第二十三話 魯国の乱
この時代は人の命が軽いというか、みんなあっさり死にます。
ちょっと天候不順などで食糧が足りなくなれば
割と容易く、北斗の拳のような世紀末状態になります。
だから管仲のような偉い人は、人民の衣食住を何よりも優先させました。
食の確保で重要なのは、生産量よりも流通網の整備だとか。
これが劇的に改善されて人口が急増したのが、産業革命以降の世界。
ノーフォーク農法よりも冷凍庫、冷蔵庫の普及の方が影響大きいそうで。
* * *
魯荘公の庶子に公子・慶父、字は仲という者がおり
その弟は公子・牙、字は叔である。
荘公の弟に公子・友がおり、字が季なので季友とも呼ばれる。
慶父、牙、友の三公子の中では
季友が優れた賢臣とされ、荘公に最も信頼されていた。
かつて、荘公が魯候に即位して3年目に
党氏の娘・孟任を見初めた事があった。
彼女を妻にしたいと思い、魯候が自ら求婚したが、断られたという。
「国君の妻であっても、妾になりたくはございません」
「汝がわしの妻になれば、夫人にしよう」
「それが偽りでなければ、私と誓約を交わして下さい」
孟任は自身の胸に傷をつけ、その血を互いに啜って誓いを交わした。
翌年、孟任は荘公の男子を生んだ。名を般とつけた。
荘公は孟任を正夫人に、般を嫡子にしようとしたが、母の文姜が許さなかった。
文姜は兄である斉襄公の娘を荘公の正夫人にしたかったからである。
この娘はまだ生まれたばかりであるため、20年後の婚約を交わした。
そのため、孟任は夫人になれなかったが
20年の間、内宮を取り仕切って、事実上の正夫人であった。
そして20年が経って、斉襄公の娘・哀姜が魯荘公に嫁ぎ、正夫人となった。
ほどなく孟任は病没した。葬儀は側室の礼に則ったが
荘公の生母・文姜が没した後、孟任の子・般を嫡子に定めた。
哀姜には子が生まれず、哀姜の妹・叔姜に男子・啓が生まれた。
荘公の側室の一人に須句国の公女・風氏がいて、男子・申を産んだ。
風氏は申を魯の世子にしたいと思い、季友に頼んだが
「嫡子は長男の般に定まっている。これを変更すると国が乱れる」
と言って断った。
一方、哀姜は正夫人だが、荘公の寵愛を受けていない。
哀姜の父である斉襄公は、荘公にとって父の仇だからである。
そのため、外面はどうあれ、本心から愛する事が出来ない。
公子・慶父は雄大な体躯を持つ偉丈夫である。
哀姜はこれを見初めて、慶父と不義を交わした。
主君の正夫人に気に入られた慶父は野心を抱き
次の魯君になろうと画策を始めた。
そこで弟の公子・叔を、将来の宰相にすると約束して結託した。
* * *
周恵王の14年(紀元前663年)冬、魯荘公は雨乞いの儀式を行った。
それに先立って、魯の大夫・梁氏の庭で舞楽が行われた。
梁氏には梁女という美しい娘があり、世子・般と交際している。
般は自分が魯君になれば、梁女を正夫人にすると約束していた。
舞楽で梁女が舞っている様子を、馬飼いの犖が見惚れていた。
般はそれを見つけると、腹が立ったので犖を鞭で打った。
犖はこの事を深く恨み、般に復讐するため、公子・慶父の家臣になった。
翌、周恵王の15年(紀元前662年)秋8月
魯荘公は重篤に陥り、枕元に公子・牙を呼び、次の魯君について尋ねた。
「慶父は君子です。彼が魯君になれば、魯は大いに栄えるでしょう」
牙を下がらせ、次に季友を呼んで、同じ質問をした。
「嫡子はすでに般に定まっています。これを変更する事は出来ません」
「牙は慶父を薦めている。卿はどう思う」
「慶父は暴虐な男。牙と慶父は結託しています。信用なりません」
荘公は季友に毒の入った酒を渡し、公子牙を殺害せよと命じた。
季友は自邸に公子牙を招き、その毒酒を飲ませて殺した。
翌日、魯荘公は崩御した。
季友は嫡子の般を喪主として魯候の葬儀を執り行った。
崩御した国君の葬儀で喪主になるのは、次期国君の証である。
般が魯君に即位した翌月、外祖父の党臣が病没したので
魯候・般は党臣の葬儀に参列した。
密かに魯候の地位を狙う公子慶父は馬飼いの犖を党臣の邸に向かわせた。
犖は深夜、屋敷の中に潜入して、寝室で寝ている魯候・般を刺殺した。
翌日、公子慶父は証拠隠滅のため、主君弑逆の罪で犖を処刑した。
魯候・般が弑逆された事を知った季友は危険を感じて陳へ亡命した。
空席となった魯君に誰が就くか、魯の大夫で話し合った。
「先君・荘公の子では公子慶父が年長者。慶父が良い」
