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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第百四十五話 晋陽の戦い




    

  *    *    *




 周の貞定王11年(紀元前458年)

晋の智、趙、魏、韓の四卿が相談して

滅ぼされた二卿(はんじゅん)の領地を分割し

自分達の邑に編入したが、大部分は智氏が獲得して

他三氏は僅かであったため、趙・魏・韓らは智氏を恨んだ。


この結果、晋の公室は更に衰退し、逆に四卿の勢力が拡大した。


これに晋出公は怒り、斉と魯に使者を送り

四卿の専横を訴えて、四卿討伐の兵を請うた。


これを知った四卿は機先を制し、逆に晋出公を攻撃した。


晋出公は破れて出奔したが、斉に向かう道中で亡くなった。



 かつて、晋出公の曽祖父・晋昭公の子・よう戴子たいしと号した。

戴子はを産み、忌は智氏の当主・智瑶ちようと親交があったが早世した。


晋出公が出奔した後、智瑶は晋の公室を滅ぼし

公室の直轄地をも併合しようと企んだが

これは智氏の間でも時期尚早と反対意見が強く、考え直した。


そこで忌の子・きょうを晋の国君に即位させた。晋哀公である。


 この頃、晋の政治は智氏が完全に掌握しており

晋哀公には何の権限もない、名目だけの国君である。





 余談であるが、この時期を記録した資料は

 内容に矛盾が多く、晋公室の内情は分かりにくい。


 出奔して死んだ晋出公を継ぎ、晋君に即位した驕の諡号は

 晋哀公ではなく、晋懿公で、晋懿公の没後

 子のりゅうが後を継ぎ、晋幽公になったと言う説がある。


 また、出公が出奔したのは、これより6年後という説もあり

 しかも出奔先は斉ではなく楚であったとされている。

 更には、晋出公の跡を継いだのは晋昭公の子・晋敬公で

 晋敬公の後、晋幽公が即位して、晋哀公や晋懿公が存在しない。


 記録が曖昧なのは、晋国内の混乱と

 晋公室の衰微が関係しているのであろうか。


 なお、晋幽公の頃には、晋君の方が

 趙、魏、韓の三卿に朝見して、君臣の地位が逆になっていた。

 


    

      *    *    *




 智瑶が衛を攻撃するため、嫡子のがんを衛に亡命させた。

これは衛国の内情内を探るのが目的であったらしい。


 衛の大夫・南文子なんぶんしが衛君に進言する。

(なお、この時期の衛の国君も、出公、悼公、敬公のいずれかは不明)

「智氏の嫡子・顔は君子であり、主の寵愛を受けています。

出奔する理由がありません。何か目論んでいるのでは」


衛君は同意して、衛と晋の国境に人を送り、警戒を強めた。

「車が五乗を越える者を入国させてはならぬ」


智瑶はこれを聞き、計画を中止して嫡子・顔を戻らせた。



 智瑶は衛を油断させるため、馬四頭、白璧一つを衛候に贈った。


衛君はこれを受け取って喜び、群臣も祝賀したが

南文子だけは喜ばなかった。


衛君が問う。「なぜ、汝だけ喜ばぬのか」


南文子が答える。

「我が君は功なくして賞され、労さずして礼遇されました。

馬四頭と白璧一つは、小国が大国に贈る礼です。

それが大国から贈られた事をよく考えるべきです」


衛君は思い当たり、晋との国境警備を強化するように命じた。



 この時、晋軍を率いて衛に進行していた智瑶は

衛との国境の警備が厳しいのを見て

「衛には賢人がいる。わしの計略が通じない」と言って、兵を還した。



    

