第百四十四話 空虚の時代
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晋の卿・趙鞅が死んだ時、葬儀を行う前に
晋と斉の国境にある邑・中牟が晋に叛き、斉に帰順した。
趙鞅の葬儀が終わって5日後、趙氏を継いだ趙無恤が
兵を率いて中牟を包囲した。
戦いが始まる前に、中牟の城壁が数十丈に渡って自然に崩れた。
これを見た趙無恤は自軍に撤退を命じた。
軍吏が趙無恤を諫めて言う。
「主は中牟の罪を罰するために帥(軍)を起こしました。
敵城が自ずから崩れたのは、天が我々に味方したのです。
容易に中牟を陥とせると言うのに、なぜ退くのですか」
趙無恤が理由を説明する。
「昔の晋の賢臣・叔向の言が残っている。
『君子は利のために人に乗じず、危難を利用して人に迫らず』
まず、中牟人に城を修築させ、それから戦いを始める」
趙無恤の言を聞いた中牟人は、戦わず降伏した。
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この頃、周の元王が卒去して、元王の子・介が即位した。
周の貞定王である。
周の貞定王元年(紀元前468年)春
越王・句践が大夫・舌庸に命じて魯を聘問させた。
魯が邾に侵攻して土地を奪ったために
越が覇者として両国の調停を行い
駘上が魯・邾両国の境界に定められた。
春2月、越と魯が平陽の西で盟約を結んだ。
魯哀公に従い、三桓(季孫、叔孫、孟孫)氏も参加した。
上卿・季孫肥は、魯の国君と三卿が
南方の蛮夷の大夫に過ぎぬ舌庸と盟を結ぶ事を恥辱に感じ
孔子の弟子で、最も弁舌に優れた子貢を思い出した。
「14年前、子貢は呉君(夫差)との盟約を断った。
もし今、子貢がいれば、越との盟約など結ばなかった」
仲孫彘が言う。
「子の申す通りだ。なぜ彼を招かなかったのか」
「彼を招くはずだったが、手違いがあった」
叔孫舒が皮肉を言う。
「平時に子貢を用いず、難に及ぶと彼を思う。
後日、また彼を思えばよい」
夏4月25日、季孫肥が卒去した。
弔問に来た魯哀公は、三桓氏を嫌っていたので
葬礼の等級を通常より低くした。
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晋の卿・智瑤が鄭を攻撃して桐丘に駐軍した。
鄭の卿・子般が斉に援軍を求めた。
斉の相国・田常は、戦で死んだ士卒の孤児を集め
三日以内に入朝させる準備をする。
馬車と斉君の命令書を用意して、顔庚の子・顔晋を招いて告げる。
「かつて犁丘の役で、汝の父は戦死した。
国が多事多難であったゆえ、今まで汝を撫恤出来なかった。
今、君命により、汝にこの命令書に書かれた城邑を与える事になった。
汝はすぐ朝服を着て車に乗り、朝見せよ。亡父の功を無駄にしてはならぬ」
鄭を援けるため、斉軍は柳舒に至った。
この時、斉軍は極めて迅速かつ統率が取れており
途中、穀から七里(約3km)離れた場所まで行軍したが
穀の人々は斉軍が通ったことに気がつかなかったという。
斉軍が濮水に至るが、雨で増水して渡河が出来ない。
子般と共に鄭軍を率いる子思が田常に語る。
「大国(晋)が我が国の至近にいるため、斉に急を告げました。
ですが、ここで足止めを食えば、鄭は晋に侵されるでしょう」
田常は雨合羽を作り、戈を杖にして、山の坂道を登った。
車を牽く馬が進まなくなれば、尻を鞭で打ちながら進んだ。
斉軍の様子を聞いた智瑤は
「わしは鄭討伐を卜ったが、斉との戦は卜っていない」
と言って鄭の包囲を解き、兵を還した。
智瑤が斉軍に使者を送り、田常に伝える。
「田氏の祖先は陳の出身である。陳は既に滅び、その祭祀は絶えた。
陳を滅ぼしたのは楚だが、鄭は楚に与し、同罪であろう。
晋君は臣に命じ、陳滅亡の実情を探らせて
田氏が陳を哀れんでいるかを確認させた。
もし、田氏が陳の滅亡を自らの利として鄭を支援するなら
臣は、斉帥(斉軍)を率いる田氏を畏れる必要はない」
田常は怒り、使者に告げた。
「智氏は他者を侮り、虐げている。良い終わりを迎えないであろう」
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かつて晋の六卿の一人で、趙氏に敗れ、斉に出奔した
荀寅が田常に語った。
