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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第二十二話 斉の桓公、山戎を討伐する

春秋時代までの中国人は、世界は正方形だと信じていたようで

土地の広さを「方〇〇里」と表現していました。


例えば方百里とは、正方形の一辺が百里(約40.5km)という意味で

面積にすると約1640平方キロメートル。

岐阜県高山市(2177.61平方キロメートル)より狭く

静岡県浜松市(1558.06平方キロメートル)より広い程度。




         *     *     *




 春秋時代に南燕、北燕という、燕の名を持つ2つの国があった。


このうち南燕国は現在の河南省新郷市延津県にあり

爵位は伯、姓はきつで、黄帝の末裔・伯鯈はくゆうを国祖とする。


南燕の南には鄭国があり、両国はしばしば衝突を繰り返してきたが

周恵王3年(紀元前674年)、鄭の9代君主・厲公は

南燕の国君・仲父を捕らえ、南燕は滅び、その社稷は絶えた。


 一方、北燕は中原から北方へ遠く離れた地にあって

そこは現在の河北省、中国の首都・北京市である。


南燕が春秋初期に歴史から姿を消した事もあって

春秋戦国時代の燕国は、一般に北燕の事を指す。



 周恵王の13年(紀元前664年)、斉都に燕国からの使者が来た。

燕は今、山戎さんじゅうの侵攻に晒されており

天下を統べる斉候の援けを求める燕候からの依頼であった。


管仲は「将来、南方の楚を討つのであれば

先ず、北方の戎を平定しておかねばなりません。

北方の安全を確保すれば南方経略に専念できます。

これは山戎を討伐する好機。燕を援助するべきです」と進言した。



 山戎は北戎の同族で、本拠地は令支れいし(現在の河北省遷安市)にあり

西は燕、南は斉、魯と境を接する。

険しい山岳が天然の要害をなし、兵は精強にして、周に入朝せず

独立不羈どくりつふきを貫く山岳民族であるが、土地は痩せており

微かな天候の不順で食が底をつく度に中原へと侵攻し、掠奪を行う。


 40年ほど前、斉に侵攻した時は、鄭の世子・こつ(鄭の昭公)に敗れたが

今、万を超す兵を率いて燕の国境を侵してきたのである。


 燕君・荘公は、単独でこれを討つのは無理と判断して

斉へと使者を出し、救援を求めたところである。


管仲は斉桓公に「南の楚、北の狄、西の戎は

いずれも周朝の外敵。この脅威を取り除くのは覇者の責務です」と述べた。



 桓公は兵を率いて燕に向かった。

進軍途中、済水を越えたところで魯荘公と遭遇した。

魯候は斉が燕を救援すべく山戎を討伐すると聞き、協力を申し出た。

「山戎の侵攻は燕国のみならず、弊国にとっても重大事。

斉候が北を平定するのであれば、微力ながら共に戦います」


「北への道は険しく、山戎の兵は精強と聞きます。

魯候の申し出は有難いですが、斉が苦境に陥った時に

改めて支援をお願いします」と、丁重に断った。



 山戎の主は令支の国君で、燕の国境を蹂躙じゅうりんし続けているが

燕は堅く城門を閉ざし、目立った成果は上がっていない。


だが城外の農作物や家畜、子女等は根こそぎ奪い取った。


やがて、斉桓公の率いる大軍が近づいていると聞き、令支君は北方へ去った。



 斉軍は燕都・薊(現在の北京市)に到着した。


燕荘公が斉桓公を出迎え、援軍に深く感謝した。

「山戎は斉軍の到来を聞き、畏れて退きました」


 管仲は「我らが帰国すれば、奴らは再び燕都を襲うでしょう。

この機会に山戎を完膚なきまでに討滅し、後顧の憂いを絶つべきです」と言った。


