第二十七話 葵丘の会盟
高校の歴史教科書にも出てくる「葵丘の会盟」
斉の桓公のピークはこの時でしょう。
彼は43年の在位で9回以上も会盟を開催してるけど
葵丘の会盟だけが、やたら有名です。
* * *
周の恵王25年(紀元前652年)の冬、王は病が篤くなった。
王妃・恵后が反乱を起す気配を感じた太子・鄭は
下士の王子・虎を斉に派遣して、周都の情勢を斉候に知らせた。
ほどなく恵王は薨じた。
太子鄭は周公・孔、召伯・廖と相談して
しばらくの間、王の崩御を伏せる事にした。
王子虎が斉桓公に周王の崩御を伝えると
斉桓公は即座に諸侯を洮(現在の山東省菏沢市鄄城県)に集めた。
参加者は斉、宋、魯、衛、陳、鄭、曹、許の八ヵ国で
同時に各諸侯は自国の大夫を周へ派遣した。
斉の隰朋、宋の華秀老、魯の公孫敖、衛の寧速
陳の轅選、 鄭の人師、曹の公子・戊、許の百佗である。
諸侯の大夫たちが周都に到着した時、太子鄭は王の崩御を発表した。
周公孔と召伯廖は太子鄭を喪主に奉じ、鄭は王位に就いた。周の襄王である。
居並ぶ百官と共に、大夫たちも葬儀に参列した。
王位を窺って反乱を企てていた公子・帯(字は叔)と恵后は
八ヵ国の諸侯の後ろ盾で太子鄭が王に即位した以上
どうする事も出来なかった。
この一連を後世「洮の会盟」と呼ばれる。
周襄王は覇者・斉桓公の力で王位に就いたために
覇者が決めた者が王になれる事を示した意味で象徴的な事件であった。
* * *
周襄王は太宰の周公孔に、胙を斉侯に下賜するよ う命じ
天子推戴の功を顕彰した。
斉侯は諸侯を葵丘(現在の河南省商丘市民権県)に集めた。
葵丘へ向かう途上、管仲は桓公に提言した。
「周室は太子と庶子を明確にしていなかったので反乱が起きるところでした。
我が君も早く世子を立てておくべきです」
「わしには六人の子がいる。
長衛姫の生んだ無虧が長子だが、鄭姫の生んだ昭の方が賢い。
易牙、豎刁は無虧を世子にと勧めて来るが
わしは昭が気に入っている。仲父はどちらが良いと思う」
「公子・昭は鄭の公女・鄭姫の子。
鄭は盟下になったばかりで、斉との紐帯を強める必要があります。
また、我が君も公子昭を賢人と思われるなら、昭を世子に立てるべきです」
「無虧が年長だといって争いになったらどうする」
「此度の周王即位を我が君が支援なさったのと同様に
今回行う会盟で、最も信頼できる諸侯に公子昭を頼んでおきましょう」
桓公は同意した。
葵丘に到着すると、諸侯は集まっており、太宰の周公孔も到着した。
宋では桓公が亡くなったので、世子・茲父が新たな宋公に即位した。宋襄公である。
襄公は斉の招集命令を遵守し、君主が亡くなったばかりであるため
墨衰(喪章)をつけて会盟に参加した。
管仲は「宋の新君は君位を公子・目夷に譲ろうとしましたが
目夷は長幼の序に従い、即位を辞退したと聞き及んでいます。
宋の君臣は共に謙譲の徳を持つ君子です。
それに喪中でも会盟に参加し、斉に恭順です。
世子を託すなら宋公が良いでしょう」と桓公に語った。
桓公も納得し、管仲を宋襄公の元へ遣って意向を伝えた。
宋襄公は自ら斉侯に会いに来た。
斉侯は「わしの亡き後、斉の社稷をよろしく頼みます」と、太子昭の事を頼んだ。
襄公は斉侯の意気に感じ入り、これを了承した。
会盟の日、諸侯は身を清めて正装した。
初めに天子の使者である周公孔が登壇し、その後は順次、壇に上がった。
壇上には天子の席を設け、諸侯はそれに対し、朝見の儀に準じて
北面して叩頭の礼を行った後、席に戻る。
太宰・周公孔は胙を捧げ、東に向かって立ち、新王の命を伝えた。
「天子より斉侯に、周の祖廟に捧げし胙を下賜する」
斉侯は段を降りてこれを拝受しようとすると、太宰は遮って
「天子からのお達しにより、斉侯を労い、位を一等進めて
天子に対し、下拝(堂下に降りて拝する)の礼を免除すると下命されました」
桓公はそれに従おうとしたが
「いかに天子が申されたとしても、不敬であってはなりません」
という管仲の忠告に従って
「王命に甘んじ、臣としての分を弁えぬなど、畏れ多い事でございます
ただ、天子の臣下を思うお気持ちのみ受け取らせて頂きます」
と言って階段を下り、堂下より叩頭の礼をして、登壇し、胙を受取った。
諸侯は斉侯の礼儀に感心した。
葵丘の会盟では、五条の禁令が決められた。
一、河水の堤を破り、流れを変えてはならない
二、穀物を買い占めてはならない
三、一旦定めた世子を換えてはならない
四、妾を夫人にしてはならない
五、女性を国事に参与させてはならない
この五カ条を書き記し、犠牲の上に置き、一人一人が読み上げて
「ここに於いて諸侯は友好と平和に立ち戻る」と誓った。
