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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第十六話 豪傑無惨

筆者は去年、食事中に歯が一本取れました。

すぐ歯医者に行き、今は差し歯になってますが、何かと不便です。


こういう経験をすると、昔の暮らしに思いを馳せるのが、筆者の癖です。

医療関連の知識や技術は、現代とは比べるまでもなく稚拙で

栄養状態などを思うと、ただの風邪でも致死率はかなり高かったでしょう。


まして、デンタルケアの習慣もなかった時代で

虫歯や歯周病をどう処理していたのか、とか。





        *     *     *




 鮑叔ほうしゅくは魯軍に大敗を喫し、帰国して斉君に報告した。

「魯に敗北するようでは諸侯を従えられん」桓公は憮然とした。


「元より、魯も小国ではありませんので

斉・魯の兵力にそれほど差はございません。

先般、乾時かんじの役においては我らが優位に進め、勝ちを得ましたが

此度は魯候の思惑通りに事が運び、我らは敗れました」


「魯に敗れたまま、捨て置く事はできぬ」


「宋と協力して魯を攻めましょう」

桓公は許可した。


 この時、宋の君主は17代・閔公で、名を捷と言う。

斉襄公の頃から幾度か戦で協力してきた事もあり

今回、斉桓公からの申し出も承諾し、郎城にて斉軍と合流する約定を交わした。



 周の荘王13年(紀元前684年)6月

宋は豪傑と噂の高い南宮長万なんぐうちょうまんを将に、猛獲もうかくを副将に

そして斉は前回に続き鮑叔牙を将に、仲孫湫ちゅうそんしゅうを副将として

共に300乗を超す兵車を率い、郎城ろうじょうに終結した。



 これを知った魯荘公は家臣に意見を聞いた。


「鮑叔牙が宋軍と協力して報復に来た。

宋の南宮長万と言えば、かなえを持ち上げるほどの怪力で知られた者。

我が軍にそれほどの者はいない。どう対峙すべきか」


 公子・えんが「私が敵陣を探って参ります」と言って飛び出し

翌日、戻って報告した。


「鮑叔牙の陣営は整っておりますが、南宮長万の隊は雑然としています。

宋の陣は不意を討てば容易く崩せましょう。

宋が崩れれば斉も支えきれますまい」


「しかし、南宮長万は豪勇で知られた者、汝では敵うまい」


「それがしに策がございます。必ず勝てましょう」


魯荘公は他に方法も思いつかず、公子偃の進言を許可した。



 公子偃は夜襲を計画した。後詰に魯候の軍も続く。

宋軍は油断して、魯軍が近づいても気づく様子はない。


 公子偃は宋軍に火をつけ、太鼓を鳴らせて突撃した。

突然の事に宋軍は混乱して、兵は恐慌状態に陥ち、ただ逃げ惑った。


南宮長万も兵車の御が逃げてしまったため

いかな猛将であろうとも、これでは兵の指揮も儘ならず

自身で兵車を御して退却するしかなかった。


公子偃の軍は魯侯の率いる後続隊と合流し、夜明けまで宋軍を追撃した。



 南宮長万は乗丘じょうきゅう(現在の山東省巨野県)まで後退し

猛獲に「今日は昨夜の負けを取り戻さねばならぬ」と言うと

猛獲もそれに応えて出撃し、公子偃との激しい戦いが展開された。


 南宮長万も魯侯の大軍に突撃した。

魯兵はその強さに恐れをなし、近寄るものはなかった。


 魯荘公は、戎車じゅうしゃ車右しゃゆう顓孫生ぎょくそんせい

「おぬしは普段から力を自慢している。長万と戦えるか」と尋ねた。



    ※(戎車とは、君主の搭乗する兵車の事で

    車右とは兵車の右に立ち、槍や戟を奮って敵を討つ者

    左には車左がいて、弓矢を放つ

    戎車の車右と車左は、国内で一番の達人が選ばれるので

    武勇を誇示する者にとって最高の栄誉となる)