 桓公はこの進言に同意し、山戎を討伐する事に決まった。


 燕荘公は自ら先鋒を願い出たが、桓公は

「燕兵は連日戦い続け、疲れている。後方で構いません」と言った。


「お心遣い感謝します。この先を八十里(約33km)ほど進むと

無終むしゅう国(現在の天津市薊県)があります。

戎族の一派ですが山戎には属していません。

地形に詳しいので、道案内をさせればいいと思います」


桓公はその提案を受け、隰朋しゅうほうに十分な贈物を持たせて無終へ行かせた。




         *     *     *




 中原の覇者・斉桓公の噂は無終国にも聞こえている。


隰朋の訪問を受けた無終の君主は斉軍の依頼を快諾して二千の兵を派遣した。

桓公は感謝して、さらに礼物を贈った。



 二百里ほど進むと、いよいよ山道が険しくなった。

斉、燕の軍勢は葵茲きじの地で3日の休憩を取った。



 令支の君主は斉軍が攻めて来ると聞き、家臣に対策を尋ねた。

「敵は長途の遠征で疲れています。奇襲すれば容易く勝てましょう」

この案を採用し、兵三千を山中の各所に伏せ、斉軍を待った。


 最初に斉軍の先鋒が令支軍と戦ったが

伏兵により軍を分断され、斉軍は初戦で敗れた。


斉桓公の本隊が到着して令支の軍は退却したが、被害は大きかった。

敗兵をまとめ、しばらく休憩を取ると

斉軍はさらに東へ三十里進軍し、伏龍山の麓に砦を築いた。



 初戦での勝利に気分を良くした令支君は

一万を超える軍勢を率いて斉軍に戦いを挑んだ。


斉軍は兵車を並べて守りを固め、令支軍の襲撃を防いだ。


午後になると戎兵に疲れが見えたので、前日敗れた先鋒が突撃した。

雪辱に燃える先鋒の将による猛攻が功を奏して

二度目の戦いでは、令支軍が斉軍に大敗した。



 本拠地に逃げ戻った令支君は

友好国の孤竹こちく国(現在の河北省唐山市)へ援軍の使者を送り

援軍が到着するまでの時間を稼ぐため

斉軍の進路に堀を築き、進路を塞いだ。


 道が塞がれているのを見た斉桓公は別の道を探した。

無終国の兵が迂回する道を知っていたので

兵の半数を迂回路へ向かわせた。


 この頃、斉の軍中に水がなくなり、兵士が渇きに苦しんだ。

桓公は、水を見つけた者には重賞を与えると命じた。

「蟻の巣穴のあるところには水源があるそうです」と隰朋が言うので

兵士たちに探させると、山腹に水の湧き出る泉を発見した。

「隰朋は聖人である」と桓公は感嘆し、その泉を聖泉と名づけ

伏龍山を龍泉山 と改名した。



 斉軍は令支兵の掘った堀を深夜のうちに埋め、令支の都城を夜襲した。

油断していた令支君は大敗し、孤竹国へ落ち延びた。

斉軍は追撃したが山道が険しく、追い付けなかった。


 主君を失った令支国は降伏した。

斉軍は山戎が燕から略奪した家畜や子女、武器を全て取り戻した。


 桓公は投降した戎人に尋ねた。「令支君はどこへ逃げたか分かるか」

「隣国の孤竹国だと思います。長年、友好を結んでおりますから」

「孤竹国とはどのような国であるか」

「東南の方向にあり、いんの時代から城郭を備えていた歴史ある国です。

ここから百里ほど行くと卑耳ひじという谷があり、そこを越えれば孤竹国に至ります。

しかし山道は険しく、進軍は大変です」


桓公は「ここまで来れば、孤竹国も討伐せねばなるまい」と決断した。




       *     *     *




 一方、令支君は孤竹国に辿り着き、国君に面会した。

「斉が我が国を侵しました。貴国の援助を頂きたい」

「斉軍はここにも侵攻してくるはず。承知した」


「卑耳谷は深く、流れも速い。いかだがなければ渡る事は出来ない。

