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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第二十一話 楚の北進

春秋戦国時代というのは

黄河流域と長江流域、二大文明圏同士の

「宗教戦争」だったと主張する学者がいます。


最終的に、黄河文明に属する秦の始皇帝が統一したため

長江文明を証明する存在は尽く消滅させられたとか。


この学説が正しいかどうかは分かりませんが

長江流域を拠点とする大国・楚は

黄河や漢水の諸侯に比べて、色々と毛色が違うのは確かです。




          *     *     *




 楚では文王が崩御して、嫡子の熊囏ゆうかんが次の王に即位したが

才智では弟の熊惲ゆうこんが優っており

太后となった生母・息嬀そくぎもまた、弟の方を愛していたので

楚の国人も熊惲を支持する者が多かった。


 楚王・熊囏もそれに気づいていたので、弟を危険視し

隙あらば弟を排除しようと目論んでいるが

熊惲は人気があり、その機会がなかなか訪れない。


 熊囏は政治にあまり興味がなく、王に即位して3年間は

趣味の狩りばかりしていたので、国は乱れている。

王弟の熊惲と、楚の国人らはそれを憂いて、王の暗殺を考えた。



 ある日、熊惲は壮士を集め、王が狩りに出た隙を狙って殺害した。


母太后には、王は病死したと伝えた。

これを信じた訳ではないが、元より王は不才であり

熊惲の方が王に相応しいと思っていたので、詮索はしなかった。



 熊惲が新たな楚王に即位した。これが楚の成王である。


 先王・熊囏にはおくりなをつけず、堵敖とごうと称した。

「敖」とは国君になる前に死んだ太子を意味する。

そのため、葬儀は王の礼に拠らなかった。



 成王はまだ若いので、叔父の子元を令尹れいいんに任命し、彼が政治を担った。


子元は野心の強い男で、兄の文王が崩御してから

秘かに王位の簒奪を狙い、若年の楚成王など眼中にないが

文王からの功臣である闘伯比とうはくひ

睨みを利かせているため、勝手は出来ないでいる。



 しかし、周恵王11年(紀元前666年)、闘伯比が亡くなった。

子元を掣肘する者はいなくなり、王宮の隣に豪邸を建てて

毎日、贅沢三昧の暮らしを満喫していた。


 ある日、その屋敷から漏れ聞こえる騒ぎの音を聞いて

母太后が「歌舞の音は何処から聞こえるのか」と侍女に尋ねた。

「令尹の新しいお屋敷からです」

「先君は政治と兵事に熱心で、多くの諸侯を従え、朝見が絶えなかった。

だが、楚が中原より退いて10年。なぜ冷尹は動かないのか」



 侍女が息嬀の言葉を子元に話した。

「夫人でさえ国を憂いているのか。

遊びはやめだ。楚から斉に鞍替えした鄭を討つ」


子元は600乗の戦車を出し、自ら中軍を率いて

闘御彊とうぎょきょう闘梧とうごが前軍を担当し

王孫遊と王孫嘉が後軍となって鄭に攻め入った。




          *     *     *




 楚の大軍が攻めて来たのを知った鄭文公は大臣たちを招集して協議した。

堵叔としゅくは楚と講和すべきだと言う。

師叔ししゅくは籠城して斉の救援を待つべきだと主張する。

文公の世子・華は打って出て楚と戦うべきだと言った。


そして正卿(宰相)の叔詹しゅくせん

師淑の案に賛成しつつ、楚軍はすぐ撤退すると予測した。


「楚は令尹が自ら将となり、大軍を率いて攻めて来た。なぜそう思うのだ」


鄭文公の問いに対し、叔詹は答えた。

「冷尹・子元に明確な戦略的視点は見受けられません。

ただ鄭を討つという見映えのみを求めているようです。

楚軍が来たら私にお任せ下さい。撃退の策があります」



 間もなく報告が届き、楚軍はすでに外郭を破り

純門に入り、市中に突入する勢いだという。


「楚軍の勢いは凄まじい。もう講和は無理だ。桐丘とうきゅうまで避難しよう」

と堵叔が言うと、叔詹は「怖れることはない」とのみ言って

兵を城内に隠し、城門を開放して市民には平常通りに往来させ

