第十九話 夫人春秋
春秋時代の末期から戦国時代にかけて
東の大国・斉を牛耳るのが、田氏一族です。
この一族は、不思議なほどに優秀な人物ばかり当主になるので
斉でどんどん存在感を増していき、ついには国を乗っ取ってしまいます。
その田氏が今回、チョイ役ながら初登場です。
* * *
鄭厲公が復位し、衛、曹二国も同盟を求めて来ている。
今こそ、大規模な会盟を開くべきではないかと
斉桓公は管仲に語ったが、難色を顕した。
「会盟を開くのは賛成ですが、今回も簡素であるべきです」
「なぜだ」
「陳、蔡、邾は北杏の会盟以来、斉に友好を示しています。
曹は欠席しましたが、宋を討つ戦には出兵しました。
ですので、今回は宋と衛だけを呼べばよいでしょう」
「なるほど、諸国を纏めた後に、改めて全諸侯を招集すればよいのだな」
その時、周王が宋公の訪問の答礼の使者として
周の大夫・単蔑を遣わし、衛まで来たとの報せが入った。
管仲は「どうせ宋と会盟するのです。
我が君が衛に向かわれては」と進言した。
斉桓公は同意し、宋、衛、鄭の三国と衛の地・鄄で会う事にした。
単蔑と斉侯を含む5人は、正式な儀式は行わず
互いに拱手の礼をして、友好を示す簡素な会盟を催した。
これを「鄄の会盟」と呼ぶ。
斉侯は諸侯がよく纏まったのを確認したので
翌年、宋、魯、陳、衛、鄭、許の6国を幽の地に招集して
犠牲を屠ってその血を啜る、正式な会盟を催した。
「幽の会盟」と称されるこの盟約にて、斉桓公は
正式に盟主として認められ、事実上の覇者になったのである。
時は、周釐王3年(紀元前679年)の冬
桓公・小白が斉君となって7年目の事であった。
* * *
さて、楚文王は桃花夫人を手に入れて3年が過ぎ
二人の男子が生まれ、上は熊囏、下は熊惲と名付けた。
だが夫人は楚宮に入って一度も楚王と話をしたことがない。
「生涯で二夫に仕え、節を守って死ぬ事も出来ず
情けなくて、恥ずかしくて、王とお話をする事が出来ません」
王が幾度も尋ねて、やっと口を開いて出た言葉であった。
「息嬀がわしに靡かないのは、蔡候がいるからだ」
そう考えた楚文王は、蔡を攻める事にした。
楚軍は蔡の郛邑に侵攻した。
蔡侯・献舞は降伏して、国庫の財宝を全て楚に提供した。
楚王が凱旋帰国してほどなく、鄭厲公の復位を知らせる使者が到着した。
「鄭の公子・突は復位して二年も経ってから報告に来た。楚を軽んじている」
楚王は大軍を率いて鄭に侵攻したので、鄭は謝罪して楚と講和した。
鄭伯は楚を畏れて、斉に朝見しなくなったので
斉桓公は鄭に問責の使者を送った。
鄭厲公は返信のため、宰相の叔詹を斉に送った。
「弊国は楚に攻められ、今や亡国の危うきにあります。
もし斉君のお力で楚を叩いて頂ければ
鄭伯はいつでも貴国へご挨拶に上がりましょう」
桓公は叔詹の態度に腹を立て、叔詹を監禁した。
しかし叔詹は隙を見て脱出し、鄭に帰国して鄭君に復命した。
以後、鄭は斉から離れ、楚に従属した。
この年、周釐王が在位5年で崩御し、王子・閬が即位した。周の恵王である。
* * *
周の恵王2年(紀元前675年)、楚は巴国と共同で申国を攻めた。
この時、楚文王は友軍であるはずの巴軍にも兵を向けたので
巴君は怒って楚軍を襲撃し、これを破った。
この戦いで、楚将の閻傲が先に逃げ帰った。
楚文王は怒り、閻傲を殺した。
閻氏一族は楚王を怨み、巴と組んで楚を討とうとした。
閻氏と巴は楚を攻撃し、楚文王はこれを迎撃して
楚・巴の両軍は、津の地で会戦を行った。
戦いは楚軍が優勢に進め、不利を悟った閻氏一族は
楚の陣中に決死の勢いで突撃を敢行し、楚王へ矢を浴びせ
そのうちの一本が楚王の頬を貫いた。
重症を負った楚王は怯み、撤退を決め、後退を開始した。
巴軍はこの機を逃さず、猛然と楚軍に襲い掛かる。
優勢であった楚軍は一転して壊乱し、戦いは楚軍の大敗に終わった。
巴君は深追いせず、兵を収めて帰国した。
閻氏一族も巴君について巴へ行き、そこに住み着いた。