      *    *    *




 晋の北方、鮮虞せんぐ中山ちゅうざん)族に夙繇しゅくようという国がある。

智瑶は夙繇の攻略を考えたが、そこへ至る道がない。


そこで、巨大なかねを鋳て、夙繇に贈る事にした。

その大鐘は、横に並べた二台の車に乗せられる。


夙繇の国君は、晋から贈られてきた大鐘を受け入れるため

崖を削り、谷を埋めて、道を造った。


しかし、夙繇国の大夫・赤章蔓枝せきしょうまんしが国君を諫めた。

「晋が我が国に、高価な礼物を贈る理由が分かりません。

今の晋を支配する智瑶は貪婪どんらんで、信の置けぬ人物と聞いています。

我が国を攻撃したいのに道がないから、大鐘を造り

車を並べ、我が君に贈って参ったのです。

我が君は崖を削り、谷を埋めて、鐘を迎え入れました。

次は晋師(晋軍)を招き入れることになるでしょう」


しかし夙繇の国君は諫言を聞かなかった。


赤章蔓枝が再び諫めると、国君はこう語った。

「中原の大国・晋が、夷狄に過ぎぬ我が国に

大鐘を贈り、よしみを通じようとしている。

これを拒絶するのは不祥ではないか」


赤章蔓枝は告げた。

「人臣でありながら、不忠・不貞であれば、それは罪となります。

しかし、忠・貞であっても、用いられなければ同じ事です」


赤章蔓枝は夙繇を出奔して、斉に亡命した。



 7日後、晋軍を率いる智瑶が夙繇に侵攻した。


智瑶は窮魚きゅうぎょの丘を取った後、夙繇を滅ぼした。



    

      *    *    *




 周貞定王12年(紀元前457年)

蔡声公が崩御して子が即位し、蔡元侯となる。


この年、黄河の水が三日間、赤くなったとされる。


秦の厲共公れいきょうこうが秦軍を率いて

西戎の緜諸めんしょ国と戦った。



 翌年、周貞定王13年(紀元前456年)

斉平公が薨去こうきょして、子のせきが斉君に即位した。斉宣公である。


同年、斉で独裁体制を確立した田常でんじょうが亡くなり

田常の子・田盤でんばんが田氏を継いだ。


秦厲共公が頻陽ひんように県を置いた。



 晋の大夫・韓龍かんりゅうが兵を率いて秦に侵攻する。


韓氏は盧氏りょしの籠る武城を取った。



    

      *    *    *




 智瑤が晋の公宮を凌ぐ、壮麗な屋敷を建てた。


夕方、智瑶の家臣・士茁しさつが屋敷を訪れたので

智瑶は「わしの新しい邸は美しいであろう」と自慢する。


士茁が言う。「確かに美しいのですが、臣は恐ろしくもあります」


智瑶が尋ねる。「汝は何を恐れているのだ」


士茁が答える。「古書に、このような言葉があります。

『高山は峻険しゅんけんで草木が生えず、松柏しょうはくの育つ地は土が肥えない』

今、主は立派な建物を建てられましたが、これによって

人心を不安にさせるのではないかと憂いています」



    

   *    *    *




 今や晋の独裁者となった智瑶は

徐々に驕慢きょうまんの度を増していった。


ある時、智瑶が韓氏に領地を譲る要求を出した。


韓氏の当主・韓虎かんこはこれを拒否しようとしたが、家臣の段規だんきが諫めた。

「智瑶は利を好み、貪婪どんらん剛腹ごうふくです。

要求を拒否したら、必ず韓氏に兵を向けて報復するでしょう。

快く土地を与え、智氏の機嫌を取り、それが当然だと思わせれば

趙氏や魏氏からも土地を要求するでしょう。

その時、他卿が要求を拒否したら、必ず兵を向けます。

その間、韓氏は争いから一歩退き、事態の変化を見守るのです」


韓虎は「その言、善し」と言い、一万戸の邑を智瑶に譲渡した。



 これに喜んだ智瑶は、魏氏にも同じく土地を要求した。

魏氏の当主・魏駒ぎくが拒もうとすると、家臣の趙葭ちょうかが諫めた。

「智氏は韓氏から邑を掠め取ろうとして、韓氏は既に譲りました。

これで魏氏が拒否すれば、魏氏は智氏の怒りを買う事になります。

智瑶は残虐な性質。必ず魏氏に対して兵を用い

魏氏を滅ぼそうとするでしょう。ここは土地を譲るべきです」


魏駒は諫言に従い、一万家の邑を智氏に譲った。



 ますます喜んだ智瑶は、次に趙氏に使者を送って

さい皋狼こうろうの地を要求した。


しかし、趙氏の当主・趙無恤ちょうむじゅつはこれを拒否した。


智瑶は激怒し、韓氏、魏氏と組んで趙氏への侵攻を宣言した。



    

