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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第百四十四話 空虚の時代




      *    *    *




 晋の卿・趙鞅ちょうおうが死んだ時、葬儀を行う前に

晋と斉の国境にある邑・中牟ちゅうぼうが晋に叛き、斉に帰順した。



 趙鞅の葬儀が終わって5日後、趙氏を継いだ趙無恤ちょうむじゅつ

兵を率いて中牟を包囲した。


戦いが始まる前に、中牟の城壁が数十丈に渡って自然に崩れた。

これを見た趙無恤は自軍に撤退を命じた。


軍吏が趙無恤を諫めて言う。

「主は中牟の罪を罰するために帥(軍)を起こしました。

敵城が自ずから崩れたのは、天が我々に味方したのです。

容易に中牟を陥とせると言うのに、なぜ退くのですか」


趙無恤が理由を説明する。

「昔の晋の賢臣・叔向しゅくきょうの言が残っている。

『君子は利のために人に乗じず、危難を利用して人に迫らず』

まず、中牟人に城を修築させ、それから戦いを始める」


趙無恤の言を聞いた中牟人は、戦わず降伏した。




    *    *    *




 この頃、周の元王が卒去して、元王の子・介が即位した。

周の貞定王ていていおうである。



 周の貞定王元年(紀元前468年)春

越王・句践こうせんが大夫・舌庸ぜつように命じて魯を聘問へいもんさせた。


魯がちゅうに侵攻して土地を奪ったために

越が覇者として両国の調停を行い

駘上たいじょうが魯・邾両国の境界に定められた。



 春2月、越と魯が平陽へいようの西で盟約を結んだ。

魯哀公に従い、三桓(季孫、叔孫、孟孫)氏も参加した。


上卿・季孫肥きそんひは、魯の国君と三卿が

南方の蛮夷の大夫に過ぎぬ舌庸と盟を結ぶ事を恥辱に感じ

孔子の弟子で、最も弁舌に優れた子貢しこうを思い出した。

「14年前、子貢は呉君(夫差ふさ)との盟約を断った。

もし今、子貢がいれば、越との盟約など結ばなかった」


仲孫彘ちゅうそんていが言う。

あなたの申す通りだ。なぜ彼を招かなかったのか」


「彼を招くはずだったが、手違いがあった」


叔孫舒しゅくそんじょが皮肉を言う。

「平時に子貢を用いず、難に及ぶと彼を思う。

後日、また彼を思えばよい」



 夏4月25日、季孫肥が卒去した。

弔問に来た魯哀公は、三桓氏を嫌っていたので

葬礼の等級を通常より低くした。




    *    *    *




 晋の卿・智瑤ちようが鄭を攻撃して桐丘とうきゅうに駐軍した。


鄭の卿・子般しはんが斉に援軍を求めた。



 斉の相国・田常でんじょうは、戦で死んだ士卒の孤児を集め

三日以内に入朝させる準備をする。


馬車と斉君の命令書を用意して、顔庚がんこうの子・顔晋がんしんを招いて告げる。

「かつて犁丘りきゅうの役で、汝の父は戦死した。

国が多事多難であったゆえ、今まで汝を撫恤ぶじゅつ出来なかった。

今、君命により、汝にこの命令書に書かれた城邑じょうゆうを与える事になった。

汝はすぐ朝服を着て車に乗り、朝見せよ。亡父の功を無駄にしてはならぬ」


鄭を援けるため、斉軍は柳舒りゅうじょに至った。

この時、斉軍は極めて迅速かつ統率が取れており

途中、こくから七里(約3km)離れた場所まで行軍したが

穀の人々は斉軍が通ったことに気がつかなかったという。



 斉軍が濮水ぼくすいに至るが、雨で増水して渡河が出来ない。


子般と共に鄭軍を率いる子思ししが田常に語る。

「大国(晋)が我が国の至近にいるため、斉に急を告げました。

ですが、ここで足止めを食えば、鄭は晋に侵されるでしょう」


田常は雨合羽を作り、を杖にして、山の坂道を登った。

