第百四十二話 狡兎死して、走狗煮らる
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周の元王4年(紀元前472年)春、宋景公の母・景曹が亡くなる。
景曹は小邾国の出身で、魯国の季孫斯の外祖母でもあった。
訃報を受けた魯の上卿・季孫肥(季孫斯の子)が
魯の大夫・冉有(孔子の弟子)を
弔問の使者として宋に派遣し、景曹を送葬させた。
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夏6月、晋の卿・智瑤が斉を攻撃した。
斉の卿・高無丕が斉軍を率いて晋軍を迎撃する。
智瑤が斉軍を視察した時、馬が突然驚き、前に駆け始める。
「斉人はわしの旗を知っている。今、帥を退けば
わしが斉帥(斉軍)を恐れて退却したと思うであろう」と言い
そのまま斉の営塁まで接近してから戻った。
戦いが始まる前、晋の大夫・張武が
卜をするように請うたが、智瑤は従わず、こう述べた。
「我が君は周天子に出師(出兵)を報告してから
宗廟で守亀を用いて卜うと、吉と出た。
此度の出師は、斉人が晋地の英丘を奪ったので
我が君が臣に、これを奪い返すように命じられた事に発する。
目的は武威を示す事ではなく、英丘を獲る事だ。
斉の罪を問う、という名分があれば、卜う必要はない」
6月26日、晋・斉両軍が犁丘で戦い
結果、斉軍が敗れた。
智瑤は斉の大夫・顔庚を捕えて殺した。
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かつて、晋の卿・智甲が、子の智瑤を後嗣に立てようとしたが
智氏の一族で大夫の智果が反対した。
「智氏の後嗣は、智瑤よりも智宵(智甲の庶子)の方が相応しいでしょう」
智甲が反論する。
「智宵は横暴で人に従わない。智氏の主は務まらないだろう」
「智宵の性質は表面に見えていますが、智瑤は心中に蔵して見えません。
表に見える暴は害を招きませんが、心にある暴は国を亡ぼします。
智瑤には、人より優れた部分が五つ、劣る部分が一つあります。
髪と髭が美しくて長身で、弓射と車御に優れ
伎芸(各種の技)に精通し、文辞が巧みで弁舌に優れ
剛毅にして勇猛果敢、この五つが長所です。
そして、不仁という欠点が一つあります。
人を凌駕する五優があっても
不仁という一劣がある者を後嗣に立てれば、智氏は必ず滅びます」
しかし智甲は諫言を聞き入れず、智瑤が智氏を継いだ。
智果は氏姓を管理する太史の所に行き
智氏を棄て、輔氏に改めた。
後年、智氏が滅亡した時、輔果の一族だけ生き残った。
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秋8月、魯の大夫・叔青が越に入った。
これが魯にとって初の、越に使者を派遣した事例である。
越は答礼の使者として、諸鞅が魯を聘問する。
呉国を併呑して大国となった越王・句践は
兵を率いて淮水を北に渡り
徐州で中原諸侯と会盟を行い
周都の天子に多大な貢物を贈り、尊王の姿勢を示した。
周元王は越に使者を送り、句践に胙(祭祀に用いる肉)を下賜した。
これは、伯(覇者)に任命した事を意味する。
また、呉が宋から奪った地を宋に返還して
魯には泗水以東の地・百里四方を与えた。
越は長江から淮東にかけて兵威を振るい
中原の諸侯は越王・句践を祝賀し
勾践は自ら霸王を号したと言う。
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越王・勾践は呉を滅ぼした後、次に晋を攻めるため
楚に使者を送り、出兵を要求した。
楚の左史・倚相が楚恵王に言上する。
「越君は呉を破り、その地を併せましたが
多くの士を喪い、強兵は尽き、武器は損なっています。
今、我が国に出師を要求し、晋を窺う姿勢を示すのは
越帥(越軍)弱体を誤魔化す虚勢に過ぎません。
ここは越に対して出師を起こし、呉の地を分けさせましょう」
楚恵王はこの進言を採用し、越に出兵した。
楚軍は東へと侵攻し、泗上に至る。
越王・勾践は楚の侵攻を知って嚇怒し、楚の討伐を宣言したが
これに大夫・文種が反対した。
「今、我が国の士は既に尽き、大兵も損なっています。
楚と戦っても勝てないでしょう。ここは講和を結ぶべきです」
越王は文種の意見を採用して
淮北の地・五百里を楚に与えた。
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越王・句践は呉に大勝した後、九の夷族を併合した。