      *    *    *




 趙無恤が家宰(家臣の筆頭)・張孟談ちょうもうだんと語る。

「智瑶という人物は、他者に対し、表向きは親しいが、心中では疎んじている。

彼は韓、魏、趙に土地の譲渡を要求する使者を送り

韓・魏の二卿は要求に応じたが、わしは智氏の要求を拒否した。

趙氏は三卿より兵を向けられるであろう。わしはどこに住むべきか」


張孟談が言う。「先主・趙簡子ちょうかんし(趙無恤の父・趙鞅ちょうおう)に仕えた

名臣の董安于とうあんうは晋陽を治めました。

また、尹沢いんたくも董安于に倣って晋陽を治め

その遺訓・政道はまだ残っています。晋陽に居を定めるべきです」


趙無恤は進言を受け容れ、延陵生えんりょうせいが車騎を率いて

晋陽に先行して入城し、後に趙無恤が続いた。



 晋陽に到着した趙無恤は、まず城郭を巡視して

次に府庫ふこ(兵器や物資の倉庫)、倉廩そうりん(食糧の倉庫)を

確認すると、張孟談に語った。

「城郭は修築され、府庫も倉廩も満たされている。

しかし矢が足りない。どうすればよいか」


張孟談がこれに応える。

「董安于が晋陽を治めていた頃、公宮の垣根は全てが

てきこうせん(狄は雉の羽、蒿・苫・楚は植物)

で作られ、高さは一丈(約2.3m)あったと聞いております。

それを崩し、矢の材料を集めて作りましょう」


趙無恤の配下は、公宮の壁を壊して矢を作った。


「これで矢は足りるが、銅が少ない。如何すべきか」


張孟談が言う。

「董安于が晋陽を治めていた時、公宮の部屋は全て

煉銅れんどうの柱を用いていたとか。

それらを集めれば銅に余りが出来るでしょう」


趙無恤は柱を外して銅を集め、防戦の準備を整えた。



    

      *    *    *




 智、韓、魏の三軍が晋陽城を攻撃するが

籠城する趙氏は頑強に防戦を続け、三ヵ月経っても陥落しなかった。


智瑶は一旦兵を退き、晋陽城を包囲して

近くを流れる汾水ふんすいを決壊させ、晋陽城を水攻めにした。


晋陽城は水に浮かぶ孤城となった。



 年が明け、周の貞定王14年(紀元前455年)

鄭国で、国人が鄭哀公を弑殺する事件が起きたが

詳細は今日に伝わっていない。


鄭哀公の叔父・ちゅうが鄭伯に即位した。鄭共公である。



 そして晋では、智・韓・魏の三卿と大水に包囲された

晋陽城に籠る趙無恤が、今なお降伏せずに継戦したまま

年が変わり、周の貞定王15年(紀元前454年)となった。


晋陽の城内では、かまどが沈み、蛙が生まれたと言う。

しかし、城内の民から趙氏を裏切る者は出てこなかった。



    

      *    *    *




 晋陽の城内に、原過げんかという趙氏の家臣がいる。

この籠城中に、彼は晋陽に向かう途中で

神仙に出会ったと、頻りに周囲に語っている。



 趙無恤が晋陽に向かっていた頃、原過が途中で遅れた。

原過が王沢おうたくに来た時、三人の奇妙な人物に出会った。

腰の帯から上は姿が見えるのに、下が見えない。


この三人は、原過に二節の竹を与えた。竹の中は貫通していない。

そして三人が言った。「我々のため、これを趙無恤に届けてほしい」


原過は晋陽に到着してから、これを趙無恤に伝えた。


趙無恤は三日間の斎戒沐浴を行った後、自ら竹を割った。

中には朱色の文字で書かれた書物が入っており、こう書かれている。


『余は霍泰山かくたいざん山陽侯さんようこうの使いである。

三月、余は汝の反撃に与力し、智氏を滅ぼそう。

汝が余のために、百邑の廟を建てたら、余は汝に林胡りんこの地を与える。

後世、この地より、強健な者が現れるであろう。

その者は長身で、赤黒い肌、龍顔、尖った口、凛々しい眉と髭、突き出た胸を持ち

左が上の襟(夷族の装束)で騎馬をこなして

河宗かしゅう(黄河中流の一帯)を全て領有し、戎狄の地に至り

南は韓、魏の邑を攻め、北は戎の国を滅ぼすであろう』


趙無恤は再拝して、三神の朱書を受け取った。



    

