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東周概略史 ~天の時代~  作者: 友利 良人
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第百四十三話 宋公の弓




   *    *    *




 夏6月、魯哀公が越から魯に帰国した。

魯のけい(上級貴族)・季孫肥きそんひ仲孫彘ちゅうそんてい

魯の南境・五梧ごごで魯候を出迎えた。


魯哀公の座乗する車の御者・郭重かくじゅう

出迎えた二卿を見て、魯候に語る。

「二卿は臣下として相応しくない発言が多いので

我が君は、全てを明らかにするべきです」


魯哀公が五梧で宴を開き、二卿を歓待した。

仲孫彘が魯哀公に酒を献じ、祝言を述べる。


この時、郭重を嫌う仲孫彘は

「汝は、なぜ斯様に肥えているのだ」と揶揄からかった。


すると季孫肥が言う。

「仲孫彘に罰盃ばつはい(酒を強制的に飲ませる懲罰)を与えましょう。

今、魯国は隣国との戦により、臣らは国君と越まで従う事が叶わぬ時

国君と労苦を共にしてきた郭重を責める事は出来ません」


魯哀公は季孫肥と仲孫彘に対して皮肉を言う。

「郭重は食言が多い。肥え太るのも仕方ない事である」


「食言」は「約束を破る」「信を失う」という意味がある。

郭重を通して季孫氏と孟孫氏(仲孫彘)を非難し

魯公室を蔑ろにしている事に対する皮肉である。


その後、皆で酒を飲み続けるが、楽しまなかった。

これ以降、魯哀公と卿大夫の関係は悪化していく。



 この年、天に彗星が現れ

晋では澮水かいすいりょうの地で絶えた。

また、丹水たんすいも三日間絶えて流れなくなった。


理由は不明であるが、楚の公子・英が秦に出奔した。




    *    *    *




 周の元王7年(紀元前469年)夏5月


魯の卿・叔孫舒しゅくそんじょが兵を率い、越の大夫・皋如こうじょ舌庸ぜつよう

それに宋の司城・楽茷がくはいと会盟を行う(会地は不明)。

前年に衛を出奔した衛出公を帰国させるためである。


衛の大夫・彌子瑕びしかは衛出公を迎え入れようとしたが

大夫・公懿子こういしがこれに反対した。

「我が君はかたくなで暴虐。帰国すれば再び衛国に害を及ぼすであろう。

そうなれば、あなたは衛の国人と和睦出来ない」



 衛の使者が出てこないため、皋如と舌庸に率いられた越軍は

衛の郊外にある邑の守備を破り、略奪を行った。


これに対し、衛軍が衛都を出て、越軍と戦ったが敗れた。


越軍と共にいた衛出公は、衛の大夫・褚師比ちょしひの父の墓を暴き

平荘へいそう(墓陵)の上で死体を焼いた。




    *    *    *




 彌子瑕が衛の大夫・王孫斉おうそんせいを越軍に送り

私的に皋如と対話をする。

あなたの目的は衛を滅ぼす事か、国君を帰国させる事か」


皋如がこれに答える。

「越君は、衛君を帰国させよ、と臣に命じられた」


王孫斉が衛都に戻って報告をした後

衛の群臣が集まり、方針を話し合う。


「衛君は蛮夷ばんい(越)を率い、自らの国を討伐している。

今や衛国は滅亡に瀕している。国君を迎え入れよう」


しかし「迎え入れるべきではない」と反対する意見の方が多かった。


彌子瑕が言う。「我が君を他国へ奔らせたのは臣の罪である。

衛の益になるのであれば、臣は北門より国を出よう」


群臣は「あなたが国を出る必要はない。

衛君を迎え入れよう」と言った。


彌子瑕は越に賄賂を贈り、外城と内城の門を開けて

城壁に兵を配備してから、衛出公を迎え入れた。


城壁に居並ぶ兵を見て、衛出公は恐れて衛都に入れず

賄賂を受け取った越軍は撤退した。


衛出公は衛都に戻る事は叶わず、衛の邑・城鉏じょうさいに遷り住んだ。


衛では新君を立てる事になり

衛の先君・荘公(蒯聵かいかい)の庶弟、公子・けんが即位した。

これが衛悼公えいとうこうである。彌子瑕は衛の国相となった。




    *    *    *




 衛の大夫・司徒期しときの提言により

先君・出公の住む城鉏を、越に譲渡する事に決めた。


これを知った出公は震怒しんどして、司徒期を激しく憎んだ。



 後日、司徒期が越を聘問へいもんする事になった。


出公は、越に向かう途上の司徒期を襲撃して

越に献上するへい(贈物)を奪った。


司徒期は越王・句践こうせんに謁見して、これを報告したので

句践は幣物を取り戻すように命じる。


司徒期は武装した衛の徒衆としゅうを率い

城鉏を攻撃して、幣物を取り戻した。


この報復で出公は発狂せんばかりに怒り

司徒期の甥という理由で、自分の長男を殺した。




    *    *    *




 出公は魯へ使者を派遣し、子貢しこう(孔子の弟子)に

弓を贈り「わしは衛に戻れるであろうか」と尋ねた。


子貢は稽首けいしゅして弓を受け取り「分かりません」と答えた。


その後、公人ではなく、私人の立場で出公の使者に話した。

「162年前、衛成公が陳に出奔した時、甯兪ねいゆ鍼荘子けんそうし

宛濮えんぼくで盟約を結び、衛君を迎え入れました。

また、89年前に衛献公が斉に出奔した時は、子鮮しせん子展してん

夷儀いぎで盟約を結び、衛君を迎え入れました。

此度、衛君はまたも出奔しましたが

二例の如き家臣が衛君にいるとは聞いたことがありません。

だから臣は、分からないと答えたのです。

