第二十四話 北狄、中原を侵す
近代以前の中国史は、基本的に北方民族との戦争の歴史です。
中国北方とは現在のモンゴルの事で
今は人口も少なく、GDPも低い小国ですが
中世までは非常に強く、中国の歴代王朝にとって、常に脅威であり続けました。
その象徴が、世界遺産にもなっている万里の長城です。
農耕民族と遊牧民族を地球規模で分断している様は圧巻です。
* * *
斉桓公は魯の国母・哀姜が邾にいると聞き、管仲に相談した。
「魯の桓公、閔公と、国君が相次いで非業に斃れたのは
斉の公女(哀姜)に因がある。これは斉魯の友好に悪影響を与えよう」
「生まれが斉でも魯に嫁げば魯人となります。責は斉ではなく魯にあります」
桓公は納得して、豎刁を邾に派遣して哀姜を魯に送り返した。
邾から哀姜を引き取り、魯へ向かう途上、豎刁は哀姜に語った。
「夫人が魯の二君の弑逆に関与した事、斉・魯に知らぬ者はいません。
魯に帰られた後、祖先を祀る太廟に、どう申し開きをなされますか」
それを聞いた哀姜は恥じて自害した。
豎刁は哀姜の遺体を納棺して、魯僖公に急報した。
僖公は亡骸となった哀姜を迎え、葬儀を執り行った。
これより8年後、魯僖公は哀姜を太廟に荘公と合葬した。
* * *
斉桓公が燕を救い、魯を安定させた事で、斉の国威は圧倒的となった。
今や、中原の諸侯で斉に傅かぬ国は皆無と言ってよく
諸侯間に難題が生じれば、まず斉の朝廷に話を持っていくのが通例となった。
桓公は管仲に全てを任せ、自身は酒と狩に興じた。
ある日、桓公が大澤の岸辺で狩りをしていた時の事である。
桓公は何かを目撃して、怖れた様子でしばらく言葉がなかった。
近侍の者が桓公に尋ねる。「我が君、どうかなされましたか」
「鬼神を見た。恐ろしい姿だったが、しばらくして消えた。不吉である」
「鬼神は陰の物といいます、日中は見えないはずです」
「先君・襄公が大猪を見られたのは昼間であった。仲父を呼べ」
桓公は狩りを中止して車を返した。
その夜、鬼神に対する不安と恐れで疥癬(感染症)を発症した。
翌日、管仲と諸大夫が大澤へ見舞いに駆けつけた。
桓公は管仲に鬼神を見たことを話したが、管仲にも正体が分からない。
桓公の病気は益々悪化していくので、家臣は心配になり
「斉君が見られた鬼神について存じている者があれば褒美を与える」
と、国中に御触れを出した。
翌日、貧しい身なりの男が現れ「私が助言します」と告げた。
管仲は彼と面会した。
「斉候は鬼神をご覧になって病気になられたそうですな」
「左様である。我が君を癒せるなら、汝にわしの財産を与えよう」
「斉君にお会い出来れば、直接お話いたします」
管仲は彼を桓公の寝室に案内した。
桓公はその男に聞いた。
「そちがわしの病を癒せるのか」
「はっきりとは申せませんが、まず、斉君の病と鬼神は関係ございません」
「鬼神はいるのか、いないのか」
「おります。委蛇という鬼神を聞いた事があります」
「委蛇とやらの姿を言ってみよ」
「大きさは車輪の如く、長さは轅ほど、紫の衣に朱の冠を被り
車の轍を通る音を特に嫌い、それを聞くと首をもたげる。
天下の覇者のみが、これを見る事を赦される、と聞きます」
桓公は叫んだ。「わしが見たのはそれである」
すると気分が晴れて病気が治った。
「そなた、名は何と申す」
「皇子と申します、斉の西鄙(西の辺境)に住む農夫です」
「わしに仕える気はないか」
「斉君が周王を尊び、民を慈しむ事のみが我が望みです。仕官は遠慮いたします」
「そなたは高士である」
桓公は彼に十分な褒美を与えて帰した。
* * *
周恵王の17年(紀元前660年)
