第百四十六話(最終話) 人の時代
今回が最終話になります。
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晋の智氏が亡び、その領地は趙・魏・韓の三氏で分けられた。
この三卿は「三晋」とも称され、それぞれの領地は
諸侯と同等か、それ以上の勢力を有する。
その一方で、晋の公室の直轄領は
晋都・絳を中心とする僅かな地に過ぎない。
君臣の力関係は、完全に逆転した。
180年前、晋文公・重耳が城僕の役で楚に大勝し
以後、晋出公まで、12代の晋君が中原の覇者として君臨してきたが
今の晋君・哀公は、もはや覇者ではない。
この時、韓氏の重臣・段規が韓虎に進言した。
「我々は成皋の地を得るべきです」
「成皋は石ばかりの荒地ではないか。何の役にも立たぬ」
「利のある一里の地は、千里の権を動かせると言います。
また、万の民衆は不意を衝けば三軍を破れるとも言います。
主が臣の言を用いれば、韓は鄭を取ることが出来ましょう」
韓虎は進言を容れ、成皋の地を取った。
これより30年後、韓虎を継いだ韓啓章の代から
韓と鄭の戦争が始まり、78年後、韓は鄭を亡ぼし、その地を得る事になる。
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三晋によって滅ぼされた智氏の当主・智瑤に
かつて、子魚という士が仕えていたが
3年前、子魚は智瑶との関係を絶ち、晋を去った。
その後、子魚が越に向かっていた折、智瑶が殺されたとの報せを聞き
御者に「車を引き返せ。私は智氏のために死のう」と命じた。
御者が子魚に告げる。
「主が智氏と関係を絶って既に三年になります。
今戻って彼のために死んだら、関係を絶ちながら
別れていなかったことになります」
「仁者は全ての愛を人に与えるから、愛が余ることはない。
忠臣は余分な俸禄を受け取ることがない、という。
私は智氏の死を聞き、心が動かされた。
三卿に面会し、智氏に対する我が忠心を示さねばならぬ」
子魚は晋に戻って死んだ。
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趙無恤が論功行賞を行った。
晋陽の役では五人の臣が功を立てたが、筆頭に高共を賞した。
群臣が言う。「晋陽の役の勝利は、張孟談の功が最も大です。
高共にそれほどの功はありません。なぜ賞の筆頭なのでしょうか」
趙無恤が理由を説明した。
「晋陽が包囲されて3年が過ぎた頃、趙氏は滅名の危機に陥り
多くの群臣に二心が生じ、礼が乱れた。
ただ高共のみが君臣の礼を失わなかった。
これが、高共の功を筆頭にする理由である」
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晋陽の役を経て、趙は大いに勢力を伸張させた。
北は代国を併合し、南は智氏の領土を併せた事により
韓・魏の二国よりも強盛になった。
趙無恤は百邑に三神の祠を建立して
大夫の原過に命じ、霍泰山の祠祀を主宰させた。
趙の強勢を畏れた韓、魏、斉、楚が趙との友好に背き
侵攻を目論んでいると聞いた趙無恤が、群臣に諮る。
「かつて趙、魏、韓で智氏の地を分けた時、趙氏は十城を多く取った。
今回、諸侯が趙に迫るのは、その故であろう。
誰か、これに当たる者はいないか」
張孟談が口を開く。
「主は剣を背負い、臣を御して国に帰ってください。
臣を廟に住ませ、官位を授けるなら、臣が試しに計を謀りましょう」
趙無恤は同意して、張孟談を連れて国元へ戻った。
張孟談は妻を楚に、長子を韓に、次子を魏に、少子を斉に派遣した。
その結果、四国は互いに猜疑し合ったので
諸侯による趙への侵攻は取りやめとなった。
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趙無恤に仕えていた賢臣・張孟談が趙を去ると申し出た。
張孟談は趙氏の地位を固め、その領土を拡大し、覇者の功を発して
趙鞅の教訓を趙無恤に語った。
「先主(趙鞅)は、こう申されました。
『過去、覇者が天下を治める事が出来たのは
君が臣を制御して、臣が君を制御する事がなかったからだ。
つまり、国君になる者を相(大臣)の地位に置いてはならず
卿位にある者を側近にしてはならぬ、という事である』
今、臣の名は広く知られ、権力は大きく、民も服しています。
臣は功名を棄て、権勢から去り、民から離れたいと思います」
