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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第二十話 驪姫の陰謀

この物語、最初は周、次いで鄭、その後は斉を中心に書いてきました。

時代の主役がそれぞれの国の君主(周宣王、周幽王、周平王、鄭荘公、斉桓公)で

当時の史料からして、彼らを中心に書かれてますので。どうしてもこうなります。






        *     *     *




 周恵王の10年(紀元前667年)、斉の桓公は

宋、魯、鄭、陳の四ヵ国を再び幽の地に召集し、二度目の会盟を行った。


 桓公が斉君に即位して18年、今や斉の国威は絶頂にある。

上機嫌で会盟から帰国した桓公は、宴を開いて群臣を労った。


この席上、鮑叔牙ほうしゅくがが酒杯を主君に献上し、言上した。

「名君、賢臣は、事が上手く運んでいる時にこそ

より一層、警戒を怠らぬものと聞き及びます。

我が君は、かつて管仲に矢を射られ、九死に一生を得た事を

管仲は公子・糾と共に処刑されそうになった事を

寧戚ねいせきは、牛飼いをしつつ仕官の機を狙っていた事を

どうか、お忘れにならず、気を引き締めてまつりごとに臨まれますよう」


斉桓公はそれを聞き「鮑叔は至言を申した」と称賛して

その場にいる全員に、有事に備えるようにと訓戒した。



 ある日、周の大夫、召伯・りょうが使者として斉に入り

周王は斉候を太公に任じ、周に従わぬ諸侯を征伐する権限を与えたと伝えた。

未だ「子頽したいの乱」に加担した衛公の責任を問うていないので

斉候に、王に代わって衛公を誅せよ、との事であった。



 翌、周恵王11年(紀元前666年)、桓公は王の命を奉じ

子頽の乱の責任を問うべく、斉軍を率いて衛を攻撃した。


衛の恵公は3年前に崩御し、恵公の世子・赤(衛の懿公)が今の衛君である。


 衛懿公は自ら兵を率いて斉と戦ったが、一戦で敗れ、衛都・朝歌へ逃げ戻った。

斉軍は衛都まで侵攻し、王命に従い、衛公の罪を問うと宣言した。


 衛懿公は公子・開方を使者にして

金銀を大量に積んだ5乗の馬車を斉桓公に献上して講和を求めた。


 開方は「周法では、祖先の罪は子孫に受け継がれない事になっています。

乱に加担したのは衛の先君であり、今の衛君に罪はございません」と釈明した。


 桓公は「わしは王命を奉じて衛を攻めている。

衛から何かを得ようとは思っていない」と返答した。


「これは斉候の兵馬の労に対する対価でございます。

臣と共に、どうかお納め下さい」と返し、斉候への仕官を願い出た。


「卿は衛の公子であるのに、斉に仕えると申すのか」


「斉候は天下を統べる英主。お側に仕えたく存じます」


斉桓公は開方を気に入り、斉の大夫すると約束した。


 開方は、衛の公女が大層な美人であると教えたので

桓公はその娘が欲しくなり、衛懿公に伝えて夫人にしたいと申し出た。

桓公は衛の先君から公女・長衛姫を娶っており

今度はその妹・少衛姫を手に入れた。



 斉候の側近となった開方は豎刁じゅちょう易牙えきがと共に「斉の三貴」と呼ばれる。




        *     *     *




 さて、しばらく斉は置き、晋の国について語る。


 晋君の姓は姫、つまり周王と同族で、爵位は候である。

その始祖は周の2代・成王の弟、唐叔虞とうしゅくぐとされる。


 成王と叔虞が共にまだ幼年の頃、ある遊びをしていた。

王は桐の葉を切って珪(諸侯を封じる時に贈る玉)の形にし

これを叔虞に渡して「汝を諸侯に封じよう」と戯れに宣言した。


 これを見ていた宰相の尹佚いんてつが「折を見て叔虞を諸侯に封じます」と王に告げた。

成王は驚いて「あれはただの遊びである」と言ったが