北狄が邢国の領土を侵犯し、更に衛にも侵攻してきた。
衛懿公は使者を斉に派遣し、斉侯に急を告げた。
だが斉軍は山戎討伐で受けた被害がまだ残っているので
翌年、諸侯と連合して救援に行く事に決まった。
冬になって衛の大夫・寧速が斉に来て、斉候に告げた。
「衛は北狄に破られ、衛候が戦死しました」
桓公はこれを聞いて「早く救援に行くべきであった」と後悔した。
* * *
衛懿公は衛恵公の子で、周恵王9年(紀元前668年)に即位した。
生来の鶴好きで、政治を顧みず、鶴の飼育に熱中していたという。
鶴を好む理由は「純白で姿が美しく、良い声で鳴き、華麗に舞う」からである。
衛候は鶴を偏愛する余り、気に入った鶴を献上した者には
千金を与えるという御触れまで出したせいで
国中の民が鶴を乱獲して、野生の鶴がいなくなり
代わりに宮廷に鶴が何千羽も集まったという。
懿公は飼っている鶴に位階を授け、その鶴を飼育する者に俸禄を与えた。
外出時は鶴を組分けし、身分の高い鶴は大夫の乗る車に乗せて鶴大夫と呼んだ。
鶴の飼育費用を捻出するために重税をかけ、衛の民を苦しめた。
ある時、衛国に飢饉があったが、鶴の食事のみ気に掛けて民を憐れまなかった。
衛の国政を担っているのは石祁子と寧速で、共に賢臣と名高い。
当然ながら幾度となく懿公を諫めたが、全く聞かれなかった。
衛の公子・毀は衛の先君・恵公の庶兄であった
公子・碩が宣姜に産ませた子である。
公子毀は懿公の暴政を嘆き、このままでは衛国が滅ぶと懸念したので
斉桓公の夫人・長衛姫が衛の公女である縁を頼って斉国に出奔した。
かつて衛の国人は、太子・急子の冤罪に同情して
急子と公子・寿を殺害した恵公を憎んでいた。
急子にも寿にも子がおらず、公子碩は早世し、黔牟も既に亡い。
公子・毀は賢く、人柄も良い君子であったから人気がある。
その毀が斉へ亡命したので、懿公を恨む者が衛の国中に満ちた。
* * *
北狄は遥か昔、周の祖・古公亶父の時代に
獯鬻と呼ばれ、強勢を奮っていた。
この時、周太王(古公亶父)は危険を感じて岐の地に遷都した。
周の武王が殷を倒して天下を統一し、周朝を創始してからは
南は荊、舒を、北は狄、西は戎を討伐し、中原に安定をもたらした。
しかし周平王の東遷後、南蛮北狄が再び蠢動を始めた。
北狄の首領は瞍瞞といい、山戎が斉に滅ぼされたと聞いて怒った。
南下の準備を整えて狄兵二万で邢を攻め、これを大破した。
邢が斉へ救援を求めたと聞いて、瞍瞞は衛に移った。
その時、衛懿公は鶴を連れて郊外に出るところであったが
辺境の守備兵から狄の大軍が攻めて来たという報告を聞いて
直ちに戦の準備を始めたが、民衆は戦おうとせず、みな城外へ逃げてしまった。
懿公は司徒に命じて逃げた者を捕え、彼らに逃げた理由を聞くと、こう答えた。
「衛候は我々から食を取上げ、みな鶴に与えている。狄と戦うなら鶴をお使いください」
懿公は民の訴えを聞き、鶴を手放す事にした。
石祁子と寧速がそれを衛の国人に訴えたので
人々は少しずつ帰ってきたが、狄はすでに滎沢まで迫っているという。
「狄軍は強い。斉に救援を頼みましょう」
「衛と斉は関係が修復出来ていない。斉軍は来ないだろう」
「では臣が城外に出て狄を防ぎます。我が君は城をお守りください」
「わしが自ら出陣せねば民は信用しないだろう」
そう言うと懿公は石祁子に玉玦を渡して
「この玦は、わしに代わって命を下せる証である」
と国君代理を命じ、寧速には城を守れと命じた。
「この戦は負ける。わしが死ねば、後事は卿らに託そう」
石祁子と寧速は泣いて命令に従った。