車をく馬が進まなくなれば、尻を鞭で打ちながら進んだ。


斉軍の様子を聞いた智瑤は

「わしは鄭討伐をうらなったが、斉との戦は卜っていない」

と言って鄭の包囲を解き、兵を還した。



 智瑤が斉軍に使者を送り、田常に伝える。

「田氏の祖先は陳の出身である。陳は既に滅び、その祭祀さいしは絶えた。

陳を滅ぼしたのは楚だが、鄭は楚に与し、同罪であろう。

晋君は臣に命じ、陳滅亡の実情を探らせて

田氏が陳を哀れんでいるかを確認させた。

もし、田氏が陳の滅亡を自らの利として鄭を支援するなら

臣は、斉帥(斉軍)を率いる田氏を畏れる必要はない」


田常は怒り、使者に告げた。

「智氏は他者を侮り、虐げている。良い終わりを迎えないであろう」




    *    *    *




 かつて晋の六卿の一人で、趙氏に敗れ、斉に出奔した

荀寅じゅんいんが田常に語った。

「晋師(晋軍)から来た者が私にこう報告しました。

『晋は兵車千乗で斉師の営門に迫っている。斉軍を殲滅できる』」


田常が言う。

「斉君は臣に『寡兵を追わず、大軍を恐れず望め』と命じられた。

たとえ敵が千乗を超す大軍であろうと、逃げる事はしない」


荀寅が嘆息して言った。

「今、なぜ自分が斉に亡命する事になったか、理解した。

君子の謀には、始、中、終があり、全てを考えてから進言するものだ。

私はこの三つを考える前に進言した。難に遭って当然だ」




    *    *    *




 魯哀公は、魯で政権を独占する三桓を脅威と感じ

諸侯の力を借りて、これを排除しようと企図した。


これに対し、三桓もまた、魯候が自身の力を理解せず

魯に乱を起こそうとしている事を疎んでいる。

君臣同士の亀裂はいよいよ深まった。



 ある日、魯哀公が陵阪りょうはんで遊んだ時に

孟氏の領地の(大通り)で仲孫彘に遭遇した。


魯哀公は仲孫彘に「わしは善い終わりを迎えるであろうか」

と尋ね、三桓が自分を駆逐しようとしているのではないかと暗に聞く。


仲孫彘は「臣には分かりません」と答えた。


魯哀公は同じ質問を三回したが、仲孫彘は全て同じ回答である。


公宮に戻った魯哀公は、越の協力を得て

魯から三桓を除く決意を固めた。




    *    *    *




 秋8月、魯哀公が大夫・公孫有山こうそんゆうざんの邸宅に入った。


これを知った魯の三桓は、国人を率いて公孫有山を攻撃する。


魯哀公は魯都・曲阜を脱出してちゅうに出奔し、更に越に向かうが

越に入る前後で亡くなった。何処の地で没したかは不明である。


魯哀公の子・ねいが新たな魯候に即位した。魯悼公である。


魯哀公が出奔し、国外で客死した事により

魯国内における三桓の勢力は更に増して

悼公の代には、魯の公室は小国と同等にまで衰えた。



魯哀公の死で、「春秋左氏伝」の記載は終わる。

この頃から数十年にかけては、記録が極端に乏しくなる。




    *    *    *




 周の貞定王2年(紀元前467年)、天に彗星が現れた。


この年、秦の庶長しょちょう魏城ぎじょうを落とした、とあるが

晋の卿・魏氏との関係は不明である。



 越都・会稽かいけい(現在の浙江省紹興市)は、中原から遠く離れており

周都・京帥けいしまでの距離は四千六百里(約1100km)に及ぶ。


越王・勾践は、覇者として諸侯に号令するには不便と感じて

この年、会稽から二千六百里(約620km)北方にある

斉との国境に近い瑯琊ろうや(現在の江蘇省連雲港市海州区)に遷都した。


遷都後、勾践は周囲七里に渡って観台を築き、東海を望んだ。

この頃が、覇者・句践の全盛期であった。




    *    *    *




 翌年、周貞定王3年(紀元前466年)