「天子に戯言は赦されません。その言葉を覆してはならないのです」と述べた。


 成王は理解して、叔虞を唐の地に封じた。これが晋国の始まりである。


 それから200年余りが経ち、9代・晋穆候には

長男の仇、次男に成帥という2人の男子がいた。

穆公が没して4年後、仇が晋君に即位した。晋の11代・文候である。


 文候については、周の幽王から平王にかけての混乱期に

周王朝の復興に少なからぬ貢献をなした事はすでに述べた。


 その文候が没した後は世子・伯が晋の12代・昭候となった。

昭候は晋国内で高い名声を持つ叔父の成帥を曲沃きょくよくに封じた。

そして晋は翼(現在の山西省臨汾市翼城県)と名乗り、晋国は二分されたのである。


 晋昭候は曲沃の手の者に暗殺され、成帥は翼との戦に敗れるなど

晋を一つにする争いが、60年余りに渡って続いた。


 ついに周の釐王3年(紀元前679年)、曲沃の君主・称(成帥の孫)が

晋侯・びんを討ち、翼を滅ぼして、晋を再び1つにした。


 称は翼に入り、ここを晋都・こうと定め

国庫に眠る財宝を全て周王室に献じて

正式に晋君と認められ、諸侯に列する事となった。


 称・即ち晋の18代・武公が薨じた後は

世子の詭諸きしょが後を継いだ。晋の献公である。


晋献公は晋の公族が多すぎる事を憂慮して、大夫の士蔿しいに命じて

桓叔(成帥)、荘伯(成帥の子、せん)から連なる一族を殲滅した。


士蔿はこの功績により、大司空の地位を得た。

献公はさらに士蔿に命じ、晋都・絳を壮麗な大都市にした。


 献公には3人の男子がいる。正夫人・斉姜との間に世子・申生が生まれ

犬戎けんじゅうの主の姪・狐姫こきを娶って重耳を産み

狐姫の妹・小戎しょうじゅう夷吾いごを産んだ。


斉姜は元は武公の愛妾だったが、献公がまだ世子・詭諸であった頃

その美しさに心を奪われ、これと私通し、孕ませた事で

母子共に世子へ譲られた経緯がある。

この時、斉姜が産んだのは女子で、後に秦候に嫁ぐ事になる。




        *     *     *




 周恵王5年(紀元前672年)、献公は西戎の一族・驪戎りじゅうを討伐する事にした。

出陣の前に大夫の史蘇しそに命じて、この出師すいしに勝てるか占わせた。

「『交所で骨を咥え、間で歯が噛み砕く』と出ました」

「まるで分らん。それはどういう意味だ」

「勝敗が入れ替わることを意味します。戦には勝つでしょう。

しかし、その勝利が、やがて晋に災いを招くであろう、という卦です。

驪戎討伐は中止するべきです」

「戦に勝てるなら中止する必要はない。後の災禍など、今気にしても仕方あるまい」

献公は予定通り出陣した。


 戦いは晋の大勝で、敗れた驪戎の主は二人の娘を献公に差し出した。

長女を驪姫りき、次女を少姫と言う。

驪姫は非常に美しかったので、献公は喜んで受け入れた。


 帰国後、献公は戦勝の祝宴を開いた。

その席上で史蘇を呼び「卿のうらないは半分当たり、半分外れた。

戦に勝つという予言は当たり、後に晋に災いが起きるという予言は外れた。

わしは美姫を得たのだ。これが災いなものか」

と言って、史蘇に酒だけ与え、料理を与えなかった。


 史蘇は酒を飲み干し「臣の役目は占卜の結果をお伝えする事です。

これを隠す事は罪となります。占いが外れた事は幸いです」と語った。



 驪姫は美しく、また賢い女性でもあったので、献公の寵愛を受けた。


 翌年、驪姫は奚斉けいせいを産み、さらに翌年は少姫から卓子とうしが生まれた。

斉姜は太子・申生を産んだ後、ほどなく亡くなったので

この時、献公に夫人はおらず、驪姫を夫人にしたいと思った。


 そこで卜官の郭偃かくえんに命じ、驪姫を夫人にするのが吉かどうか占わせた。

「『晋候の心が変わり、美醜が逆転し、それが10年続く』

という卦が出ました。凶です。どうかお考え直しを」


 献公は得心がいかず、史蘇にも占わせた。