懿公は二卿に別れを告げ、軍を率いて城外に打って出た。
将は渠孔、子伯、黄夷、孔嬰斉などである。
だが、兵は懿公に服従せず、渠孔の厳しい軍法にも従わない。
衛軍は滎沢で狄と会敵して戦ったが
狄軍は強く、衛軍は壊滅的な敗北を喫し、衛懿公も他の将もみな戦死した。
衛の太史・華龍滑と礼孔は狄の捕虜となったが
故事に詳しい二人は胡人が鬼神を信仰しているのを知っていたので
「我々は衛の太史で、神霊や祖先を祭るのが勤め。
白神の元へ行き、貴殿らの勝利を神霊に祈ります。
さもないと、衛を攻めても神霊の加護は得られません」と嘯いた。
瞍瞞は信じて二人を開放した。
華龍滑と礼孔は衛都に戻り、寧速に面会した。
「我が君は何処におられる」
「狄は強く、衛軍は全滅しました。我が君も戦死なされました。
我々は、それを報告するために戻ってまいりました」
そう言うと、礼孔は剣を首に当てて自刎した。
華龍滑も死のうとしたが、寧速に止められた。
「卿の職分は史書を後世に残す事だ」と言って城内の書庫に向かわせた。
寧速と石祁子は衛候の家族と公子・申を車に乗せ、城を出て宋に向った。
華龍滑も典籍を抱えてこれに従い、衛都の民もそれについて行った。
狄軍は衛都・朝歌へ入城し、逃げ遅れた民を殺戮し
城内にある財物を略奪し尽くした後は、衛から逃亡した流民を追撃した。
石祁子は衛公の家族を守りながら先行し
寧速が殿を勤めて狄軍の追撃を食い止め、戦いながら退いた。
しかし、同行した衛民の半数が狄軍に殺された。
黄河の畔まで来ると、宋桓公の援軍が船を用意していたので
夜のうちに黄河の対岸に渉った。
狄兵は追撃を諦めて引き揚げた。
衛の大夫・弘演は、狄が侵攻してくる前に
衛懿公の命で、陳国へ使いに行っていた。
陳から帰国すると、既に衛は壊滅していた。
弘演は滎沢に向かい、衛候の遺体を捜しに行った。
衛国の大旗が沢近くに倒れているのを見つけて
その周辺を探していると、まだ生きている者がいた。
「我が君のご遺体はどこにあるか」
彼は近くの遺体を指差して「あれがそうだ。誰かが来るのを待っていた。後は頼んだ」
そういうと、男は事切れた。
弘演は原型を留めない懿公の亡骸に拝礼し
「この身を我が君の棺としましょう」と言った。
そして従者に「わしが死んだら林の中に埋め、新君が決ったらこの事を報告せよ」
と言って自分の腹を切り、懿公の臓物を腹に収めて息絶えた。
従者は言いつけ通り弘演を林の中に埋め、宋に向かった。
宋に入った衛の遺民は漕邑(現在の河南省安陽市滑県)に着いた。
人数は720人しかいなかったが、衛の属国である共国と滕国から
合わせて約四千の民を拠出してもらい、遺民と合わせて約五千人になった。
漕邑に仮宮を建てさせ、公子申を衛君に推戴した。衛戴公である。
しかし、戴公は元々病弱で、即位後数日で亡くなってしまった。
* * *
衛戴公が没した後、寧速が斉に入り、斉桓公に謁見した。
斉に亡命している公子・毀に衛君に就いて貰うためであった。
斉桓公は公子毀の帰国を認め「衛の災禍はわしの責任でもある」
と言って、良馬一頭、祭服五揃、牛、羊、豚、鶏、犬を三百頭
魚軒(魚獣の皮で装飾した車)一乗、錦三十端(約135m)を贈った。
そして公子・無虧に命じ、戦車三百乗で公子毀を護って送り届けさせ
城門を建てるための材木を運んだ。
公子毀が漕邑に着くと、弘演の従者が待っていた。
弘演が懿公の内蔵を自らの体に収めて埋めた事を報告した。
公子毀は使者を遣わし、棺を用意して熒沢へ向かった。
そして懿公と戴公の葬儀を営んだ。
また、弘演の子を登用して、その忠義を顕彰した。
周恵王の18年(紀元前660年)冬12月の事であった。
