第二十六話 奸臣は栄えず
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陳の大夫・轅涛塗と鄭の大夫・申侯は召陵からの引き揚げに際し
「軍が通る道では、兵に食を提供せねばならん。
このまま北上すると陳、鄭の道を通るから、我らは多大な損失を蒙るだろう。
そこで一旦、東方に向かい、徐、莒を通過させよう」と相談した。
轅涛塗は桓公に進言した。
「斉候は、北は戎、南は楚を討伐なさいました。次は東夷です。
この諸侯軍の威容を見れば、東方の諸侯みな恐れ、周朝に従うでしょう」
「うむ、卿の申す通りだ」
翌日、申侯が桓公に意見した。
「軍は長期に渡って滞在しており、兵はみな疲れています。
この上、さらに東へ行けば、東夷との戦になるかもしれません。
轅涛塗の主張は上策とは申せません」
「全くである。わしは過ちを犯すところであった」
桓公は轅涛塗を捕え、申侯に虎牢の地を与えるよう鄭伯に命じた。
この処置により、申侯の私領は大いに増して
鄭伯の直轄地を凌ぐほどになったので、鄭文公は斉に不満を抱いた。
陳侯は轅涛塗を救うため、方々に賄賂を送って
斉候の機嫌を取ったため、轅涛塗は赦され、陳に帰還したが
轅涛塗は申侯の裏切りを恨んだ。
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楚成王は諸侯の兵が引揚げると、茅の貢納を止めたくなった。
屈完は「斉との盟約を破ってはなりません。周と関係が切れているのは楚だけ。
周への朝貢は私が斉君と共に参ります」と諫めた。
「わしは王で、周にも王がいる。王が二人というのは奇妙ではないか」
「周に入朝する諸侯には爵位があり、楚は子爵です。
取敢えず臣下を名乗っておきましょう」
楚王は屈完の意見に従い、彼を使者として
車10乗分の茅を、金や絹と一緒に天子に献納した。
周恵王は大いに喜んで
「楚は長らく朝貢を怠っていたが、今こうして恭順を示したのは
周の祖霊がわしを祝福したのであろう」
王は周の祖廟にこれを報告し、胙(供え物の干し肉)を楚に賜わり
「南方を鎮め、中原に侵攻する事なきよう」
と屈完に言い含め、屈完は拝跪して下がった。
屈完が帰国した後、斉桓公は隰朋を恵王の元へ派遣した。
隰朋が王に面会し、王太子にお会いしたい、と言うと
恵王の顔が曇り、次男の帯と太子の鄭を一緒に呼び出した。
隰朋は斉に帰国して桓公に復命した。「周には乱の兆しが見られます」
「何があった」
「王太子・鄭は亡くなった王后・姜氏の子です。
姜氏が亡くなった後、王妃(王后に次ぐ位) の陳嬀が王后になりました。
陳嬀の子が次男の王子・帯です。王は鄭よりも帯の方を可愛がり、太叔帯と称し
太子鄭を廃嫡して、帯を次の王に立てたいと考えておられます」
桓公は管仲を呼び出し、これについて相談した。
「幽王の乱を再び起こすわけにはいかん。何か方策はないか」
「周王に言上して、太子と諸侯を引合せるようにお願いするのです。
諸侯の前に太子が現れれば、君臣の関係は定まり、簡単には廃立出来なくなります」
桓公は管仲の案を採用し、首止(現在の河南省商丘市睢県)にて
諸侯の会盟を行うと宣言し、再び隰朋を周に派遣した。
隰朋は「諸侯は王太子にお会いして
尊王の気持ちを申し述べたいとの事です」と王に言上した。
恵王は太子鄭を諸侯の前に出したくはなかったが
斉の機嫌を損ねる訳にはいかず、話にも筋が通っている。
渋々ながら承諾し、太子鄭を首止の盟に参加させる事を認めた、
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翌年春、斉桓公は工正(建設大臣)の陳完を首止に送り
行宮を建設するように命じた。
5月、斉、宋、魯、陳、衛、鄭、許、曹の八ヵ国の諸侯が首止に集まった。
太子・鄭も行宮に入った。
太子鄭は諸侯に遠慮して主客の礼で会う事にしたが
諸侯は王太子に対し、臣下の礼を取った。
「臣等は辺土にあり、太子と対面するは王に拝謁するが如きにございます」
「諸卿、しばらくお待ち頂きたい」と太子は恐縮したが、そのまま進行した。
その夜、太子鄭は斉桓公を行宮に招き
太叔帯が王位を簒奪しようと目論んでいる事を話した。
「諸侯みな太子を次の周王に推戴する事で一致しております。
ご憂慮には及びません」と桓公が言うと、太子鄭は深く感謝した。
太子鄭は行宮にしばらく留まり、諸侯も帰ろうとせずにねぎらった。
あまり長くいては諸侯に迷惑であると言ったが、斉桓公は
「諸侯みな世子を推戴申し上げており、別れ難い気持ちです。
今は暑い盛り。涼しくなれば都までお送りいたします」