もし、衛君に良き人材がいれば、国を得るのも容易いでしょう」




    *    *    *




 宋景公が工人こうじん(職人)に弓を作らせた。


工人は九年の歳月をかけて弓を完成させ、宋景公に献上した。


景公が問う。「なぜ、これほど時間がかかったのか」


工人が答える。「臣はこの弓を仕上げるために

精魂を使い果たしました。我が君に再び会う事はないでしょう」


三日後、工人は死んだ。


景公は楼台ろうだいに登り、その弓を使って、東に矢を射た。

矢は孟霜山もうそうざんを越え、彭城ほうじょうの東で止まり

呂梁りょりょうに落ち、残った勢いで

矢の羽までが地面に突き刺ささったと言う。




    *    *    *




 宋景公には子が出来なかったので

先君・宋元公の子である公孫周こうそんしゅうの長子・得と

得の弟・啓を、宋君の後嗣こうしとして養育している。


しかし、二人のどちらを後継者にするか、まだ決まっていない。


この時、宋の朝廷の重臣は

右帥・皇緩こうえん、左帥・霊不緩れいふえん、大司馬・皇非我こうひが

大司寇だいしこう楽朱鉏がくしゅさい、司徒・皇懐こうかい、司城・楽茷がくはい

六卿・三族(皇氏、霊氏、楽氏)で構成され

彼らが共同で宋を統治していた。


政令は大尹たいいん(国君の寵臣)を通じて

宋景公に報告する決まりであったが、大尹は必ずしも正確な報告をせず

自らの希望や欲求に基づいて、君命と称し、政令を発していた。


宋の国人は大尹を憎み、司城・楽茷が大尹を除こうとしたが

左師・霊不緩は「まだ早い。彼の罪を更に増やそう。

権勢が重く、徳の軽い者は必ず倒れる」




    *    *    *




 冬10月4日、宋景公は空沢くうたくで遊んでいる時に崩御した。


宋君が亡くなると、大尹が空沢の兵士千人を指揮して

景公の遺体を奉じ、空沢から宋都・商丘しょうきゅう内宮ないぐうに入った。


そして六卿を招き、偽ってこう述べた。

「我が君は、下邑げゆう(郊外)で戦が起きたと聞き及び

六卿と共に事を謀ると申しておられます」


六卿が内宮に到着すると、大尹は兵士を並べ、六卿を脅迫した。

「我が君は疾病しっぺいに冒され、余命は長くありません。

未だ後嗣は決まっておらず、このまま薨去こうきょなされても

諸卿には、乱を起こさぬと、誓いの盟約を結んで頂きたい」


六卿は大尹を信じ、朝廷の庭で盟約を結び

「宋の公室に不利となることはしない」と誓った。




    *    *    *




 大尹は得の弟・啓を太子に立て、宋景公の霊柩を祖廟に置いた。


三日後、宋の国人が宋景公の死を知った。


司城・楽茷が国人に宣言した。

「大尹は国君を惑わし、専横して私欲を満たし、我利を貪ってきた。

今、国君の死を隠蔽したのは大尹の大罪である」


 

 この頃、宋景公の養子・得が夢を見た。

太子となった啓が頭を北にして寝ており、東城の南門の外に出ている。

頭を北にするのは死体を置く時の方向で

門の外に出ているのは国を失う事を意味する。

得はからすになり、その上に棲み、くちばしは南門に

尾は北門にあった。これは国君に即位して南面する事を意味する。


目が覚めた後、得が喜んで言った。

「私は必ず宋君に立つであろう」




    *    *    *




 大尹が知人に語った。

「私は盟約に加わっていない。このままでは宋から放逐される。

改めて六卿と盟を結ぼうと思う」


大尹は大夫・祝襄しゅくじょうに命じて盟約書を作らせた。


この時、六卿は宋都の近郊・唐盂(とうもう)に滞在しており

協力を誓い、改めて盟を結ぼうとしていた。


そこへ祝襄が盟約書を持って到着し、大司馬・皇非我に報告した。

皇非我は他の五卿と謀って言った。

「宋の民は我々に味方している。今こそ大尹を放逐すべきだ」



 六卿は国都に戻り、家臣と衆に武器を配り、国中に宣言を出す。

「大尹は国君を惑わし、公室を虐げた。

我々に協力する者は、国君を救う者である」


宋の国人は「六卿に協力しよう」と答えた。


これに対し、大尹も国内に宣言した。

「戴氏と皇氏は公室に対して不利を行った。

私に協力する者は、富貴を手にする事が出来る」


宋の国人はこれに答える。

「公室に対して不利を行っているのは大尹だ」




    *    *    *




 戴氏と皇氏が宋君・啓を討とうとしたが、楽得が反対した。

「彼は先君を虐げ、君位を奪い、罪を得ました。

国君を討てば、我々も同じ罪を得る事になります」


そこで戴氏と皇氏は、宋の国人の非難が

宋君・啓ではなく、大尹に向かうように仕向けた。


大尹は宋君・啓と共に、楚へ亡命したので

啓の弟・得が宋の国君に即位した。宋昭公である。


得が見た吉夢は現実となった。

宋昭公の在位は65年に及ぶ事になり、治世後半は戦国時代である。


司城・楽茷が上卿になり

「三族が共に宋の政事を行い、互いに害す事はない」と誓った。



どういう血筋か知りませんが

春秋末期の衛国の君主はDQNばっかりで

乾いた笑いを浮かべながら書いてます。


衛国の黄金期は、西周末期から春秋初期、武公の時代でしょうか。

彼にまつわる四字熟語に「切磋琢磨」があります。

ただ、この名君も、兄を殺して即位したという逸話が残ってます。

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