九人の族長を招集した時、勾践は南面して立ったと言う。
南面が許されるのは天子や国君が群臣に対する場合のみである。
また勾践は、群臣に対し、こう告げた。
「わしに過失があれば諫めよ。知りながら報告せぬ者は罰する」
ある時、越王・句践が訴訟を処理して、無実の者に刑罰を与えた。
後で冤罪を知った句践は、愛用している龍淵の剣で
自らの腿を刺して、自分に対する罰を示した。
これを聞いた越の将兵は、以後、命を尽くして仕えるようになった。
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越王・勾践の覇業を支えた最大の功臣・范蠡が
呉を滅ぼした後、職を辞して越を去った事は既に述べた。
斉に入り、鴟夷子皮と名を変えた范蠡は
共に越王を補佐した大夫・文種に書簡を送り、こう伝えた。
「空を飛ぶ鳥が獲り尽くされれば、良い弓は片づけられる。
野の兎(狡兎)が全て死ねば、狩猟に用いてきた猟犬(走狗)は煮られる。
越君の人相は、頸が長く、口が烏のように尖っており
苦難を共にすることは出来るが、安楽を共にすることは出来ない。
子も職を辞して、越を去るべきだ」
この書を読んだ文種は、以後、病と称して入朝しなくなった。
すると、文種が謀反を企んでいると
越王に讒言する者が出てきた。
越王・勾践は文種に剣を贈った。
君が臣に剣を贈るのは、自害せよ、という君命を意味する。
文種はその剣で、自ら首を刎ねて死んだ。
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周の元王5年(紀元前471年)夏4月
晋出公が斉を討伐しようとして、魯に出兵を求める。
晋が魯に派遣した使者が魯候に告げた。
「163年前、臧文仲が楚師(楚軍)を率いて
斉を討ち、穀を取りました。
118年前には、臧孫許が晋師(晋軍)を率いて
斉を討ち、汶陽を取りました。
そして今、晋君は、魯国の祖・周公旦の福を求め
臧氏の霊を請いたいと願っています」
魯の大夫・臧石が魯軍を率いて
晋軍と合流し、斉を討ち、廩丘を取った。
晋軍は軍吏が兵器の修繕を命じ
更に進軍を続ける準備をしている。
それを見た斉の将兵は畏れたが、斉の大夫・萊章が言う。
「今や晋君は覇者の地位を喪い、その政治は暴虐で
昨年にも勝利したのに、今また斉から邑を奪った。
天は晋に多くの物を与えた。これ以上進む事はない。
すぐ兵を退くであろう」
果たして、晋軍は引き上げた。
晋は臧石に謝礼として、活きた牛を贈った。
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2年前、越が邾隠公を帰国させたが、隠公の無道は続いている。
越は隠公を再び捕えて越に連行し
邾隠公の太子・革の弟である公子・何を立てたが、これも無道であった。
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魯哀公の庶子である公子・荊の母は
身分の低い妾だが、哀公に寵愛されたので
哀公はこれを妾から夫人に昇格させようと考えた。
そこで、礼官・釁夏に、妾を夫人に立てる時の
礼について尋ねたが、釁夏は「そのような礼はありません」と答えた。
魯哀公が怒り「夫人を立てるのは国の大礼である。
なぜその礼が無いのだ」と釁夏に詰問した。
釁夏がこれに答える。
「国祖・周公旦と魯武公は、薛より夫人を娶り
魯孝公と魯恵公は宋から娶り、魯桓公より先は皆、斉から娶りました。
このような礼ならありますが。妾を夫人にする礼はありません」
魯哀公は反対意見を聞かず、妾を夫人に立てて
公子・荊を太子にした。
魯の国人は、礼に従わない魯哀公を非難した。
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閏10月、魯哀公が越に入った。
哀公は越王・句践の太子・適郢と親しくなり
適郢は娘を魯哀公に嫁がせ、越の多くの地を魯に与えようとした。
それを知った魯の大夫・公孫有山が
使者を送り、魯の上卿・季孫肥に伝えた。
魯の政権を支配する季孫肥は、魯の公室が越の支援で復興して
自分を含む、魯の三桓氏を討伐するのではないかと恐れ
越に賄賂を贈った。
その結果、婚姻も、土地の割譲も中止された。
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周の元王6年(紀元前470年)