負傷した楚王が逃げ帰って城門を叩くと、門番の太伯・鬻拳が
「王よ、凱旋ですか」と聞いた。
「いや、敗れた」 と楚王が答える。
「先王以来、楚は戦に負けた事がありません。
巴如き小国を相手に、王自らが兵を率いて負けたのは楚の恥です。
現在、黄国が楚に服していません。これをお討ち下さい」
と言って、門を閉じたまま、楚王を入れなかった。
楚王は憤然として「今度負けたら、わしに帰る所はない」
と兵らに告げると、軍を黄国に向けた。
楚軍は死に物狂いで戦い、踖陵の地で黄軍を大破した。
戦いが終わった日の夜、楚王は陣中で夢を見た。
息侯が怒って「楚王はわしから国を奪い、妻を盗み、これを凌辱した。
天帝は全てご照覧である。間もなく天罰が下ろう」
息候はそう言うと、楚王の頬を激しく叩いた。
ここで楚王は目が覚めた。
矢に射られた頬の傷が裂け、血が激しく流れている。
間もなく、楚王は陣中で崩御した。楚軍は撤退した。
鬻拳は遺体となった楚王を迎えて
「わしは二度、王に罪を犯し、二度とも赦された。
王が亡くなられた今、もはや生きる必要もない」
そう言うと、楚文王に殉じるべく、自刎して果てた。
鬻拳は死ぬ前に、家族を集めて
「わしが死んだら絰皇(楚王の墓の門)に葬れ」と言い残した。
子孫に、自分が楚城の門衛であった事を忘れさせないためである。
楚文王が死んで、嫡子の熊囏が新たな楚王となった。楚王・荘敖と言う。
荘敖は鬻拳を憐れみ、彼の子孫に大閻(門の責任者)を世襲させた。
* * *
鄭厲公は楚文王が崩御したと聞いて安心した。
宰相の叔詹が鄭伯に進言した。
「鄭は小国で、斉と楚の間にあります。
いずれかに臣従せねば、国を保つ事は適いません。
初代桓公、二代武公、三代荘公の頃、鄭君は周の卿士を勤め
諸侯より格上の立場として振舞う事が出来ましたが
今や周王に朝見するのは虢と晋の二国のみ。
我が君も周に朝見して、王の信頼を得て卿士に復帰すれば
大国と言えども畏れるに足りません」
厲公はその意見に同意して、大夫の師叔を周に派遣した。
ほどなく帰って来た師叔は、周室に乱が起きていると話した。
「くわしく話せ」
「昔、周荘王に王姚(姚姫)という愛妾がいて王子・頽を産みました。
荘王はこの子を溺愛し、大夫の蔿国を師傅(教育係)に付けました。
王子頽は牛が好きで、何百頭もの牛を飼っておりました。
五穀を餌として与え、牛に模様のついた服を着せて「文獣」と言い
従者は牛に乗って移動していたそうです。
王子頽と親しい5人の大夫が
蔿国、辺伯、子禽、祝跪、詹父です。
今の周王の代になると、王子頽は周王の叔父という立場から
横暴を働くようになり、周王はこれを嫌うようになりました。
王は子禽、祝跪、詹父の土地を没収し
宮殿の側に庭園を造るため、近くにあった蔿国の菜園や
辺伯の邸などを接収して、庭園の土地を広げました。
料理人の石速も、料理が下手だと言う理由で
罷免されたため、王に恨みを持っております。
五大夫と石速は結託して、王子頽を旗頭に謀反を起こしましたが
周公・忌父、召伯・廖の手によって
反乱は鎮圧され、彼らは蘇へ出奔しました。
さらに蘇も攻められたので、蘇君ともども衛まで逃げました。
衛候は周朝に恨みがあるので、彼らを奉じて王城を攻めました。
王軍は敗れ、周王、周公忌父、召伯廖は鄔国に出奔しました。
五大夫は王子頽を王に戴きましたが、周の人心は服しておりません」
「子頽は牛を愛でるだけの惰弱、衛を恃みにしているだけだ。
五大夫に石速も大した者ではない。
鄭軍を見れば戦わずして屈服しよう。
わしが周王を復位させれば、功は計り知れない」
鄭厲公は鄔国に使者を送り、王に檪邑への御幸を願った。
檪は厲公が公子・突の頃に17年間過ごした地で、宮室などもある。
同時に周都にも使者を送り、王子頽に王位を譲るよう説得したが
王子頽は鄭厲公の説得に応じない。
「一度、王位に極った以上、もはや降りる事は出来ぬ」
王子頽はそう言って、鄭の使者を送り返した。
