第百四十三話 宋公の弓
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夏6月、魯哀公が越から魯に帰国した。
魯の卿(上級貴族)・季孫肥と仲孫彘が
魯の南境・五梧で魯候を出迎えた。
魯哀公の座乗する車の御者・郭重が
出迎えた二卿を見て、魯候に語る。
「二卿は臣下として相応しくない発言が多いので
我が君は、全てを明らかにするべきです」
魯哀公が五梧で宴を開き、二卿を歓待した。
仲孫彘が魯哀公に酒を献じ、祝言を述べる。
この時、郭重を嫌う仲孫彘は
「汝は、なぜ斯様に肥えているのだ」と揶揄った。
すると季孫肥が言う。
「仲孫彘に罰盃(酒を強制的に飲ませる懲罰)を与えましょう。
今、魯国は隣国との戦により、臣らは国君と越まで従う事が叶わぬ時
国君と労苦を共にしてきた郭重を責める事は出来ません」
魯哀公は季孫肥と仲孫彘に対して皮肉を言う。
「郭重は食言が多い。肥え太るのも仕方ない事である」
「食言」は「約束を破る」「信を失う」という意味がある。
郭重を通して季孫氏と孟孫氏(仲孫彘)を非難し
魯公室を蔑ろにしている事に対する皮肉である。
その後、皆で酒を飲み続けるが、楽しまなかった。
これ以降、魯哀公と卿大夫の関係は悪化していく。
この年、天に彗星が現れ
晋では澮水が梁の地で絶えた。
また、丹水も三日間絶えて流れなくなった。
理由は不明であるが、楚の公子・英が秦に出奔した。
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周の元王7年(紀元前469年)夏5月
魯の卿・叔孫舒が兵を率い、越の大夫・皋如と舌庸
それに宋の司城・楽茷と会盟を行う(会地は不明)。
前年に衛を出奔した衛出公を帰国させるためである。
衛の大夫・彌子瑕は衛出公を迎え入れようとしたが
大夫・公懿子がこれに反対した。
「我が君は頑なで暴虐。帰国すれば再び衛国に害を及ぼすであろう。
そうなれば、子は衛の国人と和睦出来ない」
衛の使者が出てこないため、皋如と舌庸に率いられた越軍は
衛の郊外にある邑の守備を破り、略奪を行った。
これに対し、衛軍が衛都を出て、越軍と戦ったが敗れた。
越軍と共にいた衛出公は、衛の大夫・褚師比の父の墓を暴き
平荘(墓陵)の上で死体を焼いた。
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彌子瑕が衛の大夫・王孫斉を越軍に送り
私的に皋如と対話をする。
「子の目的は衛を滅ぼす事か、国君を帰国させる事か」
皋如がこれに答える。
「越君は、衛君を帰国させよ、と臣に命じられた」
王孫斉が衛都に戻って報告をした後
衛の群臣が集まり、方針を話し合う。
「衛君は蛮夷(越)を率い、自らの国を討伐している。
今や衛国は滅亡に瀕している。国君を迎え入れよう」
しかし「迎え入れるべきではない」と反対する意見の方が多かった。
彌子瑕が言う。「我が君を他国へ奔らせたのは臣の罪である。
衛の益になるのであれば、臣は北門より国を出よう」
群臣は「子が国を出る必要はない。
衛君を迎え入れよう」と言った。
彌子瑕は越に賄賂を贈り、外城と内城の門を開けて
城壁に兵を配備してから、衛出公を迎え入れた。
城壁に居並ぶ兵を見て、衛出公は恐れて衛都に入れず
賄賂を受け取った越軍は撤退した。
衛出公は衛都に戻る事は叶わず、衛の邑・城鉏に遷り住んだ。
衛では新君を立てる事になり
衛の先君・荘公(蒯聵)の庶弟、公子・虔が即位した。
これが衛悼公である。彌子瑕は衛の国相となった。
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衛の大夫・司徒期の提言により
先君・出公の住む城鉏を、越に譲渡する事に決めた。
これを知った出公は震怒して、司徒期を激しく憎んだ。
後日、司徒期が越を聘問する事になった。
出公は、越に向かう途上の司徒期を襲撃して
越に献上する幣(贈物)を奪った。
司徒期は越王・句践に謁見して、これを報告したので
句践は幣物を取り戻すように命じる。
司徒期は武装した衛の徒衆を率い
城鉏を攻撃して、幣物を取り戻した。
この報復で出公は発狂せんばかりに怒り
司徒期の甥という理由で、自分の長男を殺した。
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出公は魯へ使者を派遣し、子貢(孔子の弟子)に
弓を贈り「わしは衛に戻れるであろうか」と尋ねた。
子貢は稽首して弓を受け取り「分かりません」と答えた。
その後、公人ではなく、私人の立場で出公の使者に話した。
「162年前、衛成公が陳に出奔した時、甯兪と鍼荘子が
宛濮で盟約を結び、衛君を迎え入れました。
また、89年前に衛献公が斉に出奔した時は、子鮮と子展が
夷儀で盟約を結び、衛君を迎え入れました。
此度、衛君はまたも出奔しましたが
二例の如き家臣が衛君にいるとは聞いたことがありません。
だから臣は、分からないと答えたのです。
もし、衛君に良き人材がいれば、国を得るのも容易いでしょう」
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宋景公が工人(職人)に弓を作らせた。