衛出公が藉圃に高台を築き、諸大夫と酒を飲んだ。
この時、大夫・褚師比が足袋を脱がずに席に登った。
当時の礼では、宴に参加する者は足袋を脱ぐ決まりであった。
衛出公がこれに怒り、褚師比が謝罪して語る。
「臣は足に病があり、爛れて醜くございます。
我が君が臣の足をご覧になれば、不快になると思い
足袋を脱がずに登壇した次第です」
これを聞いた衛出公は、更に震怒する。
その場にいる諸大夫が両者を取り成したが
なおも衛出公の怒りは鎮まらない。
已む無く、褚師比は退出する事にしたが
衛出公は「わしは必ず、汝の足を斬る」と言い捨てた。
帰途、褚師比は司寇亥と共に車に乗って
「今日は無事に済んだが、いずれ、わしは誅殺されよう」と言った。
これより14年前、衛出公が大夫・夏戊の邑を削って家財を奪い
その家財を寵臣の彌子瑕に与えた。
彌子瑕は衛出公と酒を飲んだ折に、夏戊の娘を献上した。
衛出公はこの娘を気に入り、衛候夫人に立て
更には夫人の弟・期を司徒に任命した。
その後、衛候が夫人に飽きて寵愛が衰えると
司徒・期もまた衛出公に疎まれ、罪を得て地位を失った。
それから7年が経ち、衛出公が亡命先の斉から帰国して、衛候に復位した頃
衛の公族大夫・子南氏の邑(領地)を奪い
司寇亥の権限を奪った事があった。
また、出公は衛の大夫・公懿子に恨みがあったので
侍人(宦官)を送り込んで車を押し倒し、池に落とした事もあった。
この頃、衛出公は工匠(職人)に休みなく働かせていた。
また、出公は芸人の狡と大夫・拳彌の間に盟約を結ばせた。
これに深い意味はなく、単なる衛候の戯れに過ぎない。
貴族身分である大夫と、卑しい身分の役者が盟を結ぶ事で
拳彌を辱めたのである。
衛出公はその後も拳彌を傍に仕えさせた。
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こうして衛出公は、衛の多くの家臣の間に恨みを募らせた。
褚師比、司寇亥、夏戊、彌子瑕、子南、公懿子、司徒期らは
衛の公宮内にいる拳彌と、工匠達の協力を得て、謀反を起こした。
拳彌が公宮に入り、喚声を挙げて衛出公を攻撃した。
大夫・鄄子士が衛出公を守るため
謀叛を起こした者の討伐に向かうが、拳彌が説得する。
「子が死ねば、我が君を守る者がいなくなる。
先君(衛荘公)は逃げ遅れたせいで戎州で殺された。
我が君は以前も斉に出奔した。子が従えば、どこに行っても問題ない。
今回また出奔しても、再び帰国が叶うであろう。
今は抵抗するべきではない。衆の怒りには逆らえない。
乱が終息すれば、乱を起こした者同士で離間させる事も出来よう」
衛出公は拳彌と鄄子士と共に衛を出奔した。
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衛を脱出した出公は、晋の蒲邑に向かおうとすると、拳彌が言う。
「晋君は信じるに足りず、行くべきではありません」
そこで、斉と晋の国境に近い鄄邑に向かおうとしたが。
再び拳彌が反対する。「斉も晋も衛と争っています」
次は魯の泠邑に向かおうとすると、三度、拳彌が言った。
「魯は小国。頼る事は出来ません。
衛と宋の国境に近い城鉏に行くべきです。
そこに行けば越と結べます。越君は優秀と聞いています」
夏5月25日、衛出公の一行は城鉏に入った。
城鉏に着く前、拳彌が衛候を欺いて告げた。
「衛の賊がいるかもしれません。臣が先に行きましょう」
しかし、拳彌は出公が運んで来た宝物を車に乗せて
そのまま衛都に還ってしまった。
これを知った衛出公は、衛都にいる祝史・揮に密使を送って
内応させ、衛都を襲撃しようとした。
衛都に住む国人は、衛出公の帰国を畏れる。
公懿子は彌子瑕と相談して、祝史・揮を追放するように請うた。
しかし彌子瑕は「彼に罪はない」と言って拒否した。
公懿子は彌子瑕を説得する。「祝史は我利を求め、法を犯している。
衛候が国都に入れば真っ先に先導するだろう。
彼を南門より追放すれば国君の所に行く。
越君は諸侯の間に覇を唱えた。きっと越に師(軍)を請うであろう」
祝史・揮が朝廷から帰宅した時を狙って
公懿子は衆を送り、祝史・揮と彼の家族を衛都から逐った。
祝史・揮は衛都を出て、城外で二晩を過ごす。
城外に留まり、様子を窺い、城内に戻る機を狙った。
しかし、誰も迎えに来ず、五日後に外里に入り、衛出公と合流した。
祝史・揮は衛出公に信頼され、越に向かい
越王・勾践に面会して出兵を請うた。