晋の空桐くうどうで巨大地震が発生し

地は七日間に及んで震えが止まらず、全ての台舎が崩壊し

多くの民が犠牲になった。




    *    *    *




 更に翌年、周の貞定王4年(紀元前465年)冬11月

越王・勾践が崩御した。

勾践の太子・鹿郢ろくえいが跡を継ぎ、越王となる。


越は覇者・句践の没後も勢力は衰えず

琅邪に遷都して以降、東夷とういと共にあり

中原諸国と、あるいは争い、あるいは調停を行い

また、従わぬ小国を滅ぼしていった。


この頃、越に出奔していた衛君・悼公が卒した。




    *    *    *




 周貞定王5年(紀元前464年)、晋の智瑤が再び鄭を攻撃した。


晋軍が到着する前に、鄭の子般が語る。

「智氏は頑固で勝利を好むと言う。

大きな被害を蒙る前に負け、彼を満足させれば兵を退くであろう」


子般は鄭城外の南里を守って晋軍を待つ。


智瑤が南里に入ると、鄭軍は少し抵抗しただけで撤退した。


晋軍は鄭の城門を攻め、鄭軍が晋の士・酅魁塁けいかいるいを捕虜にした。

鄭人は酅魁塁に、鄭に帰順すれば卿の地位を与えると言ったが

酅魁塁はこれを拒否したので、鄭人は酅魁塁の口を塞いで殺した。



 晋軍が鄭の城門を攻撃する前、智瑤が趙無恤ちょうむじゅつ

「汝が城門より入れ」と告げた。


趙無恤は「主(智瑤)がここにおられます。

先に入る事は出来ません」と言って拒否した。


「汝は醜い容姿で、勇気もない。どうして趙氏を継げたのか」


「恥を忍ぶ事が出来ます。趙氏に害を及ぼす事はないでしょう」




    *    *    *




 鄭の討伐が終わり、智瑤は衛を経由して晋に帰国した。

智瑤、韓虎かんこ魏駒ぎくの三卿が藍台らんだいで宴を開く。


この時、趙無恤は鄭討伐中に智瑤に侮辱された事を屈辱に感じて

宴には参加しなかった。



 この宴席で、智瑤は韓虎を揶揄からかって

韓虎の補佐を勤める段規だんきを辱めた。


これを見た大夫・智国(智氏の一族)が智瑤を諫める。

「主はもっと警戒せねば、いずれ難を招きます」


これに智瑶が反論する。

「難とは、わしから人に発するのだ。

わしが人に難を与えねば、誰も難を興すことはない」


智国が更に言う。

げき氏は車轅しゃえんの難で長魚矯ちょうぎょきょうに滅ぼされました。

趙同・趙括ちょうかつ趙荘姫ちょうそうき讒言ざんげんで晋景公に殺されました。

らん氏は叔祁しゅくきの訴で出奔し、滅ぼされました。

范氏と荀氏は函冶かんやの変で趙氏に滅ぼされました。

今、主は宴において卿(韓虎)と相(段規)を辱めました。

主には過去の事例を想起し、警戒するべきです」


しかし智瑶は諫言を聞き入れなかったという。




    *    *    *




 翌年、周の貞定王6年(紀元前463年)


鄭声公が卒去し、子のえきが鄭君に即位した。鄭哀公である。


この年、晋地ので黄河が絶えた、という記録がある。

3年前に起きた大地震と関連があるかもしれない。



晋人と楚人が秦を聘問へいもんした。




    *    *    *




 周貞定王7年(紀元前462年)

晋の智瑤が南梁なんりょうに城を築いた。


晋での異変はこの年にも起きて

虹が出て、太陽を囲んだという伝承が残っている。




    *    *    *




 周貞定王8年(紀元前461年)、秦が黄河の周辺に堤防を築いた。


この当時、中原の西方では義渠ぎきょ大荔たいりの二族が強盛になり

数十の城を築き、それぞれが王を称していた。


そこで、秦の厲共公れいきょうこうが宣言した。

「大荔を討伐して、龐戯ほうぎ城を修築する」


秦の厲共公は、兵2万を率いて大荔を攻撃して

これを滅ぼし、その地を取ったと言う。



 この年には、杞哀公が崩御して

甥のさくが杞君に即位した。杞出公である。




    *    *    *




 趙無恤の姉は代王の夫人である。

趙鞅の葬儀が終わると、趙無恤は喪服のまま北の夏屋山かやざんに登り

代王を酒宴に招き、給仕に命じて、銅杓どうしゃく

代王とその従者に食事を進めさせた。


そして、代王に酒を振る舞う時、宰人さいじん(料理人)のらくに、代王の殺害を命じた。

宰人・雒は銅勺を用いて、代王と従者を殴り殺した。


即座に趙無恤は兵を率いて代に侵攻し、これを滅ぼした。


弟からの報告を聞いた代王夫人は、天に向かって泣き叫び

かんざしを磨き、自害して果てた。

代人は彼女を憐れみ、夫人が死んだ場所を磨笄山まがいざんと呼んだ。


磨笄山は現在の河北省保定市淶源県にある。


趙無恤は早世した兄・趙伯魯ちょうはくろの子・しゅうを代に封じ、成君と称した。




    *    *    *




 周の貞定王9年(紀元前460年)

晋にあって趙氏と同格の卿である、韓氏と魏氏が

らく陰戎いんじゅうの三戎に侵攻し、攻め滅ぼした。


戎族で残った者はことごとく逃走して

西方の汧山けんざん隴山ろうざんの間に遷り住んだ。



 大荔、代、伊、洛、陰戎が滅んだ事により

以後、中原には戎寇じゅうこう(異族の侵攻)が絶え

唯一、義渠の族のみが残った。




    *    *    *




 周の貞定王10年(紀元前459年)

越王・鹿郢が在位6年で崩御、不寿ふじゅが越王に即位した。



 この年、晋で青い虹が現れ、太陽の周りを五回集まったという。





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