しかし慶父は「それがしには魯君としての徳が足りません」と遠慮した。
実際は、慶父は誰よりも魯君の地位を望んでいるが
主君弑逆の疑惑の目を向けられているので慎重になったのである。
「荘公の子はもう二人いる。公子・申と公子・啓だが、どちらを魯君にすべきか」
「公子啓は叔姜の子で身分が高い。公子啓にしよう」
「わずかな間に魯君が2人も亡くなられ、魯の国情は不安定だ。後ろ盾がほしい」
「公子啓の外甥に当たる斉候にお願いしよう」
魯候・般の喪を発し、公子・慶父は報告のために斉へ向かった。
* * *
慶父は斉桓公の寵臣・豎刁に賄賂を贈って
斉桓公から公子・啓を魯候とする承認を得た。
こうして公子・啓が魯君に即位した。魯の閔公である。
この時、魯閔公はまだ8歳で、国政は兄の慶父が行う事になったが
慶父は傲慢な態度を隠す事なく、魯君は常に不安であった。
閔公は斉に使者を送り、落姑の地で斉桓公と面会して
公子慶父の専横と先君の弑逆事件を話した。
「今、魯国の大夫で最も優秀な者は誰か」
「叔父の季友が才徳兼備の賢人ですが、陳国に出奔しております」
「では季友を陳より呼び戻してはどうか」
「慶父に害される事を警戒しています。戻らないでしょう」
「それなら、わしが貴君に命じた事にしよう」
魯候は斉桓公の命という事で使者を陳に派遣し、季友を呼び戻した。
閔公は郎へ向かい、季友と共に帰国し、彼を相国に任じた。
権限を削られた公子慶父は面白くない。
しばらく経ってから斉桓公は大夫の仲孫湫を魯へ送った。
まだ幼い魯君が心配だったのと、公子慶父の動静を調べるためである。
閔公は仲孫湫と会って喜び、現在の魯について季友、申と共に話し合った。
仲孫湫は彼らと会話を交わし、公子・申は優れた人物と感じたので
「なるべく早いうちに慶父を処分し、季友と申が魯君を支えるべきです」
季友は「公子慶父の勢力は大きく、我々だけでは難しいでしょう」と答えた。
「必要とあれば、斉が協力しましょう。斉君にも伝えておきます」
その後、仲孫湫は慶父と面会した。
慶父は仲孫湫の機嫌を取るため、多くの贈物を渡した。
仲孫湫は慶父の下心を感じて不愉快になったので
「卿が魯の社稷に尽くすのであれば、贈物は私ではなく、斉君に贈られるべきです」
と言って受け取らなかった。慶父は恥じ入った。
仲孫湫は帰国して斉桓公に復命した。
「公子・慶父を除かない限り、魯は治まらないでしょう」
「では、魯に出兵するか」
「出師には大義名分が必要です。今はまだ慶父に落ち度はありません。
ですが、いずれ魯に異変が起きるでしょう。その時に動けばいいと思います」
「なるほど」
年が明けたが、公子慶父は今なお簒奪を目論み続けている。
だが公子・季友と公子・申が魯閔公を補佐しており、付け入る隙がない。
ある日、魯の大夫・卜齮が慶父の私邸を尋ねた。
彼は怒りながら慶父に事情を話した。
「私の土地は太傅(魯候の教育係)・慎不害の領地の近くにありますが
それを彼に奪われたのです。魯候に訴えても太傅の味方をします。
そこで公子のお力に縋りに参りました」
「我が君はまだ九歳、太傅の言いなりだ。訴えるだけ徒労である。
もし、卿に覚悟があるなら、わしが慎不害を除こう」
「ですが、慎不害の近くには相国の季友がいます」
「ならば、わしが魯君になって季友を除いてやろう。
汝がわしに協力するなら、慎不害と季友の土地を与えよう」
「公子は、魯候を弑するのですか」
「わしは元から魯君となる事を国母(哀姜)より約束されている。
その時期が訪れただけの事。畏れる事はない」
* * *
魯閔公はまだ子供で、遊びたい盛りである。
深夜に街へ遊びに出ている事を慶父は知っていた。
卜齮は、魯候が宮門を出た隙を狙って、閔公を刺殺した。
慶父は私兵を率いて慎不害の私邸に向かい、彼を殺した。
翌朝、変事を知った季友と申は邾国へ出奔した。
邪魔者を全て排除した慶父は魯候に即位しようとしたが
魯の国人はみな相国の季友を敬っていたので
魯侯が弑され、相国が亡命したと聞き、卜齮と慶父を憎んだ。
魯の国人は団結して卜齮の邸を襲撃し、彼の一族を皆殺しにした。
それを見た慶父は恐れて莒国へ亡命した。
莒はかつて斉桓公が、まだ公子・小白だった頃に亡命した国である。
つまり斉候は莒に恩があるので
莒を通じて斉に取り成して貰えると思ったのである。
魯の国母・哀姜は慶父が莒へ逃げたと聞き、自分も莒へ行こうと思ったが
慶父との関係で国人の怒りを買っているため
季友と公子申のいる邾へ出奔した。