これが後世に名高い、葵丘の会盟である。
覇者・斉の桓公の最盛期であった。
* * *
会盟が終わると、斉桓公は周公孔に聞いた。
「夏、殷、周三代の王は、『封禅の儀』を行ったと聞きます。
一体どんなものか周公はご存じでしょうか」
「封は泰山、禅は梁父で行います。
泰山での封は土を盛って壇を築き、玉簡に金泥で功績を書いて天を祀ります。
梁父での禅は地を掃いて祀り、蒲で車を形取り
藁で作った敷物を敷き詰めて地を祀ります。
三代の王も天命を受けて挙行し、天地の助けを得ることができました。
三朝が隆盛を誇ったのも、このお陰です」
「夏の都は安邑、商の都は亳、周の都は豊鎬
いずれも泰山、梁父から遠く離れていましたが、封も禅も行われたのですな。
泰山、梁父ともに斉の領内にあるので、天王の恩寵を頂くため
それがしも、大典を行ってみたいものです」
「斉候ならばきっと出来るでしょう」
その夜、周公孔は管仲を訪ねた。
「斉候は封禅に興味をお持ちであるが、諸侯は誰も賛成しないでしょう。
仲父が斉君をお止めするように諫言願えませんか」
「承知しました」
翌日、管仲は桓公に語った。
「我が君、封禅の儀をなさるおつもりですかな」
「ただ興味が湧いただけだ」
「封禅の儀を執り行った者は無懐氏より周成王に至るまで七十二家。
いずれも天命を受けた者です」
「わしは南は楚を討伐して召陵に至り
北は山戎を征伐して令支、孤竹を滅ぼした。
西は太行へ行き、諸侯と会合する事は九回に及び、天下を匡してきた。
天命を受けた三代の王にも劣らぬ事績ではないか。
泰山、梁父に封禅し、子孫にこれを伝え残したい」
「昔、天命を受けた方々には瑞祥が現れました。
江水と淮水の間に霊茅が生え、東海からは比目の魚が
西からは比翼の鳥が自然と集まったのです。
今は鳳凰も麒麟も来ず、代わりに梟が訪れ、霊茅の代わりに蓬が生い茂る。
この有様で封禅をしても、天下の笑い物にされましょう」
以後、桓公は封禅の事は言わなくなった。
葵丘から帰国して以来、斉桓公は傲慢さが顕著になった。
己の功は誰にも勝ると自負し、宮室の建物や生活をますます豪華にし
車や衣装を天子と同じ物にしたので、斉の国人に不平不満が出始めた。
管仲は府中に三層の豪勢な楼を築いた。
民が集まり、諸侯が集まり、四夷が帰服するという意味で「三帰の台」と称した。
管仲の親友である鮑叔牙は、これを見て訝しんだ。
「今の主君は贅沢で僭越だが、卿までがそれに契合するのか」
「我が君は35年余り、大いに刻苦し、励んで参られた。
少しは快楽を求めても構わないと思う。
わしに出来る事は、我が君への誹謗中傷を少しでも他へ向ける事」
「それも一つの方法かもしれんが、わしは反対する」
「それでよい。実直な卿がいるからこそ出来る事だ」
* * *
周公・孔は葵丘から周都へ帰る途中で
会盟に参加しようと駆けつけた晋君・献公に出遭った。
「会盟はもう終わりました」
と周公が言うと、献公は遅れた事を悔しがり、かつ斉を畏れた。
「晋は遠いので間に合わなかった。
会盟に参加しなかった事を斉候が咎めて晋に攻めて来ないか不安だ」
「畏れる必要はありません。斉侯は傲慢になっています。
月は満ちれば欠け、盆に水が満ちれば溢れる。
斉が欠け、溢れるのは、もはや時間の問題です」
これを聞いた晋献公は安心して車をまた西に返し、帰国した。
周公孔はそれを見送って呟いた。
「斉候は傲慢だが、晋侯は不義である。晋候はもうすぐ死ぬだろう。
晋は霍山を城とし、汾水・黄河・涑水・澮水を堀とし
戎・狄の民が周りを囲む広大な地を有するが
道義に背いたら誰も晋を恐れなくなる。
今、晋侯は斉の徳を確認する事なく、諸侯の形成を観察することもなく
内政を捨て、軽率に会盟に向かおうとした。
これは平常な心を失っているからだ。
君子が心を失って死なないはずがない。」
晋献公は晋に帰国した後、ほどなく崩御して
晋国は後継者争いにより、大乱になった。
斉に匹敵する中原の大国・晋の乱は、中原に動揺を及ぼす事になる。
葵丘の会盟で決められたルールのうち
「河水の堤を破り、流れを変えてはならない」というのがあります。
河水とは黄河の事ですが、この堤(堤防)を破るというのは
現代で例えると、核兵器の使用による壊滅的な被害と
その二次災害である放射能汚染みたいなものです。
実際、黄河が決壊すると、日本の倍以上の面積が水没して
何十年も人が住めず、当然、農業も出来なくなります。
衛星写真で見ると、中国大陸の水没部分が黄色くなってるのが分かるぐらい。
だから意図的に堤防を破るのは絶対するなと決められたのです。