と言って、諸侯との盟約の日を秋八月吉日とした。
その頃、周恵王は太子鄭が首止からなかなか帰って来ず
斉侯を筆頭とする諸侯みな彼を推戴しているのが不愉快であった。
王は太宰の周公・孔を呼んで
「斉侯は楚を征討したことになっているが、実際には楚と戦をしておらん。
しかも楚は周に恭順を示した。もはや斉が楚より強いとは言えぬであろう。
斉が諸侯を率いて太子を推戴する意図が分からん。
そこで鄭伯に、斉を見限って楚に従くように伝えよ」
しかし周公孔は反対し、王に諌言した。
「楚が周に恭順を示したのは斉君のお蔭です。
斉候は尊王を掲げ、諸侯を率いて戎狄、蛮夷を討ちました。
王がその蛮夷と結んでは、斉候の勤王を蔑ろにする行いと申せましょう」
「斉候は王を軽視しておる。故に鄭伯はじめ諸侯を斉より離反させる」
周公孔はそれ以上は何も言わなかった。
周恵王は密書を認めて鄭伯に届けた。
数日後、鄭伯は王からの密書を受け取って目を通した。
「太子鄭は王命を聞かず、徒党を組み、私利私欲に耽っている。
これを廃嫡し、叔帯を太子にしたいと思う。
鄭国が斉を離れ楚に就けば、叔帯を補佐願い、鄭伯に国事を任せよう」
鄭文公は「先君三代(桓公、武公、荘公)は王の卿士を勤め
鄭は諸侯の領袖だったが、今の鄭は小国に甘んじている。
先代・厲公も王の復国に功労があったが重用されなかった。
今、王は国政をわしに託そうと申されておられる。喜ばしい事ではないか」
大夫・孔叔が鄭伯を諌めた。
「斉は鄭のために楚に出兵してくれたのです。
それなのに斉に背き楚に従うというのは道義に反します。
また、王太子を輔け、これを推戴するのは大義です」
「諸侯は覇者ではなく、王に従うべきではないか。
それに、王は今の太子に位を継ぐ気はないと仰せだ」
「周王を継ぐのは長子という決まりです。
幽王が伯服を、桓王が子克を、荘王が子頽を太子にした結果
どういう結末を迎えたか、我が君もご存じのはず」
ここで大夫・申侯が発言した。
「天子の命に従わない訳には参りません。
斉の盟約に従えば、王命に逆らう事になります。
太子を支持するは諸侯、つまりは外部の者。
太叔帯の支持者は内にあり、いずれが勝つかはっきりしません。
ここはしばらく様子を見るべきでは」
鄭伯は申侯の意見に従い、挨拶をせずに首止から鄭に帰国した。
斉桓公は鄭伯が無断で帰国した事を知って怒り
太子鄭を奉じて鄭国を討伐しようとしたが、管仲が止めた。
「おそらく周の誰かが鄭伯を誘ったのでしょう。
諸侯一人が欠席しても大勢に影響ありません。
まずは盟約を結ぶ方が先決。鄭の事はその後で考えればよいのです」
桓公は管仲の諫言に従い、首止の会盟を行った。
斉、宋、魯、陳、衛、許、曹の七ヵ国の諸侯で血を啜って、盟約は締結した。
儀式が終わると、太子鄭は壇を降りて拱手の礼で諸侯に感謝した。
「先王の御霊により、周室を忘れず昵懇にされておられる事
まことに心強い。諸侯の忠勤の志、決して忘れません」
諸侯は全員叩頭の礼を取った。
翌日、太子鄭は周都へ帰国した。
北狄に滅ぼされた衛国はまだ再建の途上であり
衛候は馬車を持たず、徒歩で衛都から首止に来ていた。
斉桓公は衛文公に車を与え、衛の国境まで送った。
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鄭文公は諸侯が会盟を済ませ、鄭を討とうとしていると聞いたが
楚に従う事に躊躇していた。
一方で楚成王は鄭が首止の会盟に加わらなかった事を知って
「鄭伯は楚に従属する気があるようだ」と喜び、鄭の申侯に使者を送った。
申侯は元は楚の大夫であったが、口達者で貪欲で立ち回りが上手く
楚文王の寵臣であったが、同時に文王は申侯が嫌われている事も知っていた。
文王は病に倒れた時、自分が死ねば、申侯は討たれると思ったので
財産を与えて申侯を鄭に出奔させた。
申侯は当時、檪邑にいた公子・突に仕え、たちまち取り入った。
公子突が復位して鄭厲公になると、申侯は鄭の大夫となった。
楚成王は、その申侯に使者を送って
鄭伯に対し、斉に離反して楚に付くよう勧めてくれと頼んだのである。
これに応じた申侯は鄭伯に進言した。
「斉に勝てるのは楚のみです。しかも天子に拝命されたので大義もあります。
今、楚に付かなければ、斉、楚の二国を敵に回すことになります」
鄭文公は密かに申侯を楚に送って誼を通じた。
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周恵王23年(紀元前654年)、斉桓公は諸侯軍を率いて鄭に侵攻し
鄭都・新鄭を厳重に包囲した。