「内にあって、外を窺う、という結果です。吉と言えましょう」

「内にあるのは夫人として正しい姿である。まことに吉兆だ」

献公は喜び、驪姫を正夫人に、少姫を夫人にした。


 郭偃と史蘇は「晋は10年以内に滅びるかもしれない」と嘆いた。

驪戎討伐前、史蘇の卜に出た骨とは、驪姫の事であったかもしれない。



 驪姫を正夫人にした献公は、驪姫の産んだ奚斉を世子にしようとした。

「それは嬉しい事ですが、世子はすでに申生に決まっています。

理由なくこれを代えれば家臣が反対するでしょう」

虚言である。驪姫は我が子・奚斉を世子にするためなら

どんな手段でも用いる覚悟を決めている。

しかし、献公の子は申生、重耳、夷吾みな優秀で

まだ幼い我が子を世子にするのは時期尚早と判断した。



 晋献公は、梁五と東関五の二大夫を気に入っていた。

また、優施という頭の良い美童の芸人が献公に可愛がられており

禁中にも出入りが許されていた縁で、驪姫と関係を持った。


 驪姫は優施に、無理せず奚斉を世子にする方法はないか尋ねた。

「まず、三人の公子を晋都から去らせるのです。晋の国境は狄戎じゅうてきの襲来が絶えません。

その防衛を理由に三公子を辺境に追いやる事が出来るでしょう。

梁五と東関五に賄賂を渡し、彼らに進言させれば、我が君も承知するはず」


驪姫は優施の意見に従い、梁五と東関五を金帛きんぱくで買収して陰謀を話した。


 数日後、梁五が献公に進言した。

「曲沃は先君の廟所がある重要な地。またくつは戎狄の拠点に近い。

これらを我が君が信頼出来る者に守らせるべきです」

「もっともであるが、誰が良いと思う」

次に東関五が述べた。

「曲沃は宗廟の地。太子・申生を置いて他にはおりません。

蒲と屈はそれぞれ公子・重耳と公子・夷吾が宜しいと存じます」

献公は承知した。


 申生は大夫の杜原款とげんかんと共に曲沃へ向かい

重耳は咎犯きゅうはん狐毛こもうらを従えて蒲へ

夷吾は郤芮げきぜい呂甥りょせいらを随えて屈へ、それぞれ赴いた。

晋都・絳には奚斉と卓子が残った。


 献公は大夫・趙夙ちょうしゅくを曲沃に向かわせ、曲沃の城壁を高く堅牢にせよと命じた。

蒲と屈には士蔿を派遣して築城を命じたが、想定より早く完成した。

数日後に雨が降って城壁が崩れ落ちた。壁の中は薪や枯れ枝であった。


 重耳と夷吾は士蔿の怠慢であると怒り、献公に訴えた。

献公は士蔿を呼び出して、手抜き工事をした理由を詰問した。

士蔿は「蒲と屈は、いずれ我が君の敵になるのです。

敵の城壁を頑強にするのは愚かな事です」と答えた。


良識を持つ晋の大夫・国人たちは

献公が「君側の奸」に踊らされている事を悲しんでいた。

士蔿の行動と発言は、それらの声を代表した、献公への諫言であった。

しかし、驪姫を寵愛する献公に、この声は届かなかった。


 また、献公は戦を好み、しかも滅法強い。

この頃に晋は2軍を作り、それを上軍と下軍に分け

献公自らが上軍の将となり、世子・申生を下軍の将とした。


 晋の二軍は大夫の趙夙と畢万ひつまんを率いて、てきかくの三国を攻め

瞬く間にこれらを滅ぼし、耿は趙夙に、魏は畢万に褒美として与えた。


魏の地を得た畢万は、以後、魏万と呼ばれ、魏氏の始祖となった。

魏氏は晋の重臣として着実に勢力を拡大し続け

これより200年の後、魏氏は戦国時代の強国・魏となる。


下軍の将である世子・申生も、父に似て戦上手である。

三国を討滅する戦いでは、晋献公を喜ばせる目覚ましい活躍を遂げた。


申生の活躍と人気を、驪姫は忌々しい目で眺めていた。


春秋時代の人物で、筆者が特に好きなのが

今回初登場の重耳です。


先秦時代に興味を持つきっかけが

歴史小説の大家・宮城谷昌光先生の「重耳」なものでして。

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