      *    *    *




 周の貞定王16年(紀元前453年)

晋では智氏、韓氏、魏氏による晋陽包囲がなおも続く。


晋陽城内は大半が水没して、城内の人々は

釜を高い所に掛けて炊事をしている。


籠城は3年に及び、ついに食が尽きて、城内は飢餓に襲われた。


長く続く籠城戦に倦み、趙氏の群臣に二心を抱く者が出てきて

礼が疎かになったが、高共こうきょうだけは礼を失わなかった。



    

      *    *    *




 包囲戦を続ける智瑤が兵車に乗り、水没した城の周りを巡視した。

この時、魏駒が御者を、韓虎が驂乗さんじょうを勤めた。


兵車に乗るとき、身分の高い者が左に乗って弓矢を持ち

御者が中央で馬を操り、力がある者が右でほこを持つ。

智瑤が左、魏駒が中央、韓虎が右である。

三人乗りの馬車に同乗する者を驂乗、四人乗りの馬車を駟乗しじょうと呼ぶ。



智瑶が言う。

「わしは此度の戦で、水で国を亡ぼせる事を知った」


それを聞いた魏駒は肘で韓虎をつつき、韓虎は魏駒の足を踏んで合図した。

汾水ふんすいは魏都・安邑あんゆうを、絳水こうすいは韓都・平陽へいようを水攻めに出来る。



 後に智氏の家臣・絺疵ちしが智瑶に語った。

「韓氏と魏氏は、必ず智氏に叛するでしょう」


智瑶が問う。「何故それが分かるのか」


絺疵がこれに返する。

「我々は韓と魏の兵を集めて趙を攻め

趙を亡ぼした後、その地を三分すると二卿に約束しました。

既に城が水没して3年、人馬は困窮し、投降まで幾日もないでしょう。

しかし、二氏に喜色はなく、憂色を表しています」


翌日、智瑶が絺疵の言を二氏に伝えると、両氏は語った。

「絺疵は趙氏のため、主(智瑶)に我々を疑わせて

趙氏に対する攻撃を緩めさせようとしているのです。

間もなく趙氏の地を得られるのに、敢えて今、その利を棄て

危難を侵し、成功する見込みのない事をするはずがありません」


二氏が退出した後、絺疵が智瑶に会って言った。

「主はなぜ臣の言を二氏に伝えたのでしょう」


「何故、汝がそれを知っているのか」


「二氏が臣に会うと、凝視してから早足で去ったので

彼らの実情を知っていると気がついたのです」


その後も智瑶は態度を改めなかったので

絺疵は難から逃れるため、使者と称して斉に行く事を智瑶に願い出た。


智瑶はこれを受け入れ、絺疵は斉に奔った。



    

      *    *    *




 晋陽城内の趙無恤が、秘かに張孟談を城外に出して

韓虎、魏駒の二氏と会見させた。


張孟談が両氏に語る。

「唇が亡べば、歯が寒くなると申します。

今回、智氏は韓・魏を率いて趙を攻めていますが

趙が亡んだら、次は韓・魏の番でしょう」


「それは我々も知っている。しかし智瑶は用心深い。

事を行う前に謀が漏れ、禍を招くことを恐れている」


「二氏の口から出た言は臣の耳にだけ入ります。心配いりません」


韓虎と魏駒は張孟談と決行の期日を約束した。



    

      *    *    *




 周の貞定王16年(紀元前453年)春3月の夜

趙無恤が秘かに人を送り、堤防を守る官吏を殺した。


そして、溜められていた水を智瑶の陣に流し返した。


突如の激流に巻き込まれた智氏の軍は恐慌状態に陥り

そこを韓・魏の両軍が挟撃し、城内からは趙軍が出陣して

正面と左右の三方向から智氏を攻撃した。


智氏の軍は大敗し、智瑶は殺され、主な将士はみな戦死した。


一夜にして、大国・晋で栄華を極めた智氏は滅んだ。



春秋時代と戦国時代の端境期は、史料が極度に乏しくなってます。


魯の史書「春秋」とその注釈関連書籍は

紀元前470年代で記述が終わってるし

戦国時代の呼称の元である「戦国策」は扱う国が偏ってるので。


ともあれ、この物語も、いよいよ終幕を迎えます。

あと1、2話で終わりでしょう。

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