しかし、趙無恤が反対する。
「主を補佐する者は、名が広く知られ、功が大きい者は尊ばれ
国を任せられた者は権を大きくし、信忠を持つ者は衆が服すという。
だからこそ、英主は国を纏め、社稷を安定させたのである。
子はなぜ、わしの元から去ろうとするのか」
張孟談が言う。「主が申すのは、功を成す時の美事です。
臣が話すのは、国を維持する道です。
往古より、事を成就した故事を聞いてきましたが
臣と主の権力が等しくなる事はありませんでした。
前事を忘れる事がなければ、後事の師となるでしょう。
主がこれを善く考えないのなら、臣が主の力になる事は出来ません」
趙無恤は張孟談が帰宅した後、三日間、床に臥せた。
その後、趙無恤が張孟談の元へ使者を送って尋ねた。
「趙氏の政務を命じても、臣下が着任せず、困っている」
張孟談は「主命に従わぬ者は戮(死刑)にするべきです」と答えた。
これにより、主命に逆らって引退を望んだ張孟談自身も
主の許可なく去る事が出来なくなった。
張孟談が言う。
「臣は趙氏に仕えて社稷を安定させ、死から逃げず、忠を成就させました。
どうか主は我が意に同意してください」
趙無恤は「子は自分の意思に従うべきだ」
と言って、張孟談の引退に同意した。
張孟談は自ら功と褒章を棄てて名声を得た。
それまでに得た封地と権限を趙氏に返上し、地位から離れ
引退後は負親の丘で農耕に従事したという。
後世の人は張孟談の振舞いを「賢人の行い、明主の政」と称賛した。
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智瑶を滅ぼした趙無恤が、ある時、豫譲という刺客に襲われた。
豫譲は晋の大夫・畢陽の孫である。
かつて范氏と荀氏に仕えていたが、厚遇されなかったため
二氏から去って智瑶に仕えると、彼は豫譲を重用した。
晋陽の役で趙・魏・韓が智氏を亡ぼし、その地を分割した後
趙無恤は智瑶を激しく憎んでいたので
彼の頭蓋骨に漆を塗って酒器にしたという。
この時、豫譲は山中に逃げ、こう語ったという。
「士は、己を知る者のために死に
女は己を悦ぶ者のために容貌を正す、と言う。
私は智氏の仇に報いなければならない」
豫譲は姓名を変え、刑人(罪人、奴隷)となり
匕首(短剣)を隠して、趙氏の屋敷に入り、そこで働く事になった。
豫譲は厠(便所)の掃除を担当して、趙無恤を暗殺する機会を狙った。
ある日、趙無恤が厠に入ろうとした時、不安の予兆を感じた。
厠を調べて掃除をしている豫譲を調べると、懐に短剣を隠し持っており
「私は智瑶の仇に報いる」と叫んだ。
趙無恤の家臣が豫譲を殺すように勧めたが、趙無恤は反対した。
「智瑶は既に死んで、後嗣もおらず、智氏の家は絶えた。
それなのに、この者は主の仇に報いようとしている。
これは真の士である。殺すに忍びない」
豫譲は赦され、釈放された。
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豫譲はまだ、趙無恤の暗殺を諦めていない。
次は全身に漆を塗って癩病の患者を装い
髭や眉を剃り、市で食物を乞う生活を送った。
豫譲にはかつて妻がいたが、会っても豫譲だと気づかないほどであったが
しかし、彼の声を聞いて、妻がこう言った。
「子の容貌は、我が夫と似ても似つかないのに
声はとても似ています。どういう事でしょうか」
そこで豫譲は炭を飲んで声を嗄れさせた。
路上で、変わり果てた姿の豫譲に会った友人が語る。
「子は困難な道を歩み、功を成すのが難しい。
その生き方は志士と言えるが、知士ではない。
子の才をもって趙氏に仕えれば、より容易く近づけるはずだ。
その方が、もっと楽に趙氏を暗殺出来るであろう。
なのに、なぜ自分をこれほどに苦しめるのか。
こうまでして仇に報いるのは、苦難が多すぎるのではないか」
豫譲が笑って友人に語る。
「子は、古い友(智氏)のために新しい友(趙氏)を裏切り
旧君(智氏)のために新君(趙氏)を襲う事を薦めている。
その言に従えば、君臣の義を乱す事になろう。
一度、忠を誓って臣になり、主を殺す機会を窺うのは
二心を抱く事となる。故に、最も困難な道を選んだ。
敢えてそうしたのは、後世、天下で人の臣になりながら
二心を抱く者を辱めるためだ」
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後日、趙無恤が外出した時を狙い、豫譲は橋の下に伏せた。