 顓孫生は大戟を構えて南宮長万に挑んだ。

荘公は車上からこれを見ていたが、顓孫生の形勢が悪いと見て

金僕姑きんぼくこをここに持て」と下僕に命じた。

金僕姑は魯の国庫に保管された伝説の矢である。


 魯侯から金僕姑を受け取った車左は、南宮長万に狙いを定め、放った。

金僕姑は長万の右肩に刺さり、骨まで達した。


長万は自ら矢を抜いたが、其の僅かな隙に顓孫生は一戟を長万の左脚に刺す。

さしもの長万も堪え切れず、地に倒れた。

顓孫生は南宮長万を生け捕りにした。それを見た猛獲は逃げてしまった。



 魯侯はしょうを鳴らして兵を引き上げた。魯軍の大勝である。

顓孫生は捕えた長万を魯侯に献納した。

長万は肩と股に重傷を負いながら、魯候の前で直立して

痛がる態度を見せないので、荘公は彼を厚遇した。


 宋軍の壊滅を見た鮑叔牙は全軍に撤退を命じた。

この戦いを乗丘の役と言う。




        *     *     *




 この年、斉桓公は大司行・隰朋を使者として周室に即位の報告を行い

同時に周室に婚姻を申し入れた。


 翌年、周は魯荘公を婚姻の司掌ししょうに任命して、王姫を斉に降嫁させることにした。

徐、蔡、衛の三国は王姫の付き人を献上した。


 魯が司掌の労を取った事で斉、魯の関係は修復され

長勺 、乗丘のニ役は互いに忘れ、友好を結んだ。



 その秋、宋が水害に見舞われた時、魯荘公は

「斉と魯は兄弟の間柄であり、宋もまた斉と親しい」

と言って、見舞いの使者を出した。


 宋は魯に返答の使者を出し、同時に南宮長万の返還を願い出たので

魯侯は彼を釈放し帰国させた。


これによって、斉、魯、宋の三国は友好関係を保った。


 