鄭厲公は王を戴いて成周(洛邑)を襲撃し
周の宝器を奪って檪邑に戻った。
翌年、鄭厲公は王を復位させるため西虢公と共に王都を攻撃した。
鄭と虢の両軍に攻められて、王都は陥落寸前となった。
蔿国は急いで王子頽に会いに向かったが
王子頽は牛の世話がまだ済んでいないと言って会おうとしない。
やむを得ず蔿国は王命であると偽り、他の四大夫を防衛の任に就かせた。
しかし周の国人は王子頽に従わず
周王が帰ってくると聞くと、歓迎して城門を開いた。
蔿国は衛に救援の依頼をしようとしたが
既に周恵王は入城を済ませ、復位していた。
蔿国は自刎して果てた。
祝跪と子禽は戦死、辺伯と詹父は捕えられた。
王子頽は西門から石速と、最も可愛がっていた牛を連れて逃げたが
牛が肥えていたため動きが遅く、捕えられた。
王子頽と石速は、辺伯、詹父ともども斬首された。
かくして、子頽の乱は終結した。
恵王は復位し、鄭には虎牢より東の地を下賜し
西虢公には酒泉邑が与えられた。
鄭厲公は鄭へ帰国の途上で病に罹り、帰国後ほどなく崩御した。
厲公の世子・捷が鄭君に即位した。鄭の文公である。
* * *
周恵王の5年(紀元前672年)、陳の宣公は
公子・御寇を謀反の疑いで誅殺した。
公子・完(字は敬仲)は陳の先君・厲公の子で御寇と親しかったため
連座で処刑される事を恐れ、斉へ亡命した。
斉桓公は公子完を受け入れ、工正(職人を統率する官職)に任じた。
ある日、斉桓公が敬仲の家で酒を飲んだ。
日が暮れたので桓公は灯をつけ、引き続き酒を楽しもうとしたが
敬仲は「酔って容儀を崩すほど酒を飲む者は徳を失う、と申します。
これ以上、我が君を留めるのは臣の罪となります」
桓公は「敬仲は礼儀を心得ている」と賞賛し、田の地を与えた。
以後、公子完は田完と名乗る。後の田氏の始祖となった。
田氏一族はこれより300年の後、斉国を乗っ取って王となる。
* * *
魯荘公の生母・文姜は実兄の斉襄公が弑逆された後、病に倒れた。
莒国から医師を呼び、病の原因を調べさせている間
その医者と体を交わした。
その後も、体の不調を訴えては莒国の医師を呼び、関係を続けた。
医師は国母と体を交わす事に恐ろしさを感じ、他の若い男を薦めたが
文姜は医師と若い男、両方と幾度も体を重ねた。
ほどなく文姜も不帰の人となった。
文姜は死ぬ前日、魯候を呼び
「斉の公女はもう18歳。早く夫人に迎えなさい」と言い残した。
また「斉候が覇者になれば、魯はこれに協力して
長く友好を結ぶように」とも言ったという。
魯荘公は母の葬儀を行った後、遺言に従って斉の公女を迎えようとしたが
「まだ服喪中です。婚儀は3年お待ちください」と曹劌が反対した。
荘公は「喪が明けるのを待っては遅すぎる」と言い
翌年、斉の大夫・高傒の元に向かい、婚儀を執り行う事にした。
しかし、斉桓公も魯の喪明けまで延期するように言ったので
結局は周恵王の7年(紀元前670年)になって、ようやく実現した。
魯荘公は在位24年目、すでに37歳になっていた。
斉姫との婚姻は喜ばしい事だが、一方では
先君・魯桓公が斉で死んだ事を思い、複雑な気持ちもあった。
そこで魯候は、桓宮を建て替えて、死者の霊を慰めた。
魯の大夫・御孫はこれを諌めたが、魯候は聞かなかった。
斉姫は魯荘公と結ばれ、哀姜と呼ばれる。
斉・魯の大夫の妻たちが哀姜に贈ったのは玉帛等の高級品であったため
「婚姻の引き出物は、夫へは玉帛、鳥類などだが
妻に贈るのは栗、棗類程度という決まりがある。
男女の区別が曖昧になるは綱紀の乱れとなる」と御孫は密かに嘆いた。
ともかく、斉と魯が婚姻で結ばれた事によって
斉魯の紐帯はさらに強まった。
斉と魯は共同で徐、戎を討ち、共に斉に臣従することになった。
鄭文公は、斉の勢いが益々強大化してきたのを不安視して
斉に使者を出し、同盟を結んだ。
斉の襄公の妹・文姜の盛んな事については
オバハン何歳やねんとツッコみたくなります。
「女は灰になるまで女」を地で行く女性だったようで。