翌年の正月、公子毀は衛君に即位した。衛の文公である。
衛民は五千、兵車は僅か30乗で、文公は民と同じ茅葺の家に住み
同じ服を着て、同じものを食べ、民と苦難を共にしたので
人々は彼を賢君と称えた。
公子無虧は狄の攻撃から漕邑を守るため、三千の兵を残して帰国した。
無虧は桓公に復命して衛の困窮した状況を報告し
合わせて弘演が懿公の臓物を自分の腹に納めた話をした。
「懿公は無道の君であったが、衛には忠臣が多い。
あの国は再び栄えるであろう」と感心した。
管仲は「守備兵を残すと、その維持に庶民に負担がかかります。
衛候に城を造ってやるほうがいいでしょう」
と進言したので、桓公も同意した。
その時、邢国の使者が来た。
「狄がまた攻めて来ました。我が国だけでは敵いません。
何卒、斉候の救援をお願い申し上げます」
桓公は管仲に訊ねた。「邢を救うべきか」
「救うべきです。諸侯が斉に従うのは有事に援けて貰いたいからです。
此度、衛を助けられず、今また邢も助ける事ができなければ、斉の覇業は挫折します」
「邢と衛、どちらを先に援けるべきだろうか」
「先ず邢からです。それから衛の城を造ります」
桓公は承知して、宋、魯、曹、邾の各国に使者を向かわせ
聶北に集合して邢を救おうと呼びかけた。
管仲が桓公に再び建策した。
「狄の勢いは盛んですが、邢もまだ余力があります。
ここはしばらく待った方がいいでしょう。
邢と狄が疲れ切った頃合いを狙って狄を攻撃し、邢を助けるのです」
桓公はこの策を採用した。
宋、曹の軍は到着したが、魯と邾の軍はまだ来ないので
その到着を待つという名目で聶北に留まり
邢、狄の情勢を見守りつつ、2ヶ月が経過した。
その間、狄軍は昼夜を問わず邢を攻め続けた。
邢の人々は力尽き、包囲を破って諸侯軍の陣営に逃げて来た。
その一人は邢侯であった。
桓公は「救援が遅れたのはわしの責任である。すぐ狄を攻めよう」
と言い、即日、全軍が進発した。
狄の瞍瞞はすでに邢を略奪し尽くしていたので
斉、宋、曹の軍勢が来ると聞くと、北へ帰って行った。
諸侯軍が邢都に到着した時、狄兵はすでに退却していた。
桓公は先ず火事の消火を命じ、それから邢侯に今後の方策を尋ねた。
「邢民は大半が夷儀(現在の山東省聊城市)に避難しており
夷儀に遷都するつもりです」
諸侯軍は夷儀に築城して、太廟も建立し、食糧や家畜を斉から運び込んだ。
邢国の君臣は喜び、斉候に感謝した。
邢の事が終わると、次に諸侯軍は衛へ向かった。
衛文公は遠くまで来て諸侯を出迎えた。服装は庶民と同じである。
「貴国のために都城を建設に参った。どこに造ればよいであろう」
「占いの結果、楚丘に決まったのですが
我が国は貧しく、費用がないので手掛けないままです」
「我々が建設しよう、安心なされよ」
斉、宋、曹の兵は楚丘へ行き、工事を始めた。
都城を築き、太廟を再建し、これを封衛と名付けた。
衛文公は諸侯に深く感謝して「木瓜」という詩を詠んだという。
我に投ずるに木瓜を以てす これに報いるに瓊琚を以てせん
我に投ずるに木桃を以てす これに報いるに瓊瑶を以てせん
我に投ずるに木李を以てす これに報いるに瓊玖を以てせん
斉桓公は、僖公を擁立して魯国を救い、夷儀に城を建て邢国を復国させ
楚丘に城を建て衛国を復国させた。
この三功が、斉の桓公が春秋五覇の筆頭に称えられる所以である。
衛の文公は、一度亡んだ衛国を復興させた
歴代君主でも上位に入る名君ですが
後年、致命的なミスを犯し、これが彼の子や孫への負債となりました。
そのミスについては後に本編で書かれます。