 南宮長万が宋に帰ると、宋閔公は

「そちの武勇を愛しておったが、魯の捕虜になったのは残念である」

長万は恥じ入って下がった。


 宋の大夫・仇牧きゅうぼくが閔公に諌言した。

「君臣は互いに礼を以て接する必要があります。

臣下を揶揄やゆするのは良くありません。

敬愛の心なくば、相手を見くびって無礼につながります。

将来謀反を生む温床にもなります」


「わしの長万への信頼は揺るがん」と気にしなかった。




      *     *     *




 周荘王の15年(紀元前682年)、荘王が崩御して

太子・胡斉こせいが即位した。周の僖王である。


 周王の訃報が宋に届いた時、宋閔公は宮人と蒙沢もうたくで遊んでおり

余興で長万に特技の投戟とうげきをさせていた。

戟を天に投じ、落ちて来る戟を手で受け止める技である。


 長万は宋公の命を受け、一回やると、宮人たちが喝采した。

閔公は長万の人気に嫉妬して、得意とする博打を長万と始めた。

負けた者が罰として一斗の酒杯を干すという賭けである。

長万は五連敗して五斗の酒を飲まされ、大酔したが、さらに一局挑戦した。

「戦に負けて虜囚となった者が、どうしてわしに勝てるというのだ」

と閔公が侮蔑すると、長万は怒りのあまり、黙った。


 その時、周王の訃報と新王の即位を知らせる使者が来た。

「弔問と祝賀の使者を周に送らねばならん」

「この長万、未だ王都を目にしたことがございません。私を遣わしてください」

「虜囚を王都に遣っては、宋に人なしと諸侯に哂われよう」

宮人たちは皆大笑いした。長万は更に怒り、酔いも手伝って

宋閔公を激しく殴打して、ついに殺してしまった。


 宮人たちはみな長万の怒りを恐れて逃げ出したが

そのうちの一人が大夫の仇牧に異変を伝えた。

仇牧は兵を率いて長万を捕えようとしたが、逆に殺された。


 続いて太宰の華父督かふとくも兵を率いて南宮長万を攻撃したが

彼の戟に刺殺されたという。

30年前に宋の大司馬・孔父嘉こうほかを殺し、その妻を奪い

以後、宋の人臣の頂点に君臨してきた華父督であったが

その最後は、あまりにあっけなかった。



 南宮長万は閔公の従弟・子游しゆうを宋君の位に就け

他の公子はみな国外にった。


戴、武、宣、穆、荘の5人の公子はしょう(宋の属領、現在の安徽省蕭県) へ出奔し

公子・御説ぎょせつごう(現在の河南省商丘市)へ避難した。


 公子御説は優れた人物と以前より噂されていたので

南宮長万は彼を脅威と感じ、息子の南宮牛なんぐうぎゅうと配下の猛獲に命じて毫を攻めさせた。


 蕭邑の主、蕭叔大心しょうしゅくだいしんは、自邑に避難してきた5人の公子を糾合し

さらに曹国の援軍も得て、毫の救援に向かった。


 援軍が近づいていると知った公子御説は

弁舌を駆使して毫人の支持を取り付け、彼らを率いて城門を開いて打って出た。


南宮牛と猛獲は内外からの挟撃に遭い

公子御説が両名の罪状を声高に叫んだので、ほとんどの宋兵は降伏した。

南宮牛は戦死して、猛獲は衛に逃亡した。



 公子御説の臣・戴叔皮たいしゅくひが献策した。

「降伏した兵の旗を利用して、南宮牛らが毫邑を陥落させ

公子を生け捕ったと偽り、宋都の門を開かせては如何でしょう」

御説はこの案に同意した。


 まず数人を先行させて、公子御説を捕えたと道々で声高に唱えさせた。

この噂は南宮長万の耳にも入り、これを信じた。


その後、公子たちの軍勢が到着して、難なく城門に突入した。

公子らは「逆賊、南宮長万を捕えよ」と叫ぶ。


長万は完全に油断しており、全く抵抗できなかった。

止む無く、宋公・子游を奉じて出奔しようとしたが

何処も敵兵だらけで、宮城に向かう事が出来ない。


右往左往しているうちに内侍ないじが来て

宋公・子游が殺されたとの報せを受けた。



 敗北を悟った南宮長万は、老母と家財を馬車に載せ、陳国へ出奔した。

この時、長万は馬車から馬を外し、大八車の状態にして

自らそれを牽き、陳国までの260里(約110km)を1日で走破したという。

一舎(一日の行軍距離)が30里(12.7km)の時代である。

到底、人間業とは思えぬ信じ難い速さであった。




       *     *     *




 南宮長万が宋閔公を弑逆し、間もなく宋君・子游も殺害された後は

公子の中から御説を奉戴して、宋君に即位した。これが宋の桓公である。

戴叔皮を宰相に任じ、五公子を公族大夫として、蕭叔大心は蕭に戻った。


 宋桓公は使者を衛に送り、猛獲の返還を求めた。

更に、陳にも使者を出して南宮長万の身柄を要求した。


 宋桓公の子に、公子・目夷という者がいる。まだ少年だが、頗る利発で

「南宮長万は来ないでしょう」と宋君に語った。

「なぜ、汝にそれが分かる」

「長万は勇猛です。陳候は彼を重宝するでしょう。

我が君が、あの者を殺そうとすれば、きっと陳君は庇います。

対価なく、彼を手放すとは思えません」

「ふむ、もっともな事だ」


宋桓公は陳への使者に十分な賄賂を持って行かせた。



 一方、衛に向かった宋の使者が衛君に用件を話すと

衛恵公は群臣を集め相談した。

「猛獲を宋へ引き渡すか、助けるか、卿らの意見を聴こう」


「我が国を頼って来た窮鳥を引き渡すわけには参りません」

多くの家臣がそう答えたが、大夫の公孫耳こうそんじは反対した。


「猛獲の行いは悪です。悪人を庇って、衛に何の益がありましょう。

衛と宋は長く友好にあります。猛獲を渡さなければ宋は怒るでしょう。

悪人一人を庇って友好国一国を失うのは愚策です」


衛侯は公孫耳の意見を採用し、猛獲を捕えて宋に引き渡した。



 次に陳国であるが、使者は手厚い贈物を陳宣公に献上した。

宣公は宋からの贈物を見て喜び、長万を送り届けることを約束した。


 しかし長万は怪力無双である。捕えるには策を用いるしかない。

そこで陳の公子・結に命じ、長万にこう伝えた。

「我が君は貴殿が陳国に来てくれたことを大層喜んでいます。

宋から引き渡しの要請があっても請けるつもりはありません。

ですが陳は小国。もし他の大国へ行かれるのであらばと

我が君は馬車を用意いたしました」


長万は感動して

「陳君が私を受け入れて下さっただけで十分です」と答えた。


 翌日、長万は公子結の家へ行き、感謝を述べた。

公子結は引き止めて歓待した。長万は大いに飲み、そのまま寝てしまった。


 公子結は長万を拘束し、老母と一緒に宋へ運んだ。

宋桓公は南宮長万と猛獲を刑場へ連行して処刑した。

「主君を弑逆した者はこうなる」と言って

彼らの死体を切り刻み、塩漬け肉にして群臣に配給した。


 宋桓公は蕭叔大心の治める蕭邑を附庸(属国)に昇格させた。

また、華父督の不幸を嘆き、その子・を司馬に任じた。

以後、華氏は宋の大夫を世襲することになる。


南宮長万の怪力エピソードは、いくら何でも盛り過ぎ。


霊長類最強・吉田沙保里伝説とか

イチローの三打数五安打みたいなものです。


ただ、大谷翔平君の活躍を見てると

案外、全部嘘とも思えなかったり。

30年前に「MLBで46本のホームラン打って、9勝あげてMVPになる日本人選手出てくる」

と言っても、信じる人は一人もいないでしょうから。

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― 新着の感想 ―
[一言] 人の塩漬け肉を群臣に配る。 昔から人肉食の習慣がありましたからね。 つい最近も「胎児スープ」の噂が出回りましたが否定仕切れませんでしたね。
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