しかし、車に乗った趙無恤が橋まで来た時、馬が突然驚いたので
趙無恤は豫譲がいる事に気づき、臣下に橋の周りを探索させ
ほどなく、橋の下で趙無恤の家臣が豫譲を捕えた。
趙無恤は豫譲を譴責する。
「汝は智氏に仕える前、范氏と荀氏にも仕えていた。
智氏が范・荀氏を亡ぼした時、汝はその仇に報いず、逆に智瑶に仕えた。
なぜ、智瑶を殺したわしに対する仇は、これほどに執拗なのか」
豫譲が趙無恤の疑問に答える。
「申される通り、臣はかつて范氏と荀氏に仕えていました。
しかし、両氏は衆(庶人)として臣を遇しました。
だから臣も衆人として報いたのです。
一方、智氏は臣を国士として遇しました。
だから臣も国士として智氏に報いるのです」
趙無恤が嘆息して言う。
「汝は智瑶のために行動し、既に名を遂げた。
わしも一度は汝を赦した。しかし、二度赦す事は出来ない」
「明君は人の義を隠さず、忠臣は名を成すために命を惜しまず。
子は以前、寛容によって臣を放ちました。
天下の民は趙氏の賢を称えています。
今日、臣が趙氏の誅に伏すのも覚悟の上ですが
せめて趙君の衣服を戴き、剣で斬る事を許されたい」
趙無恤は衣服を脱いで豫譲に渡すと
豫譲は剣を抜いて衣を引き裂いた後
「これで智氏に報いた」と呟き、そのまま剣に伏せて死んだ。
趙国の民は、主に殉じた忠臣・豫譲に涙した。
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趙無恤が大夫・新稚狗に命じて、狄を討伐させる。
新稚狗は狄を破って、左人と中人の二邑を取り
趙氏に戦勝の報告をするため、使者を送った。
趙無恤は食事中に使者の報告を受け、畏れを抱いた。
その様子を見て、側近が訝しんで尋ねる。
「新稚狗が大事を成したのに、なぜ主は喜ばないのでしょうか」
「徳を積まずして、福禄を得る事を幸運という。
だが、それは真の福ではない。
徳がなければ雍(福禄がもたらす和楽)は得られず
雍は幸運から得られる物ではない。だからわしは恐れたのだ」
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ある時、趙無恤は5日5晩に及んで酒を飲み続けた。
趙無恤が側近に告げた。
「これだけ酒を飲んでも、全く疲れを感じない。
わしこそが真の国士である」
これを聞いた、酒席で演舞をする、芸人の莫が言った。
「殷の紂王は7日7晩、酒を飲み続けたそうです。
主が紂王に追いつくまで、あと2日です。頑張ってください」
趙無恤が恐れて聞いた。「わしは紂王の如く亡ぶのであろうか」
優莫が言う。「いえ、亡びません」
「紂に2日及ばないだけだ。それでも滅ばないと言うのか」
優莫が続けて言う。
「夏の桀王、殷の紂王が亡んだのは
殷の湯王、周の武王に遭遇したからです。
今、天下の君は全てが桀王の如くであり、主は紂王です。
桀紂が共に世に並び立っているのですから
互いに亡ぼすことはありません。ただ、危険であることは確かです」
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その頃、斉では、田盤が斉宣公の相になった。
晋で智氏が滅んだと聞いた田盤は
趙・魏・韓の三晋に友好の使者を送った。
田盤は自身の兄弟、一族縁者の全てを斉の大夫に任じて
国内の邑(都市)に封じ、これを治めさせた。
これにより、斉国のほぼ全土を田氏の一族が領有する事になった。
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斉の桓公、晋の文公に代表される『覇者』を生んだ
春秋時代の二大国・斉と晋は、事実上、滅んだ。
正式に断絶し、その社稷が途絶えるのは、まだ先の事であるが
名義の変更がされないだけで、最早、在って亡きに等しい。
周に天子は在るが、諸侯はこれに憚らず、自ら王を称する。
礼に基づく戦は鳴りを潜め、互いのどちらかが滅びるまで
戮し合う、仁義のない時代が到来した。
斯くして天の時代は終わり、地に住まう人の時代が訪れる。
= 完 =
中途半端な終わり方ですが、一応、これを以て完結といたします。
史実と有名エピソードのみ記述した、春秋時代のダイジェスト的な物語でした。
極力、感情を排除した、無味乾燥な文章ですが、これは意図的なものです。
今後は、ここで登場した英雄、賢者、豪傑たちをピックアップして
短編、中編、長編を書いていきたいと思っています。
それでは、読者の皆様、ありがとうございました!!!