全く楚の攻撃を怖れる様子を見せなかった。


 楚の前軍が鄭都・新鄭に到着し、城中の様子を探ったところ

全く動揺の様子が見えず、民は普通に日常を過ごしている。

訝しんだ闘御彊は闘梧に言った。

「鄭には何か策があるに違いない。楚軍を騙し、城に引き込もうとしているのだ。

ここは令尹の到着を待つ事にしよう」


 前軍は城から五里ほど下げて駐屯した。

ほどなく子元の率いる中軍が到着したので、闘御彊は城の情況を報告した。


子元は高所に登って鄭城の様子を確かめたが

楚軍の到来に慌てる様子はない。

「鄭には賢臣と名高い叔詹がいる。

どんな策謀があるか分からぬ。今少し様子を見よう」



 翌日、後軍の王孫遊から報告があった。

「斉侯が宋、魯と共に大軍を率いて、こちらへ向かっております」


子元は驚いて「退路を断たれては危険だ。撤退しよう。

鄭都の包囲まで行ったのなら戦果は十分である」

そう言って、夜のうちに退却した。


鄭軍が追撃して来ないよう、旗などを陣中に放置した。




          *     *     *




 帰国した令尹・子元は、戦勝をまず太后に報告した。


「私よりも先に、楚王と楚の民に宣言すべきではないか。

その後は賞罰を決め、宗廟に戦勝を伝えて先王の霊を慰め

その後で私に報告すればよい」


それを聞いた子元は恥じ入った。

楚成王は、子元が戦わずに帰ったと将から聞き、彼に不満を抱くようになった。



 一方、鄭の叔詹は徹夜で警戒を続けていたが、夜が明けて楚の陣を見て

「楚軍は帰国したようだ」と呟いた。

「なぜ分かるのですか」

「楚陣の上に鳥が飛んでいる。誰も居ない証拠である」

「なぜ楚軍は撤退したのでしょう」

「斉候の援軍が来たのを確認したからであろう」


 ほどなく斉候の率いる諸侯軍は鄭国境まで来たが

楚軍がすでに引揚げたのを知って帰国したとの報告があった。

これを聞き、鄭の国人みな叔詹の知恵に感心した。


 鄭文公は十分な礼物を持たせて使者を出し、斉侯の救援の労に感謝した。

以後、斉国に二心を抱く事はなくなった。




          *     *     *




 楚の冷尹・子元は、自ら鄭討伐に出て功が無かった事を恥じていた。


ある日、太后が体調を崩したと聞いて王宮へ見舞に行き

そのまま宮中に寝所を移し、多数の兵に護衛をさせて

三日も出て来なかった。


 大夫の闘廉とうれんはこれを聞いて問責のため宮門に押し入った。

「冷尹よ、ここは臣下のいる場所ではありません」

「わしは王の叔父である」

「先王の弟君でも、楚王の臣下であることに変わりはありません。

臣下が寝所を宮中に移すのは礼法にもとります」

「楚国のまつりごとはわしが行っている。礼法を決めるのもわしだ」

子元は部下に命じて闘廉を捕えた。



 太后は侍女に命じて、闘伯比の子の闘谷於莵とうこくおとを呼びにやった。

闘谷於莵は楚王の許可を得て、闘梧、闘御彊、闘班らと共に

夜中に兵を率いて王宮を包囲した。


 「王命により、謀反人を処罰する。降れば罪は問わぬ」

と宣言したので、子元の兵はみな降伏した。


闘班は子元の寝室に突入し、子元の首を落とした。


闘谷於莵は闘廉を解放し、太后に謀反人の討伐を報告して

全員で叩頭の礼をして帰った。



 翌日、楚成王は子元の家の取り潰しを命じ

罪状を書いて、子元の首と共に、市に立て札を立てた。




       *     *     *




 ここで、闘伯比の子・闘谷於莵の伝説について語る。



 闘氏の祖は楚王・若敖じゃくごうで、うん国の君主の娘を娶り、闘伯比を生んだ。


若敖が没した時、伯比はまだ幼かったので、母の実家である鄖国に預けられ

鄖の宮中では祖母の鄖夫人から可愛がられた。


 鄖夫人には娘があり、伯比とは従兄妹の間柄になる。

幼い頃から宮中で一緒に遊び、二人が年頃になった頃

若さ故の戯れにより、娘は伯比の子を身籠った。


鄖夫人は伯比と娘を離して彼を宮中に入れさせず

娘は病気だということにして一室に隠した。

 

