を入れたに違いありません。
誠意と道理を以て説明すれば、必ず分かって頂けます」
「我が君は驪姫がいなければ食事も喉を通らないと聞く。
事情を説明して明らかになったとしても、それは忠でも孝でもない」
「では、他国へ亡命しましょう」
「主君を弑逆しようとした罪人を受け入れてくれる国がどこにあろう」
申生は狐突に返信を書いた。
「申生は罪人であり、敢えて生を貪ろうとは思いません。
我が君はお年を召しておられ、奚斉はまだ若く
国家は多難の時ですので、 卿に晋を託します。
申生は死しても卿の教えは忘れません」
手紙を書き終え、北面して晋献公に挨拶し、首を吊って縊死した。
翌日、曲沃に東関五の兵が到着した。
申生は自害していたので杜原款を捕えて晋都に戻り、献公に報告した。
献公は杜原款を申生の罪の証人にしようとした。
杜原款は叫んだ。「太子は無罪でございます。
臣が太子に殉じず虜囚となったのは、太子の無実を主君に訴えるためです。
胙は六日も宮中に置いてあった。その間に驪姫が毒を入れたのです」
驪姫は事が露見するのを畏れ「早く原款を殺しましょう」と献公に言った。
献公は配下に命じて、銅錘で杜原款の頭を打砕いて殺した。
晋の国人はみな申生と杜原款のために泣いた。
* * *
驪姫はその夜、また献公に訴えた。
「申生の死を私のせいにしようとしたのは重耳と夷吾に違いありません。
両者とも、きっと謀反を企んでいるはず。よくお調べください」
翌日、近臣が報告してきた。
「蒲と屈の二公子が我が君に挨拶のため、関所まで来ていましたが
太子の変を聞かれて引き返されました」
「挨拶もしないで帰るとは、驪姫の申した通りであった」
献公は寺人・勃鞮を蒲へ派遣して公子・重耳の逮捕を命じ
賈華を屈へ向け、公子・夷吾を捕えよと命じた。
狐突は公子重耳の母方の祖父に当たる。彼は次男の咎犯を呼んだ。
「太子が亡くなられた今、公子重耳が太子である。
お前は蒲へ行き、毛(狐毛(こもう、咎犯の兄)と協力して公子重耳をお守りせよ」
咎犯は父の命を受け、昼夜兼行で蒲城へ行き、重耳に会って事情を話した。
重耳は驚いて狐毛、咎犯と出奔の協議をしていると勃鞮が蒲に到着した。
蒲人は門を閉じて入れなかったが
重耳は「我が君の使者である。逆らってはならん」と命じた。
勃鞮は重耳の屋敷に入り、重耳を捕えようとした。
重耳らは庭に逃げた。勃鞮は剣を振り上げ襲ってきた。
狐毛と咎犯は先に塀を乗り越え、重耳を助けようとしたが
重耳は勃鞮に袂を掴まれ、剣で斬り付けられた。
しかし、斬られたのは袂だけで、三人は辛うじて脱出に成功した。
勃鞮は袂の切れ端を持って献公へ復命した。
後世「放浪公子」と称された晋の公氏・重耳の
19年間に及ぶ長い亡命生活は、ここから始まる。
* * *
重耳の一行は翟国に向かった。
翟は重耳の生母・狐姫の生国であり、蒲から近い。
この時、重耳は17才である。
翟君は重耳が訪れる事を予想していた。
前夜、青龍が城の上に蟠居している夢を見たからである。
晋の公子を喜んで受け入れた。
ほどなく、翟の城下に次々と車がやって来て開門を要求している。
重耳は晋からの追手かと戦の準備をした。
「我々は晋君の手の者ではありません。
公子に随従致したいと思って参ったものです」
重耳が城に登って見ると、先頭に見えるのは趙衰であった。
晋の大夫・趙夙の子である。
重耳は喜び「子余(趙衰の字)が来てくれるとは思わなかった」と城に入れた。
他に来たのは胥臣、魏犨、顛頡、介推
先軫、賈佗、壷叔など
いずれも晋の名臣ばかりであった。
重耳は驚いて「卿らは、なぜここへ来たのか」と聞いた。
「晋候は徳を失い、妖姫を盲愛し、世子を手にかけられた。
いずれ、晋に大乱が訪れるでしょう。
晋を安定に導くのは公子しかいないと思い、ここへ参ったのです」
翟君も喜び、全員を城に入れて皆に接見した。
重耳は感動して「卿らの恩は天に誓って忘れないであろう」と宣言した。
魏犨は「公子が蒲城に赴任されて数年、蒲人は皆公子のために戦う所存です。
翟君の助けを借り、晋都・絳を襲撃すれば内応者も出るはず。
それで君側の奸を除き、晋の社稷も民も安んじられます」と息巻いた。
重耳は「それは我が君に叛旗を翻す事になる」と反対した。
現在の中国は面積960万平方キロ、人口14億を超える大国です。
春秋時代はどれほどか、正確なデータは不明ですが
人口は300~600万人、面積(文明圏)は150~200万平方キロ程度と推定されます。