工人は九年の歳月をかけて弓を完成させ、宋景公に献上した。
景公が問う。「なぜ、これほど時間がかかったのか」
工人が答える。「臣はこの弓を仕上げるために
精魂を使い果たしました。我が君に再び会う事はないでしょう」
三日後、工人は死んだ。
景公は楼台に登り、その弓を使って、東に矢を射た。
矢は孟霜山を越え、彭城の東で止まり
呂梁に落ち、残った勢いで
矢の羽までが地面に突き刺ささったと言う。
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宋景公には子が出来なかったので
先君・宋元公の子である公孫周の長子・得と
得の弟・啓を、宋君の後嗣として養育している。
しかし、二人のどちらを後継者にするか、まだ決まっていない。
この時、宋の朝廷の重臣は
右帥・皇緩、左帥・霊不緩、大司馬・皇非我
大司寇・楽朱鉏、司徒・皇懐、司城・楽茷の
六卿・三族(皇氏、霊氏、楽氏)で構成され
彼らが共同で宋を統治していた。
政令は大尹(国君の寵臣)を通じて
宋景公に報告する決まりであったが、大尹は必ずしも正確な報告をせず
自らの希望や欲求に基づいて、君命と称し、政令を発していた。
宋の国人は大尹を憎み、司城・楽茷が大尹を除こうとしたが
左師・霊不緩は「まだ早い。彼の罪を更に増やそう。
権勢が重く、徳の軽い者は必ず倒れる」
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冬10月4日、宋景公は空沢で遊んでいる時に崩御した。
宋君が亡くなると、大尹が空沢の兵士千人を指揮して
景公の遺体を奉じ、空沢から宋都・商丘の内宮に入った。
そして六卿を招き、偽ってこう述べた。
「我が君は、下邑(郊外)で戦が起きたと聞き及び
六卿と共に事を謀ると申しておられます」
六卿が内宮に到着すると、大尹は兵士を並べ、六卿を脅迫した。
「我が君は疾病に冒され、余命は長くありません。
未だ後嗣は決まっておらず、このまま薨去なされても
諸卿には、乱を起こさぬと、誓いの盟約を結んで頂きたい」
六卿は大尹を信じ、朝廷の庭で盟約を結び
「宋の公室に不利となることはしない」と誓った。
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大尹は得の弟・啓を太子に立て、宋景公の霊柩を祖廟に置いた。
三日後、宋の国人が宋景公の死を知った。
司城・楽茷が国人に宣言した。
「大尹は国君を惑わし、専横して私欲を満たし、我利を貪ってきた。
今、国君の死を隠蔽したのは大尹の大罪である」
この頃、宋景公の養子・得が夢を見た。
太子となった啓が頭を北にして寝ており、東城の南門の外に出ている。
頭を北にするのは死体を置く時の方向で
門の外に出ているのは国を失う事を意味する。
得は烏になり、その上に棲み、嘴は南門に
尾は北門にあった。これは国君に即位して南面する事を意味する。
目が覚めた後、得が喜んで言った。
「私は必ず宋君に立つであろう」
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大尹が知人に語った。
「私は盟約に加わっていない。このままでは宋から放逐される。
改めて六卿と盟を結ぼうと思う」
大尹は大夫・祝襄に命じて盟約書を作らせた。
この時、六卿は宋都の近郊・唐盂に滞在しており
協力を誓い、改めて盟を結ぼうとしていた。
そこへ祝襄が盟約書を持って到着し、大司馬・皇非我に報告した。
皇非我は他の五卿と謀って言った。
「宋の民は我々に味方している。今こそ大尹を放逐すべきだ」
六卿は国都に戻り、家臣と衆に武器を配り、国中に宣言を出す。
「大尹は国君を惑わし、公室を虐げた。
我々に協力する者は、国君を救う者である」
宋の国人は「六卿に協力しよう」と答えた。
これに対し、大尹も国内に宣言した。
「戴氏と皇氏は公室に対して不利を行った。
私に協力する者は、富貴を手にする事が出来る」
宋の国人はこれに答える。
「公室に対して不利を行っているのは大尹だ」
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戴氏と皇氏が宋君・啓を討とうとしたが、楽得が反対した。
「彼は先君を虐げ、君位を奪い、罪を得ました。
国君を討てば、我々も同じ罪を得る事になります」
そこで戴氏と皇氏は、宋の国人の非難が
宋君・啓ではなく、大尹に向かうように仕向けた。
大尹は宋君・啓と共に、楚へ亡命したので
啓の弟・得が宋の国君に即位した。宋昭公である。
得が見た吉夢は現実となった。
宋昭公の在位は65年に及ぶ事になり、治世後半は戦国時代である。
司城・楽茷が上卿になり
「三族が共に宋の政事を行い、互いに害す事はない」と誓った。
どういう血筋か知りませんが
春秋末期の衛国の君主はDQNばっかりで
乾いた笑いを浮かべながら書いてます。
衛国の黄金期は、西周末期から春秋初期、武公の時代でしょうか。
彼にまつわる四字熟語に「切磋琢磨」があります。
ただ、この名君も、兄を殺して即位したという逸話が残ってます。