「晋師(晋軍)から来た者が私にこう報告しました。
『晋は兵車千乗で斉師の営門に迫っている。斉軍を殲滅できる』」
田常が言う。
「斉君は臣に『寡兵を追わず、大軍を恐れず望め』と命じられた。
たとえ敵が千乗を超す大軍であろうと、逃げる事はしない」
荀寅が嘆息して言った。
「今、なぜ自分が斉に亡命する事になったか、理解した。
君子の謀には、始、中、終があり、全てを考えてから進言するものだ。
私はこの三つを考える前に進言した。難に遭って当然だ」
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魯哀公は、魯で政権を独占する三桓を脅威と感じ
諸侯の力を借りて、これを排除しようと企図した。
これに対し、三桓もまた、魯候が自身の力を理解せず
魯に乱を起こそうとしている事を疎んでいる。
君臣同士の亀裂はいよいよ深まった。
ある日、魯哀公が陵阪で遊んだ時に
孟氏の領地の衢(大通り)で仲孫彘に遭遇した。
魯哀公は仲孫彘に「わしは善い終わりを迎えるであろうか」
と尋ね、三桓が自分を駆逐しようとしているのではないかと暗に聞く。
仲孫彘は「臣には分かりません」と答えた。
魯哀公は同じ質問を三回したが、仲孫彘は全て同じ回答である。
公宮に戻った魯哀公は、越の協力を得て
魯から三桓を除く決意を固めた。
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秋8月、魯哀公が大夫・公孫有山の邸宅に入った。
これを知った魯の三桓は、国人を率いて公孫有山を攻撃する。
魯哀公は魯都・曲阜を脱出して邾に出奔し、更に越に向かうが
越に入る前後で亡くなった。何処の地で没したかは不明である。
魯哀公の子・寧が新たな魯候に即位した。魯悼公である。
魯哀公が出奔し、国外で客死した事により
魯国内における三桓の勢力は更に増して
悼公の代には、魯の公室は小国と同等にまで衰えた。
魯哀公の死で、「春秋左氏伝」の記載は終わる。
この頃から数十年にかけては、記録が極端に乏しくなる。
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周の貞定王2年(紀元前467年)、天に彗星が現れた。
この年、秦の庶長が魏城を落とした、とあるが
晋の卿・魏氏との関係は不明である。
越都・会稽(現在の浙江省紹興市)は、中原から遠く離れており
周都・京帥までの距離は四千六百里(約1100km)に及ぶ。
越王・勾践は、覇者として諸侯に号令するには不便と感じて
この年、会稽から二千六百里(約620km)北方にある
斉との国境に近い瑯琊(現在の江蘇省連雲港市海州区)に遷都した。
遷都後、勾践は周囲七里に渡って観台を築き、東海を望んだ。
この頃が、覇者・句践の全盛期であった。
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翌年、周貞定王3年(紀元前466年)
晋の空桐で巨大地震が発生し
地は七日間に及んで震えが止まらず、全ての台舎が崩壊し
多くの民が犠牲になった。
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更に翌年、周の貞定王4年(紀元前465年)冬11月
越王・勾践が崩御した。
勾践の太子・鹿郢が跡を継ぎ、越王となる。
越は覇者・句践の没後も勢力は衰えず
琅邪に遷都して以降、東夷と共にあり
中原諸国と、あるいは争い、あるいは調停を行い
また、従わぬ小国を滅ぼしていった。
この頃、越に出奔していた衛君・悼公が卒した。
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周貞定王5年(紀元前464年)、晋の智瑤が再び鄭を攻撃した。
晋軍が到着する前に、鄭の子般が語る。
「智氏は頑固で勝利を好むと言う。
大きな被害を蒙る前に負け、彼を満足させれば兵を退くであろう」
子般は鄭城外の南里を守って晋軍を待つ。
智瑤が南里に入ると、鄭軍は少し抵抗しただけで撤退した。
晋軍は鄭の城門を攻め、鄭軍が晋の士・酅魁塁を捕虜にした。
鄭人は酅魁塁に、鄭に帰順すれば卿の地位を与えると言ったが
酅魁塁はこれを拒否したので、鄭人は酅魁塁の口を塞いで殺した。