 その後、男子が産まれると、鄖夫人は密かにその子を衣服で包み

宮外へ出し、夢沢ぼうたくに捨てた。主君と娘に悪評を立てないためであった。


事情を知った伯比は己の犯した罪に苦しみ、母と一緒に楚へ帰った。



 この頃、鄖の国君は夢沢で狩りをしていた。

沢の傍でに猛虎がうずくまっているのを見つけて

部下に矢を射させたが、一つも当らず、虎も身動き一つしない。


奇妙に思った鄖君は、部下を沢の近くへ行かせて調べさせた。

虎は赤ん坊に乳を飲ませており、人を見ても畏れないのである。


鄖君は「この虎は神霊である。手を出してはいけない」

と言って、その場を離れた。



 鄖君は帰ってから妻の鄖夫人にこの話をした。

「それは、私が捨てた赤子に違いありません」

鄖夫人は事情を話した。


「遥か昔、帝嚳ていこくの妃・姜嫄きょうげんは巨人の足跡を踏んで懐妊した。

姜嫄は不吉に感じ、生れた赤子を氷の上に捨てたが

鳥がその赤子を翼で覆って暖めて助けようとするのを見て

天意を感じた姜嫄は赤子を連れ帰り、と名付けて育てた。

棄は成長して后稷こうしょくとなり、周王朝の始祖となった。

虎の乳を飲んで育った赤子も、偉大な者となるに違いない」


 鄖君は虎の育てていた赤子を連れ帰り、娘に育てさせた。

翌年、娘を楚に送って闘伯比の妻にした。


 楚の言葉では乳を「谷」と言い、虎を「於莵」と言う。

虎の乳を飲んで育った子という意味で、赤子に闘谷於莵と名付けた。

字は子文である。


 鄖国は現在の湖北省孝感市夢雲県で、

於莵郷には、子文が虎に育てられたと言われる沢がある。




       *     *     *




 闘谷於莵は文武両道の優れた才覚を持っている。

父の闘伯比が亡くなり、闘谷於莵が後を継いだ。


 子元が誅殺され、楚では冷尹が空席になったので

楚成王は次の令尹に闘廉を薦めた。


「今、我が国の敵は斉国です。斉は豊かで兵は強く

しかも宰相の管仲は天下に二人といない賢臣。臣如きではとても敵いません。

王が楚の政治と礼を定め、中原に進出しようとお思いであれば

闘谷於莵を冷尹にするべきです」と言って闘廉は冷尹を辞した。


 他の大臣らも同様に闘谷於莵を推奨するので

楚王は闘谷於莵を冷尹に任命した。

周恵王の13年(紀元前664年)の事である。


「聞く所によると、斉候は管仲を『父に次ぐ者』という敬意を込めて

仲父ちゅうほと呼んでおるそうな。

わしは斉候に倣い、令尹を名で呼ばず、字の子文で呼ぶ事にしよう」

下の者を字で呼ぶのは敬意を表す。

 


 冷尹になった子文は、「国の災いは臣が君より強くなる事から始まる」

として、大夫の有する封地は全員が半分を国に返還しようと提案した。


まず初めに闘氏が自ら封地を半分返上したので、他の大夫らもそれに倣った。



 楚の邑の一つ、えい城は、南に大きな湘水が深い淵をなし

北は漢江が流れる優れた地勢である。

そこで、丹陽たんようから郢城に遷都して、郢都とした。


 子文は楚軍を訓練して兵を鍛え、賢者を多く採用した。

公族の屈完くつかんを大夫に任じ、闘章に郡を監督させ

実子の闘班を申公にするなど、適材適所を行い

楚は急激に国力を拡大させていった。




       *     *     *




 斉桓公は、楚王が賢者を登用し、国が充実していると聞いて

楚が中原進出を狙っていることを憂慮していた。


そこで、今のうちに諸侯を集め、楚を討とうと考え、管仲に相談した。


「楚は南方で王を称し、土地は広く、兵は強く

周天子もこれを抑える事が出来ないでいます。

しかも楚王は賢相・子文を令尹に任じて国政を任せ

国内は安定し、さらに力をつけています。

斉はまだ諸侯と同盟を結んだばかりで、徳を積んでいません。

我が君の威徳が広がるまで、時間を稼いだ方が安全でしょう」


「先君は200年に渡って斉の仇敵であった紀を亡ぼし、併合した。

だが、紀の属国のしょうが未だ斉に服していない。これを討とうと思う」


「鄣は小国とはいえ、祖先を遡れば太公望呂尚で、斉と同姓です。

同姓を亡ぼすのは義に反します。兵を率いて紀城を巡視させ

討伐する素振を見せれば、きっと鄣は投降してきます。

これならば、亡ぼす事なく鄣の地を接収できます」


 桓公は彼の策を採用すると、鄣君は畏れて投降してきた。

「仲父の策に誤りはない」桓公は感嘆した。


楚の名臣・闘谷於菟の出生譚は

世界中に残る野生人伝説の一つです。


動物が人の子を育てる話は創作でも数多く見られ

「もののけ姫」のサン、「鬼滅の刃」の嘴平伊之助などが有名ですね。


事実かどうか考えるのは野暮です。

それを言ったら、春秋時代の逸話の殆どは

結果を知ってる後世の後付けによる創作ですから。

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― 新着の感想 ―
[一言] 完結おめでとうございます。 出来れば「春秋」の後、「戦国」時代も連載いただけると嬉しいです。 「名」と「字」の呼び違いは何故か不思議に思っていましたがそういう意味があったのですね。勉強に…
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