この時、申侯は楚に居たので「鄭が楚に付きたいと言っているのは
楚が斉に対抗しうるからです。王が鄭をお救い下さらなければ
それがしは鄭伯に復命できません」と楚王に頼んだ。
楚王は大臣たちと鄭を救援するかについて協議した。
令尹の子文は「召陵の役で許穆公が陣中で没した時
斉候はよく配慮 したため、許は斉に忠実です。
もし、楚が許を攻めれば斉候は必ず許の救援に行くでしょう。
そうすれば鄭の包囲は解かれることになります」と提言した。
楚王は子文の意見に従い、自ら兵を率いて許城を包囲した。
斉候は許が包囲されたと聞くと、鄭の包囲を解き、許の救援に向かった。
楚はそれを見て許から撤兵した。
申侯は鄭に帰国して、これは自分の功だとして褒美を望んだが
鄭文公はすでに申侯に虎牢の地を与えているため、加増をしなかった。
申侯は鄭伯に恨みを抱いた。
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翌年春、斉侯は再び鄭に侵攻した。
陳の大夫・轅涛塗は申侯に恨みを抱いていたので
鄭の大夫・孔叔に手紙を書いた。
「申侯は以前、背信行為で斉侯に媚びて虎牢を取り
今度は鄭伯に対する背徳行為によって楚王に媚びて戦を招いた。
申侯を生かしておくと災いを招きます」
孔叔はこの手紙を鄭文公に見せた。
鄭伯は申侯を捕えて斬首し、その首を斉候に献上するよう、孔叔に命じた。
「我が君は誤って申侯の話を聞き、諸侯との友好を毀しました。
その元凶を誅しましたので、何卒お赦しを賜りますよう、お願い申し上げます」
斉侯は孔叔が賢臣であることを知っていたので鄭を赦した。
そして、諸侯を寧母(現在の山東省済寧市魚台県)に集めて会盟を行った。
これを寧母の会盟という。
鄭文公は周王に疑念を持たれる事を懸念したので
太子・華を代理に立て、寧母の盟に出席させた。
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鄭文公の嬀夫人には華と臧という二人の子があり
長男の華を世子とした。
嬀夫人が病没した後、江妃との間に公子・士が生まれ
蘇妃との間に公子・兪彌と公子・瑕が生まれた。だが兪彌は早世した。
鄭伯の賎妾に燕姞という女性がいた。
ある夜、彼女は夢を見て「わしは汝の祖先・伯鯈である。
汝に南燕の国花を授けよう」と言って、彼女に蘭の花を与えた。
目が覚めると部屋中に蘭の香りが満ちていた。
その日、鄭文公は彼女が気に入って閨に呼んだ。
燕姞は鄭伯に夢の話をすると、蘭の蕾を下賜した。
その後、彼女は懐妊して男子を産み、その子に蘭と名をつけた。
世子・華は鄭伯が多くの女を寵愛しているので
自分が廃立されるのではないかと不安になり、相国の叔詹に相談した。
「位を得られるかは天命で、子は孝行を尽くすのみです」と叔詹は言った。
孔叔に相談しても叔詹と同じ意見だった。
華の弟である公子臧は鷸の羽を集めて冠を作る趣味があり
「それは礼に反します。どうかお止めください」と師叔に咎められた。
叱られた事が気に入らず、臧は兄の華に愚痴を告げた。
太子華は叔詹、孔叔、師叔と、鄭の重臣三名に不信感を抱いた。
そんな時、鄭伯は世子華を代行として寧母の盟に出席させたのである。
世子・華は斉侯に会って話をした。
「鄭は泄氏、孔氏、子人氏(叔詹、孔叔、師叔)に牛耳られています。
我が君が首止の会盟から逃げたのは、この三氏の入れ知恵です。
もし斉侯のお力で、この三氏を除いていただければ
私が鄭君を継いだ後は、鄭は斉の属国になりましょう」といった。
桓公はその気になり、世子華の計画を管仲に話した。
「諸侯は礼と信によって斉に服しています。世子華には礼がありません。
鄭の三氏はみな賢大夫で、鄭では「三良」と言われています。
我々が彼らを害すれば、斉は諸侯からの信を失うでしょう」と反対した。
翌日、桓公は世子華を呼び「貴国の問題には干渉できぬ」と言った。
子華は怒って帰国した。
管仲は世子華が帰国するより早く
華が斉候に囁いた企みを鄭伯に伝えた。
それを知らない子華は、帰国して鄭伯に復命した。
「斉候は鄭伯みずから出席されなかった事が不満で
和解を拒絶しました。楚に頼る方がいいと思います」と偽りを言った。
鄭文公は怒って「世子は国君を偽った」と言い、世子華を幽閉した。
鄭伯は斉侯が世子華の話を信じなかった事を感謝して
孔叔を斉に派遣し、礼を述べ、改めて盟約に参加した。
今回登場した鄭の公子・蘭ですが
彼の前半生は波乱万丈です。
彼を主役にした作品は存じませんが
宮城谷昌光先生の直木賞受賞作「夏姫春秋」では
ヒロイン・夏姫の父として登場します。印象は薄いですが。