晋軍が鄭の城門を攻撃する前、智瑤が趙無恤に
「汝が城門より入れ」と告げた。
趙無恤は「主(智瑤)がここにおられます。
先に入る事は出来ません」と言って拒否した。
「汝は醜い容姿で、勇気もない。どうして趙氏を継げたのか」
「恥を忍ぶ事が出来ます。趙氏に害を及ぼす事はないでしょう」
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鄭の討伐が終わり、智瑤は衛を経由して晋に帰国した。
智瑤、韓虎、魏駒の三卿が藍台で宴を開く。
この時、趙無恤は鄭討伐中に智瑤に侮辱された事を屈辱に感じて
宴には参加しなかった。
この宴席で、智瑤は韓虎を揶揄って
韓虎の補佐を勤める段規を辱めた。
これを見た大夫・智国(智氏の一族)が智瑤を諫める。
「主はもっと警戒せねば、いずれ難を招きます」
これに智瑶が反論する。
「難とは、わしから人に発するのだ。
わしが人に難を与えねば、誰も難を興すことはない」
智国が更に言う。
「郤氏は車轅の難で長魚矯に滅ぼされました。
趙同・趙括は趙荘姫の讒言で晋景公に殺されました。
欒氏は叔祁の訴で出奔し、滅ぼされました。
范氏と荀氏は函冶の変で趙氏に滅ぼされました。
今、主は宴において卿(韓虎)と相(段規)を辱めました。
主には過去の事例を想起し、警戒するべきです」
しかし智瑶は諫言を聞き入れなかったという。
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翌年、周の貞定王6年(紀元前463年)
鄭声公が卒去し、子の易が鄭君に即位した。鄭哀公である。
この年、晋地の扈で黄河が絶えた、という記録がある。
3年前に起きた大地震と関連があるかもしれない。
晋人と楚人が秦を聘問した。
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周貞定王7年(紀元前462年)
晋の智瑤が南梁に城を築いた。
晋での異変はこの年にも起きて
虹が出て、太陽を囲んだという伝承が残っている。
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周貞定王8年(紀元前461年)、秦が黄河の周辺に堤防を築いた。
この当時、中原の西方では義渠と大荔の二族が強盛になり
数十の城を築き、それぞれが王を称していた。
そこで、秦の厲共公が宣言した。
「大荔を討伐して、龐戯城を修築する」
秦の厲共公は、兵2万を率いて大荔を攻撃して
これを滅ぼし、その地を取ったと言う。
この年には、杞哀公が崩御して
甥の欶が杞君に即位した。杞出公である。
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趙無恤の姉は代王の夫人である。
趙鞅の葬儀が終わると、趙無恤は喪服のまま北の夏屋山に登り
代王を酒宴に招き、給仕に命じて、銅杓で
代王とその従者に食事を進めさせた。
そして、代王に酒を振る舞う時、宰人(料理人)の雒に、代王の殺害を命じた。
宰人・雒は銅勺を用いて、代王と従者を殴り殺した。
即座に趙無恤は兵を率いて代に侵攻し、これを滅ぼした。
弟からの報告を聞いた代王夫人は、天に向かって泣き叫び
笄を磨き、自害して果てた。
代人は彼女を憐れみ、夫人が死んだ場所を磨笄山と呼んだ。
磨笄山は現在の河北省保定市淶源県にある。
趙無恤は早世した兄・趙伯魯の子・周を代に封じ、成君と称した。
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周の貞定王9年(紀元前460年)
晋にあって趙氏と同格の卿である、韓氏と魏氏が
伊、洛、陰戎の三戎に侵攻し、攻め滅ぼした。
戎族で残った者はことごとく逃走して
西方の汧山と隴山の間に遷り住んだ。
大荔、代、伊、洛、陰戎が滅んだ事により
以後、中原には戎寇(異族の侵攻)が絶え
唯一、義渠の族のみが残った。
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周の貞定王10年(紀元前459年)
越王・鹿郢が在位6年で崩御、不寿が越王に即位した。
この年、晋で青い虹が現れ、太陽の周りを五回集まったという。