邾で哀姜は季友に会おうとしたが、季友は面会を拒否した。
季友は慶父も哀姜も出奔した事を知ると、公子・申を魯に帰国させ
同時に斉に使者を出して、事件の顛末を報告した。
季友からの報せを聞いた斉桓公は管仲に相談した。
「今、魯には国君がいない。これを攻め取るべきではないか」
「魯は周公を国祖とする、礼を重んじる国です。
魯の国人が斉に従うとは思えません。取る事は叶わないでしょう」
「どうするべきであろう」
「公子申が魯に帰国しました。彼は国事に明るいので、魯君になるべきです。
季友は魯の民に支持されていますから、公子申を良く補佐するでしょう」
桓公は兵三千と上卿の高傒を魯に派遣して
公子申に国主の能力が有れば、魯君に就けて斉と魯の友好を図り
能力なしと判断すれば、魯を掠めよ、と命じた。
* * *
高傒は命を受けて魯に到着する頃、公子申と季友も邾から帰国した。
公子申を観察すると、優れた人物だったので
季友と共に魯へ向かい、公子申を魯候に擁立した。魯の僖公である。
季友は公子・奚斯を斉へ派遣して、斉桓公へ謝辞を述べた。
また莒にも使者を派遣し、慶父の誅殺を依頼した。
莒の君主は慶父が入国した時に魯の宝器を受け取っていたので
慶父を優遇していたが、魯の使者から贈物を受け取り、莒君は慶父を追放した。
慶父は斉に向かったが、入国は許されなかった。
代わりに汶水の畔に仮寓を許されたので、そこに住んだ。
そこへ斉から魯へ帰国する公子・奚斯が通りがかって慶父に会った。
慶父は「魯君と季友に取り成して、帰国させて貰えぬか」と頼んだ。
奚斯は魯に帰って復命し、慶父の事も話した。
魯僖公は慶父を赦そうかと思ったが、季友が反対した。
「慶父は主君を弑逆した大罪人。誅殺せねばなりません」
「だが、慶父がもし自裁すれば、彼の祭祀は絶やさないようにする」
と奚斯に言い含め、再び慶父の元へ向かわせた。
公子奚斯は命令を受けて、再び汶水へ行った。
慶父は「わしは赦されなかったか」と嘆いて自害した。
奚斯は慶父を入棺し、僖公に報告すると
僖公は兄の死を悲しんだ。
間もなく、莒君の弟・贏拏が兵を率いて魯の国境に迫った。
慶父が死んだと聞いて謝礼の追加を要求しているという。
「莒君は慶父を追放しただけではないか」
季友は怒り、莒を討つべしと魯侯に進言した。
魯僖公は身に着けていた短刀を季友に授け、戦勝を祈った。
季友は感謝し、これを懐に入れて出陣した。
季友の子、行父はまだ8歳だが、父の兵車に同乗した。
* * *
季友の率いる魯軍は酈まで進むと、莒の公子・贏拏が待っていた。
戦闘が始まり、季友と贏拏は共に軍の先陣を切って突撃して
両者とも兵車を降りて一騎打ちとなった。
徐々に贏拏が優勢になってきたので、行父が叫んだ。
「父上、短刀を」
季友は隙を突いて僖公から拝領した短刀を一振りすると
贏拏は頭部を切り裂かれて絶命した。
将が倒された莒軍は崩壊し、兵は戦場から逃亡した。
季友は追撃せず、自軍をまとめて帰国した。
魯僖公は自ら郊外まで出て季友を出迎えた。
季友を上相にして費邑を封地として与えると言ったが、季友は固辞した。
「臣、慶父、牙は共に魯桓公の孫ですが
魯の社稷のためとはいえ、私は二人の身内を殺しました。
今、臣だけが栄爵に浴し、大邑を貪っては
黄泉で先君に会わせる顔がございません」
「慶父と牙は謀反人。気にする事はあるまい」
「彼らは実際に謀叛を行ったわけではありませんし
彼らの家族に罪はありません。
親族の誼で、彼らの家の存続を図りたいと存じます」
魯僖公は季友の意見に従って
公孫敖に慶父の地位を継がせ、孟孫氏とした。
本来は慶父の字・仲をとって仲孫氏であったが、慶父の悪名を嫌って
孟氏と改名したのである。封地は成である。
公孫茲に牙を継がせ
牙の字・叔を取って叔孫氏とした。封地は郈である。
季友の封地は費で汶陽の地を加増され、季孫氏となった。
こうして、孟孫、叔孫、季孫の三氏族が誕生して
この三氏は後世「魯の三桓氏」と呼ばれた。
この日、魯の南門が理由もなく自然に倒壊したという。
これは後に魯の三桓氏が魯公室を凌駕し
国を壟断する下剋上の予兆であったのかもしれない。
魯の三桓氏は、これより150年ほど時代が下った頃
孔子の時代に全盛期を迎え、魯を完全に支配します。
孔子は、下剋上の風潮と身分秩序の崩壊を嘆き
天下を放浪し、「論語」を著し、多くの優れた弟子を育て
後に儒教の始祖となります。