斉軍が諦めて引揚げるのを追撃すれば勝てよう」


孤竹の将が進言した。

「敵が筏を作って渡って来るかもしれません。

渓口けいこうに兵を置き、見張っておくべきです」


「斉軍が筏を作っていれば、すぐ分かるだろう」

孤竹君は進言を却下した。



 斉桓公は軍を進めたが、険阻な道が続いて難航した。

やがて、孤竹の君主が難所とたのむ卑耳谷に差し掛かったが

斉軍は膝ほどの深さしかない浅瀬の箇所を見つけ、難なく通過した。


燕荘公はそれを見て「卑耳谷は筏がなければ渡れないと聞いていたが

斉候には天意があるのか」と驚き畏れた。



 孤竹の君主は斉軍がすでに接近しているのを知って驚き

自ら兵を率いて迎え撃ったが、兵力差は大きく、斉軍に敗れた。


孤竹の将は密かに令支国の君主を斬り、その首を携えて斉に投降した。

令支国は滅亡した。


 斉軍は孤竹の都城を落とし、孤竹の君主は北方の旱海かんかいという荒地に逃亡した。

桓公は、燕荘公に孤竹の城の留守を任せて

自らは孤竹の君を追うべく、斉軍を率いて旱海へ向かった。


 だが斉軍は旱海で道に迷い、その間に孤竹の君主は

残存兵を集め、燕荘公が僅かな兵で守る城を攻撃し

これを陥として都城を奪還した。


 燕候は孤竹の兵、数名と共に城から脱出して

旱海へ向かい、桓公と合流し、城が奪われた事を伝えた。

孤竹の兵による案内で、斉軍は旱海から脱出した。


 斉軍は孤竹の城を攻めて再度これを陥とし

孤竹の君主を捕え、その首を刎ねた。


令支に続き、孤竹国も滅んだ。




    *     *     *




 斉、燕の連合軍は北戎の二国を滅ぼして

方五百里に及ぶ広大な山戎の勢力を中原から駆逐させ

斉桓公はこの地を燕の領土とするように燕候に伝えた。


 燕荘公は驚き「斉候の尽力により、燕の社稷は守られました。

それだけでも十分なのに、この上、斯様に広大な地など

とても受け取る事は出来ません。どうか斉国の地になさってください」


 斉桓公は「斉から山戎は飛び地で、これを良く治めるのは難しい。

この地に住む民の為にも、燕候が統治した方が宜しいでしょう」


 荘公もそれ以上は断れず、斉桓公に深く感謝して承諾した。



 斉軍は帰国することになった。燕荘公は桓公との別れを惜しみ

気が付くと国境を越え、斉の領内に五十里も入っていた。


 「周法では、諸侯の送別では国境を越えてはいけない決まりです。

このままでは、二国の国君が法を破った事になってしまう」


桓公はそう言うと、自分が今いる地を燕に割譲した。

「これでお互いに礼を守った事になります」

燕候は固辞したが、結局受け入れた。


 燕候はこの地に燕留えんりゅうという名の城を築いた。

斉桓公の恩を燕国の人の心に永く留めようという意味である。



 燕は北の五百里と東の五十余里の土地を得た事で北方の大国になった。



 そして中原の諸侯は、斉候が千里の道を駆けて燕救援に向かい

山戎を滅ぼし、燕から寸土も取らず、むしろ土地を与えたという話を聞いて

斉の武力と斉侯の徳を称賛し感服したという。



 斉桓公は帰国の途上、魯を通過した。

魯荘公は済水の畔で斉桓公に再会し

斉候の勝利を歓迎する宴を設けて無事と戦勝を祝った。


桓公は謝礼として、荘公に山戎との戦で得た戦利品の半分を与えた。


また、管仲の封地は斉と魯の境界近辺にある小谷にあるので

荘公は管仲のため、小谷に城を築いたという。


斉の桓公による北戎征伐は

三国志で言うなら諸葛孔明の南蛮遠征みたいに

かなりファンタジー要素を含んでるので、大部分を削除しました。

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